全身から一気に力が抜けて、彼にしがみついていられずベッドに体重を預けた。
痺れるような何かが体中にまとわりついている。少しでも動こうとするとそれは牙を剥いて襲い掛かってくるので、私は必死でそれを宥めた。なるべく体に響かないよう息を吸って吐いて、とにかくそれが静まるのを待った。
「クロエ、平気か?」
完全無抵抗の私を彼が覗き込んでくる。繰り返す呼吸で精一杯だった私は小さく頷き返した。
よし、と彼は微笑して私の額に手を伸ばしてきた。反射的に目を瞑ると優しく触れられて、どうやら汗で張り付いた髪を払ってくれたらしい。
目を開けてみたら、当然だけど目が合った。
私はろくに動けないし、彼もそのままの体勢を維持しているので、無言のまま見つめ合うしかない。
治まってきたはずの心臓がゆっくりと速度を増していく。
「……クロエってさあ」
「え?」
「いやなんつーか。こんな可愛いとは予想外」
「なっ、ぇ」
「キスしていい?」
「え、あっ――ん」
当然のように絡められる舌を何なく受け入れた。そのことに自分で驚きながら、負けじと対抗する。
何というか――ただされるがままというのは、「信じる」と告げたはずの彼を拒絶しているような、そんな気がして。
正直怖いようにも思うけれどでも、彼と一つになりたいと思うこの気持ちは、嘘ではないのだと証明したくて。
「っは……ぁ」
酸素不足と粘膜同士で触れ合う感覚。ぼうっとした頭で糸を引いて離れる唇を見ていると、クロエいい?と聞かれた。
そのときの私は本当に思考が働いてなくて、明確に何を、とは理解できていなかったけれど。
これ以上彼を拒否する理由は何一つ見つからなかったから、瞼を下ろすのと同時に首を縦に振った。
「……て、ピエール」
言葉は勝手に滑り出た。
それでようやく、自分が何を了承したかを理解した。
力を抜いてと言われて、それができたら苦労はしないわと冷静な自分が吐き捨てる。
「ぃっ……は、ぁっ……く、っあ」
衝撃は予想を遥かに越えたものだったし、そもそも異物を受け入れることに人体として拒絶反応を起こしている。
心の中で状況を客観視し続ける私の理性はそう判断した。
人の体は、痛みを感じると筋肉や血管の緊張によって固くなってしまう。痛みを知覚すると反射的に力が入るようにできているのだ。
だから、痛覚を遮断する訓練等を行ったことのない自分に、力を抜けというのは無理に等しい。
「クロエ。さっき、みたいに……しがみついとけ。ほら」
掴み取れないベッドの生地を引っ掻いていた手が、先ほどと同じく彼の首に持っていかれる。
がり、と柔らかいものを抉る感触――そして彼の一瞬だけ歪んだ顔――に驚いて、私は慌てて両手を組み合わせた。手の皮膚へいくつか爪が食い込む。己で与える痛みにさらに体が強張った気がした。
「っづ……いいって、クロエ。爪立ててくれて」
私は小刻みに首を振った。自分でやってこんなに痛い真似を、彼にするわけにいかない。
「俺はこーしてても痛くないしまあむしろ気持ちがいいわけで、……な、俺ばっかずるいだろ?」
「っで、……もっ」
「遠慮なんかすんなって。こういうのは、合体と一緒で、どっちも気持ちよくなるもん、なんだぜ」
気持ちいいと言いながらも、多分彼も辛いのだろう。言葉を何度も区切りながら言い終えると、ゆっくりと彼の上体が倒されてきた。
些細な動きでも敏感に痛覚へ変換され息を詰まらせる私に、彼はまず唇を押し当てた。いつの間にか滲んでいた涙がそれで吸い取られる。
そして、きつく組み合わせた両手を彼の指が解きにかかった。
彼からすれば首後ろという作業しにくい位置でありながら、器用に一本一本、手の甲に食い込む指を外しては彼の手の甲へ指の置き場を移していく。
組み合わせが解かれると、ぺたん、私の手は彼の背中に押し付けられた。
「はいこれでよし。……ほらクロエ、掴まって」
「ぃ、いい……の?」
「ああ。目一杯、やっちゃって」
ごめんなさい――言葉にならない声を心中で叫んで、私は彼の首を抱きしめた。顔のすぐ横にある彼の耳へ、掠れた声で告げる。
