「……えーと、もしかしなくても、初めて?」
彼の腕の中、くたりと力が抜けた私を見下ろして、随分と間の抜けたことを聞かれる。
ふつふつとわきあがる怒りを抜けた力の代わりにして、勢いよく顔を上げた。
「あ、あなたねえっ……!」
「そう怒んなって。可愛い顔がだいなし。いや怒った顔もまたイイんだけど」
「っ……だ、誰にでもそう言ってるんでしょう! 離して!」
「いやだと言ったら?」
「殴るわよ!?」
「別にいいぜ? 無理だと思うけど」
自信たっぷりに言い切って、また彼の顔が近づいてくる。
左腕を掴んでいたはずの手はいつの間にか私の腰へ回っていて、顎はしっかりと固定されたまま。逃げるどころかかわすこともできそうになく、私はぎゅっと両目を瞑る。
(……?)
なのに、予想した感触はやってこなかった。
そのかわりに何故か、私は優しく抱きしめられていた。さっきとはうってかわって、そこに強引さは欠片もない。
(何、なの)
わけがわからない。
私の頭はこの上なく混乱した。何より、伝わってくる温かさに頭が痺れてうまく考えることができない。
「なあクロエ」
「……なに」
「お前、俺のこと好きなんじゃなかったっけ」
唐突に突きつけられた現実に、私の意識は一気に覚醒した。
恥ずかしさが体を勝手に動かして彼を引き剥がそうとする。当然、彼はそれを許しはしなかった。
「おい暴れるなって。あーわかったわかったって」
「何がわかったって言うの!」
「クロエが俺のことだーいすきだってこととか?」
「誰が!!」
さらに暴れてみても、彼の腕はびくともしなかった。
押さえつけるようにさらに強く抱きこまれてしまうと、もう身動きが取れなくなった。というか、
「ピ、エー……ルっ、苦し……」
「あ。悪い」
ほんの少しだけ戒めが緩められて、私は軽く咳き込んで詰まっていた喉に空気を通した。
いまだ私の体には温かな腕が巻きついたまま、外してくれる様子はない。
「ところでクロエ、俺いいこと思いついたんだけど」
今度こそナイスアイデア、とその声からして浮かれている。
確実に、「いいこと」の良い部分は「彼にとって」、でしかない気がする。何かとても聞かないほうがいい気がする。
なので黙っていたら、沈黙を肯定と受け取ったらしく彼は勝手に説明を始めた。それも、ひどく端的な。
「運動して疲れると、よく眠れると思うんだ」
(……運動、って)
この状況とこの発案者。
私の頭は勝手にたった一つの結論を導き出す。
冷や汗がつっと背中を伝い、それと対照的に私の頭には様々な思惑から血が上った。
大きな天窓から降り注ぐ月明かりだけで私の様子を見て取った彼は、目を細めてにやりと言う。
「お、わかってくれた? 察しがよくて助かるぜクロエ」
「っよ、よくないわ! は、離してっ……」
「離したらどうするんだ?」
「帰るわよもちろん!」
「どうやって?」
「どうって――」
はた、と気付く。
ここに来るまでの道のり。壊れたままで放置された橋。人が自力で渡るには無理のある対岸までの距離。
ピエールのエレメント能力と脚力があって初めて、ここに来れたのではなかったか。
「……あ、あなた最初からわかっててっ……!」
「わかってたけど、そういうつもりってわけじゃあなかったぜ? 最初は」
「じゃあどういうつもりだったのよ!?」
「だから、膝枕でぐっすり寝てもらおうかと」
「〜〜っ!」
続ける言葉を見失って、私の口はぱくぱくと喘ぐばかり。
何かまんまとハメられた気がしてならない――それは気のせいなどではなく。頭に血が上っていた私は、彼の言い分の微妙な矛盾点に気付けなかったのだ(後日問い質したらとぼけられた)。
「ていうかクロエ、お前だって悪いぜ?」
「私の何が悪いっていうの!」
半ばパニックになりながら言い返した私を見て、彼は肩を竦めてみせる。
「無自覚ってのが一番怖いよな」
「何がなの!」
「だからさ」
がし、またしても私の顎を節くれだった指が捕えた。
「あんまり可愛いことされると、俺も寝かせられなくなるわけ」
「は……!?」
「本末転倒ってのは避けたいし」
「ちょ、ピエールだめそん、っ」
ひどく強引に重ねられたそれで、抵抗しようと必死だった私の力は、ひどくあっけなく霧散してしまった。
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