傘に隠れて
 夕方から雨が降り出した。それは予報にない突然の雨だった。
俺は小さめの傘を手にして家を出た。傘を持っていないはずの弟を、学校まで迎えに行くためだ。
弟の秀太は3つ年下の中2で、学校のサッカー部に所属している。
雨が降り出したのはちょうど部活が終わる時間で、早く彼に会いたかったから、小雨の中を急いで歩いた。
弟の通う中学校は俺の母校でもあるから、その道のりは慣れていた。
住宅街を抜けてスクールゾーンに入り、コンビニの灯りが見えてくると、もう学校は目の前だ。
歩いているうちに、だんだん雨が強くなってきた。
灰色のアスファルトの道が雨を浴びて黒くなり、ズボンの裾は水が跳ねて濡れてしまった。
傘をさしていてもこんなふうだから、グラウンドを駆け回る弟はもうずぶ濡れになっているだろう。

 やがて道の右側に、長く続くフェンスが見えてきた。
足を速めてそれに近付くと、フェンスに囲まれたグラウンドの所々に水たまりができているのが見えた。
するとその時、遠くの方で雷が鳴った。
サッカーゴールの前にはジャージ姿の部員たちが集まっている。
彼らは整列して監督の話を聞いているようだったが、雷が鳴った直後に解散になり、皆がバラバラになって校舎の方へ戻り始めた。
「秀太!」
俺はその中に弟の姿を見つけ、フェンスの外側から呼びかけた。
すると彼は振り返り、雨の中を走って俺に駆け寄ってきた。そして俺たちは、フェンスを挟んで向き合った。
弟は想像通りにずぶ濡れだった。濡れた前髪は額に貼り付き、雨粒が目に入るたびに瞬きを繰り返している。
「お兄ちゃん、迎えに来てくれたの?」
「あぁ。傘持ってないだろ?」
「うん。ちょっと待ってて。鞄を取ってくるから」
それだけ言い残すと、秀太は校舎に向かって駆け出した。そして5分も経たないうちに、鞄を持って戻ってきた。
俺たちはその時、やっとフェンスの外側で一緒になれた。
小さな傘に弟を入れてやると、秀太は白いタオルで顔や頭を拭いていた。


 俺たちは、同じ傘の下で寄り添って歩いた。急に辺りが暗くなり、車のライトが水たまりに反射して眩しかった。
「濡れるから、もっとこっちに寄れよ」
俺は弟の肩を抱き寄せた。その肩は、まだとても細かった。
「もう1本傘を持ってくれば良かったのに」
兄貴の顔を見上げて、秀太が笑みを浮かべた。
彼の背丈は俺の肩よりまだ低かった。弟の真ん丸な目がすぐ近くに見えて、俺はすごく癒された。
「お前とこうして歩きたかったんだよ」
素直な気持ちを打ち明けると、秀太は笑顔を絶やさず俺の腰に手を回した。
普段ならこんなふうにして外を歩くのは難しかったけど、雨の日の傘の下ではそれが可能になるのだった。
この貴重な時間を大切にしたかったから、わざとゆっくり雨の中を歩いた。
バシャバシャと水を蹴って歩いていると、秀太が思い出したようにこう言った。
「今日、合宿で仲良くなった子が連絡をくれたんだ」
「そうか。良かったな」
「うん!」
彼は時々こうして喋りながら、俺の歩調に合わせて歩いた。
その時俺は、2週間前に終わった夏休みの事を思い出していた。

 秀太は夏休みにサッカー部の合宿へ参加した。2泊3日で、他校のチームと合同練習をするためだ。
合宿を終えて帰って来た時、彼はその時のエピソードを話してくれた。
家族以外の人と外泊する事は滅多にないから、その経験は弟にとって新鮮な輝きがあったようだ。
サッカー部の合宿は、6時間もバスに揺られて遠い町へ出かけた。最初はバスの中に笑いが響いていたけど、時間が経つうちにほとんどの部員が眠ってしまった。
移動が長くて疲れていたのに、宿に着くとすぐランニングに駆り出され、初日からクタクタになってしまった。
それでも仲間たちと過ごす時間は楽しかった。
夕食の後は余興の時間になり、大広間のステージで歌ったり物まねをしたりする子がたくさんいた。
その時は先輩の歌があまりにも下手で、笑いを堪えるのに苦労した。
夜は皆で語り合い、消灯の後に宿を抜け出して、山の上から見た星空がすごく綺麗だった。ただし下山する途中で虫に刺されてしまい、秀太の足には虫刺されの痕がいっぱい残っていた。
他校との練習試合では相当痛い目に遭ったらしいが、初めて会う人たちともすぐに打ち解けて、休憩時間に皆で水遊びをした。
川に入って誰が最初に魚を捕まえるかを競ったようだが、なかなかうまくいかず、川の流れに足をすくわれて転んでしまう子が続出した。
練習では仲間との連携プレーが乱れまくり、やがて監督が怒り出して、長々と説教をされてしまった。だけど皆で怒られたのも、かけがえのない思い出となった。
サッカーの練習はきつかったけど、秀太にとってはとても楽しい3日間だった。
でも楽しい時間はあっという間に過ぎる。
宿で帰り支度をしている時は、すごく寂しい気持ちになった。
皆で帰りのバスに乗り込んだ時、友達になった他校のサッカー部員たちが手を振って見送ってくれた。
秀太はその時、涙を堪えながら両手を振って皆との別れを惜しんだ。
俺が弟から聞いた話は、それで全部だった。

