「それは災難でしたねぇ」
鼻にかかる間延びした声で言われると、本気でそう思っているのかと疑いたくなる人もいるだろう。けど、今の彼女は本気で心配してくれている。最近になってようやく彼女の本気とそうでない時の声の区別がつくようになってきた。これも慣れか。
「うん。危うく死んじゃうところだったよ」
素っ裸で腰を下ろし、胡坐をかく僕の足の上にレムちゃんは腰かけている。
メイド服と緑色に輝くショートヘアにフリルのカチューシャ。背は小さくロリ体型。強く抱きしめれば折れてしまうんじゃないかというくらい華奢な身体。しかし実は蒼月の盾に宿る精霊さんで、強固な防御力で何度も僕を守ってくれている、頼れる女の子だ。余計なことだけどえっちなことが大好きで、いつも好奇心旺盛に魔力の元である精を求めて――最近ではえっちがしたいだけじゃないかと思ってしまう――迫ってくる。ちなみに得意なのはお口での奉仕だ。
「ご主人様に何事もなくてよかったのです」
甘えるように背中を僕の胸に預けてきた。細い身体は軽く、まったく苦にならない。
「ありがと」
カチューシャとともに彼女の柔らかな髪の毛を撫でると、子犬のように鳴いて身体をすり寄せてきた。
「もっと撫でてくださぁい」
さっちゃんがいないせいか、いつもより当社比三倍くらいで甘えてくる。萌え死にそうだ。
「萌え死にってなんですか?」
「う、えっ……」
レムちゃんに訊かれ、まさか声に出していたのかと焦った。恐るべし萌え力。
「ご主人様は死んじゃダメですよ」
身体の向きを変え、僕の顔を見上げて懇願してきた。まだ萌えさせるつもりらしい。
「大丈夫だよ。本当に死んだりしないから」
「本当ですか?」
涙目で心配するレムちゃんに優しく頷くと、その表情から次第にかげりが消え、いつものようなにっこりした笑顔が戻った。
「安心しましたぁ」
そのまま彼女は細い腕を僕の身体に回し、力いっぱい――非力だけど――抱きついてきた。
丹羽大助十四歳、萌え死。
「それじゃあご主人様」
レムちゃんの呼びかけに、昇天しかけていた僕の意識が呼び戻された。
「な、なに?」
視線を向けると、レムちゃんはすでに
「裸ッ!?」
だった。
「二人だけで楽しみましょっ」
「待って待って! 修学旅行中はしないって――」
「放しませんよぉッ」
逃れようと身をばたつかせても、レムちゃんはしっかり抱きついており、その腕が外れない。
(全っ然、非力じゃないっっ!)
「ごっ主人さまぁ」
「だ、め、まて待ってって、う、うわあぁぁぁぁぁ――――」
なんで、こんなきもち?
――苦しいから。
なんで、くるしいの?
――辛いから。
なんで、つらいの?
――好きな人が離れてしまいそうだから。
どうして?
――姉のせい。
…………いや。いやだいやだ、そんなの嫌だ!
私が最初に好きになったのに! 私が初めて好きになったのに! どうして、どうして!
あんたが彼の傍にいるの!?
嫌だ、嫌だ認めたくない!
なんで私はいつも惨めな思いをしなきゃいけないの!?
