アンダーソン王家の第一王女。
自分の身分を特に意識したことはなかった。
わたしは生まれたときから姫と呼ばれて、そしてそれは当然のことだと思っていた。
お父様は気難しい人で、王家のことを第一に考えて、愛情なんかかけらもなく身分だけでお母様と結婚して。
跡継ぎであるクレイ兄様は幼い頃から既に有力な貴族のお嬢様であるサラさんとの結婚が決められていて。
わたしとルーミィは、どこかの王家の息子さんと結婚させられることが決まっていて。
そうやって政略結婚の道具に使われることが、王家の人間として当たり前だと教育されてきたから、それを特に寂しいと思うこともなかった。
悪い虫がつかないようにと、お父様はわたしのまわりから異性を徹底的に遠ざけていて、身の回りの世話をするのは女性ばかりだった。だから、わたしは恋をする、というのがどういうことかも知らない。
それを不幸だとも思わない。
ただ姫であることを強制され、義務づけられ、そしてそれに答える。
わたしにできることはそれだけで、周囲もそれを望んでいたから。
クレイ兄様は、たまに「パステル。たまには自分を出してもいいんだよ」なんて言ってくれたけれど。
自分を出すと言われても、それがどういうことなのかわからない。
わたしは素直に自分のしたいこと、やりたいことを告げているつもりで、そしてそれは大抵叶えてもらえる。
生活に不自由は無いし、周囲は皆親切。だから、わたしは幸せだよ。
そう言うと、クレイ兄様はため息をついていた。
まだ幼くて無邪気に笑っているだけのルーミィと、ただ皆が望むような姫を演じさせられているわたし。
そんなわたし達を、クレイ兄様はひどく痛ましげな目で見ていた。
大丈夫。わたしは大丈夫。
今の状況を辛いなんて思っていないから。そういうものだって思ってるから。
だから、心配しないでください。兄様。
わたしには、今以上に望むことなんて、何も無いですから……
「わあ、綺麗な月……」
部屋の窓から見える月に、わたしは思わず感嘆の声を漏らした。
時間は深夜。今夜は満月。
いつものわたしならとっくに寝てしまっている時間だけど、今日は、何だか目が冴えちゃったんだよね。
たまにそういう日が来る。それは、例えば世話をしてくれる侍女達の、「街で出会った素敵な人」の話を聞いたり、「優しい恋人」の話を聞いたときだったり。
まあ、とにかくわたしには縁の無い話を聞かせてもらったとき、たまにあるんだ。
わたしは王家の姫だから、庶民が暮らすような場所には行ってはいけないというのが、お父様の考え。
だから、わたしは生まれてこの方この城から遠出をしたことが無いし、クレイ兄様を除いて、自分と同い年くらいの男の人に会ったこともない。
お城には騎士団の人たちも控えているけれど、いつも遠くから眺めているだけで、決して近くには寄ってこないんだよね。わたしの近くにいるのは、決まって武芸のたしなみがある女官達。
小さい頃からずっとそうだったから、それを今更どうこう言うつもりは無いんだけど……
でも、やっぱり。みんながうっとりと「恋の話」なんかに盛り上がっていると、わたしも……少しでいいから、それを体験してみたいなあ、なんて思わなくもない。
そう考えると眠れなくなってしまう。
明日の朝も早い。わたしが何時に寝ていようと、執事のキットンは必ず決まった時間に起こしに来るだろうから。
だから、寝なくちゃ。そう頭ではわかっていたけれど……
えーい、行っちゃえ!
我慢できなくて、わたしは夜着の上から地味なローブをまとって、こっそり部屋から抜け出した。
眠れない夜、こっそりと城の前庭に出て、月を眺める。それが、わたしの密かな楽しみ。
お父様に知られたらきっと怒られるだけじゃすまないだろうけれど、いつも誰かに見張られて行動しているわたしにとっては、ほとんど唯一、一人になれる時間。
この時間は、見張りの兵士も少ないし。わたしは、こっそり誰にも見られず庭に出るルートを、ちゃんと知っている。
廊下に誰もいないことを確認して、わたしはそっと歩き出した。
わたしの部屋は三階。そうでなければ、窓から出ることもできるのだけれど。
はやる思いを抑えて、わたしは階段をそっと降りていった。
庭から見上げる月は、とても見事だった。
白い満月。見ていると吸い込まれそうになる。
そんな月を見上げて、わたしはボーッとしていた。
別に何を考えているわけじゃない。多分明日も今日と同じ一日だろうし、明後日も、その次の日もそうだと思う。
それが当たり前だと思っている。わたしは何も考えなくていい。黙って言われた通りにしていれば、お父様や兄様が何とかしてくれるから。
わたしはただ、「今日はこれが食べたい」とか「今日はこの服が着たい」とか、そんな誰の迷惑にもならないわがままを言っていればいいだけ。
ふう。
ため息をついて、もう一度空を見上げる。
何でなのかなあ。それが当たり前だと思ってたのに。みんながそれで満足してくれているのに。
たまに、どうしてこう……胸が締め付けられるような気持ちになるのかなあ。
最近、わたし変だよね。もしかして、兄様に頼んで貸してもらった小説の影響かな?
本を読む楽しみを知ったのは、本当に最近のこと。「嘘やくだらないことしか書いていない」と、お父様はなかなか許してくれなかったけれど、兄様が「教養を身につけるためです」って納得させてくれたんだよね。
わくわくするような冒険小説とか、うっとりするような恋愛小説とか。
そこに出てくる女の子は、みんな、わたしとは全然違う境遇の女の子ばかりだったけれど。
本当にこんな女の子がいるのかはわからないけれど、もし実在するとしたら。
……彼女達みたいな経験を、一度でいいからしてみたい。そういう思いが、衝動的にこみあげてくる。
もっとも、こんなこと誰にも話せないけどね。もしお父様に知られたら、きっと本を取り上げられてしまうから。
あーあ、ともう一度つぶやいたときだった。
不意に、城門の上に、何かの影がよじ登ってきた。
……侵入者!?
慌てて立ち上がり、声を上げようとしたけれど。足がすくんで動けない。
それは、赤い影。白い光を受けながら、その影は鮮やかな身のこなしで城門を乗り越え、前庭に飛び降りてきた。
視界に翻る、赤とオレンジと緑の鮮やかな色合い。
「あ……」
誰何の声をあげるか、あるいは悲鳴をあげるか。
一瞬迷っている間に、人影はわたしに気づいたらしい。
その動きがわずかに止まる。そしてその瞬間。
「ん――!?」
すごい速さで近づいてきた人影が、わたしの口を手でふさぎながら城壁に押し付けた。
だ、だ、誰かっ!?
「静かにしろ。怪我したくなかったらな」
耳に届くのは、よく通る低い声。男の人の……声。
首筋に冷たい感触が押し付けられる。確認するのが怖くて、おそるおそる視線を上げた。
目の前に、暗い光と強い意志を宿した瞳が迫っていた。
ドキン、と心臓がはねる。
見覚えの無い人だ。夜でも目立つ真っ赤な髪と、茶色の瞳、オレンジの上着と緑のズボンというひどく派手な格好をして、その上から漆黒のマントを被っている。
わたしと同じか、あるいは少し年上か……それくらいの、男の人。
「んん……」
「おめえ、この城の人間か?」
彼の問いに、必死に頷く。口どころか鼻まで覆う大きな手。少し、呼吸が苦しい。
「ふん……侍女か? それとも……娼婦か?」
「ん――!?」
しょ、娼婦!? し、失礼なっ!!