「っ、いい、からっ……!」
主語も目的語も付け加える余裕のなかった私の意志を、彼は正確に受け取ってくれた。
「――っひぁぐ……、っ……!!」
大きく仰け反ってもなお堪えきれない衝撃が私を貫いた。
しゃくりあげるような呼吸を繰り返す間ずっと、頭を撫でられていたらしい。
呼吸と気分がだいぶ落ち着いて目の焦点も合うようになった頃、頭部から感じるその心地良さが途絶えた。ぽんぽんとバウンドする温もりがその正体であったとようやく気付く。
視界に入ってきた心配そうな瞳の色に、私はうわ言のように呟いた。
「もう、平気……だから」
「あんま無理しなくてもいいぜ?」
「へいきよ」
私はもう一度彼にしがみついた。今度は爪を立てないようにと、指の腹を彼の背に押し付けて。
「……じゃ、動くけど。辛かったら言ってくれよ」
止められるか自信ないけど、と小さく早口で付け加えれたのを私はもちろん聞き逃さなかった。咎める暇はなかったけれど。
「っいぁ、あっ……は、っあ!」
痛覚的に麻痺したんじゃないかと思うほど、瞬間的な痛みは途方のなさがあった。
だからかはわからないが、今頭に響く感覚を言い表すと「痛さ」ではなく「痛いような熱いような苦しさ」という複合したものだった。
ぐらぐらする――実際に揺さぶられているからではなく、断続的に与えられる刺激が、神経をかっ飛ばして直に脳髄へ叩き込まれているよう。
それは次第に、どこか身に覚えのある感覚へとリンクしていく。
底から湧きあがるような。
全身を駆け巡る。
あの。
「ああ、あっ、い……っ、ひゃぁ……!」
うっかりまた爪を立てそうになって手の位置をずらしていると、急に手首を掴まれた。引き剥がされて空中で器用に持ち返られてベッドに押し付けられる。
「こっちも降ろして」
目線で示されて、右手を彼の肩からすべり落とすと、やはり同じように手首で縫いつけられる。
「ぁ、あの、ピエール……?」
「悪いけど、ちょっと動きづらかったんで」
言葉を切って体を押し込みながら、衝撃に体を跳ねさせる私にゆるく覆い被さって、
「覚悟して」
耳元で囁かれる。
「ぇ、ちょ――っ!!」
押さえ込まれた手首に体重がかけられる。それに追随するベッドの軋む音。それがさらに私の声で掻き消される。
悲鳴じみた声を抑える余裕なんかなかったし、口を押さえようにも手首は固定されたまま。
けれどその、半ば身動きすらも封じている二つの戒めを、私は怖いとは思わなかった。強く圧迫されて苦しいということ、密着する手のひらはひどく熱っぽくて、体内の熱を感じているのは私だけではないということ。思ったのはその程度。
熱いも苦しいもまだ残っていたけれど、痛い、というのはほとんどなかった。
その代わりに、言葉で表現し難い何かが確実に存在していた。熱いと苦しいに紛れて全容が見えないそれは、どんどんと私の中で存在を大きくしていく。私の中にある色々を麻痺させていく。
思考とか、理性とか――私が普段、己を律するのに使用しているもの、その全てを。
「ぁあっ、や、っあ、はぁっ……!」
そうして体の中心から這い上がられるその感覚の正体を、もちろん私は知っていて。
「……っ、クロ、エ……!」
「っぴ、えー……るっ……!」
名前を呼ばれて呼び返して。
たったそれだけのことで、胸の奥がその感覚でいっぱいに満たされる。溢れ出る。
「ぁっ、も……、っや、あ、ああっ」
手首を戒めていたものはいつの間にか、私の両の手それぞれにきつく絡み付いていた。
私は必死でそれを握り返す。
とうとう頭のてっぺんにまで届いてしまった――合体のときとはまた違う――その感覚を、受け止めきるために。
「っや、――ああぁ……っ!!」
瞬間、ひどく熱い何かが体内で弾けた。
びくびくと痙攣する体は言うことを聞かなくて、私はただ、自分に襲い掛かる波が早く過ぎ去ってくれることを祈ることしかできなくて――
私の記憶が残っていたのは、そこまでだった。
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