君のいない朝
 朝目が覚めると、いつも隣に彼の姿を探した。
それは今日も同じだったけど、そばに彼がいなくてほっとしたのは今朝が初めてだった。
僕はひどく不快感を覚えて布団を蹴った。すると、現実を直視せざるを得なくなった。
パンツがびっしょり濡れていたのは、どうやら汗のせいではなかったようだ。
お尻の下には巨大な地図が出来上がっていた。パンツもシーツも、ひどく濡れている。この状況を見れば、自分に何が起こったかは明らかだった。
僕がオネショをしたのは、約10年ぶりだった。 小学校4〜5年ぐらいの時にしたのが最後の記憶だから、それは恐らく間違いない。
床の上にはビールの空き缶が4つ転がっていて、それがオネショの原因である事は漠然と自覚していた。 僕は最近お酒の味を覚えてしまい、昨夜は寝る前にたらふくビールを呷ったのだった。
濡れたパンツを見つめると、かなり情けない気持ちになった。でも僕は、それと同時にほっとしていた。
皮肉な事に、今朝だけは彼が出て行った事が幸いした。
道広がそばにいなくて良かった。彼がいる時にオネショをしてしまったら、きっとすごく恥ずかしい思いをした。

 今日は仕事が休みだから、昼過ぎまでゆっくりと眠るつもりでいた。 それなのにオネショをして目が覚めるなんて、なんとも最悪だった。
本当なら二度寝をしたいところだけど、濡れたシーツの上ではそうする事もできやしない。
仕方なく体を起こすと、頭の後ろがズキンと痛んだ。それは恐らく、二日酔いのせいだろう。
濡れたパンツをはいたまま、窓に手を伸ばしてカーテンを開ける。 すると夏の日差しが強く僕を照らし、その眩しさに思わず目を細めてしまった。
「暑い……」
そんな言葉が口から出たのは、体中に汗をかいていたからだ。
昨夜は酔った状態でベッドへ倒れ込み、エアコンをオフにしたまま眠りこけてしまったらしい。 そのおかげで、部屋の中は異常に暑かった。

 とにかくまずはエアコンのスイッチを入れなくちゃ。
僕はそう思って、ゆっくりとベッドを下りた。すると途端に体がよろめき、柱に手をついて倒れそうになるのを必死に堪えた。
ちょうどその時、温かい水が太ももを伝っていった。僕の膀胱はかなり緩んでいたようで、体がよろけた拍子にまた漏らしてしまったのだ。
白い床の上に、ポタポタと2〜3滴の雫が落ちた。その時はもう膀胱を引き締めようとする気力さえ失われていた。
シャーッと短く音がして、わずかな雫が小さな水たまりへと変化を遂げる。
僕は柱に掴まって、その様子をしばらくじっと眺めていた。

 不意に顔を上げると、見慣れた家具が嫌でも目に入ってきた。
壁際の棚、低いベッド、長方形のテーブル。それは全部、白の色で統一されていた。
ここにある家具は、すべてが道広の趣味で選ばれた物だった。 2人で一緒に暮らす事を決めた時、彼は僕の意見もろくに聞かずに、勝手に家具を買い揃えたのだ。
道広がここを出ていって、もうすぐ1ヶ月になる。
彼がこの部屋にいなくてほっとするなんて。僕はそんな自分にすごく戸惑っていた。

*   *   *

 それからすぐに、マンションを出た。1人であの部屋にいる事に、どうしても耐えられなかったからだ。
無駄だとは知りつつも、道路を歩きながら携帯電話を開いてみる。
案の定何度ボタンを操作しても、彼から連絡があった形跡は見つからない。
「これからどうしよう……」
遠くの空を見つめて、僕はそうつぶやいた。
すれ違う人たちの笑い声が、耳に入っては消えていく。気付くと僕は、その足でフラフラとコンビニへ向かっていた。

 近所の公園には、セミの鳴き声が響いていた。芝生の上をゆっくり歩くと、緑の匂いが鼻の粘膜を刺激する。
たった今コンビニで買ってきた物は、6本の缶ビールと不動産の賃貸情報誌だった。
僕は木陰のベンチに空席を見つけ、そこへ腰掛けてレジ袋の中から冷えたビールを1本取り出した。
経済的な事を考えると、今のマンションに住み続けるのは不可能だった。
僕と道広は家賃を折半する約束であのマンションを借りたのだ。 僕1人の収入では、高い家賃を負担していく事は難しい。 本当はずっとあの部屋で彼の帰りを待ちたいけど、現実はそう甘くはないのだった。
目の前に広がるひまわり畑は、とても美しい。でも今年の夏は、その美しい風景を1人で見つめる事になってしまった。
ビールを一口飲むと、冷たい物が喉を通っていくのがよく分かる。
僕は好きでビールを飲んでいるわけではなかった。ただ、飲まなきゃやっていられなかったのだ。

 僕と道広は、高校の時の同級生だった。
彼とは、目と目が合った瞬間に恋に堕ちた。
何度も体を重ねて、存分に愛を確かめ合って、卒業後には当然のように2人で暮らし始めた。 でも結局、1年とちょっとで僕たちの同棲は解消される事となってしまった。
そうなった原因は、正直言ってよく分からない。なにしろ彼は、ある日突然出て行ってしまったのだ。
そしてその時には、もう彼と連絡を取る手段が断たれていた。 携帯電話は繋がらなくなっていたし、彼の職場へ電話をしても道広の退社を知らされただけだった。
そうなると、僕にできる事は限られていた。僕はただ黙って道広からの連絡を待つしかなかったのだ。