いくら世間知らずのわたしでも、その単語がどういった職種をさしているのかはわかる。
視線で必死に抗議すると、男は……酷く軽い笑みを浮かべた。
「冗談だよ冗談。おめえみてえな出るとこひっこんでひっこむところが出てるような幼児体型の娼婦、いるかよ」
なっ、なっ、な――!?
姫として、これまで丁重にしか扱われたことのないわたしにとって、それは初めての経験だった。
な、何て失礼な人なの!?
「ふむーっ! ふむ、ふむっ!!」
「……大声出すなよ。そう誓ったら、手、離してやらあ」
すっと目を細める彼に、必死で頷く。
口を塞いでいた手が、ゆっくりと外れ、そして……
その瞬間大声を出そうとしたわたしの腕を、彼を即座にひねりあげた。あまりの痛みに、出かけた悲鳴が喉の奥にひっこんでしまう。
「きゃぅっ!?」
「甘え奴だな。おめえの考えなんかばればれだっつーの。さて、痛い目見たくなかったら、案内してもらおうか?」
「……え?」
腕が痛い。折れるんじゃないかと思うほど力をこめて拘束されている。
その腕を解放してほしくて、わたしは必死に振り向いた。
涙がこぼれそうになる。何で……こんな目に合わなくちゃいけないの?
「どこ、に?」
「ああん? こんな時間に城に忍び込むなんざ、目的は一つに決まってんだろーが。お宝のある部屋だよ」
「宝……」
宝物庫に案内しろ、ということだろうか。だけど……
「無理、よ」
「あん?」
「宝物庫には、24時間交代制で見張りが立っていて……例え王族でも、許可証が無ければ、侵入できないようになっているの。案内してもいいけど……すぐに、捕まるわよ」
「…………」
言葉に、男は舌打ちをした。
答えたんだから手を離して欲しい。そう思って見上げると。
驚くほど間近に、彼の顔が迫っていた。
反射的に身をのけぞらせる。だけど、彼はそんなことにはちっとも構わず、
「あんた、面白え奴だな」
「……え?」
「バカ正直に言わず、そのまま宝物庫に案内してりゃあ、そのまま俺を捕まえられたのに。わざわざ教えてくれるなんて、よっぽどのおひとよしか……よっぽどのバカだな」
「…………」
言われてみれば、その通り。
あーっ、もう、わたしのバカバカバカ!!
悲鳴をあげる気力も無くして、わたしががっくりうなだれると……低い笑い声が耳に届いた。
「本当に面白え。あんた、名前、何てーんだ?」
「……人に名前を聞くときは、自分が先に名乗るものじゃない?」
ささやかな反抗に、彼は首をすくめて答えた。
「しっかりしてら。俺の名前はトラップ」
「トラップ……わたしの、名前は……」
そのときだった。
「そこで何をしている」
響き渡ったのは、見張りの兵士であるノルの声。
「っ……やべっ……」
「パステル姫。大丈夫ですか?」
「どうした、何があった!?」
ノルの声に、どやどやと人が押し寄せてくる気配。
トラップ、と名乗った彼は、逃げ出そうとしたみたいだけれど。
そのときには、もう、周りを兵士に囲まれていた。
「パステル……姫?」
茫然とわたしを見下ろす彼の視線をまともに受け止められなくて、わたしは視線をそらした。
兵士達が彼を押さえつける。多分、地下牢にでも連れ込むつもりだろう。
わたしには、それを止めることが、できなかった。
「パステル。昨夜は一体何をしていた」
翌朝。起きるなりお父様に呼び出されて、わたしは王座の前に立たされていた。
目の前には、いかめしい顔をしているお父様と、困ったような顔で微笑んでいるお母様。
わたしの脇には、困惑の表情を浮かべているクレイ兄様。
ちなみにルーミィはまだ寝ている。まあ、まだ幼い彼女がここに来ることは、滅多に無いんだけど。
「わ、わたしは……」
「まあまあ、お父様。そう頭ごなしに言わなくても」
「クレイ。お前は黙っておれ」
何か言いかける兄様をぴしゃりと黙らせて、お父様は冷たい視線をわたしに向けた。
「聞けば、真夜中に庭に出て、そこに忍び込んだ盗賊風情と語らっていたとか。何をしていた?」
「か、語らっていたなんて、そんな……!!」
わたしは宝物庫に連れていけと、ナイフを押し付けられて、脅されていた。
そう言えば、きっとお父様は、それ以上わたしを責めはしないだろう。
ただ、そう答えた瞬間、彼は……トラップは、即座に処刑を命じられるに違いない。
トラップが殺される。それは嫌だった。どうしてそう思ったのかは、わからないけれど。
「では、何をしていた」
「……わ、わたしは、庭に不審な人影を見つけて……そ、そうしたら彼がいて、彼は、道に迷って……」
我ながら苦しい言い訳だった。迷子になったなんて、わたしじゃあるまいし!
……実はわたしは極度の方向音痴で、城の中でさえ迷子になりかけたことがある。いや、まあそれはともかく。
「で、ですから、お父様。彼は別に盗賊じゃないんです。地下牢から出してあげてもらえませんか?」
「バカなことを言うな。城に侵入をするなど大それた奴だ。既に三日後の処刑が決まっておる」
「そんな!!」
何てことだろう。お父様は、わたしが何を言ったって、聞くつもりなんか無かったんだ。
ただ確認のためにわたしを呼び出しただけ。それにわたしが何と答えようと、彼の処分が変わることなどありえなかったんだ。
何て、酷い……
「お前の話はわかった。もういい、行け」
「…………」
「行け、と言っている」
「わ、わかりました。ほら、パステル、行こう」
黙りこくっているわたしを見かねて、クレイ兄様がわたしを助け起こしてくれた。
お父様が望んでいるのは従順な娘であるわたしだから。逆らったら、教育という名の下にひどい罰を受けるだろう。
わたしも兄様も、それは重々わかっていたから。
だから、それ以上何も言わず、王の間を出た。
「ふっ……うっ……」
部屋から出た瞬間、涙が溢れて止まらなくなる。
「パステル……?」
「兄様……どうしよう。わたし、わたしのせいで、トラップが……」
わたしのせいだ。わたしがあんなところにいたから。
……いや、わたしがいなければ、彼は宝物庫に忍び込んで、そしてそこで言い訳の機会を与えられることもなく首をはねられたかもしれない。
そう考えたら、決してわたしのせいだとは言い切れないけれど。
でも、あのとき逃げ出せなかったのはわたしのせいだ。
腕を拘束していたわたしを、そのまま放っておいてもいいものか。
彼の目が一瞬迷ったのを、わたしは見てしまったから。
わたしのことなんか気にせず放っていけば、彼は逃げられたのに。
「わたしのせいなの。彼は何もしていないのよ。トラップは悪くないの。兄様っ……」
クレイ兄様の胸元にすがりついて泣きじゃくる。兄様は、しばらくわたしの背中をなでていてくれたけど……
「わかった」
やがて、そっとわたしの耳元で囁いた。
「わかった。俺が、何とかしてやる」
「……え?」
嘘……本当に……?