なんであんたはいつも、私からいろいろなモノを奪っテいクの!!――――
「――!」
小さな悲鳴を漏らし、原田梨紗はベッドから上体を跳ね起こした。呼吸は荒く、汗が寝巻きを濡らし肌に貼りつかせているが、その感触よりもつい今しがた見た夢の内容に、彼女は胃の奥から込み上げてくる吐き気を感じた。
身体の内で倦怠感に似た不快感が渦巻くのを覚えながら、横に連なるベッドに視線を送った。彼女が寝ているもの以外に二つのベッドが並んでおり、すぐ側で穏やかな寝息を立てているのは同じ班の福田律子であり、彼女を挟んで向こうのベッドには、姉の梨紅が梨紗に背を向けて寝ていた。
何事もなく寝続ける二人を見ると、今、自分が見た夢がどれだけ醜く、穢く、濁り恐れ妬み憎んだ想いだったのだろうと嫌悪した。
「…………ぃ」
彼女は自分の身体を抱え込み、汚らわしい想いに喰い潰されないよう小声で必死に唱え続けた。
「悪くない……悪くない悪くない。あの子は、梨紅は悪くないんだから……」
姉を慕う妹の心だけが、増大しようとする醜悪な感情を圧し留めていた。
南の島の朝は早く、すでに日は昇り始めていた。
「――いただきに、あがりますっと」
この島にある灯台の下、今回のターゲットが飾られている下で僕は予告状を書き上げた。
旅行先でまで仕事をしてこいとはさすが母さん、ありがた過ぎて涙が滲んでくる。
「はぁ……」
「お疲れですかぁ?」
「うん、疲れた」
「やっぱりお出しにならなかったのが身体によくなかったのですね」
出すとは今朝のことだろう。レムちゃんに押し倒された後、その中に強引に入させられてしまったけど、日ごろの鍛錬の賜物か、射精はしないで済んだ。
その代わり、イけなかったことからくる不満が少し、いやそこそこ……かなり、ある。
「出してしまえば楽になれましたのに」
残念そうに言うけど、それは僕のことを気遣ってじゃなくて、単に精子が飲めなかったことが不服なだけなんじゃ、と思う。
「別にいいけどさ」
五泊六日。約一週間近く溜めた後の射精の快感を思うと、悦びで身体が震えそうになる。
「無理せず出しましょうよぉ」
「いいってば。じゃあこれ頼んだよ、ウィズ」
どうあっても出させたいのか、声を弾ませて要求してくるレムちゃんを受け流し、ウィズに書いたばかりの予告状を渡した。ウィズは二つの大きな耳を羽ばたかせて飛んでいった。どう見ても不自然だ。変だ。おかしすぎる飛び方だ。けど、突っ込むには今さらすぎる。
「その予告状はどこに出されるのですか?」
「ホテルのオーナーにね。一応その人の所有物だから」
「今盗んでいけばよいのではないですか?」
「それだとほら、ただの泥棒になっちゃうから」
「怪盗と泥棒にそんなに違いがあるとも思えませんけどぉ」
「それはそうかもしれないけど……」
言われて強く言い返せない現実が少し悲しい。
「とにかくっ! 今日の十二時、みんなが寝静まった頃に動くからそのつもりで」
「はいっ、わっかりましたぁ!」
レムちゃんがびしっと敬礼するのがなんとなく伝わってきた。満足気にというわけでもないけど一度頷き、天に向かい真っ直ぐ立つ灯台の、その先端最上部に取り付けられている『永遠の標』の方を振り仰いだ。
「……雨ざらしの美術品、か」
「ほへ? 何か言いましたか?」
「……いや、何でもないよ」
今、僕は美術品を可哀想だと感じた。そんな愛着なんてないと思っていたけど、実際は違っていたらしい。それもこれも、ちょっとうるさい二人のパートナーおかげなのかもしれない。
「気になりますっ! 教えて下さい!」
「それじゃずっと気にしててね」
「はうっ!? ひどいですぅぅぅっっっ」
蒼月の盾を子犬にするように優しく胸に抱え、ホテルへ急いだ。
二時のレクレーションが始まるまで、そう時間はなかった。
深夜零時。同室のベッド二つから寝息が聞こえてきたのを確認し、音を立てないよう静かにベッドから這い出した。寝巻きとして使っていたシャツと短パンを脱ぎ捨てて制服に着替えた。もし寝巻きに汚れがついてしまえば怪しまれるからだ。
ウィズ、黙っててね。小さく囁きながら懐に入れ、続いて蒼月の盾をバッグからそっと取り出した。カーテンが閉められ月光の照らすことない室内で、それは表面に刻まれた紋様をなぞり、脈打つように一定の間隔で淡く蒼く光を放っている。これも音を立てないよう慎重に腕にはめた。
立ち上がり、再度室内の音に耳を澄ました。相変わらず寝息を立て、時折りいびきや歯軋りも聞こえてくる。夜中に騒ぎ立てられないよう、クラスの男子全員の夕食に睡眠薬を盛ったのは正解だ。
「…………」
自分のしていることに溜め息を漏らしそうになり、それを呑み込んだ。
「どうしましたかぁ?」
蚊の鳴くような声をかけてくるレムちゃんに首を横に振り、何でもないよと囁き、バッグからもう一つ道具を取り出してズボンのポケットにしまった。
準備を終えると窓の鍵を開けてベランダに出てきちんと窓を閉め、長く留まって人目についてしまわないよう一気に宙へ飛び出した。同時に背中から漆黒の翼が巨大な衣のようにこの身を取り巻き、弾け開き、上空へ飛翔した。
彼女は眠れなかった。毛布にくるまり、汗が肌を湿らすこともいとわなかった。寝巻き替わりのキャミソールとショートパンツは薄っすらと滲んでいる。
――今日もだ。今日も彼は、私じゃなくて、梨紅と一緒だった。
今日の午後のレクリェーションの間、大助が梨紅と共にいる姿を何度も目にしていた。それは三時間というレクリェーションの中ではほんの少しの回数であったが、梨紗からすればそれは永遠ともつかないほど長く、苛立たしい時間だった。
――どうして私じゃないの? 私じゃ、ダメなの?
