好きスキ大好き超愛してる 2
東の都のとあるカフェテリアで、三杯目のコーヒーカップと灰皿を前に二人の女が向かい合っている。鉢植えの影になったその席は、大通りに面したガラス窓から差し込む直射日光を程よく避けてくれている。
ブルマとチチが直接対面するのは、神殿での別れから半年ぶりのことだった。二人が顔を合わせれば話題は勿論、夫であるサイヤ人達のことだ。チチは筋斗雲を借りて、ブルマは自らが設計したご自慢の最新型ジェットフライヤーでここまでやって来てからすでに三時間が過ぎていたが、彼らの話となるとつきることがない。なにしろ宇宙広しといえ、純粋サイヤ人の夫を持つのはこの世でお互いしかいないのだ。
「まったくサイヤ人ちゅうのは、たまに何考えてんのかわからなくなる連中だな」
チチの言葉にブルマはそうね、と同意してから
「普段は結構わかりやすいんだけどねえ」
と付け足した。その言葉の裏の意味を探ろうと、チチはテーブルに身を乗り出し声をひそめる。
「な、な。ブルマさのとこはちゃんと言ってくれるのけ?」
「何を?」
「愛してるぅ〜、とかよ」
「言うわけないわよ、そんなこと!」
突然目の前で飛び出した聞き慣れない単語(耳にするのはいつぶりかしら!)に、ブルマは目を丸くして否定した。
その様子を見たチチは「やっぱりけ」と溜息をつき、前のめりになった上半身を背もたれに戻してもう一つ息を吐いた。
「おらんとこもぜーんぜん、甘い言葉の一つも言わねえだよ。折角生き返ってひっさしぶりに夫婦が再開したってのによ」
それはサイヤ人だからという問題なのかブルマには少々疑問だったが、確かに悟空が異性愛の何たるかにいまいち欠けること、それから二人がつい最近まで長く離ればなれだった事実を思い出し、ひとつ慰め役にまわることにした。
「まあほら……」新しい煙草に火をつけひと吸いする。「孫くんは純粋っていうか、天然なところがあるじゃない。そういう言葉を知らないだけかもよ?」
すると彼女は即座に掌を振り、だめだめと声に出した。
「おらもよ、悟空さの天然っぷりを期待して聞いてみたことがあんだよ。『おらのこと愛してるか?』ってな」
「やるじゃないよ、そしたらなんて?」
その時の二人を想像してみて、微笑ましくも可笑しい気分になる。チチは椅子にもたれたまま、
「きょとーんとした顔で、なんだチチ、おめえ熱でもあんのか? って……おらもうがっくりきちまっただよ。それ以来どうにかして問いつめてもごまかされてばかりだ」
と今まで以上に大袈裟な溜息をもらした。ブルマは半分衝動的に、残り半分は元気づけるつもりで声を上げて笑ってみせた。
「あっはは、ある意味孫くんも大きくなったもんねえ。前なら『愛ってなんだ? うめぇのか?』ぐらい言ってたわよ」
「それはそれで悔しいだな」
チチはブルマにつられようやく笑顔を浮かべたが、その表情はまだどこか納得がいっていないようだ。
「なあ」しばし考え込む仕草をした彼女は一転、真剣な顔をして言った。「どうにかして悟空さやベジータに『愛してる』って言わせられねえだかな?」
「えー、どうにかしてって?」
「視力検査のふりして言わせるってのはどうだべ? あ、い、し、て、る、なんてよ」
「あっはっは、バカ言わないでよー。思いっきり無理矢理じゃなーい」
ブルマはその提案を一笑にしたが、表情を崩さないところからみるとチチはいたって真剣のようだ。
「やっぱ無理なんだべか……」
しかしその試みの成功率の低さを想像すると、彼女は再び意気消沈しコーヒーカップに八つ当たりをしはじめた。
「でもおら……」冷めたコーヒーが虚しく波打つ。「無理矢理でもいいから言わせてみせたいべ。悟空さのクチからよ」
うなだれてカップに顔を埋める姿をしり目に、ブルマは毎日飽きる程見つめ続けてきた夫を、瞼の裏に思い浮かべた。
(ベジータが「あいしてる」? ……なんだか想像つかないわね)
頭の中に構築された夫はいつもムスッと眉根を寄せていて、とても甘い言葉を囁くような雰囲気ではない。彼女がよほどぼんやりしていなければ、実際囁かれた記憶もない。
(私の知ってるあいつの顔って、不機嫌そうな仏頂面か、片方の頬をクッとあげて高飛車に勝ち誇る顔、それとせいぜいそっぽを向いて照れた顔……それはそれで可愛いんだけど)
ブルマは彼の極めてバリエーションの薄い百面相を投影し終えると、まるでたった今はじめてわかったかのように、はたと思い出した。
(そう言えば、ほっと気を抜いて安心しきっている顔を見たことないわ)
それは本当は『そう言えば』どころではなく、一時期は彼女の悩みの座を独占までしていた事実だった。二人でいる時ですら、そしておそらくは一人きりの時間でもけして気を抜かない彼に不満を感じたことは一度や二度ではない。長い付き合いの中でそのことが原因ですれ違いかけたことすらある。当初、彼のそんな態度を『いじわる』だと思い、やがて付き合ううちに野生動物がどこからやってくるかわからない敵に対し一晩中構えを解かないような『本能の怯え』からくるものと思うようになったが、今ではそのどちらも間違いだったと考えを改めた──たんに癖だ。あるいは趣味といってもいいか。
