少女たちの収縮する宇宙のビッグバン



 理科室にあるすべてのガス栓が開放された。
耳を澄ますと、微かにシューッという音が聴こえる気がする。錯覚かもしれない。しかしにおいは明確に感じた。ガス特
有の、なんともいえないにおい。人間の体にとって絶対によくないものなのだろうなと感じさせる、刺すような感触があ
る。暗闇で視覚がほとんど働かないから、ますますにおいが気になるのだ。
「楓ちゃん、これでどのくらい待てばいいの?」
 部屋にはガス栓が十個あって、私が三つ開く間に、桜は七つ開き終えていた。その桜が、いかにもらしい無邪気さで
訊ねた。「待っている」先にあるものに対し、恐怖なんて微塵も感じていないような口振りだった。
もしかしたら彼女はこの行為の意味がよく分かっていないのではないか、という疑念が湧いた。普段と変わらない調子
の彼女に、私は不安感を抱いた。いやいや、いざ本番直前になってむりやり虚勢を張っているのだろうと思おうとした
が、桜が懐中電灯で自分の顔を下から照らして遊んでいるのを見ると、どうにも不信感が募った。
「ガスが教室中に拡がるまでだから、数時間ってところじゃないかしら。でもその前にわたしたちは気を失っちゃうんだと
思うけど」
 私に代わって答えたのは椛である。彼女はちょうど窓や出入り口などの空気の逃げ口に、ガムテープ張りをし終えた
ところだった。彼女は持ち前の真面目さで、いささか頑丈すぎるほどにその仕事を遂行した。
ともかくもこれで理科室は完全に密閉された。あとは部屋にガスが充満するのを待つだけである。出入り口に対するガ
ムテープ張りはまた、もしも巡回に来た警備員が異変に気付いても、なかなか扉を開けられないようにするという意味
がある。
「それであたしたちは気を失ったまま死んでいくの? うふふ、素敵かも。それって」はしゃぐ桜。
「……そうかしら?」私は死に方について「素敵」という言葉を持ち出す桜の神経が理解できない。
「まあ少なくとも、校舎の屋上から落っこちて体がぐちょぐちょになるよりはマシでしょうね」
椛は皮肉めいた口調で言った。
「わあ椛ちゃん、それって椿ちゃんのこと?」
 桜は楽しそうに訊ねる。
その名前に、私は一瞬だけ体が固まった。落ち着いているふりをするため、教壇の端に腰を下ろした。右隣に桜、その
また右隣に椛が座った。私は桜の手から懐中電灯を奪うと、すぐにスイッチを切った。
 ここに座って、死を待つことにしよう。特別な儀式などはない。
「決まってるじゃない。信じられないわ、あんなの。椿が落ちた場所のコンクリートには、まだはっきりと血の跡が残って
るのよ」椛は憤慨したように言葉を吐いた。神経質気味の彼女にとっては、それは落ち着いていられない由々しき事態
なのらしい。
「それにしてもびっくりしたよね。椿ちゃんがあんなことするなんてさ」桜がなだめるように言った。
 椿は私たち三人の元クラスメイトだ。それがつい一週間前、この校舎の屋上から飛び降りて死亡したのである。関係
者には激震が走った。もちろんそれは私たちも例外ではない。椿は聡明な少女であり、私たちのグループのリーダー
的な存在であったからだ。
 あまりにも衝撃的な出来事だったので、私はなかなか信じられなかった。そして自殺をする前に一言も相談をしてもら
えなかったのがとても哀しかった。
一時は椿の死は自殺ではなくて、事故か、もしくは誰かに自殺に見せかけて殺されたのではないかと疑った。だが事故
ならばそもそも椿が屋上に出ていた理由がわからないし、殺人に至ってはますます考えにくかった。椿は抜群に頭のい
い女の子で、けれども気取ることなく、誰に対しても優しい性格だったのだ。そんな椿が誰かに恨まれて殺されることは
ありえなかった。
 またそのどちらの案にしろ、屋上の手摺りのすぐ手前に、椿が履いていた靴が揃えて置かれていたという事実が邪魔
をするのだった。靴が置かれていたということは、椿が自分の意志で飛び降りた可能性が高いということである。もっと
も遺書がないのは心懸かりだが、それは自殺でないことの否定にはなりえない。
 動機は不明ながら、警察は自殺と断定した。私も異論はなかった。ただショックだった。
 しかし偶然にも私たちもわりとすぐに椿のあとを追うことになったので、天国で彼女に再会できたら、動機について訊
いてみたいものだと思う。
 天国は無限の大きさがあるらしいので、出会えるかどうか不安なところはあるけれども。
「ね、ね、それにしても椿ちゃんて、なんであんなことしたんだろうね?」
 桜がどちらにということもなく訊ねた。これまでの一週間で私たちの中で何度も繰り返されてきた話題だった。
「そんなのわからな──」
 私が答えようとしたときだった。
「椿は自殺したんじゃないかもしれない。誰かに殺されたのかもしれない、ってわたしは思う」
 椛がボソッと言った。

