ひまわり畑に咲く涙
 中学最後の夏休みが始まった。
その初日に、七海くんの自転車の後ろに乗ってひまわり畑を目指した。それは七海くんが、どうしても僕にひまわり畑を見せたいと言ったからだ。
そこはのどかなこの町の観光地で、夏にはたくさんの人がやって来るらしい。でも朝の早い時間なら人が少ないから、僕たちは早起きして出かけた。
道がガタガタで自転車は揺れたけど、風を切って走るととても気持ちが良かった。
僕はずっと彼の背中につかまって、通り過ぎていく景色を眺めていた。青い空と、白い雲。そして道の両側には、緑の木の葉が茂っている。
30分も自転車を走らせると、七海くんのティーシャツが汗で湿ってきた。今日は素晴らしい快晴で、早朝とはいえ既に気温が高まりつつあった。
「少し休もうか?」
途中で彼に声をかけてみたけど、自転車が停まる気配はまったく感じられなかった。
恐らく僕たちは、来年になれば都会へ出て高校へ進学する。だから彼は、ここでの思い出作りを急いでいたのかもしれない。

 僕たち2人は、去年からの付き合いだった。
僕は中2の秋に、のどかな町の中学校へ転校してきた。
それまでずっと都会暮らしだったから、新しい学校に馴染めない気がして、最初はすごく不安だった。
でも七海くんがその不安を払拭してくれた。彼は都会からやって来た転校生を気遣って、いつも積極的に声をかけてくれたのだった。
やがて2人は恋に落ちた。
だけどそれは、絶対人に知られてはいけない禁断の恋だった。誰か1人に知られてしまったら、小さな町中が大騒ぎになるのは目に見えていたからだ。
僕たちはそんな窮屈な環境から抜け出すために、2人で都会の高校へ進学する事を決めた。
もちろん都会へ出たところで、僕たちの関係がオープンになるとは思わなかった。それでもたくさんの人ごみの中に紛れてしまえば、誰も僕たちを気にかける人はいなくなるだろう。
でも七海くんにとって、生まれ育った町を離れるのは大きな決断だったと思う。だからきっと、今のうちに故郷の景色を目に焼き付けておきたいんだ。

 自転車に揺られて坂道を上り切った時、突然眼下に黄色のじゅうたんが見えた。それは遥か遠くまで続くひまわり畑だった。
青い空の下に存在する一面の黄色の世界を見た時、その幻想的な風景に感動した。
そこはまるで天国のようだった。美しい物以外はすべて覆い隠してくれているような、そんな眩しい黄色の世界だった。
僕はその鮮やかな色彩に魅了された。 自転車でそこへ向かって行くと、僕たちの輝かしい未来に向かって突っ走っているような気分になってくる。
このまま黄色のじゅうたんの上に飛び込んで、フワフワした花びらに包まれてみたい。僕はその時、本気でそう思っていた。
こんな綺麗な所へ来たのは初めてだった。七海くんが僕に見せたかったのは、きっとこれだったんだ。
「すごく綺麗!」
「来て良かっただろ?」
「うん!」
自転車に揺られながら、彼と短い会話を交わした。
七海くんの背中に抱き付いて汗ばんだ首筋にキスをすると、ハンドル操作が乱れて自転車がしばらく蛇行した。

 ひまわり畑の入り口付近には、5〜6台の車が停まっていた。まだ観光客は少なかったけど、それでも何人かは既に来ているようだった。
七海くんは車と離れた場所に自転車を停め、汗まみれの顔を僕に向けた。
彼は童顔で、僕よりずっと背が小さかった。それでも男気があって、いつも僕を気遣う優しさを持っていた。
「疲れてないか?」
今だってそうだ。彼の方こそ体力を消耗しているはずなのに、常に僕の事を1番に考えてくれるんだ。
「汗を拭いたら?」
そう言って青いハンカチを差し出すと、七海くんは少し照れながらそれを受け取り、急いで顔中の汗を拭き取った。
七海くんは澄んだ目をしている。そして、口元はいつも微笑んでいる。
艶のある黒髪をそっとかきあげると、彼は太陽の眩しさに目を細めた。

