(……ね、眠れない……っ)
 アポロがやってくる前まで、あれほどぐしゃぐしゃでどろどろになっていた私の心は、いまや澄んだ水面みたいに落ち着いている。
 それもこれもアポロのおかげなんだろう。そこについては礼を言ってもいいと思う。
(でも!)
 さっきのだけはいただけない。さっきの、さっきの……あの、不意打ちだけは!
 だって予想できなかった。急にあんな顔見せるなんて絶対に反則だ。だってあのタイミングであんなの、私見たことない。
 あんな、太陽みたいに眩しく感じる笑顔なんて、初めて見た。
(……太陽の翼)
 アポロニアス。伝説の最強の堕天翅。人間と恋に落ちてしまった、人類にとっての英雄――
(アポロニアス)
 目を閉じると、夢の中で私と同化している、セリアンの声がする。
(アポロニアス……!)
 夢であったけれど、アポロニアスの体は温かかった。声も。向けられる優しさも。
 そしてその想い――セリアンへと注ぎ傾けられる、大きな愛も。
「……っ」
 気付けば、どうしようもないくらい胸が締め付けられていた。ばくばくと高鳴る鼓動。頭に血が上って、頬が熱い。
 だって――私からほんの一メートルもない位置に居るのは、「太陽の翼」の生まれ変わりと考えられている、アポロ。
(やだ、何考えてるの私……!)
 自分で自分の体を抱きしめて、胸の奥底から沸き起こる欲求と衝動と感情と、それら全てを強引に押さえ込んだ。
 今はそんなことを考えてるときじゃない。寝なきゃ。休まなきゃ。気持ちを切り替えなきゃ――
(おにい、さま……)
 ゆっくりと、呟く。幾度となく口にした呼び名。愛しい人の名前――今はもう、ここにはいない。
「……」
 鈍痛に顔をしかめながら、私は閉じていた目を開いた。我ながら随分な荒療治だったと思う。
 辛い現実に向き合うことでようやく、セリアンの記憶が伝えてくる、切ない心地から抜け出すことができた。その代償は思った以上に大きかったけれど。
 じくじくと、落ち着いていたはずの心が痛みを訴えてくる。
(何やってるの、私……)
 大きく息を吐き出すと、勝手にため息になった。
 私は自然と、まるで救いを求めるかのように、すぐ隣へと意識が向く。
 聞こえるのは予想外に静かな寝息だった。もっとオヤジっぽい鼾をかくとばかり思っていたのに。そしたら、うるさいって一発殴ってやったのにな。
 何かどうしようもないことでがっかりしながら、私はしばらくその規則的な呼気に耳をすませた。その安らかそうな眠りに、あやかれないかと思って。
 眠気はやってこない。けれど少しだけ、ざわついていた心が平静を取り戻してきた。それでようやく思い当たる。
(……アポロだって、疲れてるのに)
 今日は本当に大変な一日だった。堕天翅たちの襲撃でアクエリオンも施設も全てがボロボロになった。怪我人だって沢山出たに違いない。
 私と麗花と共に合体したアポロは、見た限りで大きな外傷はなかったけれど、疲れた感は否めない、そう思う。
 対する私は、あろうことか戦闘中にショックのあまり我を失い意識を手放し――そしてアクエリオンから強制排出されて――、そのまま眠り込んでいた。身体的な疲れはほとんど残っていないかもしれない。
 そしてその間、アポロはずっと戦っていたのだ。皆を守るために。そして多分、お兄様を取り返すために。
(ありがとう、アポロ)
 こうして来てくれて、私の我侭を聞いてくれて。
 それが例え、ソフィア先生に頼まれたからだとしても――それでも、嬉しかった。これは私の、正直な気持ち。