悔しい。惨めだ。自分はいつも二番手でしかない。それが、辛い。
目を固く閉ざし毛布に潜り込もうとした、その時、すっと瞼の上を影が掠めていった。
「なに……?」
目を開くと、まず映ったのはレースのカーテン。彼女のベッドは最も窓際である。ベッドを出ると彼女はカーテンを少し開けた。そして見えたは、すでに彼方へと飛んでいく黒い翼を纏ったものだった。それは鳥というにはあまりにも大きかった。月明かりが照らすその姿形は、まるで人のようであった。
空を飛ぶ人。東野町の者がその単語で思い浮かべるのは今年、四十年ぶりに復活した伝説の怪盗ダークが普通であるが、
「丹羽……くん?」
梨紗が口にしたのはその名だった。確証があるわけではない、というよりあれを知り合いの少年と結びつけること自体おかしいことである。顔が見えたはずはなく、特徴ある赤髪をし、制服を着ていたような気がしただけだ。
――丹羽くん、丹羽くんなの?
それでも今の彼女を突き動かすには十分すぎる条件だった。不安、焦りに駆られる心は冷静な判断を失い、梨紗は直情のままに部屋を飛び出していた。
「ん――?」
部屋の扉が大きく音を立てて閉じると同時、原田梨紅は浅い眠りから目を覚ました。寝巻きとして使っているのは少し大きめのシャツに一時的な覚醒のため、目はしょぼしょぼしてすぐに夢の世界に舞い戻りそうである。
「…………りさぁ?」
いつ途切れるとも分からない意識の中、窓際のベッド、妹が眠っているはずのベッドにはその姿がないことに気付いた。毛布も乱雑にはねのけられたようにくしゃくしゃである。
「……トイレかなぁ」
そう呟くと後ろに倒れ、ベッドにぼすっと身を沈めた。
「――あっ」
今度は跳ね起き、思わず大声をあげそうになった。口を手で押さえ、横で寝ている福田律子の様子を見た。幸いまだ気持ちよさそうに眠りこけている。
ほっと一安心してからベッドを降り、部屋に備えつけてあるテーブルの上に置いたままのルームキーを持って部屋の扉に手をかけた。
このホテルの部屋はオートロックになっており、部屋を出る際は鍵を持って出るようにと加世田先生からしつこく言われていた。
(忘れてくなんてドジなんだから)
扉を開けようとし、その動きが一瞬止まった。理由は分かっていないが、自分に対する梨紗の態度が、最近おかしくなっていたからだ。自然に鍵を渡せるだろうか。話を聞いてもらえるだろうか。
外に出るのを躊躇いかけたが、梨紅は持ち前の強さと、妹を想う気持ちから、意を決して扉を開けた。
消灯時間を過ぎた廊下は暗闇が支配し、消火栓や非常通路を示す電光以外はほとんど明かりがなかった。
「あれ?」
そこで疑問が湧いた。トイレに行ったならそこの電気も点いていなくてはおかしいはずだ。
しかし明かりはなく、梨紗がトイレに行ったとは思えなかった。
梨紅が闇の中へ足を踏み込んだ時、遠くから小さな音が聞こえてきた。軽快に一定のリズムで響く音。階段を駆け下りる音だ。
妹が何をしているのか、どういうつもりなのか心配した姉は、迷うことなくその後を追った。
夜風を裂き、灯台へ向かった。
「あのぉ、ご主人様ぁ……」
「どうかした?」
「あの灯台ってもう使われてないのですか?」
レムちゃんに言われて気付いた。その灯台はもう光を灯し、周囲にその存在をしらしめすことをしていなかった。
「本当だ」
「お手入れされてなかったのですかねぇ?」
多分そうだと思う。ホテルからも結構な距離があり、オーナーも手入れを怠っていたのかもしれない。
「その点、ご主人様はしっかり私たちのお手入れしてくれますよね」
「ん? それはね。いつも力を貸してくれるからそのお礼だよ」
「でもお手入れはいいですから、もっとえっちしてくだ」
「うんうん部屋に戻ったらしっかり磨いてあげるよ」
「は、話は最後まで聞いてく」
「そろそろ灯台が近いね」
「あうぅぅっっ」
申し訳ないけど旅行中は本当にエッチに応える気はない。旅行中に事後処理なんてしたくないし、何度も言うようにしばらく溜めて出してみたかったからだ。
