僕が君を好きになった日の事
 今日は、中学へ入学してから初めての登山遠足だ。
僕はこの日のために新しいジャージを買い、登山用のリュックも用意していた。
紺色のジャージは、まだ新しい匂いがした。黒いリュックも、ピカピカに光っていた。これで準備は万端なはずだった。
それなのに、登山の途中で具合が悪くなってしまった。
その日は暑すぎた。草木が覆い茂る山の中は風通しが悪くて、ものすごく湿気も多かった。そして時々照りつける暑い日差しが、僕の体力をどんどん奪っていった。
最初先頭の方を歩いていた僕は、少しずつ後退し、とうとうクラスの列の1番最後になってしまった。
先生の声も、クラスメイトの声も、しだいに遠くなっていく。
めまいがして目の前が霞み、吐き気をもよおした頃には、もう1人ぼっちになっていた。
山の途中に3つあるという滝の1つ目に辿り着いた時、僕はザーザーと水の流れ落ちる音の中で立ち尽くしていた。
遂によろけて大木につかまると、何度も深呼吸を繰り返した。
どうしよう。このまま黙って山を下りたら、担任の先生は心配するだろうか。
でも具合が悪い事を伝えるために、先生に追いつく事は不可能に思えた。
もう僕の耳には滝壺に流れ落ちる水の音しか聞こえない。クラスの皆も先生も、きっと随分前を歩いているのだろう。

 僕が途方に暮れていた時、どこからかタッタッタッと足音が聞こえてきた。
振り返ると、木の隙間を走って山を下りてくる青いジャージ姿の人が見えた。
その人はあっという間に側へやって来て、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「具合が悪いの? 大丈夫?」
僕の横に立ったのは、同じクラスの畑野くんだった。彼は彫りが深い顔立ちで、髪の色も少し赤く、とても日本人離れしていた。
僕にはその時、どうして彼が戻ってきたのか分からなかった。でもそう思っていた時、彼はその答えを自分から話してくれた。
「中山くんの姿が見えなかったから、心配になって様子を見に来たんだ。大丈夫? もう帰ろうか?」
くっきり二重の目が真っ直ぐに僕を見つめ、彼は長い前髪をそっとかきあげた。
その瞬間に僕は安心してしまい、大木に手をついて立ったまま、胃の中の物を全部吐き出してしまった。
すごく気持ちが悪くて、体中に変な汗をかいていた。その時は、本当に最悪な気分だった。
「大丈夫?」
畑野くんは、汚物で靴が汚れる事も気にせず、僕のすぐ横に立って背中をさすってくれた。
すると、ほんの少しだけ楽になった。でもそう思った時、信じられない事が起こった。
自分でも何が起こったのか分からないうちに、もう僕の足元に大きな水たまりができてしまっていた。
太ももをつたって、温かい水が地面へ流れ落ちていく。
自分がおもらししたと気付いた時には、もう新しいジャージがびしょ濡れで、次々と流れ落ちる水を止める事ができなくなっていた。
急に頭が空っぽになり、何も考えられなくなった。もうその時は、背中をさすってくれている畑野くんの存在すら忘れてしまっていた。
僕が正気に戻ったのは、遠くの方から女の人の声が聞こえてきた時だった。それが担任の山本先生の声だと気付くまでに、長い時間はかからなかった。
「中山くーん」
先生の声は、はっきりと僕を呼んでいた。
大木の下に散らばる汚物と、靴の下に出来上がった水たまりを見た時、体温が急激に上昇していくのを感じた。
先生はきっと、僕の姿が見えない事に気付いて探しに来たんだ。
すぐ側でザーザー言っている滝の音と、先生が僕を呼ぶ声。
それが両の耳に大きく響いて、自分がどうするべきなのか考える事もできなかった。