まさか、いくら兄様でも……
「ただし、一つ条件がある」
「何? 何でも聞くわ。彼を助けてもらえるなら」
それでも、このまま黙っているよりは、希望が少しでもあるのなら。
わたしが必死に言うと、兄様はいたずらっこみたいな笑みを浮かべて言った。
「一度、ちゃんと彼に話を聞いてからだ。彼が何のつもりで城に忍び込んできたのか……パステルがそれを聞き出して、そして俺がそれに納得できたら、彼を必ず助けると約束するよ」
「……わかったわ」
トラップは、悪い人じゃない。
確かにひどく口は悪かったけれど……でも、根は悪い人じゃない。
昨夜あんなことをされたのに、何故そう思ってしまうのかは、わからないけれど。
変な確信を持って、わたしは頷いた。
地下牢は、暗く湿った空気がよどんでいた。
普段なら見張りに立っている門番がいるはずなんだけれど。クレイ兄様が何かをささやくと、彼は即座にどこかに行ってしまった。
「ほら、パステル、行って。俺がここで見張ってるから」
「う、うん」
かつん、かつんと足音が響く石の階段をゆっくりと降りる。
地下牢に入るのは初めて。だけど、あまり清潔とは言えない壁に、新鮮とは言えない空気。
こんなところに閉じ込められて……病気になんかならないのかしら。
かつん
階段を降りきったところに、ずらりと牢が並んでいた。
そのほとんどは空っぽだったけれど、一番奥の牢にだけ、人影がある。
マントを石床に敷いて、その上でごろ寝をしている、赤毛のほっそりした身体。
間違いない……彼だ。
「トラップ」
わたしが呼びかけると、トラップは即座に跳ね起きた。
寝ていたのではなく、ただ横になっていただけらしい。そりゃ、こんな硬い床の上で寝れるわけないよね。
ひどい……せめて、毛布くらい入れてあげればいいのに。
「トラップ……ごめんなさい」
「……はあ?」
わたしの言葉に、トラップは酷く意外そうな声をあげた。
「何で、あんたが謝るんだよ」
「だって……だって、わたしのせいで。わたしのせいで、あなたは捕まったんでしょう?」
「はああ? あんでそーなるんだ?」
心底不思議そうな顔で、彼が近づいてくる。
鉄格子を挟んで、わたし達は向かい合っていた。
「あのな、捕まったのは俺がドジだったから。ただそれだけ。それにしても驚いたぜ。あんたがアンダーソン王家第一王女パステル姫だったとはなあ」
「…………」
「で、姫さん。あんた、こんなところに何しに来たんだ?」
トラップの声は明るいけれど。
その声の中に、どこか憎しみ……に近い感情が混じってるような気がするのは、気のせいだろうか。
「どうして、あんなことしたの?」
「あん?」
「どうして、城に忍び込んだりしたの?」
わたしの問いに、彼は肩をすくめて答えた。
「言ったろ? こんな時間に城に忍び込む理由なんざ一つしかねえって。お宝だよ。金目当て」
「だったら……どうして、お金がいるの?」
さらに聞くと、トラップは、まじまじとわたしを見つめて……
そして、盛大にため息をついた。
「あの……?」
「あんたさあ……本当に世間知らずだよなあ。城の外で、俺達庶民がどんな暮らししてんのか、知らねえわけ?」
「え……?」
庶民の暮らし。
それは、わたしには想像もつかないものだった。本の中で、その描写がいくらかある作品もあったけれど、「小説は所詮小説。嘘を積み重ねたもの」というお父様の言葉によれば、書かれているそれは、真実ではないはずで……
「どんな……暮らし?」
「税金、っつーのを知ってるか?」
逆に聞き返されて、軽く頷く。
わたしには家庭教師がついていて、姫として必要な経済知識や教養は色々学んでいた。
だから、当然税金というものも知っている。
庶民、と呼ばれる立場の人が王家にいくらかずつお金を支払い、そしてその見返りに、王家は彼らの生活の保護をする、そういうもののはずだ。
わたしがそう答えると、彼はまたまた深いため息をついた。
「ったく。んなうわべだけの知識で、よくもまあ『知ってる』なんて言えるもんだ……」
「え……?」
「生活保護だあ? 冗談じゃねえ。王家と貴族の連中はなあ、俺らから限界ぎりぎり、しぼれるだけ金しぼりとってな、自分らの豪遊生活の資金にしてるんだぜ? 奴らがいつ俺達の手助けしてくれたっつーんだよ。あんた、王家が俺達に何してくれたか、説明できるか?」
「…………」
情けないことに……わたしはその問いに答えられなかった。
生活保護、と言ったって、それが具体的にどんな内容なのか。そこまでは学んでいなかった。
恥ずかしい……そうだよね。確かにトラップの言う通り。わたしはうわべだけの知識を語っているに過ぎない。
わたしが真っ赤になってうつむくと……トラップの手が、鉄格子の隙間から伸びてきた。
そして、わたしの頭を、優しく撫でる。
「落ち込むなよ。おめえを責めてるわけじゃねえんだ。王家に生まれたのは、別におめえのせいじゃねえからな」
その声に、いくらか親しみのような色が含まれていたのは……気のせい?