「……戻ったら、『永遠の標』も磨こうかな」
ぽろっとそんな台詞がこぼれた。
「それはいいですねっ! きっと標さんも喜びますよ」
「うん。そうだといいね」
彼女が言うと本当にそんな気がしてくる。美術品に愛着が湧くのも、悪くないかもしれない。
次第に近づく灯台、その最上部に飾られている『永遠の標』の側へ舞い寄った。
「よ――っと」
灯台の先端部へ向かい、足を踏み外さないようしっかりと足場となるところを確認しながら、ゆっくりと舞い降りて翼を閉じた。
「ん?」
「どうかされましたか?」
「あ、ああ。ちょっとね」
『永遠の標』。鳥を模して造られたそれは羽根を大きく拡げ、その眼は遥か彼方を見つめ、まるで何かを示しているように堂々と鎮座している。――と、そこまでは母さんから写真で見せてもらったとおりの美術品だ。違うのは、その首の下、胸の上辺りに親指ほどの大きさをした菱形の、輝く石が取り付けられていたことだ。赤色とも橙色とも判別のつかない色がその石の中で渦巻くように光を放っている。宝石の類と考えるのが妥当だ。
ともかくこれは家に帰ってから母さんに見てもらうことにしよう。
「まずはこれを盗っていかないとね」
『永遠の標』の羽根の下に手を差し込み持ち上げようとするが、案の定その脚は灯台の先端に固定されており、このまま取り外すことはできそうもない。もし無理矢理持ち上げようとすれば脚が折れてしまい、母さんに怒られてしまう。
「でも僕には秘密兵器があるからね」
「誰に話しているのですか?」
さっちゃんの問いかけを無視し、ズボンのポケットから部屋を出る前に携帯しておいた物を取り出した。
消しゴムほどのサイズのそれを『永遠の標』の足元に向け、指もとにあるスイッチを押すと、それの先端から赤い光が線を引き、『永遠の標』と灯台とを切り離していく。母さん特製の高出力のレーザーナイフだ。
「さっちゃんがいてくれたら剣ですぐだったんだけどね」
「そういえばさっちゃん元気かなぁ? 少し心配ですぅ」
「……僕もね」
帰ったら何て言われるか心配でたまらない。
少し話をしているとあっという間に切断が完了した。切断面は綺麗なもので、指で触れてみるとつるつるしている。凄い切れ味だと感心すると同時に、母さんのことが少し怖くなった。もしかしたらこんなものを幾つも幾つも造っているかもと考えると背筋がぞっとする。
考えるのも億劫になってきたのでそそくさとレーザーナイフをポケットにしまい、『永遠の標』を高く掲げた。
「永遠の標、ゲットォォォォッッッ!」
「ゲットォォォォッッッ! って、どうして叫んでいるのですっ!?」
「な、なんとなく」
ノリです。怪盗にしては軽率な行為だったかなと反省したけど、誰もいないから気にしないでおこう。
けど頭上に掲げる美術品を見ていると、少ししっくりこない。
「…………うぅん」
「またどうかされましたか?」
「うん……、やっぱり気になるから」
「何がです?」
「この宝石」
そこでレムちゃんも気付いたように声をあげた。今まで疑問に思ってなかったらしい。
「これも切り取ろっか」
黒翼を拡げ静かに灯台の下に降り立つと、その宝石がどのように『永遠の標』に付いているのか、よく観察した。元から宝石をはめ込んでいたらしい装飾品と、『永遠の標』がぴったりと接着してある。融解させたためか、接着部は歪になっていてプロの仕業とは思えない。
「素人……オーナーかな……」
当たり前だけど呟いても答えてくれる者はいない。それよりも、早く済ませて部屋に帰って着替えて寝ようと思い、再びポケットの中からレーザーナイフを取り出そうとした、その時、背後から砂を踏む音が聞こえ慌てて振り返った。
「んなッ……――」
思考が止まりそうになるくらい頭の中が混乱した。
「――丹羽、くん? な、何してるの?」
笑っているのか驚いているのか、とても言いがたい複雑な表情で原田梨紗さんが僕に、丹羽大助に訊ねた。
(見られた――!?)
