シノビの世界とは、厳格な信頼関係に基づく縦社会である。
情報戦を得意とし世界の裏側で暗躍する彼らは、依頼の受託があって動くことがほとんどだ。つまり、能動的ではなく受動的な行動を余儀なくされる彼らは、元来、隷属気質が強いのである。
命に従うことこそが里に生きるべくの姿勢。無論、そこに冷静かつ的確な判断力、洞察力その他諸々は必要となろうが。
だからきっと、役割を与えて枠にはめてやれば驚くほど順応するに違いない、そう踏んでいたのだ。
無論彼女とて理性を捨てきれるわけがないから、わずかに箍が緩んだ、その程度でしかないだろうが。
それでも、普段が意地っ張りで純でいつまで経っても慣れてくれないから――たったそれだけでも、十分すぎるほど新鮮に。
こわごわ伸びてきた指先は一度触れて躊躇して、その後は何の躊躇いもなく両の手の平全体で包み込んできた。
具合を確かめるように二、三度動かしてから、やはり戸惑い一つ感じさせずに一定の速度を保ち、血液が集まり出したそこへさらに呼び寄せるように、やや機械的に動作を続ける。
単なる呼吸が荒い息遣いにならないよう気をつけながら彼女の所作を見守る。
(クノイチに伝わってる技法ってのは本当だったんだなあ)
まさかズブの素人がこんな風にするとは思えない。ましてやあの純情の塊みたいな彼女が。
だからきっとその技法を身につけてきたのだろう。少なくとも、自分が最初にいただいたときにはそんな素振りは微塵も感じられなかった(素面で演技ができるほど彼女は器用ではないし)から、この数ヶ月の間に強引に取得してきたに違いない。
あの忙殺の日々の中から一体どのようにしてそんなことになったのか、興味深くもあり、そして。
(……まさか実地研修とかあるんじゃねえだろな)
ありえない話ではない。手練のクノイチに習うということもあるかもしれないが、それにしたって実用性がない。男を油断させるべくの技なのだから。
ちり、と僅かな焦燥。何もこんなときに苛つかせなくてもいいものを、しかし一度気になってしまうとどうにもならない。
聞いてみようか。しかし答えさせるには今のこれを止めなければならないわけで、それは少し惜しい。というかかなり惜しい。でもって、聞いたところで素直に答えるかといえばそれはまた別の話だった。
――つまり、今は黙して堪能すべし。
沸き起こった一つの感情を必死で黙殺しながら、断続的に与えられる外的刺激に集中した。
「っん、く、ふ……っ」
生温くてぬらりとした、言葉面だけだと気持ちの悪そうなそれが、自身を包み込み――というか、飲み込んだ。
手で触れるときにもしたようにやっぱり最初は躊躇して、覚悟を決めてからは一気に事を進める。技巧的にはまだぎこちなさが残るものの、その後の動きにはそれほど戸惑いが見られなくて、複雑な心持になった。
そこそこ卑猥な音と共に上下する頭に手を伸ばす。
普段は複雑に括ってある髪を団子のように一つにまとめ、メイド服の一部とも呼べるカチューシャで横髪を押さえてある。
話がまとまり実際に着替えを手にしたとき、着方がわからないなどと逃げようとしたので、知り合いの本職を呼んで整えてもらったのだ。おかげで見た目だけは完璧なメイドが出来上がった。
今はもう首元のリボンは解かれ前身ごろははだけられ、腰のリボンも蝶の形をとどめていない。スカートは軽く皺が入った程度だが、左のガーターは外れている。下着は一応そのままだ。
なので彼女の中で清楚なメイドらしさを保っているのはもう頭くらいだった。それすらも取り去って――汚してやろうと、カチューシャを押しつぶすように右の手のひらを置いた。軽く、初めは軽く添えるように。指先を整えられた髪に紛らせながら、やがてそれは意思を持ちはじめて、上下運動を促進させる。
「んぅ、っ……く、っふ、っぷあ……!」
彼女は――文句を言ってこなかった。苦しそうな吐息とついばむような水音とが耳に届くばかりで、動きを止めようとも、こちらを振り払おうともしない。
快楽は始まったときからもうそこにあって、一時も途切れたりはせず、じわじわと自分を追い立ててきていた。彼女に見えない位置でシーツを握り締める左手を開いてしまえば、もう分単位では持たないだろうと予測する。
(……抵抗しないのは、罪の意識からか?)