 その時だった。
僕は突然後ろからリュックをつかまれ、強引に土の上を引っ張り回された。
背の高い木と、山に覆い茂る草と、流れ落ちる滝の水がグルグルと回転して見えた。
その後誰かに背中を押され、気付くと滝壺に落ちていた。そして頭から足の先までが、全部水に浸かっていた。
僕は水の中から必死に顔を出し、濡れた髪を両手でかきあげた。すると歪んだ景色の中に、青いジャージ姿の畑野くんが見えた。
彼は滝壺の中の僕に両手を差し伸べ、すぐに引っ張り上げようとしてくれた。
僕が強い力でその手をつかむと、大木の向こうから、ピンク色のジャージを着た先生が走ってきた。
「どうしたの !?」
山本先生は頭にかぶった帽子を放り投げ、畑野くんと一緒になって、滝壺から僕を引き上げてくれた。
地面の上に戻った時は、全身が水に塗れていて、髪やジャージからポタポタと大粒の雫が滴り落ちていた。
「先生、中山くん滝壺に落ちちゃったんだ」
畑野くんが、真剣な目をして山本先生に訴えた。そして僕は、その後すぐ先生に連れられて山を下りた。

*   *   *

 「う……ん」
聞き慣れた声を耳にして目を開けると、浩太が寝返りを打って僕の腕に頬を寄せた。
レースのカーテンの向こうは、もう随分明るい。
僕は体を彼の方へ向け、浩太を抱き寄せた。赤い髪にキスをすると、彼は目を閉じたまま軽く微笑んだ。
「おはよう」
浩太は薄目を開けて僕の頬にキスをしてくれた。その時、彼のまつ毛がおでこに少しだけ触れた。
濡れた唇の感触が、いつも僕をドキドキさせる。
浩太は半分寝ぼけた目で僕を見つめていた。くっきり二重のその目は、僕だけのものだ。
こうして2人で朝を迎えるのは、もう何度目になるだろう。
浩太はいつも朝が弱いから、大抵僕の方が先に目を覚ます。その時羽根布団に包まる彼を見ると、大きな幸せを感じてしまう。
僕はすぐ近くにいる愛しい人の顔をじっと見つめた。更に強く抱き寄せると、彼は気持ち良さそうに再び目を閉じた。
「浩太……僕、夢を見ちゃった」
「どんな夢?」
彼は目を閉じたまま問いかけた。明るい朝日が当たって、その髪はますます赤が強調されていた。
「浩太を好きになった日の夢だよ」
「それ、いつ?」
「中学1年の、登山遠足の日」
その時、浩太がそっと微笑んだ。彼も今、僕たちの歴史を思い浮かべているのかもしれない。
「ねぇ、僕とずっと一緒にいてくれる?」
そう言って答えを待っていると、浩太はゆっくり目を開けて小さくうなずいた。

 登山遠足が終わって以来、彼は親友になった。それから少しずつ距離を縮めて、中学2年の夏に、僕らは初めて結ばれた。
2人の絆は深く、お互いが高校2年になった今でも、週末は必ずホテルの部屋で一緒に過ごす事にしていた。
羽根布団の下で抱き合う僕らは、いつも生まれたままの姿だ。
枕に顔を埋めると、浩太の匂いがする。僕は右手でそっと彼自身に触れた。するとそれはとても硬く、火傷しそうなほど熱くなっていた。
「好きだよ、浩太」
僕は半分眠っている彼の上になり、濡れた唇にキスをした。
それから右手の指を彼の胸にそっと滑らせた。その指は、最後は下腹部の熱いものへと辿り着くのだった。
「あ……ん」
軽く指を動かすと、浩太が小さく声を出した。
彼は僕の首に両手を回し、何度も何度もキスをねだる。浩太の唇はとても温かい。そして右手の指に触れるものも、すごく温かい。
名残惜しいと思いながらキスを終えると、浩太は唇を噛み締めて射精を堪える。でも僕の指は、彼を愛する事をやめない。だからきっと、あと1分もしないうちに天国へいくだろう。
僕はその瞬間を見逃さないように、じっと彼の顔を見下ろす。
視線の先にある物は、朝日に照らされる白い肌。長いまつ毛。そして、赤い髪。
浩太、君はあの日からずっと僕の最愛の人だ。君ほど綺麗で優しくて聡明な人は他にいない。
いつでもこうして愛してあげるから、ずっとずっと、側にいて。
END

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