どうして、彼女がここに?
(ごっ、ご主人様! に、にに、逃げましょおっっ!!)
レムちゃんが叫んでくるけど、僕の身体は動かない。動けない。実行に移すだけの余裕がなかった。
「ね、ねえ? なんでこんなところにいるの?」
息を切らした原田さんが一歩足を踏み出し、砂の音を二重にならした。
(――二重?)
「梨紗……っ」
僕が疑問に思った時には、原田さんの背後、僕の視線の先に彼女の姿があった。
「――梨紅さん」
肩を上下に揺らす彼女の名前を呟くと、原田さんもようやくその存在に気付いたように後ろを振り返った。
――なんで?
――なんで?
――なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
なんでなんでアンタがココにイルノ?
――どうして、丹羽くんと私の側に、いつも、アンタがいるの?
――奪ウタメ
「―ーいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!」
原田梨紗の叫びに、悲鳴に、不安に、絶望に恐怖に憎悪に拒絶に嫉妬に嫉妬に嫉妬に嫉妬に嫉妬に嫉妬が嫉妬が嫉妬が、破滅への、破壊への、崩壊への、排除への淘汰への混沌への扉を開いた。
丹羽大助が手にしている『永遠の標』から、いや正しくはそれに接着されている『夢見の紅玉』が膨大な光を噴き出した。
「な、なに――」
「ご主人さ――」
光の塊は大助を、梨紗を、梨紅を呑み込み、とどまることを知らぬようさらに巨大に膨れ上がる。灯台を、海岸を、森を、ホテルを、島全体を包み込み、そして一瞬のうちに収束した。
「ご主人様。もう平気です」
レムちゃんの声が耳の中にまで入り込んだ感じのする光を剥ぎ落とした。眼は光に焼かれていて、瞼の下でもちかちかして痛い。顔前で蒼月の盾をかざして交差させた腕を下ろし、目を開いた。世界は真っ白だったけど徐々に視力が回復し、ぼんやりと世界の姿を捉えだした。
眼下には突然の出来事のせいで地面に投げ出してしまった『永遠の標』が、何事もなかったかのように立っている。宝石も付いたままだ。ただ、その色が最初に見たときよりもかなりくすんでいる。
「原田さんッ!」
視線を先に向け、倒れている原田さんを目にした僕は急いで駆け寄った。
「大丈夫!? しっかりして!」
肩に手をかけ揺すっても反応は返ってこない。息は、ある。脈は、ある。大丈夫、生きている。それを確認できたおかげで少しだけ余裕が生まれたのか、さっきまでは気付かなかったことにも気付くことができた。
よく聞くと彼女の呼吸は一定のリズムで繰り返して、とても穏やかな音をしている。これは、
「寝息?」
どういうことかと考えを巡らせた時、もう一人の女子のことをはっと思い出し、そちらにも急いで駆けつけた。
「梨紅さん! 寝てるの!?」
なんとも間抜けな事を訊いているけど言葉を選ぶ暇もなく、思ったままを口にしていた。
当然答えは返ってくるわけはなく、こちらも可愛らしい寝息を立てている。
「どう……なってるの?」
そう呟くがレムちゃんにも分からないらしく返事はない。
彼女をこのままにしておくわけにもいかず、抱え上げると原田さんの側に運び、姉妹を並べ横たえた。
「レムちゃん、どうなってるのか分からない?」
「あうぅ……申し訳ないですぅ」
レムちゃんは美術関連に詳しいとはいえないから仕方ない、か。さっちゃんなら知っていたかもしれないけど、今はしょうがない。
立ち上がって周囲に意識を向け、島全体の様子もおかしいことに気付いた。木々のざわめき、虫々の鳴き声、海の波立つ音、頬を撫でる夜風、生命の存在といったものが微塵も感じられない。
――静か過ぎる。そのことが、普段は気にも留めない周囲の状況に対して敏感にさせている。
まるで僕以外の時が止まったような感覚に陥った。
そう考えた途端、僕の胸が不安に鷲掴みにされた。息苦しくなり、鼓動も早く打ち出した。
(ダメだダメだ! 焦るな、焦れるな、よく考えるんだ!)
