僕のために泣いてくれた
 4時間目が終わった休み時間。
僕は忘れ物をして、担任の先生から職員室へ呼び出された。
授業の間の休み時間は10分間。なのに、先生はその10分間僕に説教をし続けた。 でも僕は先生の話なんかまるで上の空だった。窓の外から入り込む太陽の光が先生のハゲた頭をピカピカに光らせていて、僕は説教されている間ずっと先生の光る頭を見つめていた。
僕がやっと解放されたのは、次の授業が始まるチャイムが鳴った時の事だった。
広い職員室には机がいっぱい並んでいて、そこには先生達が大勢いた。でも、チャイムが鳴ると先生達はみんな一斉に立ち上がった。
チャイムが鳴って 「次の授業があるからもう行きなさい」 と担任の先生が言った時、僕は遠く離れた席に座る社会科の星野先生が立ち上がる瞬間を見た。
星野先生は僕の通う中学で1番怖い先生だった。先生は角刈りで、顔が真っ黒で、筋肉質で、そしていつも竹刀を持ち歩いている。
僕は星野先生が立ち上がるのと同時に職員室を飛び出し、慌てて廊下を駆け抜けた。
次の時間は、社会科の授業だった。僕のクラスは2年4組。そこは2階の1番奥の教室。 星野先生が教室へ来るまでに自分の席に着いていないと、1時間教室の後ろで立たされてしまう。だから僕は、必死に教室へ急いだ。

*   *   *

 僕は家へ帰るとすぐに階段を駆け上がって2階の自分の部屋へ逃げ込んだ。
それから壁に寄り掛かって畳の上で膝を抱え、声を張り上げて泣いた。
とめどなく溢れ出す涙の向こうに見える景色は、いつもと全然違っていた。
ドアに貼ってあるカレンダーも、机も、ベッドも、すべてが涙でにじんで見える。
僕はにじんだ景色を見ていると気持ちが悪くなりそうで、最後には目を閉じてポロポロと涙を流し続けていた。
すると今度は瞳の奥に忌まわしい映像が蘇ってきた。
静まり返った教室。その中に響くのは、星野先生が黒板に文字を書くチョークの音だけだった。
でも窓の外からは、時々ホイッスルの音が聞こえてきた。きっとどこかのクラスがグラウンドで体育の授業を行っていたんだろう。
やがて星野先生は教壇の上から僕らを見下ろし、教科書に書かれた地図の説明をし始めた。
でも僕は、先生の話が全然耳に入らなかった。
僕はその時、おしっこがしたくてたまらなかった。休み時間の10分間は担任の先生の説教で終わってしまったから、トイレに行く暇がなかったんだ。
他のクラスメイトたちは、みんな真剣に星野先生の説明に耳を傾けていた。 僕の前に見える紺色の制服のブレザーは、みんな背筋がピンと伸びていた。
普段のみんなは、そんなふうに授業を聞いたりなんかしない。だけど星野先生の社会科だけは特別だった。
先生は姿勢が悪いと言っては生徒を立たせ、目つきが気に入らないと言っては生徒を立たせる。 だからみんなは星野先生を恐れていて、社会科の時間だけはクラス全員おとなしくて、いつもやたらと背筋を伸ばして先生の話に聞き入っていた。
静まり返った教室に並ぶ机。そして各机には背筋の伸びた生徒の姿。教壇に立つのは、竹刀を持った角刈りの星野先生。
僕はそんな雰囲気の中でトイレに行きたいなんてとても言い出せなかった。
我慢して、我慢して、我慢し続けて……そしてとうとう椅子に座ったままおもらしした時の事は、きっと一生忘れられないだろう。
最初椅子の上に広がった温かい水がやがてポタポタと白いタイルの床に零れ落ち、あの時は濡れてしまったズボンが気持ち悪くてたまらなかった。
周りのみんなは、僕がおもらしした事にすぐに気付いた。
「田中が漏らしたぞ!」
最初にそう叫んだのは、いったい誰の声だったんだろう。
あんなふうに堂々と 「トイレに行きたい」 と手を上げて言えたなら、僕はこうして1人で泣くような事もなかったのに。
その声の後、一斉にクラスメイトの視線が僕へ向けられ、ザワザワする声とクスクス笑う声が僕の耳にはっきりと聞こえてきた。
その時にはもう、僕の足元は水びたしだった。
ノーパンのままジャージを履いて帰って来た自分が情けない。
上はちゃんと制服のブレザーを着ていたのに、下は水色のジャージ。僕とすれ違った人たちは、きっと変な子だと思っただろうな。
僕はそんな事ばかりを考え、何時間も何時間も膝を抱えて泣き続けた。
さっきまで明るかった部屋の中が、しだいに夕日の色に染まってきた。
「どうしよう。もう学校へ行けない」
僕の頭に、その声が何度も何度も響いた。その時僕の耳に聞こえていたのは、その声だけだった。