 ひまわり畑の黄色が、やけに悲しく僕の目に映った。
道広はこの公園がお気に入りで、日曜日にはよく2人でここへ散歩にきたものだった。
でもきっと、そんな日々は二度と戻ってこない。 僕はこれから、一生彼のいない朝に耐えなければならないのだ。
缶ビールを1本飲み干した後、僕は力なく腰を上げた。
一週間しか生きられないセミたちが、大合唱をして思い出いっぱいの公園から僕を送り出してくれた。
彼らの命が絶える前に、今の部屋を出よう。
再び道路へ出た時、僕は心にそう決めていた。

*   *   *

 もうすぐこの街を出る。僕はきっと、二度とこの街へは戻らない。
そう思うと、目に映るすべての景色が愛しく思えた。 真っ青な空も、灰色の電柱も、足元に転がる石ころさえも、すべてが本当に愛しかった。
しばらく歩くと、視界の隅に真っ白なマンションが現れた。一歩一歩前進するたびに、どんどんその姿は大きくなってくる。
僕はT字路の手前で立ち止まり、上から3つ目のバルコニーを見上げた。
その途端に涙腺が緩んで、両目に大粒の涙が浮かぶ。すると、一瞬にしてすべての景色が滲んだ。

 右手に持つレジ袋の重みを感じると、どうしても道広の事を考えてしまう。
彼はとても寝起きが悪くて、朝はいつも不機嫌だった。 日曜日は早く起きて2人で出かけたいのに、なかなか起き上がろうとはしないのだ。
「ねぇ、起きて。せっかくの休みなんだから、早く起きて一緒に遊びに行こうよ」
うつ伏せで眠る彼の肩を揺すって、僕は何度もそう言う。でも道広の反応は、いつも冷たかった。
「ビールが飲みたい。コンビニに行って買ってきて」
「朝からビール?」
「早く買ってこいよ。どうしてもビールが飲みたいんだよ」
きつい口調でそう言うと、彼は頭から布団を被ってしまう。そして僕は、仕方なく1人でコンビニへと向かうのだ。
ビールを買ってマンションへ戻る時、僕はいつもこの場所で立ち止まった。 その時上から3つ目のバルコニーには、必ず道広の姿があったのだ。
彼は栗色の髪を風になびかせ、高い所から笑顔で僕に手を振ってくれる。
僕はその笑顔が見たいから、文句も言わずにお遣いに行くのだった。

 彼との終わりを強く意識すると、涙が零れて温かい水が頬を伝っていった。
するとその時、突然視界がクリアになった。 僕は上から3つ目のバルコニーを食い入るように見つめ、それから3回瞬きを繰り返した。
バルコニーの手すりには、白い布団が干してあるのが見えた。
でも、そんなはずはなかったのだ。今日はバルコニーへ出た記憶がなかったし、もちろん布団を干した覚えもなかった。
僕はオネショの後始末もろくにせず、さっさと部屋を飛び出したはずだった。
「どうして?」
僕は道路に立ち尽くし、心の中で何度もそう叫んだ。
その叫びをかき消すかのように、背中の後ろでバイクのエンジン音がした。 バルコニーに小さな人影が見えたのは、まさにその瞬間の事だった。
栗色の髪が、風になびく。逞しい右腕が、僕に向かって大きく振られる。
その人はちょっと首をかしげて、わずかに白い歯を覗かせた。僕は彼の笑顔を、はっきりと見た。
絶対に間違えるはずなんかない。そこにいたのは、間違いなく道広だった。
再び目に大粒の涙が浮かび、彼の笑顔がじわりと滲む。僕は慌てて涙を拭い、彼の姿を見逃すまいとした。

 すると突然、ズボンのポケットの中で携帯電話が震えた。
僕は呆然としたまま電話を取り、ゆっくりとそれを耳に当てた。 見つめるバルコニーの上では、道広も同じように携帯電話を耳に近づけていた。そんな彼の目の前には、白い布団が干されていたのだった。
急に頬がカッと熱くなる。それは恥ずかしい現実が、突然僕に襲い掛かってきたからだ。
道広に、オネショをした事がバレてしまった。床の上の水たまりも、濡れたパンツも、きっと全部彼に見られてしまった。
「あのさぁ、ビールが飲みたいんだけど……」
どんな言葉で冷やかされるかと思ったら、彼の最初の一言はそれだった。
こっちは恥ずかしさと戸惑いでいっぱいだったけど、道広は僕を辱めるような事は決して口にしなかった。
「ビール……買ってきたよ」
だから僕も、ごく普通に返事をした。
どうして突然出て行ったのか。どうして突然帰ってきたのか。
それを聞きたい気持ちは大いにあったけど、彼が答えにくい質問はあえて口には出さなかった。
電話の向こうで、道広がクスッと笑った。すると、見つめるバルコニーの上で彼の笑顔が輝いた。
栗色の髪が風になびき、同じ風が僕の頬を撫でていく。空は真っ青で、太陽の日差しがとても眩しい。
それは1ヶ月前の日曜日と何も変わらない風景だった。さっきまでの僕が失いかけていた、大事な大事な風景だ。
「じゃあ、早く帰ってこいよ。待ってるから」
耳元で彼が小さくそう囁いた。その声は、とても穏やかだった。
視線の先で、道広が携帯電話を折りたたんだ。僕は彼が部屋の中へ引っ込むのを、最後までじっと眺めていた。

 彼が去ったバルコニーには、白い布団だけが残された。濡れた方を裏側にして干してあるのは、道広の優しさだ。
トクン、トクン、と心臓が時を刻む。
僕たち2人の時間が、今からもう一度動き始めようとしていた。
また両目に大粒の涙が浮かび、白い布団の姿がじわりと滲む。でも僕は、もう決して涙を拭おうとはしなかった。
END

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