そうだ。まずはしっかりと現状を知ることから始めるんだ。
「ウィズ、ホテルに戻って、様子が変じゃないか見てきて」
鳴き声を一つ残し、背中からウィズが飛び立ち、ホテルの方角へと向かった。修学旅行のこの時間なら、多くの生徒がこそこそ起きているのは当たり前だし、先生や従業員なら見回りもしているはずだ。もしもそうじゃなかったら、二人と同じ現象がこの島全域に渡っていることになる。残された僕は腕組みし、順を追って冷静に考えを組み立てようとした。
まずは何があったのか?
――光の膨張。収縮。
その結果どうなった?
――二人が……ウィズの報告次第じゃこの島の全員が眠りに入った。
じゃあ、僕はどうして助かった?
――レムちゃんのおかげ……なのかな?
何が原因でこうなったの?
――あの宝石か。
眠りに誘った目的は?
――分からない。
『永遠の標』も関わっているのかな?
――分からない。
肝心なところが分からない。手がかりも知識も、僕は乏しすぎた。自分の不甲斐なさにへこんでいると、ウィズが舞い戻ってきた。
「どうだった?」
「ウッキュ、ウキュウ、キュッキュ!」
黒い翼が地面をのた打ち回っている。その様はひどく、不気味だ。ジェスチャーで伝えたいらしいけど、何も伝わってこない。
「……レムちゃん、ウィズが何を伝えたいのか分かる?」
「ご、ごめんなさぁい……」
レムちゃんが鼻声で謝ってきた。やはり分からなかったらしい。
「ウィズ、もういいよ……」
「キュウ?」
「今から質問するから、それに首を振るだけでいいよ」
「ウッキュ!」
「ホテルにいる人たちはみんなあの二人みたいに眠ってたの?」
ウィズが首を縦に振る。
「先生やホテルの従業員の人も?」
ウィズが首を縦に振る。
「ありがと。もう十分だよ」
ウィズが満足そうに鳴く。
この島で無事なのは僕だけのようだ。やっぱりレムちゃんのおかげで助かったのだろうか?