気のせいじゃない、と思いたいけれど。
「ごめんなさい。ごめんなさいトラップ。あなたが忍び込んだのは、生活が苦しいから? だから……?」
「……いんや」
わたしが聞くと、彼は微かに首を振った。
「別に、生活がきついのなんか、もう慣れちまってるよ。でもな……妹が……」
「……妹さん?」
反射的に、ルーミィのことを思い浮かべる。
「ああ。マリーナっつーんだけどよ。俺より一個下だから、おめえと同い年くらいじゃねえ? ま、とにかくな、ろくな飯も食わずに働き通しだったもんだから、ついに倒れちまったんだよ。医者が言うには、高え薬と栄養のある食事、それがなきゃあ、助からねえ。そう聞いたもんで、つい、な」
「…………」
「たった一人の妹なんだよ。過労で父ちゃんも母ちゃんも死んで、もう俺にはあいつしか残ってねえから。だからどうしても助けてやりたかったんだよ。……わり。こんなことおめえに言っても仕方ねえよな」
わたしは立ち上がった。
迷いは無い。唖然とするトラップを無視して、石の階段を駆け上る。
「クレイ兄様!!」
「うん?」
入り口に立っている兄様を無理やり引きずって、再び階段を駆け下りる。
わたしの剣幕に、兄様はかなり驚いていたみたいだけれど。わたしが早口で事情をしゃべると、理解してくれたみたいだった。
「あん? 戻ってきたのか……って、あんた、誰だ?」
「アンダーソン王家第一王子、クレイと言います。昨夜は妹がお世話になったそうだね、トラップ」
不審の眼差しを向けるトラップに兄様がにこやかに言うと、彼はすごい勢いで牢の奥に飛びすさった。
「く、クレイ王子!? あんた……」
「ああ、怖がらなくてもいいよ」
兄様は優しい笑みを浮かべると、ポケットから鍵を取り出して、あっという間に鍵を開けてしまった。
きょとんとしているトラップを尻目に、牢の扉を開ける。
「早く逃げろ」
「おい……?」
「後のことは気にするな。俺が何とでもしてやる。だから、逃げろ」
「おい、正気か、あんた……」
茫然としているトラップの元に、わたしは歩み寄った。
そして、身につけていた指輪や髪飾りを、まとめてトラップの手に押し付ける。
「おい」
「ごめんなさい。何も知らなくてごめんなさい。あなたは何も悪くないのに、こんなところに閉じ込めてごめんなさい」
「いや、別におめえのせいじゃ……」
「ううん、わたしのせい。あなたが捕まえられるのを黙ってみてたわたしのせいなの。これ、売ったらいくらかのお金になるでしょう? わたし、妹さんを助けるお役に、立てる?」
わたしの言葉に、トラップは手の中の装飾品と、わたしの顔と、そしてクレイ兄様の顔を交互に見比べて……
そして、にやりと笑った。
「俺は、どうやら王族ってーのを誤解してたみてえだな」
「わかってくれたら、嬉しいよ」
相変わらずの優しい笑みを浮かべて手を差し出すクレイ兄様。その手を、がっちりと握るトラップ。
「この恩は忘れねえよ」
「いや、忘れた方がいいと思うけどね。トラップ、お前は城になんか来なかったし、捕まったりもしなかった。ただ妹さんを助けるために金策にかけまわっていた、それだけだよ」
兄様の言葉に、トラップは……初めて、穏やかな笑みを浮かべた。
「……さんきゅ」
「どういたしまして」
それだけ言って、トラップは牢から出ようとしたけれど。
ふと思い付いたように立ち止まった。そして、わたしの方に視線を向ける。
「なあ、姫さん」
「え?」
「……昨夜は、手荒なことして悪かったな」
ぼそり、とつぶやく彼の顔は……耳まで、赤かった。
……ああ。
やっぱり、わたしの目に狂いはなかった。彼は、悪い人じゃない。そんなことを、ずっと気に病んでいてくれたんだから。
「何のこと? あなたは城には来なかったし捕まったりもしなかった。だからわたしも、あなたとはここで初めて出会ったのよ?」
そう答えると、彼は酷く嬉しそうだった。
そして、今度こそ背を向ける。
その瞬間、わたしは叫んでいた。どうしてそんな気になったのかは、わからないけれど。
「トラップ!」
「…………?」
ちょっと振り返るトラップに、わたしは言った。ただ一言。
「パステル」
「あ?」
「わたしの名前は、『姫さん』なんかじゃないわ。パステル。そう呼んで」
「…………」
わずかな間、わたしは見詰め合っていた。やがて、彼はちょっと片手を上げて言った。
「オーケー、パステル。……世話になったな」
それだけ言うと、彼の姿は、階段から消えた。
きっと、もう彼に会うことはないだろう。
そう考えると、わたしは酷く寂しい、と感じた。
まるで抜け殻のように、あの鮮烈な出来事を忘れることもできず、ぼんやりと日々を過ごす。
そうして、いつまでも薄れることの無い記憶が、いつか薄れてくれることを祈りながら。
そうやって過ごしていくしかないのだ、と当に諦めていたのに。
どうして、こうなるんだろう?
「従者……ですか?」
「ああ」
いつもながら唐突にわたしを呼び出したお父様は、かなり不機嫌だった。
「クレイの奴がな。お前の世話をする従者を勝手に見つけてきおった。全く、余計なことを」
「兄様が……」
従者。ということは……男性?
何で。今までは、ずっと女官、侍女がついていたのに。
わたしが首をかしげていると、珍しいことに、お父様がためいきをついていた。
「全くあいつも頑固になったというか……お前を守るのに、女ばかりでは不安だ、とこう言う。まあ確かに、昨今命知らずな輩が多いからな。大事な嫁入り前のお前に、傷でもつけられたらかなわん」
きっと、お父様は嫁入り前の「道具」と言いたかったんじゃないだろうか。
何となくそんな風に思ったけれど、さすがにそれは口にできなかった。
「わかりました」
「石の人形だとでも思っておけ。我々にとって従者というのはそういった存在だ。話はそれだけだ。行け」
「はい」
相変わらず、強引に呼び出しておいて……ねぎらいの言葉一つない。
そんなことには、もう慣れていたけれど。
わたしは、ため息をついて王の間を出る。
外では、クレイ兄様が待ち構えていた。
「兄様。どういうこと?」
「どういうって?」
「だって、いきなり従者だなんて……」
「パステル」
クレイ兄様が急に振り返って、わたしはつんのめりそうになった。
な、何?
「兄様?」
「俺はパステルが心配なんだよ。最近、全然元気がなかっただろう? 俺はパステルに、俺みたいになってほしくはないんだよ」
「兄様みたい、って……」
兄様はわたしにとって憧れの人だ。誰にでも優しくて、城中の人から慕われていて、次期王としてあの人以上にふさわしい人はいないと、そう言われている。
わたしはそんな兄様を尊敬していたのだけれど……
「俺みたいな……臆病者には、なってほしくないんだよ」
「臆病、って?」
話しながら、兄様は歩き出した。
向かっているのは、わたしの部屋。
「……いずれわかるよ。俺は、みんなが言ってくれるような、そんな立派な人間じゃないんだ。パステル、新しい従者は部屋の中で待ってるから。後は好きなようにしてくれ」
「え? ちょっと、ちょっと?」
バタン
強引にわたしを部屋の中に押し込んで、兄様は出て行ってしまった。
もう、一体何なのよ?