 僕たちは迷路になっているひまわり畑の中を、手をつないで歩いた。
背の高いひまわりは適度な影を作っていて、その上を歩くと少しだけ涼しさを感じた。
「絶対手を離すなよ。迷子になったら困るからな」
七海くんはそう言って、僕とつないだ手にぎゅっと力を込めた。
頭上に輝く真夏の太陽が、容赦なく地面を照らしている。おかげで土は乾いていて、足を踏み出すたびに細かい土埃が舞い上がった。
右へ左へと曲がりながらしばらく歩いていくと、前方からやってくる女の人が見えて、2人の手は離れた。
僕たちはそんな事を幾度も繰り返した。
誰もいなくなると手をつないで、人影が見えると手を離す。それは少し切ない行為だったけど、そうする以外に方法がなかった。
「ごめんね」
一旦手を離すたびに、七海くんは申し訳なさそうな顔をして謝った。そして再び手をつなぐ時には、白い歯を見せて微笑んだ。
艶のある黒髪が風になびいて、澄んだ目が僕をじっと見つめている。
彼が側にいてくれるだけで、もう十分だった。これ以上の事を望んだら、きっと罰が当たるに違いない。

 ひまわりの花びらが、風に吹かれて揺れていた。
時間が経つにつれて、迷路の中で人に会う頻度がどんどん高くなっていった。僕らの手が離れる時間も、必然的に長くなってしまった。
「ここは別荘地へ向かう途中だからな。夏は都会の連中が押し寄せて来るんだよ」
七海くんはそう言ってため息をついた。
のどかな町がざわつくのが、彼はあまり好きではないようだった。
「ねぇ、僕たち道に迷ってない? 出口が全然見えないけど」
「そうだな。でも、いつかは迷路を抜け出せるよ」
僕の言葉にそう答え、彼は真っ青な空を見上げた。
その時右の方でガサッと音がして、また僕たちの手は離れた。するとその時、目の前に1人の少年が現れた。

*   *   *

 長身で、細身で、口を歪めて笑う彼。僕はその少年を知っていた。
その時彼は、白いポロシャツに黒のズボンという格好をしていた。僕が知っている彼は紺色の学ランを着た彼で、そんなラフなスタイルでいるのを見たのは初めてだった。
「なんだ、笹山じゃん。久しぶりだな」
向こうも僕に気付いて、驚きの声を上げた。できれば知らないふりをして欲しかったけど、彼はそういう人ではなかった。
空は快晴だったのに、僕の心に暗雲が広がった。
返事もできずに立ち尽くしていると、少年は見下すような目で僕を見つめた。薄い茶色の目の奥には、確かに僕を軽蔑する感情が見て取れた。
忘れもしない、2年B組の吉田明人。僕はこの目にずっと苦しめられてきたんだ。
「お前、学校でおもらしして不登校になったんだよな。俺ずっと心配してたんだぜ」
吉田は口を歪めて笑いながら、明らかに僕をバカにするような口調で、1番言ってほしくなかった事を話した。
すごく胸が苦しかった。辛い過去の記憶が鮮やかに蘇って、不意に涙腺が緩むのを感じた。
でも、泣いてはいけない。泣いたら負けだ。
僕はそう思って、右手の拳をぎゅっと握り締めた。

 あれは中2になって間もない頃の事だった。多分5月の、国語の授業中の事だ。
僕はトイレに行きたいのをずっと我慢していて、授業にまったく身が入らなかった。他の皆は先生が黒板に書いた文字を真剣にノートに書き写しているのに、僕にはそんな余裕がまるでなかった。
奥歯を強く噛み締めて、両足に力を込め、僕は必死に尿意を堪えていた。
国語の先生は、ずっと黒板に文字を書き続けていた。でもそれも、あと数分で終わりを告げるはずだった。
僕は教室の壁の時計を見つめながら、早く時間が過ぎる事を祈っていた。
あと少し。あと少しだけ我慢すれば、チャイムが鳴ってトイレに行ける。
そう思って必死に耐えていたのに、チャイムが鳴る寸前に、とうとう教室でおもらしをしてしまった。
その時僕は、紺色の学ランを来ていた。それは小さい頃から勉強して、努力の末にやっと入学した私立中学の制服だった。
その憧れの制服のズボンが湿っていく感触を、今でも忘れる事ができない。生温い水が体の奥から溢れ出し、ズボンに染みていくあの感触だ。
気持ちが悪いとか、むず痒いとか、そんなのとはまるで違う。すべてが失われていくような、全部が真っ白になるような、説明のつかない感触だった。もしも一言で表すとしたら、あれが絶望というやつなのかもしれない。
春の日差しは、足元に広がっていく水たまりを残酷に照らしていた。
僕の失態に気付いた吉田が、口を歪めて笑った。彼はそれから、毎日楽しそうに僕をからかった。