 なぜ椛がこの場面でそのようなことを言い出したのかはよく分からない。どちらにしろ彼女のその口調は、笑い飛ばし
てしまうには真面目すぎるものだった。
「ちょっと椛、それって」
「だって理解できないんだもの。あの椿が自殺だなんて。『多感な時期の少女が悩みの末に』だなんて言われてるけど、
わたしは納得できないわ。ふたりとも椿のことを思い出してみて。椿はいつだって堂々としていて、わたしたちの持つ、
そういったつまらない悩み事なんかとは、まるで別の世界に生きているみたいだった。そう思うでしょう?」
 進路、成績、恋愛。たしかにそのどれとも、椿はかけ離れた場所にいるイメージがあった。口に出さなかっただけ、と
いうのも彼女に関しては考えにくい。椿のそれは、もはや超然とさえ言える堂々っぷりだったのだ。
「だけど、椿ちゃんが誰かに殺されるなんてますます考えられないよ」
 桜が弱々しく反論した。椛の唱えたまがまがしい内容の発言に、畏怖を覚えたのかもしれない。
 椛は黙ってそんな桜を見つめた。そしてそれは私のほうにも目をやるということだ。ほとんど暗黒で覆われた中で、椛
の瞳が鋭く光った気がした。
「そうかしら? 桜、本気でそう思う?」椛は優しく問い掛ける。「あなた、これまで椿の能力に妬みを感じたことはまるで
なかったって言える?」
「え?」呆けた声をあげる桜。
「わたしはあったわ。頭がよくてルックスがよくて性格もいい親友を、殺してしまいたいと思うことが」椛は語り始めた。そ
れは死を待つしかない彼女の、懺悔として聴こえた。「椿はあまりに完璧すぎた。一緒にいるときは相手の気持ちをしっ
かりと考えてくれて、言動に対して不快感を抱くようなことは一度だってなかった。でもその完璧さがわたしのコンプレッ
クスを刺激して、不愉快極まりなかった。椿と一緒にいると自分がものすごく駄目な人間のように思えた。そしてそういう
理由で、素晴らしい人格者だった椿に対して憎しみの気持ちを持ってしまう自分が、またすごく嫌だった」
 光が強ければ強いほどそれによってできる影も深い。よく言われるそれだろう。
「それは一時期のわたしにとって本当に懸念事だった。そして、椿が生きている間、わたしは決してしあわせになれな
い、彼女が視界に入る限りわたしはしあわせなんて実感できない。そして彼女の活躍を止めるには、彼女という存在そ
のものを消してしまうしかないとさえ思った」
「それが動機ね?」私は椛のモノローグに堪えられなくなって言葉を挟んだ。まるで罪の告白をした犯人と名探偵のよう
だ、と思う。「たしかにそんな理由で椿が誰かに殺されることはないとは言えない。でも動機の発生する余地があるから
殺人なんて強引すぎるでしょう」
「もちろん根拠はこれだけじゃないわ」椛は答えた。
 椛は前々からこのようなことを考えていたのだろうか。