 突然部屋のドアがバン、と開いたのはいったいいつの事だっただろう。
ドアが開くと廊下から涼しい風が部屋の中へ入り込み、その風が一瞬僕の涙を乾かしてくれた。
僕は開け放たれたドアの前に立つ人の姿を見上げて呆然とした。
全然日焼けしていない白い肌。茶色に染めた髪。大きな目。大きな唇。 服装検査で絶対に引っかかってしまいそうなダボダボのズボン。そしてボタンを2つ開けたワイシャツの上には、ちょっと短めのブレザー。
ドアの前に立っていたのは、同じクラスの風間くんだった。 僕の頭は、どうして彼が目の前に立っているのか全然理解できなかった。
2年に進級する時にクラス替えをして、まだ2ヶ月。風間くんが僕のクラスメイトになって、まだ2ヶ月。
僕は今まで、彼と話した事など一度もなかった。
僕と彼とは共通点が何もなかった。風間くんは体が大きくて、ちょっと不良っぽい人だった。 彼はチビで気弱で泣いてばかりの僕とは、全然違う人種だ。
「邪魔するぜ」
風間くんはニコリともせずにそう言って、ドカドカと僕の部屋へあがり込んだ。
後から考えると、ママは彼が来た事を階段の下から僕に向かって叫んだはずだ。でも僕にはきっと、ママの声なんか耳に入らなかったんだ。

 風間くんは、夕日を背負ってやってきた。
彼は僕の隣にドカッと腰かけ、俯いている僕の顔を覗き込んだ。僕は何を言われるのかと思ってビクビクしていたけど、その時の風間くんは意外にも優しかった。
「1人で泣いてたのか」
その声は、本当に優しかった。
僕は一度、公園で彼が他校の生徒とケンカしているのを見かけた事がある。 あの時の風間くんはものすごい形相で、ドスの聞いた声を張り上げて相手を恫喝していた。 僕はそれ以来彼を怖い人だと思い込んでいたけど、その一瞬にして彼の印象が変わった。
「今日はちょっと……つらかったよな」
彼にそう言われると、また目から涙が溢れてきた。
僕が泣いてしまうと風間くんはひどく慌てて僕の肩を抱き、彼が思い付く精一杯の言葉で僕を励ましてくれた。
「そんなに落ち込むなよ。あんなの、たいした事ねぇよ。だから気にするな」
自分でもどうしてなのかよく分からなかったけど、彼にそう言われると今まで以上に涙が溢れてきた。 僕は風間くんの胸で、日が暮れるまで泣き続けた。その間彼は黙って僕を抱きしめてくれていた。 風間くんの胸はとても温かくて、彼は夕日の匂いがした。