*   *   *

 今日、学校帰りにスーパーに寄ってジュースを買った。
俺は会計を済ませると、すぐに店を出て家路を急いだ。ところがそんな俺を、走って追いかけて来た人がいた。
それはスーパーの店員らしき女の人で、彼女は赤いエプロンをしていた。
その時空は晴れていた。雨雲なんかどこにもなくて、まもなく雨が降り出すなんて思ってもみなかった。
「突然ごめんなさい、秀太くんのお兄さんだよね?」
俺に声をかけた時、その人は息を切らしていた。
額に汗が光っていて、髪もすっかり乱れていて、とにかくなりふり構わず走ってきた様子だった。彼女がそこまで必死になって追いかけて来た事に、俺はひどく驚いていた。
「私、西田春幸の母親です」
彼女は乱れた髪も直さずに、笑顔で自己紹介をした。
西田くんは秀太の同級生で、同じサッカー部の仲間だった。坊主頭で、やんちゃで、わりと小柄な少年だ。
その子の母親が、俺の知らない合宿での出来事を話してくれた。
西田くんは合宿の時、夜中におねしょをしてしまったらしい。
宿では1つの和室に10人が寝ていて、秀太も西田くんと同じ部屋だった。
夜中で皆が寝静まっている時間だったが、隣で寝ていた秀太は西田くんがおねしょした事に気付き、誰にも見つからない場所で彼を着替えさせた。
そしてその間に濡れた布団を押し入れにしまい入れ、すぐに別な布団を敷いてあげたという事だった。
秀太のその行動で、西田くんがおねしょをした事は他の誰にも知られずに済んだ。
その話を息子から聞いたお母さんは、その事で弟にすごく感謝していた。
俺は秀太の代わりに、彼女から何度も「ありがとう」と言われたのだった。


 雨の中を歩き続けると、やがて大きな通りへ出た。横断歩道を渡って右に曲がれば、俺たちの家はすぐそこだ。
俺と秀太は、赤信号で立ち止まった。
その頃雨は更に強くなっていて、目の前を車が通るたびにタイヤに弾かれた水が足元に飛んできた。
「靴が濡れちゃった」
秀太は俺を見上げて苦笑いをした。
その後急に車が途絶えて、その隙に傘に隠れて弟にキスをした。
2人が唇を重ねた刹那な時、湿った風を頬に感じた。
周りには車も人もいなかったけど、たとえいたとしても、雨のベールが俺たちの姿を隠してくれただろう。
秀太の唇は、とても柔らかかった。ほんの一瞬だけのキスだったけど、フワッとした雲のような感触が、いつまでも口に残っていた。
突然唇を奪われて、秀太は驚いているようだった。でもそれは、俺にとってはとても自然な事だった。
腰に回った弟の手に、少し力が入った。それは何も言わない彼の、小さな意思表示のように思えた。
「秀太、ありがとう」
その言葉の意味が分からず、弟はぽかんと口を開けて兄貴の顔を見つめていた。でも、それでいいんだ。
秀太は合宿での出来事を俺にたくさん話してくれたけど、西田くんの事については一切触れなかった。
俺はそんな弟を誇りに思う。
彼が何も言わないから、俺も西田くんのお母さんに聞いた話は黙っている事にした。それは俺にとってキスしたくなるほど嬉しい話だったけど、それでも何も言わない事にした。
秀太が西田くんの名誉を守ろうとしているのに、それを無駄にしてはいけないと思ったからだ。

 秀太は少し照れ臭そうに笑って、俺の肩に頬を寄せた。
その時信号が青に変わって、2台の車が停止線の前で停まった。車のライトが水たまりに反射して、その光に目がくらんだ。
もう少しこのままでいたい。
俺はそう思い、信号を無視して歩き出さずにそこにいた。秀太はすべてを俺に委ねていたから、彼も歩き出そうとはしなかった。
秀太は決して器量がいいわけではない。どこにでもいるような、日焼けしたごく普通のサッカー少年だ。
それでも俺にとっては、たった1人の自慢の弟だった。
秀太はきっと、今日の出来事を誰にも言わないだろう。
傘に隠れて初めてキスした事は、俺たちだけの永遠の秘密だ。
END

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