それとも、そう習ったから――だろうか。
どちらにしても好ましくない傾向だと――昔の自分ならいざ知らず――今の自分はそう思える。
何故なら、それはとても彼女らしくないからだ。
いつだって真っ直ぐに自分の信じた道を見据え、毅然と、時に恐る恐る、前に進もうとする。例え進めなくても、どうにか進めないかと努力する。
そこに何らかの諦念はあったとしても、自分自身に対して諦めたりはしない。弱音を吐いたりしても、けれどけして屈したりはしない。
だから藤林しいなという存在は頼もしいのだと思う。
けれど、頭の回転は悪くないものの微妙に鈍く、物事の裏を読むのには長けていない。彼女にあるのはまっさらな表だけで、まっくろな裏など見当たらない。
彼女はどちらかと言えば人の上に立つ性分ではない。性格的に向かないとまでは言わないが、向いているとは言い難い。
そもそも人を取り纏めるべくのカリスマ性は薄い。底知れない力を感じさせること、限界を見せないこと――それが人の上に立つ者の条件だ。民衆を騙すための、必須素養。
彼女にはそれがない。そんなものは微塵も感じられない。
でもだからこそ人は――彼女を信頼する。彼女に任せようと思う。
彼女の中にある、安心とか温もりとか、とかく人をささくれさせない何か。それはひどく心地良い。
元テセアラ側の多くの人間にとって、ミズホは眉唾ものの噂が飛び交う謎の集団でしかない。多くの優秀な部下を率いる頭領であろうとも、得体の知れない人間であることに変わりはない。
人々の中には、メルトキオ国王の勅命を快く思わない者も居る。初対面から疑念や蔑みなどを持って接する代表者も多くある。
彼らは彼女を知らないのだから、当然の群集心理といえばそうなのかもしれない。
一度彼女を知ってみればいい。できれば深めに。深すぎるのは俺さま的に却下。
そうしたらきっと、この世知辛く荒みきった世の中で、彼女がどれほど希少な存在であるかを嫌でも自覚できるだろう。
不器用で一生懸命で、情の捨てられない、クノイチとしては失格の――それってつまるところアイデンティティの崩壊じゃないのか――でもそれだからこそ彼女なのだから――我らが元テセアラ側全権大使さまの希少さを。
(……今は、俺さまがひとりじめ)
これほどの贅沢があるだろうかと、口元に歪んだ笑みを張り付かせて。
名前を呼ぼうとして開いた口を、喉の奥からせり上がった声を抑えるためにまた閉じた。
「っ、ごほっ、げほ……!」
床に吐き出すというのはさすがに躊躇われたのか、一度は咥内に収めたそれを両の手の中に零しながら、見ているこっちが申し訳なるくらいに咳き込む。
掬うように合わせた指の間から落ちたそれは、皺のよったメイド服のエプロンに吸い込まれていった。
「……ぁ、ぅわっ、ごめ……っげほっ」
「ほら無理すんなって」
うがいしてくるか?の問いに彼女は素直に頷いて、ふらふらと洗面所へと向かう。腰のリボン以外はしっかりと着込まれたメイド服。そんな後姿が見えなくなり、蛇口からの水音が聞こえてからようやく、ため息をつく。
(……なんつー、か)
複雑だった。
自分でもうまく説明できないほど、とにかく複雑な心地だった。
個人的に奉仕行為は嫌いじゃないしむしろ好きな方だし、男としても憎からず思っている相手からそんなことをされたら嬉しくないわけがない。
ついでに、どう考えてもそんなことをしそうにない相手からされるとかいうのは更に、クるものがある。一度でも望まなかったかと言われたら否定はできない。それは認める。
隣室からの水音が止んだ。
(何かこう……違うっつーか)
こちらに戻ってくる気配に顔を上げると、胸のリボンは解いたままだが、はだけられていた上着をしっかりと戻したメイドが歩いてきた。乱した髪の毛もそれなりに繕えてある。
「へーきか?」
「まあ、なんとか……」
俯き加減に頬染めなどというクリティカルな仕草を見せながらもごもごと呟く。しかもその姿はちょっと乱れた風なメイド。
(嫌いじゃあねーんだけどなあ)
むしろ琴線を刺激されてしょうがないわけだが――けれどこの奇妙な違和感はどうしたものか。今やそれは気のせいでは済まされない域にまで達している。
二メートルほど先で足を止めて近づいてこない、なんちゃって侍女をじっと見つめた。
それはもう穴があくほど、舐め回すようにじろじろしげしげまじまじと。
(……あーあ。ほんっと勿体ねえ)
どうやらもう、ここまで来ると認めざるを得ないらしい。
素直に状況を歓迎できていない自分がいる、と。
あまつさえこの平生と異なる状況では物足りない――いつもの方が断然いい――などと思えてしまっては、末期というものだろうか。
「しいな」
「……なんだい」
「こっち来て」
にっこり笑って手を差し出す自分を、警戒とか訝るとかそんな色の目で見返してくる。
それは、主人に従うべきメイドにはあるまじき行為ではあったが――
(まあ、そうでないと面白くないし?)
慣れないことはするもんじゃない、本当にそうだ。
無論メイドさんごっこが楽しくなかったわけじゃないが、とりあえずはもうどうでも良かった。
言えばその通りになる、そんな生活は飽きるほど繰り返してきた。
望んで手に入らないものなどほとんどなかったのだ。欲しいと口にしなかったものを――壊したくないと思ったものを――除いて。
だから、今の自分が求めていたのは従順でも献身でもないのだ。
彼女が能動的に、かつ明確な個人の意思をもって、自分に接してくれさえすれば。
自分という存在をここに認めてくれるのならば。
そこに藤林しいなという存在が居て、このゼロス・ワイルダーという存在を受け入れてくれるのならば、それだけで。
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