 綺麗に咲き誇るひまわりを背にして、吉田がまた何かを言いかけた。
するとその時、僕の横にいた七海くんが口を開いた。
「お前うるせーんだよ。さっさと帰れ!」
「なんだよ、このチビ」
2人は睨み合い、その場の空気が凍り付いた。その時、僕の背中を一筋の汗が流れ落ちていった。
何か言わなければいけないと思ったけど、突然のハプニングに動揺して、何も言葉が出てこなかった。
そうこうしているうちに、七海くんが一歩前へ出て、更に吉田に食ってかかった。
いつも穏やかな彼が、こんなに怒るのを初めて見た。七海くんの顔は真っ赤になっていて、ひどく興奮している様子だった。
「早く消えろよ! 目ざわりなんだよ!」
「どこにいようと俺の勝手だろ?」
「いいから消えろよ! このクソヤロー!」
大きな声で怒鳴った後、七海くんが吉田に掴みかかろうとした。
さすがに慌てて止めようとした時、左の方から若い女の子たちが数人現れた。何も知らない彼女たちは、楽しそうに笑いながらこっちへ近付いて来た。
その時、僕たち3人の動きが一瞬ピタリと止まった。
吉田はまだ何かを言いたそうだったけど、僕らに背を向けてその場を立ち去った。
七海くんはすぐにはそこから動こうとせず、姿の見えなくなった吉田の背中を、長い間睨み続けていた。


 僕は七海くんを促して、吉田と逆の方角へ歩き始めた。
僕らを囲むひまわりはとても綺麗だったけど、怒り狂う彼はまったく周りが見えていないようだった。
七海くんは伏し目がちで、時々土を蹴って歩いていた。そのたびに舞い上がる土埃が、黒のスニーカーを少しずつ汚していった。
僕らは手をつなぐ事も忘れて、迷路の中をしばらく彷徨っていた。2人とも何も言わず、出口がどこかも分からずに、ただひたすら歩いていた。
もう二度と会いたくないと思っていたのに、こんな所で吉田に会うなんて思ってもみなかった。 七海くんの言うように、彼も都会から押し寄せる観光客の1人だったのかもしれない。
僕の心の中には、羞恥心とか、ショックとか、そんな思いが交差していた。 僕は今まで、過去の自分についてほとんど語った事がなかった。それがこんな形でその一端を見せるなんて、最悪な気分だった。
それでも心の大半を占めていたのは、大好きな七海くんの事だった。
せっかくこんな綺麗な所ヘ連れて来てくれたのに、彼に不愉快な思いをさせてしまった。このまま気まずい時間を過ごして、1日を終えるのは絶対に嫌だった。
「さっきの奴、誰なんだ? あいつ絶対性格悪いだろ」
突然立ち止まった彼は、まだ怒りが収まらない様子だった。眉間に皺が寄っていて、吊り上がった目が僕に向けられている。
それは当然答えなければいけない質問だった。七海くんをここまで不快にさせた男がどんな奴なのか、彼には知る権利があるだろう。
吉田は前の学校で一緒だった同級生だ。そして彼は、僕の運命を変えてしまった人でもあった。
学校でおもらしした事は、できれば七海くんには知られたくなかった。
だけど彼は、そんな僕を笑ったりはしない。それが分かっていたから、僕の事情をきちんと話そうと思った。
僕はただの転校生ではない。僕はここへ避難してきたんだ。
「吉田とは、前の学校で同じクラスだったんだ」
「あいつ吉田っていうのか。しっかり覚えておくぞ」
「あのね、さっき吉田が言ってた話なんだけど……」
僕が言葉を続けると、七海くんは首を振ってそれを制止しようとした。彼は無理やり笑顔を作って、なんとか気持ちを切り替える努力をしているようだった。
「あんなの、どうせ小さい頃の話だろ? そんな昔の事なんか、もう忘れちゃえよ」
「違うんだ」
「え?」
「さっきの、去年の話なんだ」
「……」
「僕……教室でおもらしして、ずっとその事でからかわれて、学校に行けなくなったんだ。だから去年、転校してきたんだ」
僕はあの後、2か月間不登校になった。学校が夏休みに入っても、家から一歩も出なかった。
それから父さんが転勤になって、それをきっかけに失意のまま学校を移った。
でもきっと、その転勤は父さんが希望したものだった。僕の環境を変えるために、都会を離れてのどかな町へ引っ越す決断をしてくれたんだ。
それでも僕は、もう一度都会へ戻ろうとしていた。七海くんと一緒なら、戻れそうな気がしていた。