 彼の胸から顔を上げた時、部屋の中はもう暗くなりかけていた。
でも僕は決して部屋の電気を点けなかった。泣き腫らした目を風間くんに見せるのが、すごく恥ずかしかったからだ。
「もう気が済んだか?」
僕が彼を離れてうなずくと、風間くんはそう言ってもう一度僕の肩を抱いた。 僕は彼にそうされるのが嫌ではなかった。僕はその時すでに、風間くんの優しさを知っていたから。
風間くんは僕の顔を覗き込み、「泣き顔もかわいいじゃん」 と言った。
その時、心臓がすごくドキドキした。僕は恐る恐る彼の顔を見上げた。 するとその時、彼の目にほんの少しだけ涙が光っていた。
「お前、明日絶対学校へ出て来いよ」
風間くんにそう言われ、僕はまた俯いてしまった。もう僕には学校へ行く勇気がなかったからだ。
「俺がずっと一緒にいてやるよ。誰にもお前の事を笑ったりいじめたりなんかさせないから。だから、ちゃんと出て来いよ」
「どうして……そんなに優しくしてくれるの?」
僕は俯いて畳の床を見つめながら彼にそう問いかけた。それは、すごく素朴な疑問だった。
「そんな事も分かんねぇのかよ」
風間くんは、答えになっていない答えを口走った。僕には全然その意味が分からなかった。
「なぁ……俺と付き合わねぇ?」
心臓が、バクバク脈打っていた。
今日初めて言葉を交わした風間くんが、突然そんな事を言うなんて信じられなかった。
僕は顔を上げて、彼の目を見つめた。
風間くんの目には、やっぱり少し涙が光っていた。僕は震える手で彼の涙を拭いてあげた。 自分がその時どうしてそんな事をしたのかまるで分からなかったけど、僕はその時、どうしてもそうしてあげたかったんだ。
すると風間くんは、たくましい両腕で僕を抱きしめてくれた。
すぐ近くに彼の顔がある。そう思った時、僕の唇の上に彼の唇が重なった。
胸と胸を合わせて抱き合うと、彼の心臓の動きが僕の体に伝わってきた。彼はその時、僕以上にドキドキしているようだった。

 最初のキスが済むと、僕たちは薄暗い部屋の中で見つめ合った。その時風間くんの両腕は、しっかりと僕の体を支えてくれていた。
僕は彼の胸がすごく居心地よくて、もうずっとそこから離れたくないと思い始めていた。
彼の大きな唇を間近で見つめると、それがたった今自分と触れ合ったものだという事が不思議に思えた。
風間くんの茶色い前髪はとても長く、彼の目はその奥に隠されてよく見えなかった。彼はその時、まだ少し泣いていたんだろうか。
「風間くん……泣き顔もかわいいよ」
僕が彼の真似をしてそう言うと、彼の頬が明らかに赤くなった。
その時の風間くんは、本当にすごくかわいかった。彼は長く伸びた前髪をそっとかき上げ、大きな目で優しく僕を見つめ、 大きな唇を動かして精一杯強がりを言った。
「泣いてねぇよ」
彼は一言そう言って、もう一度僕にキスをしてくれた。僕らのキスは、回を重ねるごとに長くなっていった。
そのうち部屋の中がだいぶ暗くなり、風間くんはちょっと名残惜しそうにこう言った。
「じゃあ俺、帰るわ」
「……うん」
「明日の朝、迎えに来るからな」
「……うん」
「俺が泣いた事、誰にも言うなよ」
「風間くん、僕のために泣いてくれて……どうもありがとう」
風間くんは帰ると言ったのに、まだしばらく僕のそばにいてくれた。
彼も僕も、もう泣いてなんかいなかった。僕らは笑顔で見つめ合い、時々キスを交わした。

 僕は次の朝彼と一緒に登校し、学校でも彼とずっと一緒にいた。すると、もう誰も僕の事を笑ったりなんかしなかった。
次の季節を迎えても、僕らはずっと一緒にいた。
僕は、風間くんと1日に何度もキスをする。
いつかまた、彼を思い切り泣かせてみたい。だって彼の泣き顔は、とってもかわいいから。
END

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