くるり、と振り返る。そのとき、目に飛び込んできたのは……
……多分、わたしは一生その光景を忘れられないだろう。
部屋のソファにふんぞりかえって、乱暴に足をテーブルの上に投げ出している。
身につけているのは、シンプルな白い服と漆黒のマント。腰には長剣。
その姿は、あのときと違って、どこからどう見ても立派な剣士にしか見えなかったけれど。
見間違えるわけはない。あんな鮮やかな赤毛、わたしは彼しか知らないから……
「トラップ……」
「よう、パステル。また会ったな」
とても王族に対する態度には見えない。
トラップは、よっと片手をあげて、言った。
何がどうなっているのか。
「何かよ、おめえの兄ちゃんがうちに来て、『城で働く気はねえか』って言ってきたんだよ。まあ給料もいいっつーしな」
どうしてあなたがここにいるの、と聞くと、トラップはひょうひょうと答えた。
その態度は、とても従者の態度には見えなかったけれど。
それが嬉しかった。あのとき別れたトラップ、そのままの姿だったから。
わたしのことを「姫」ではなく「パステル」として見てくれたのは、兄様とルーミィ以外では初めてだったから。
「妹さんは、元気になった?」
そう聞くと、トラップはとても嬉しそうに頷いた。
わたしがあげた装飾品は、結構な値段で売れたらしく。妹さんはすぐに元気になって、しばらく生活に困ることも無いだろう、ということだった。
よかった、とわたしが微笑むと、彼は、それはそれは満足そうに笑った。
「んでさ。俺はおめえの従者として、一体何をすればいいわけ?」
「それは……」
改めて言われると、彼にしてもらわなければならないようなことは特に思い当たらない。
まさか着替えなどを手伝ってもらうわけにはいかないし。
「……とりあえず、傍にいてよ」
わたしがそう言うと、彼はにやり、と笑った。
トラップが来てから、わたしの生活は一変した。
何と言えばいいのだろう。今までは、次に何を言われるか、何を求められるか。
決まりきった儀式のように流れていた生活が、トラップのおかげで、予想がつかないものとなった。
「もう! わたし本を読みたいの。邪魔しないでよ!」
「ああ? だって退屈なんだよ」
「退屈なら、騎士団の人と剣の稽古でもしてたらいいんじゃない?」
「んん? 俺はおめえの従者だぜ? んで、おめえは俺に『傍にいろ』って命令したんじゃねえの?」
だから傍にいるんだよ。そう言って笑われると、わたしはもう、何も言えなくなってしまって。
本を読むのを邪魔されるのは嫌だったけれど。トラップの手が、わたしの髪を嬉しそうにいじっくっているのを見ると、何だか胸があったかくなる。
どうしてだろう。トラップが傍にいることが嬉しくて、たまに何か用事があって彼が姿を消したりすると、いつ戻ってくるのかが気になって。
彼が他の侍女達としゃべっているのを見ると、どうしようもなく胸がざわついて。あの、強い意志のともった目で見つめられると、どうしようもなく胸が高鳴って。
どうしてこんなことになるのか、自分でもよくわからなかったけれど。
それでも、わたしは思った。「楽しい」って。
生まれてこの方、滅多に味わえなかった感覚。これが「楽しい」っていうことなんだって、何となくわかった。
そんなわたしを見るクレイ兄様の眼は、とても優しくて。
だから、わたしはお礼を言った。「トラップを連れてきてくれてありがとう」って。
クレイ兄様は笑っているだけだった。兄様はわたしのことならきっと何でもわかっているに違いない。
初めて出会ったときから、わたしがトラップにどうしようもなく惹かれていたことに、わたし自身よりも早く気づいていたに違いない。
こんな気持ち、表に出すことはできないけれど。
だからこそ、お父様に「あのこと」を告げられたとき。
わたしは、目の前が真っ暗になるような錯覚に陥ったのだった。
その日、わたしはまた部屋で本を読んでいて、トラップは退屈そうにソファに寝そべっていたのだけれど。
「パステル姫様、失礼いたします」
そう言って入ってきたのは、執事頭のキットン。
ちょっと口うるさいところはあるけれど、わたし達のことを真剣に考えてくれるいい人だ。
キットンは、部屋に入ってくるなり、ソファに突進した。
「と、トラップ! あなたはまた姫様の部屋で何という……」
「ああ? うっせえな。当の姫様がいいっつってんだからいいじゃねえか」
「なっ、なっ……」
「き、キットン、いいのよ。わたしがそれでいいって言ったんだから。トラップはわたしの従者でしょう? わたしがいいと言ったらいいのよ」
慌ててフォローに走る。キットンとトラップのいさかいは今に始まったことじゃない。
だけど、キットンはわたしがトラップといるのを楽しんでいることを知っているから、お父様に報告して彼を首にするようなことはしない。その点に関しては、本当に感謝しなければならないと思っているんだけど。
「はあ、はあ……まあ、姫様がそうおっしゃるのでしたら……」
興奮のあまり荒くなった息を整えて、キットンは言った。
「姫様。王がお呼びですので、すぐ王の間にいらしていただけますか?」
「……わかったわ」
すぐに。呼び出されるときはいつもそう。
わたしが何をしていようと、お父様はお構いなし。……仕方の無いことだけど。
読みかけの本を机に伏せて、わたしは仕方なく立ち上がった。その後から、トラップが音もなくついてくる。
従者として、トラップはわたしが行くところにはいつもついてくる。
もっとも、手助けしてくれるようなことは滅多に無い。「けっ、甘い甘い。自分のことくらい自分でできなくてどうするよ?」というのが彼の口癖だった。
じゃあ、何のための従者なのよ、と思わなくも無いけれど。そんなトラップの態度は、わたしを一人前として扱ってくれているみたいで、嬉しかった。
王の間に入る。トラップは入り口付近で待機させておいて、静かに王座の前まで行き、膝をつく。
とても親子の対面には見えないけれど、これが小さい頃からのわたし達の会話スタイルだった。
「お父様、お呼びでしょうか」
「パステル。お前の縁談が決まった」
……そのときの、わたしの感情を、どう説明すればいいのか。
確かに、部屋の中の空気が凍りついたように感じた。胸の中が、かつてないほどざわめく。
「縁談……ですか」
「ジョーンズ王家のディビー王子を知っているか」
お父様のあげた名前は、確かにパーティー等で何度か顔を合わせた相手だった。
何といえばいいのか……「アンダーソン王家のパステル姫ザマスか!? うちのディビーちゃまをよろしくザマス!!」というすさまじい彼のお母さんばかりが印象に残っているのだけれど。
ディビー本人は、人は悪くなさそうだけれど良くも悪くもお坊ちゃんという印象の抜けきらない、母親に頼らなければ何もできない、そんな印象しか残っていない王子だった。
わたしより、いくらか年下だったはずだけど……
「お前ももう17だ。そろそろ嫁いでも……いや、遅すぎたくらいだな。お前がジョーンズ王家と婚姻関係を結べば、我がアンダーソン王家もますます力を得ることができるというものだ」
お父様の言葉は、確認じゃない。
決定事項を伝える事務的な口調の、それだった。
わたしには反論の余地など許されてはいない。そう……いずれこういう日が来ることは、わかっていたのだけれど。
「式は一ヵ月後に決まっている。お前も、そのつもりで」
「……はい……」
わたしに発することを許されているのは、肯定の返事だけ。
否定は許されない。そういう風にしつけられてきたから。
たとえ、胸の中でどう思っていようとも。
「話はそれだけだ。行け」
「は、はい……」
動揺を悟られないように。わたしはうつむいて立ち上がった。
そして振り向く。その瞬間……
入り口で立っていたトラップと、目が合った。
彼の視線は、ひどく冷たかった。最初に出会ったときですら、これほどまでに冷たい目はしていなかった。
トラップ……?