「レムちゃんってさ、美術品の魔力も防げるの?」
「は、はいっ! それはもうびっしりばっしりとっっ!」
今までそんな使い方ができたとは知らなかった。思い返すと、紅円の剣やユニコーンという強敵との闘いは主に打撃戦だった。魔力を遮断する効果が蒼月の盾にあると知る機会はほとんどなかった。いや、よくよく考えれば、闘ってきたのはいずれも強力な魔力を込められた美術品だった。だったら魔力に対抗するコーティングのようなものが盾に施されていてもなんら不思議はないのかもしれない。
レムちゃんが防げたなら、やはりこの惨事も魔力のせいに違いない。それも、島全体に影響を及ぼすほど強力なものだ。けど、相手が魔力を施行する美術品なら、きっとその力を解く方法もある…………はずだ、と、思う。
「はぁ……。知識がないとこんなに厄介なものなんだ」
「うぅぅっっ、ごべんなざぁぁぁぁい」
「ああっ!? 泣かないで! 別にレムちゃんを責めたわけじゃ」
「わだ、わだじがもっどじっがりぢでたらぁぁぁぁ――」
最後の方はもう金切り声だった。耳を塞ぎ、必死にレムちゃんをなだめた。
「えぐっ、えぐぅ」
レムちゃんが泣きやみ、鼻をぐずりだすと、顔をくしゃくしゃにして涙を浮かべている姿が思い浮かんだ。いつもなら虐めてみたくなるけど、今はそんな時じゃない。
「落ち着いた?」
「んぐっ……はひっ!」
声が少し引きつってるけど大分よくなってきた。
「だったらどうするか、二人だけじゃ頼りないけど対策を練ろう」
「はひっっ!」
あぐらをかき、じっくり話し合えるよう腰を据えた。
「みんながああなったのは『永遠の標』に取り付けられた宝石のせい。ここはいいよね?」
「はいっ、きっと間違いありません!」
「だから詳しく知るには、もう一度宝石の力を発動させないといけないと思うんだ」
「そうですわね。それからどうなされるおつもりです?」
「……僕があの宝石の力を受けて、直接どうなってるか調べる」
「! そんな、危険すぎますっっ!」
「そうですわ。眠りに落ちたまま意識が戻ることはないかもしれませんわ」
「けど、どうなってるか知るには、宝石の支配下に入るしかないよ」
「でも、でもぉ……」
「わたくしも反対です。それにもっといい方法を知っていますわ」
「それ本当!? わっ!! わっ、わわっ!?」
いつの間にか、すぐ横に見知らぬ女の人が座っていた。驚き動転した僕は尻を引きずって後ずさりし、背後にあった灯台にごつんと頭をぶつけた。
「いったたぁ……」
「まあまあ。大丈夫ですか?」
「う、うん平気。…………あの、君、誰?」
顔を覗き込んでくる女の人の顔には、やはり見覚えはない。白髪のショートヘアに白い肌、紫がかった服を着ている。
「あら? 自己紹介がまだでしたわね」
むぎゅっと両手が胸の前で握られ、彼女の顔がずいっと寄ってきた。
「わたくし『永遠の標』でございます。トワちゃんって呼んでくださってかまいませんのよ」
「と、トワさん……?」
「トワ『ちゃん』! トワさんだとまるでお婆さんみたいですもの!!」
トワ……ちゃんが大袈裟に泣き崩れる仕草をする。
「それにわたくし、まだ百歳に満たない小娘ですもの」
変……変なのが出てきた……。
「今、変って思いましたわね?」
「うっ、えぇーっと……」
指でちょっとだけ、と伝えると、ぷりぷりと怒り出した。
「失礼な子ですわね。手助けするの、やめちゃいましょうかしら?」
「! 助ける方法があるの!?」
彼女の台詞に反応して身体が動き詰め寄ろうとしたところ、トワちゃんが自然な動作で立ち上がり僕の突進をかわした。
「方法はあります。ですが助けが欲しいのなら私の出す三つの条件を呑んでもらいますわ」
「条件?」
トワちゃんが目の前に人差し指を突きつけてきた。
「一つ目は、わたくしを盗んだ後は大切にしてくださること。また灯台の先端に取り付けられて雨ざらし、何てひどい目に遭いたくないですから」
続けて中指を立て、続けてきた。
「二つ目は、帰りは自力で戻ってくること。わたくしまだ目覚めたばかりで存分に力が発揮できませんので」
「戻ってくる? どこかに行くの?」
「それは後で説明いたします。今はこの条件を呑むかどうかにだけ集中してくださいませ」
「う、うん。分かったよ。片道切符ってことだね」
「その通りですわ。最後に三つ目」
トワちゃんが親指を立て、三本の指を僕に突きつけてきた。