 理科室中のガス濃度は間違いなく高まってきていた。チクチクとした刺激臭はその度合を増し、頭がくらくらする。止
め処なく吐き出されるガスは教室から正常な空気を押し出して、私たちが過ごせる範囲はみるみる狭まっていく──そ
の図は皮肉的で嗤えた。
「靴よ、靴。屋上に置かれていたというあの靴。あれがなによりの根拠ね」椛の語りにためらいはない。「桜、飛び降り
自殺をする人間が靴を脱ぐ理由はなんだと思う?」
「え?」急に問われた桜はびっくりしたように身をすくめた。「えっと、なんとなく、じゃないの? 理由なんてないけど、そ
ういうものらしいからやる、みたいな」
「きっと世の中には桜みたいに考えている人が多いんでしょうね」椛は桜の回答に満足したらしい。話を進める上で期
待通りの答えだったようだ。「でも実は違うの。飛び降り自殺者が靴を脱いで置くのには合理的な理由がある。靴は本
来、屋上の地面に置いた遺書が風で飛ばされないようにするという文鎮の役割なの」
「そうなの?」桜は声を出して感心した。
「ええ。だけどどう? 椿の場合には遺書はなかった。つまり、椿は靴を脱ぐ必要なんてまるでなかったのよ。それなの
に靴は置かれていた。おかしいでしょう?」
「それってつまりどういうこと?」少し頭が混乱したらしい椛が訊ねる。
「あの椿が、なんとなく、なんていう理由で無意味なことをするはずない。遺書を持たずに自殺に臨んで、なんとなく靴を
脱いだなんて考えられないわ。つまり椿のあれは自殺じゃない」
「それであっても、まだ殺人であるとする理由としては薄弱でしょう」私は文句を言う。脳内にガスが入ってきたのか、頭
がやけに痛み出していた。「殺人だったらあの靴はどういう意味なの?」
「椿は犯人に襲われて、絶体絶命の状況になった。追い詰められて、もはや飛び降りて死ぬしか選択肢はなくなった。
そのような状況で椿は頭を働かせ、警察や知人に向けてのメッセージを用意した。それがあの靴よ。椿は犯人からの
攻撃に死を覚悟して、靴を脱いで床に置いた。この靴の不自然さに誰か気付いてほしい、という思いを込めて。それを
見た犯人には、『遺書の文鎮として使われたわけではない靴』が、『椿が自殺をしたわけではない』根拠になる理屈が
理解できなかった。ただ桜のように、飛び降り自殺というのは靴を脱ぐものだからここで彼女が靴を脱ぐことはこの一件
を警察に彼女の自殺だと見せるにあたって好都合だ、としか思わなかったのよ。その結果としてのあれというわけ。つ
まり椿は靴を脱ぐというただそれだけの行為で、これが殺人であることを告発しているのよ」
 ガスが頭を壊していく中で、椛はよくも語った。
「それじゃあ椛ちゃん、その犯人って誰なの?」桜が無邪気に訊ねた。彼女は椛の演説を、聴きながら理解していくの
を途中であきらめていた。
「そんなの知らないわ」椛は悪びれもせずに答える。
「へ?」
「私は椿の死が自殺なんかじゃなくて殺人だってことを証明したのよ。犯人が誰かだなんてこと知らないわ。いまさら興
味もないし。でもわたしが思うに、椿のことだからその置いた靴になんらかの形でメッセージを遺していたということもあ
りうるわね。警察や知人に向けて、犯人の特徴なんかを靴で表して。もっともわたしは警察関係者じゃないから靴の実
物は見ていないけど」
 遺書がないのに置かれた靴は、本来の役割である文鎮としてではなく、殺人であることの告発として、そしてダイイン
グメッセージとして作用するらしい。便利なものだ。そしてそこまでメッセージ性の高い靴ならば、それはむしろ遺書のよ
うなものではないか。
 遺書のない靴が遺書になる。
 なんだかおかしな理屈だ。ガスで頭がやられているのだろうか。

「ふ〜ん……」椛の推理に簡素な感想を述べると、桜はそれから黙ってしまった。
 どうやら体の小さい彼女に、いち早く症状が現れたようだ。しかしそれは私にしろ椛にしろ時間の問題なのだろう。力
が抜けた桜の体がこちらに凭れ掛かってきたが、それを支えるほどの余力はなかった。私は桜の体を背後の教壇に
倒れるように動かした。胸の前で両手を合わさせたほうがいいのだろうかとしばし思案して、やめた。
 桜の安らかとも言える顔を見て、なにか高まるものがあった。私は、私たちの自殺の原因――夜空を眺めようとして
窓のほうを向いたが、カーテンが閉められていて、外の景色を覗くことはできなかった。
 とにかく頭が重くて、視界もぼんやりしていた。
「ねえ、椛?」私はまだとりあえず上半身を起こしている友人に声をかけた。
 しばらく待ってから反応があった。「なあに?」
「私たちのこの自殺の動機は、形而上的と呼ぶのかしら、それとも形而下的かしら?」
「それは……」