しばらくの間、わたしとトラップは見詰め合っていた。早く行かなければならないのに、動けない。
……そのときだった。
「パステルの従者……だったな」
部屋の奥から響いてきたのは、お父様の冷たい言葉。
「聞いたとおりだ。パステルがジョーンズ王家に嫁げば、お前は用無しとなる。……そのつもりで荷物をまとめておけ」
お父様の言葉に、わたしは今度こそ愕然と立ちすくむことになったけれど。
トラップは冷静だった。まるでその言葉を予測していたかのように、少し肩をすくめただけで。
「はい」
彼があんなに素直に返事をする光景を、多分わたしは、初めて見た。
それからの一ヶ月は、わたしにとって、また元の生活に戻った、ただそれだけのことだった。
トラップは余り口をきいてくれなくなり、部屋ではただ隅の方でじっとたたずんでいるだけ。
わたしが声をかけなければ自分からは動こうとはしない。そう、普通の従者のように。
「トラップ……」
そんな状態に耐え切れなくて、わたしがおそるおそる声をかけると。
彼は、酷く冷たい笑みを浮かべて言った。
「お呼びでしょうか、パステル姫様」
そう呼ばれることが、わたしの中にどれほどの絶望をもたらしているか。
トラップは、わかっているのだろうか……?
式は翌日に迫っていた。
明日になれば、わたしはジョーンズ王家に嫁がなければならない。
好きでもない男の下へと。
ぼんやりと窓から月を見上げる。
眠れなかった。眠れるはずがない。
わたしは嫌なのだから。あんな男の下へ嫁ぎたいなんて、これっぽっちも思っていないのだから。
だけど、わたしの意思は聞き入れてもらえない。嫌だと言っても、お父様は強引にわたしを嫁にやるだろう。
そのとき、初めて、わたしは「アンダーソン王家」などという家に生まれたことを呪った。
わたしが、ただの庶民の娘だったら。例え生活に不自由しても、汚い服しか着れなくても、貧しい食事しかできなくても。
それでも、ただの庶民の娘に生まれていたら……一番欲しかったものが、手に入ったかもしれないのに……!
窓から外を見る。
いつか……そう、トラップと初めてあったあの日。
あの日以来、わたしの部屋の外には、見張りが立つようになった。
もう部屋から勝手に抜け出さないように。けれど、トラップが来てくれるようになって、眠れぬ夜を過ごすこともなくなったから。それを気にしたことはなかったのに。
今……わたしは、どうしようもなく外に出たかった。
庭に、ではなく。外へ。
それは、叶わぬ願いだけれど……
ぐっ、と窓ガラスに手を当てる。せめて、外にとっかかりになるような足場でもあれば、窓から外に出ることだって……
そのときだった。
ガラス越しに、ふと、温かみを感じたような気がした。
……まさか!? ここは、三階……
ばっと顔を上げる。窓ガラスを挟んだ向かい側。そこに、どうやっているのかしがみついていたのは……
「と、トラップ!?」
「……よう」
片手で窓枠にぶら下がり、片手をガラスに押し当てて。どう考えても無理のあるその体勢で、トラップは、以前と同じ笑みを向けてくれた。
慌てて窓を開ける。内開きでよかった、と心底思いながら、トラップに手を貸す。
転がり込むようにして、トラップが部屋の中に入ってきた。
「トラップ……どうして……?」
「…………」
何を、しにきたのか。
この一ヶ月、ろくに口もきいてもらえなかったのに。
ひどく他人行儀で……わたしは、もう諦めていたのに。
あのいたずらっこみたいな笑みを見ることはできないと、もう諦めきっていたのに。
どうして、今更……
「……おめえに、聞きに来た」
「……え?」
ぼそぼそとつぶやくトラップの言葉を聴きとろうと、彼に目線を合わせてしゃがみこむ。
「トラップ?」
「聞きてえんだ。おめえは、嫁に行きてえのか? ジョーンズ王家とやらの王子様と、結婚してえのかよ?」
トラップの目は、ひどく真面目だった。
こんなに真面目な彼を見るのは、初めてのことだった。
だから、わたしも迷わず答えることができた。決して口にはできなかった本音を。
「……嫌」
「…………」
「嫌よ。どうして、あんな……ろくに、顔も知らないようなあんな人と、結婚しなくちゃいけないの? わたしは嫌。わたしは、わたしは……!」
それ以上は、言葉にならなかった。
気がついたとき、わたしは……トラップの両腕に、抱きすくめられていた。
「トラップ……?」
「……諦められると、思ったんだ」
耳元で囁かれる言葉。甘い吐息が触れて、思わず背筋がぞくり、とする。
「諦められると思った。おめえがそれで幸せになれるんなら。どうせ俺には……庶民の俺には、おめえを幸せにするなんてできっこねえから、忘れちまおうとそう思った。だけど……」
「トラップ……」
「……見てられねえんだよ!! この一ヶ月、おめえの顔はどんどん暗くなっていって……何でそんな辛そうなんだよ。幸せになるんじゃなかったのかよ!? おめえがそんな顔してたら……諦めきれねえじゃねえか。俺は……」
トラップ。それは……それは、もしかして。
わたし……思ってもいいの? あなたに本音をぶつけても、いいの……?
「諦めないでよ……」
「……あ?」
「諦めないでよ、傍にいて、わたしを幸せにして! わたしはこんな王家にはもういたくない。誰もわたしのことなんか考えてくれない、ただ従順な姫であることを強制される生活なんてもう嫌なのよ! 諦めないで、わたしとずっと一緒にいてよ!! わたしは……トラップさえ傍にいてくれれば、それで幸せなんだから!!」
「……パステル……」
呼んで、くれた。
本当に久しぶりだった。彼がそう呼んでくれるのは。
「姫」じゃなく「パステル」になれたのは、本当に、久しぶりだった。
皆が期待している偽りの言葉じゃなく、本音をぶつけられたのは、初めてだったから。
だから……とても。とても、嬉しかった。
じっとトラップの顔を見つめる。強い意志を持ったトラップの目が、段々と近づいてくる。
そのまま、わたしはトラップの唇を、受け止めていた。
ベッドに行くのももどかしい。そんな性急な手つきで、彼はわたしを床に押し倒した。
それがどういった行為なのかは、さすがにわたしも知っている。
婚姻したその夜に、わたしはきっとディビー王子とする羽目になったのだろう行為。
考えただけで背筋がぞっとする。それを思えば……今、こうして床の上で組み敷かれることくらい、何でもないことだった。
心の底では望んでいたから。わたしの何もかもを、トラップに受け取ってもらいたいって。
「初めて、なのよ……」
「見りゃわかる」
「優しく、してくれる?」
「……おめえが、そう望むのなら」
トラップの唇が、ゆっくりとわたしのそれに重ねられた。
わずかに開いた唇の中へ優しく侵入し、わたしの全てをからみとってしまうような、深いキス。
「っあ……」
「…………」
キスって、こんなに、気持ちのいいものだったんだ……
走り抜ける快感に、わたしはたまらず、トラップの首筋にすがりついた。
耳に届く低い笑い声。
細い指が、わたしの胸元を這い、するり、と夜着の紐を解く。
あらわになった胸元に、キスの雨が降る。
トラップの唇が強く吸い上げるたび、わたしの肌に、彼のしるしが残される。
身も心も彼に堕とされた瞬間だった。
「はあ……あ、やあっ……」
トラップの手の動きに、声を抑えられなくなる。
彼の手は、ひどく巧みにわたしの身体をほぐしていった。
ときに優しく、ときに強く。いつの間にか夜着は足元に押しやられ、下着ははぎとられていた。
いつそうされたのかも気づかないくらい、わたしは彼の行為に夢中になって、自分でも恥ずかしくなるようなみだらな声をあげていたから。
「っう……あんっ……と、とらっ……ぷ……」
ぐいっ
脚を開かされる。すべるようにして、彼の手がもぐりこんできた。
わたしの身体は、やすやすと彼の手を受け入れていた。
「っ……やだっ……もう……」
「そうやって恥らう様が……また、何つーかそそるんだよな。おめえ……色気のねえ女だと思ってたけど、それ、訂正してやる……」
耳元で囁かれる彼の息は荒い。
びくりっ
耳にキスされて、わたしは全身をのけぞらせた。
太ももをつたって溢れるのは、一体何なのか。
身体が火照って、肌寒い季節のはずなのに熱いと感じるのは何故なのか。
わからない。何もかもが初めての経験で、わたしはただ、されるがままになっていた。
「も、いいか……俺、限界……」
つぶやかれた言葉に、頷くしかできなかった。
身体の芯にうずきが走っていた。決して口には出せない欲求が、頭をかけめぐる。
「……来てっ……」
彼の背中にしがみついてつぶやいた瞬間。
トラップとわたしは、一つに繋がっていた。
っあああああああああああああ!!