 僕はすべてを打ち明けた事で、七海くんが本物の笑顔を取り戻す事を期待していた。
持ち前の明るさを発揮して、「バカだな」と言って微笑んでほしかったんだ。
なのに彼は、真逆の反応をした。
澄んだ目にじわっと涙が浮かんで、雨粒のような雫が渇いた頬に次々と滑り落ちた。
真夏の日差しが、彼の涙を白く光らせた。背の高いひまわりは、その足元にわずかな影を作っていた。
涙を拭う事もなく、僕から目を逸らさずに、彼はそこに立っていた。
「悔しい……」
「……」
「俺が側にいたら、絶対そんな事させなかったのに」
「……」
「俺がいれば、お前を守ってやれたのに」
絞り出すようなその声は、僕の心の深いところに重く響いた。
涙を美しいと思ったのは、それが初めてだった。真夏の太陽よりも、風に揺れるひまわりよりも、彼の涙は美しかった。
だから僕は、決して「泣かないで」とは言わなかった。
小さい頃から勉強ばかりして、様々な事を犠牲にして、僕は念願の私立中学に入る事ができた。それなのに、あんな失態を演じて学校に行けなくなってしまった。
不登校になって家に閉じこもっている時、何度も何度も消えてしまいたいと思った。
小さな町へ移り住んで、転校する事が決まっても、心はまったく晴れなかった。
これからも、辛い過去の記憶は忘れる事ができないかもしれない。それは僕の生きて来た道だから、きっと忘れる事はない。
でも七海くんと出会えたから、ここへ来て良かった。今なら僕は、心からそう言える。


 そこで立ち止まっている間に、たくさんの観光客が僕たちの横を通り過ぎて行った。
だけど彼らは、僕たち2人の事なんか気にも留めなかった。周囲に咲き誇るひまわりさえ、僕らに構わずただ風に揺られていた。
ひとしきり泣いた後、七海くんはやっと涙を拭いて、本物の笑顔を取り戻した。
まだ目は少し赤かったけど、彼が白い歯を見せて微笑むと、僕もつられて笑顔になれた。
「今度いじめられたら、俺に言えよ。お前をいじめる奴がいたら、すぐにそいつをぶっ飛ばしに行くからな」
「ありがとう」
力強いその言葉に勇気をもらった。彼と一緒なら、なんだってできると思った。
僕たちは、また手をつないで歩き始めた。
今度は誰かとすれ違っても、絶対にその手を離す事はなかった。2人の手がどんなに汗ばんでも、僕らの手はずっとずっとつながっていた。
ひまわり畑は広すぎて、なかなか迷路を抜け出せず、僕たちはその中を延々と歩き続けた。
でもいつか、必ず迷路を抜け出せる時が来るはずだ。
だから今は、もう少し道に迷っていたかった。あと少しだけ、彼と手をつないでいたかった。
END

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