「先程も言ったとおり、わたくし目覚めたばかりで本来の力の半分も発揮できませんの。
ですから」
あ、なんとなく、最後の条件が、読めた。
「戻ってきましたらわたくしにあなたの精を注いでくださいませ」
「やっぱり!!」
「あら? 分かってましたの? でしたら話は早いですわ」
「早いって言われても……僕は」
「ご主人様」
口をもごつかせていると、今まで静観していたレムちゃんが声をかけてきた。
「あらま。これはまたおかしなものを従えてますわね」
「わ、私はおかしくなんか
「ここで拒んでしまえば、皆さんを救えなくなるのです! 腹を決めるのですよッ!」
そうだった。危うく自分だけの羞恥心で決定を誤るところだった。迷うことはないんだ。
「いいよっ! その条件、呑むよ」
「決まりですわね」
それからトワちゃんが僕の名前を聞いてきたので答えると、『永遠の標』の彫像を僕と彼女の間に置いて説明を始めた。
「では丹羽大助。これからこの島で何が起きたのか説明します」
神妙な口ぶり、それだけでこの島に起きたことがただ事じゃないと感じた。僕まで緊張してしまう。
「今回この島を襲った出来事は、大助も察しているとおりわたくしに付けられた宝石、『夢見の紅玉』が引き起こしたことです」
紅玉……ルビーか。橙色も混ざっていたから分からなかった。そういう加工を施されているのかもしれない。
「でもあの宝石、ルビーにしてはとても色がくすんでいたけど」
「それもこれから説明しますわ。慌てずに聞いてください」
本当は今すぐにでも原因を聞いてその魔力を解除したいけど、確かにトワちゃんが言うとおり、慌ててしまえば判断を誤ることもある。ここは大人しく従おう。
「あの紅玉の本来の力は、人に望むままのよい夢を見せる、というただそれだけのものでした。しかし長い歳月がその力をより強大なものにし、人の夢――いえ、魂を喰らうようになったのです」
「魂を……。でも、どうしていきなりその力が発動したの?」
「それはそちらで寝ている、髪の長い女の子のせいですわ」
「髪の長い、って原田さんの?」
こくりとトワちゃんが頷いた。
「『夢見の紅玉』が力を発動する条件は、人の願望に呼応するという、極めて単純なものですわ。もともと夢を見せるためのものですから、それほど複雑な条件にする必要はありませんでしたの。ところが長い歳月が経ち紅玉自身が力を増してくると、願望の強さに呼応するという条件に変化しましたの」
「つまり、この状況は原田さんが何か望んだから、それが強すぎたから、島全体に影響を及ぼしたの?」
「ええ。付け加えますと紅玉の色がくすんでいますよね? それはその子の願いが、負の感情に傾いていることを表してますの」
原田さんの負の感情……僕にはどうしてそんな想いを、願いを抱いたのか理解できなかった。
「どうして……」
「考え事をしている暇はありませんわよ。時間が経てば経つほど、取り込まれた人の夢、魂の帰還は難しくなりますわ」
「時間もないってことだね。ところで、どうしてトワちゃんはそんなに詳しいの?」
よく考えると妙なことだ。自分のことでもないのにそんなに詳しいなんて、ちょっと腑に落ちない。
「簡単なことですわ。わたくしと『夢見の宝玉』が一体となっていた時、その記憶・情報がわたくしに流れ込んできましたの」
「だからそんなによく知ってたんだ」
なるほど、納得。
「さ。お喋りはここまでですわ。今から宝玉の中へ行きます。片道だけあなたの標となりますわ」
トワちゃんが差し伸べてくる手を握り、
「あ、待って。帰ってくるのにウィズを使うから、一緒に」
「それは無理ですわ」
「ぅえッ!? なんで?」
「今のわたくしにはあなた一人を導くだけでいっぱいいっぱいですの。残念ですけどお察しくださいませ」
こうなると帰ってくる手段は宝玉の中で捜すしかないか。手段が見つかるとは限らないけど。
「ご主人様、行かないという選択肢もありますよ?」
「意地悪なこと言わないでよ。レムちゃんが僕に腹を決めさせたんでしょ?」
「あはは、そうでしたぁ」
そう、もう決めたんだ。みんなを助ける。僕のことはその次だ。
「緊張は解けましたか? では行きますよ、翼主・丹羽大助――」
「うん――」
『夢見の紅玉』とは別の、温かみに溢れる光が僕とトワちゃんを包み、光の柱が天に向けて突き抜けた。
意識は遠のき、深淵の中に落ち行く感覚が身体に染み渡った――。
→後編