唇をふさがれていなければ、きっとさぞ大きな悲鳴をあげたことだろう。
受け入れた瞬間走る痛みに、わたしは力いっぱい彼にしがみついていた。
ぎしぎしぎしっ
きしむような音とともに、トラップの「それ」は、わたしの奥深くへと侵入していく。
痛い。彼が精一杯気を使って、優しくしてくれているのがわかるから口にはしないけど。
痛かった。
「っうう……」
侵入と同時、塞がれた唇。強く吸い上げられて、眩暈すら感じそうな快感と痛みが、わたしの身体を複雑に反応させる。
身をよじると、トラップの方も辛そうにうめいた。
「っやべっ……」
「とらっぷ……?」
囁きに返事は無い。彼の身体は、しばらく小刻みに動いていたかと思うと……
いきなり、動き始めた。
「っあっ……い、いたっ……」
ゆっくりなのに力強い動き。その刺激はとても強く、わたしは痛みに顔をしかめることになったけれど。
何故だろう。うずいていた身体が、徐々に収まっていくのは。
全身をかけめぐるこのぞくりとした感覚は、何なのだろう。
頭の中でめまぐるしく思考が揺れ動く。まともに物を考えることができなくなって、わたしはただ、揺れる彼の背中にしがみつくしかなかった。
気がつけば爪を立てていたらしく、トラップの顔をしかめさせることになったけれど。そんなことに気づいたのは、ずっと後になってから。
トラップの動きが早くなる。痛みは薄らぎ、快感だけが残る。
「……トラップ……」
「パステル!」
お互いの名前を呼び合った瞬間、トラップは、強くわたしを抱きしめた。
その瞬間、彼の全身から……力が、抜けた。
ことが終わったその後。
わたしに渡されたのは、夜着ではなく……地味な色合いの服とローブだった。
「これ、は……?」
「マリーナの服、借りてきた……」
「えと……?」
着たことの無いタイプの服に戸惑っていると、苛立ったのか、トラップがわたしの手を取って着替えさせてくれた。
着替えすらも、今まで一人ではしたことのない。そんなわたしでも……いいの? トラップ……
「もう決めた。おめえを連れて逃げるって、もう決めたんだ。まさか……嫌だ、なんて言わねえよな?」
それこそ、まさか。逆に聞き返したいくらいなのに。
「後悔、しないの? もう、マリーナに会えないかもしれないのに」
「……話、つけてあるよ。ちゃんと。『トラップが幸せになるのならそれでいいよ』だとさ。ったく、薄情な妹だぜ」
そんなこと言って。トラップ……あなた、すごく嬉しそうだけど。
「おら、行くのか、行かねえのか?」
差し伸べられた手を、わたしは握った。
後悔なんか、絶対にしないから。
わたしに護身用のショートソードを渡すと、トラップは、自らも長剣を構えた。
部屋の外には見張りが立っているはず。そういうと、彼はわたしに静かにしているように言って、そっとドアを開けた。
思えば、あれだけ部屋で大騒ぎをしていたのに、見張りに気づかれなかったのは……
「……誰もいねえぞ」
「え?」
トラップの言葉に、慌てて外を見る。
誰もいなかった。ドアに張り付いているはずの見張りの姿は、影も形も無い。
どういうこと?
それはとても幸運なことのはずなのに、妙に不安だった。
それでも……迷っている暇は、なかった。
「行くぞ、パステル」
「うん」
トラップに手を引かれて。
わたしは、城の外へと飛び出した。
生まれて初めて、外の世界に出た。
城の外に広がっていたのは森。
トラップの話によれば、この森を抜ければ、トラップが住んでいる小さな街があるらしい。
とりあえずそこまで逃げて、朝になったら馬車を調達すればいい。
走りながら彼が説明してくれたのは、そんな計画。
だけど、わたしは半分も聞いていられなかった。
姫としてかしずかれてきたわたしは、そもそも「走る」という経験もほとんどしたことがなかったから。
すぐに息が切れる。慣れない森の道でつまづき、傷つき、そのたびにトラップをわずらわせる。
情けない。こんなことすらできないなんて。
わたしは、今まで、一体何を勉強してきたんだろうっ……
悔しさに涙がこぼれそうになる。そうして、どれくらい走ったのか。
ぴたり、とトラップが立ち止まった。
「トラップ……?」
「……くそっ……」
さすがの彼も、息が荒い。
森の道。こんな時間に、人通りなど無いはずのそこに。
一つの人影が、たたずんでいた。
闇に塗りつぶされるような、黒髪と漆黒の目。無駄な贅肉など一切感じられない鍛えぬかれた肉体を黒い服に包んで、長剣を抜いた人影。
「あなたは……」
「騎士団長、ギア・リンゼイと申します。パステル姫……いつも素直だったあなたが、こんな盗賊風情に言いくるめられるとは……」
ギアの言葉は丁寧だったけれど、その声音は酷く冷たかった。
ためらいなど一切感じられない動きで、長剣を構える。
「下がっていてください。あなたは明日嫁がれる大切なお身体。傷つけるわけには参りません。この害虫を始末したら、すぐに城までお送りしますから」
「なっ……」
害虫。それは、まさか……トラップのことだと言うの?
「ひどい……ギア、下がって。下がりなさい! これは命令よ。トラップを傷つけないで!!」
「……申し訳ありませんが姫様。それは聞けません。これは王陛下からの命令ですので」
……お父様の!?