 二日前のことだ。全世界に激震が走った。
 これまで膨張を続けていたこの宇宙が、いつのまにか収縮段階に入っているらしい、ということがどこかの国の科学
者によって突き止められ、発表されたのだ。
 それはセンセーショナルな知らせだった。人間はその壮大な世界のニュースに、さまざまな反応を見せた。
 私たち三人はその報道に、計り知れない恐怖を感じた。
 かくいう私は常々、宇宙が膨張しているという事実に不満を感じてきていた。宇宙が一刻も休まることもなく膨張して
いるということは、宇宙の表皮においては加速度的にそれ全体のスケールが大きくなるということだ。つまりその中で生
きる私たちは、一秒でも長く生きれば生きるほど、宇宙中における自分の存在がちっぽけになるということを意味して
いた。
 それはひどく嫌な想像だった。
 しかしいざ宇宙が収縮し始めたことを知ると、それは膨張以上に嫌なものだった。刻々と狭まる宇宙のスケールという
イメージは、私たち三人をひどく苦しめた。精神的圧迫から来る強迫観念。展望のない未来を生きていける自信がなか
った。
 ちょうどその数日前に友人が死んだところで、私たちは死に対して身近になっていた。だからこのような手段を選ん
だ。
 だが椛の推理によれば椿は自殺ではなくて殺人ということになるらしい。実際のところそれはどうなのだろう。やはり
あくまで可能性の問題だろう。椛は殺人である可能性を示唆しただけで、まだまだ自殺である可能性も残っているので
はなかろうか?
 どちらにせよ冷静になって考えれば、『膨張する宇宙』という概念の中にしか生きなかった椿のために、余裕のない収
縮宇宙に生きる私たちがせっせと思いを巡らすのは、なんともいえない話だと思う。どうせなら私も宇宙の収縮を知って
世界が凍りつく前、世界が平和であった間に死にたかったかもしれない――。
 そこまで考えて気が付いた。

 もしかしたら、椿は宇宙が収縮を始めたことを知っていたのではないか?
 なにしろ椿は天才なのだ。さる崇高な、そして全世界を恐怖のどん底に陥れた科学者よりも先に、もしかしたら椿はそ
の事実を掴んでいたのかもしれない。その可能性はなかったとは言えない。
 それで椿は、今の私たちとまったく同じ心情により自殺を決意した。『縮んでいく宇宙』という観念から逃げ出したくて、
無限の広さを持つ天国へと旅立った。死ぬ前や、もしくは死んだあとに遺書を用意して、宇宙のそのことについてまる
で語らなかったのは、いかにも彼女らしい。はっきりいって私は宇宙の収縮を発見し報告した科学者のことをひどく憎ん
でいる。その事実を世間に向けて発したのはきわめて浅慮な行為である。できることならば知りたくなかった。形而上
的でさえある宇宙の大きさを考えれば、たかだか私の数十年の生涯においてその事実は、なんら影響を及ぼさなかっ
たに違いない。知らなければ平穏に生涯を過ごせただろう。
 だから椿は遺書を作らずに飛び降りた。
 では靴はなぜ脱いだのか? これもわかる。彼女はエンペドクレスの故事に倣ったのだ。ギリシアの哲学者エンペド
クレスは、人類で初めて形而上的な動機により自殺をした男である。彼は火山に身を投げて死ぬのだが、彼はその火
山口近くに、サンダルを脱いで置いていたという。だがエンペドクレスが悩み抜いて解決されなかった形而上的命題は
謎とされている。エンペドクレスが他人に対して自分の恐怖を伝染する必要はないとして、決して口に出さなかったから
だ。
 椿はこの故事に則ったのではないか。

 椛は気を失う前に、私の問いに答えてくれたらしかった。けれどもそのとき私の意識はほとんどが私の中にあったし、
椛の言葉の発音も悪かったので、よく聞き取れなかった。
 宇宙の膨張と収縮で悩むのは、形而上的か形而下的か。もはやこれは各人の考え方によるのだろうと思う。物理的
でもあり観念的でもある。とにかくかの高名なエンペドクレスと私の自慢の友人である椿は立派だ。
 ガスの臭いしか感じない、頭もほとんど動かなくなるような環境の中で、私はそんなふうに思った。もうすぐ私も気を失
うだろう。
 いまこの瞬間も宇宙は収縮する。私たちは一秒でも長く生きれば生きるほど、宇宙にとってちっぽけではない存在に
なる。
 それは死ぬほど嫌な想像だった。
               
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