 ――どきどき、する。

 それは、セリアンの記憶に共鳴してではなく。
 シルヴィア・ド・アリシア個人として――不謹慎にも――胸が高鳴る。

 やめなさいよと、心のどこかが止めていた。
 けれどそれは形だけの注意だった。
 止める理由が見つからなかった。

「……アポロ、起きてる?」

 なるべく小声で言ったつもりが、静かな室内にはずいぶんと大きく響いた。咄嗟に口元を両手で覆い、そして息を止めた。
 今更そんなことをしても遅いし、意味がないとわかっていたけれど。
「……」
 返事がない。そもそも、気が付いたような反応すらない。
(……ばっかみたい)
 アポロは私以上に疲れきっているはずなのだ。熟睡して当然、小声で呼んだくらいで起きるわけがない。
 よく考えたらこいつ野生児だし、小さい物音くらいで目が覚めるほど繊細には出来てなさそう。
 どこか気が抜けてしまった私はまたも大きく息を吐く。勢い余って、はあ、とか声にまでしながら。
「何だよ」
「……ぇ、えっ?」
 驚きのあまり中途半端に体を跳ね上げつつ、私は微妙な体勢のまま強引に隣を向いた。ふわわわ、とあくびをするアポロが目に飛び込んでくる。
 起きてたの――そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。
 それは違う。さっきまでのアポロを思い返せばすぐわかる。
「……もしかして、起こしちゃった?」
「別に」
 ぶっきらぼうという枠を超え、半ば不機嫌そうに答えが返る。
 ごめん、と呟くと何が、と問い返された。どうやら、謝ることも許してもらえないみたいだ。
「で、何だよ」
 呼んだからには用があるんだろ。アポロは口にはしなかったけど、暗がりの中でも強い光を持ち続ける、さながら太陽のような――あの瞳がそう語っていた。
「え、えっとね」
 私はとりあえず半身を起こして、ベッドの上に座る形になる。
 アポロは頭をがりがりやりながら、体の向きを私の方へと倒してきた。
「アポロは、……その、アポロニアスの過去生って、ないのよね」
「ないぜ」
 即答される。だから何だと、その反応の素早さが私をさらに追い立てた。正直、言いにくいことだけに、さらに焦りが募る。
「でもこの前……あの羽に触ったとき、見た……わよね?」
「……まあ、な」
 アポロの口調が歯切れ悪くなる。視線も逸らされた。……もしかして、照れてる?などと勘繰る余裕は私にはない。
 ごくりと咥内にたまっていた唾を飲み干して、そして言う。
「あれね、違うかもしれない」
「違う?」
「ソフィア先生が言ってたの。あれはアポロの過去生じゃなくて、あの羽の記憶が再生されただけかもしれないって。もしかしたら、私の……セリアンの過去生が逆にアポロに流れ込んで、そういう映像を見せただけかもしれない、って」
 記憶を辿りながら、自分でも再確認するように口にする。
 そう。アポロは別に、アポロニアスではないかもしれないんだ。
「まあ、確かにあの羽に触ってから見えたけど……お前の過去生がどうとかいうのはよくわかんねえ」
「私この前、見たの」
「何をだよ」
 ぶわっと、映像と感覚が蘇って来る。未だに忘れられない。
 顔に出ないように、私は布団の下でぎゅっと手のひらを握り締めた。
「アポロの過去の……記憶」
「……何だよ、それ」
 アポロの声が低くなった。目つきも険しくなっていて、睨まれているのがわかる。
「私にもよくわかんない。でも、あの羽に触ったあとで、そういう夢を見たの。アポロの記憶を、追体験するみたいな形で」
 からからになっていた喉に、もう一度唾液を流し込む。
「目が覚めてびっくりして、ソフィア先生に相談しに行ったの。そしたら、さっきの話をされて」
「……」
 アポロは返事もしない。ただ黙って、そこで考えている。
「……ごめんなさい、アポロ」
「何で謝るんだよ」
「だって、自分の記憶を勝手に見られたりしたら、……私だって嫌だもの。ごめんなさい」
「見ようと思って見たんじゃないんだろ」
「それは、そう……だけど……」
 だとしても、いい気分がするはずがない。
 楽しい記憶だけでなく、辛く悲しい記憶まで全て、私は見てしまった。自分に起きたことみたいに、実感してしまった。心に土足で踏み入ったことに、変わりはない。
 私はもう一度、ごめんと謝った。
「見ちまったもんはしょうがねえだろ。もう、そのことで謝んな」
「……うん」
 苛々とした何かが混入するアポロの声。
 そこから、拒絶めいたものを勝手に感じ取って――私は頷くことしかできない。

 寝ようぜ、とアポロが言ったのは沈黙が落ちて随分経ってからのこと。
 私も素直に従った。

 さっきと変わらず、眠れそうになかったけれど。

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