まさか……お父様は見抜いていたというの。
わたしの気持ちに。トラップの気持ちに。まさか……
すっ、とギアの長剣が動く。トラップも自分の剣を引き抜いた。
その額に浮かんでいる汗は……単に運動したから、だけの理由ではないはず。
トラップの剣の腕は、そう目だって高いわけではない。
もちろんそれなりの腕前はあるのだろうけれど、細身の彼にとって、ロングソードは手に余る武器だと、聞いたことがある。
本当は、飛び道具の方が得意なんだとも。ただ、わたしの従者になるために、クレイ兄様から付け焼刃で学んだだけだとも。
騎士団長ギア・リンゼイ。お父様が唯一一目置いている人。
彼の剣の腕は、並の剣士4〜5人くらいなら軽くあしらってしまえる腕だと聞いている。
トラップ――!?
「下がってろ、パステル」
ゆっくりと長剣を構えて、トラップは笑った。
「負けねえよ。おめえを置いて、俺が一人でいくわけねえだろ? 俺を信じろ」
トラップ……
そうだよね。トラップはいつも厳しかった。絶対にわたしを甘やかそうとはしなかったけれど。
逆に、わたしが一人ではどうしようもないときは、いつも助けてくれた。あなたはそういう人だから。
だから、信じる。
わたしは、ばっと下がった。戦いの邪魔にならないように。
その瞬間……トラップが、走り出した。
キンッ!!
夜の闇に響く硬質の音。
ギアの剣とトラップの剣が、一瞬交じり合った後……同時に、二人はとびずさった。
トラップの息が荒いのに対し、ギアの顔には余裕の色がうかがえる。
一流の剣士は、剣を交わしただけで、相手の技量を見抜くことができると、クレイ兄様が言っていた。
ギアが唇の端に浮かべたのは、まぎれもない嘲笑。
トラップ……!!
再び走り出す。何度か剣が交じり合い、そのたびにトラップの身体に、少しずつ傷が増えていった。
技術でも、単純な力比べでも、体力でも。
トラップがギアに勝てる要素は、多分何一つ無い。それでも……トラップは諦めようとしていなかった。
その強い意志を宿した瞳には、諦めの色は、全くなかった。
一体どれくらいそんなつばぜりあいが続いたのか。
トラップがあちこちから血を流しているのに対し、ギアは全くの無傷。しかも、息一つ乱していない。
そして……
ぎんっ!!
いつもと違う音。その瞬間、トラップの手から、長剣ははねとばされていた。
「トラップ!?」
「ちっ……」
その瞬間、ギアの手がトラップの首をつかみ、そのまま傍の木に叩きつけた。
ズンッ! というような重たい音。
木が一瞬しなり、トラップの顔に苦痛が浮かぶ。
「くっ……」
「まあ、その程度の腕で、よく持った方だといえる。だが……遊んでいる暇は、無いんでね」
にやり、とギアが微笑み、反対の手で……そう、片手で、長剣を振り上げた。
――――!!
殺される。
トラップが殺される。わたしのせいで。
わたしを連れて逃げるために、トラップが……
それはもう無我夢中だった。
ギアの剣が、ゆっくりとトラップの身体に押し当てられ……
一気に剣がひかれようとしたその瞬間。
わたしは、身体ごと、ギアに体当たりしていた。
「ぐっ!!?」
わたしのことなど、眼中に無かったのか。何もできない姫だと、甘くみていたのか。
ギアは、それをまともに食らった。わたしが構えたショートソードを、まともに背中に受け止めて。
どすん、と音がして、ギアの長剣が地面に落ちる。
トラップは……
「っつつつ……」
ギアの手から力が抜け、どさり、と地面に倒れる。それと同時、トラップもしゃがみこんだ。
首に真っ赤な痕が残っている。大きく息をついて、わたしと、血にまみれたわたしの手と、ショートソードを背中に刺したまま倒れるギアを、見つめた。
「トラップ……」
「パステル……おめえ……」
どすん
膝から力が抜けて、わたしはしゃがみこんだ。
今更ながら、自分のしたことを理解して……震えが止まらなくなる。
わたし、わたしは……
何て、ことを……!
「パステル……」
「いや……わたし、夢中で……トラップを助けようとして、トラップが死んじゃうと思って……いや……いやああああああああああああ!!?」
「パステル!!」
ぎゅっ
力強い腕が、わたしを抱きしめる。
トラップの身体は……震えていた。
「おめえ……何てことを……おめえまで、その手を汚すことはなかったのに。そんなのは俺だけで十分だったのに」
「トラップ……」
「おめえを守ってやれなかった。これは俺の罪だ。おめえは悪くねえ。全部俺が……」
「違う!」
違う、違う。それは違う。
これはわたしの罪。世間知らずで、皆の苦しみも知らず。ただ言われるがままに姫であり続け、それでいながらトラップをも欲した、わがままなわたしの罪。
「違う。トラップ、言ったじゃない。甘えるな、自分のことは自分でやれって。だからわたしが自分でやったの。これはわたしがしたことなのよ。トラップ!!」
――――
トラップは何も言わなかった。ただ、わたしを強く、強く抱きしめてくれた。
わたしも、彼の身体にしがみついた。震えを抑えようと、必死にしがみついていた。
そのときだった。
背後から、足音が響いてきたのは……
「……クレイ兄様!?」
背後からやってきた人を見て、わたしは目を見開いた。
地味な服を着ているけれど、長剣を持って立っていたのは、まぎれもなくクレイ兄様だったから。
「パステル……」
兄様は、しばらく茫然とわたし達を見つめていたけれど。
倒れているギアに目をやって、かけよってきた。
素早く彼の腕をとる。そして、頷いた。
「兄様、これは……」
「逃げろ」
「え?」
兄様の言葉に、わたしもトラップも顔をあげる。
クレイ兄様は、ギアの体を抱き起こして言った。
「大丈夫だ、彼は助かる。後のことは何とかするから、お前達は早く逃げろ」
「兄様!? だって……」
わたしの言葉を遮って立ち上がったのは……トラップ。
ゆっくりとクレイ兄様の元に歩み寄る。
「いいのか? ……こいつが嫁がねえと、あんたの王家、色々とやばいことになるんじゃねえ?」
「バカなことを言うな! 妹を不幸にしなければ得られない力なんかいるか。そんなものに頼らなければならないような王家なら滅んでしまえばいい。トラップ」
クレイ兄様は、きっとトラップをにらみつけた。いつもの優しい目とは違う、酷く真面目な目で。
「妹の幸せを願わない兄がいるか? ……早く行け。パステルを不幸にするようなことがあったら……俺はお前を許さない。どこまでも追いかけて、俺自身の手で始末をつける」
「へっ、言われるまでもねえ。……安心して見守ってろ、パステルは絶対に幸せにする。……パステルはもらっていくぜ、兄貴」
トラップがそう言うと、クレイ兄様は……満足そうに、頷いた。
「お前は、やっぱり罪人だよ。王家から、パステルの心という、もっとも価値のあるものを盗み出したんだからな?」
「クレイ兄様……」
「パステル。幸せに、なれよ」
兄様の言葉に、わたしは大きく頷いた。
なるに決まっている。トラップと一緒にいるだけで、わたしはこんなにも幸せなんだから。
他には何もいらないから。地位も名誉もお金も、トラップさえいれば何もいらないから。
わたしとトラップは、走り出した。
かたく繋いだ手を、決して離すまいと誓いながら……
没案・another ending