それが素であるならば、それ以上の変革を求めるのも酷というものだ。勿論ブルマとしても、諦観の極みに達したわけではない。今までの十年で目覚ましく進歩をとげた彼である。確かに彼は変わった。最初に出会った頃から比べれば別人のようだ。ブウとの闘いのあとは、今までは固く閉ざされた表情の奥の奥を探ることでしか実感しえなかった優しさのようなものを、ふとした時に感じつつある。
どこかにまだ期待があるからこそ、求めてしまうのかもしれない(……そして大抵は失望するのね)。
ベジータが愛をはっきりと口にする日は果たして来るのだろうか。ブルマは考えた。来るかもしれないし、来ないかもしれない。
彼はうまれた時からずっと戦い続け、そして今でも闘っている。かつては敵という他人と、そして今は自分自身と闘い続け、崩壊と再構築を繰り返しながら闘うことで変化し続けている。きっとこれからも、時に激しく、あるいは目を細めなければわからないほど緩やかに変わっていくであろう彼の内面、そしてその様を見つめ続けていけることは、彼女にいったいどんな感情を──平凡な生活では到底味わえないような激しい昂り、憤り、幸福感、そして愛しさを──与えてくれるのだろう。日に日に逞しく──多分あの頃とは比べ物にならない程強く──なっていくサイヤ人の彼が、同時に地球人としての感情を身につけていくさまは嬉しくもあり、不思議でもあった。
なぜ彼は変わっていくのか──私……そして孫くんがいるから?──ふとブルマは思った。
(孫くんはまるで清流みたいな人。一カ所に留まっていると腐っちゃう水。上り坂でも勢いをつけて駆け上る激しい川。それでいて平坦な地では穏やかな澄み切った川。ベジータは……? あいつは……そうね。私って星に根付いた大木って考えるのは自信過剰すぎるかしら?)
そして木は水が無くては生きていけない。ブルマはベジータと悟空の不思議な関係に思いを巡らし、微笑みをもらした。
「ブルマさ、どうしただ? 灰が落ちそうだべ」
「えっ? あ、ああごめんなさい、ちょっとね」
自由連想のような空想の世界から呼び戻されたブルマは、慌てて灰皿に煙草を押し付けた。
「にやけちまってえ、どーせベジータのこと考えてただろ。何だかんだ言っても二人はええだな、愛し合ってるっちゅう感じがしてよ」
チチの言葉に思わずカップを倒しそうになる。だがブルマはあえて否定はしなかった。
「お互い様よ。孫くんの奥さんはチチさん以外に考えられないもの」
それはブルマの本心であり真実だ。このチチ以外に、悟空の相手がつとまるものはきっといない。ブルマにとって悟空は良くも悪くも悟空以外の何者でもなく、不純物がなさすぎた。あまりに純粋すぎてこれ以上変化する余地がない──ブルマはさらに付け足した。
「それに、ごまかして口に出さないってのは照れてる証拠でしょ」そしてぱちんとウインクしてみせる。「恥ずかしがるってことはちゃんとチチさんのこと愛してるんだと思うわよ」
本当にそう思うだか? まいっただな──と言って顔を真っ赤にするチチを見てブルマは微笑んだ──まったく、可愛いんだから。
それからしばらく近況報告という名のおしゃべりに華を咲かせた後、カップに残ったコーヒーを啜っていたチチは時計を見てあっと顔をあげた。
「もうこんな時間だべか」
「あらホント」
ついさっきも目にしたはずの時計の針はいつの間にか夕刻を指している。まだ日は落ちていないが、チチの住む山村に帰る頃には西の空は夕焼けに染まりはじめるだろう。
「そろそろ帰って夕飯の支度しねえと、大飯食らいの男どもが腹空かせてぶーぶー文句言うべ」
「ふふっ、そうね、それじゃ行きましょうか」
ブルマは近くを通りかかったウェイターを呼び止め、財布を取り出そうとするチチを制して会計を済ませた。
「悪いだな、ごちそうさまだ。そんじゃまあ、トランクス達によろしくな」
そう言って席を立ったチチの背後で突如「あっ」と大きな声があがり、彼女が驚いて振り返った先には、ウエストポーチ型のバッグに手を突っ込んだままのブルマが口を開いて仁王立ちしていた。
「どうしただ?」
「……カプセルを入れてたケースがないのよ」
ブルマはもう一度心当たりを探ったが、確かに入れていたはずのバッグにもポケットにもケースはない。テーブルの下も見回したがやはり見当たらなかった。
「落としたんだべか?」
「そうみたいね」
そう言われて、フライヤーを着陸させカプセルに戻してからこの店へ来るまでに何軒か店を覗き街をぶらついたことを思い出す。
「そりゃ大変だべ、はやく警察に届けるだよ」
「あ、でも中身は乗って来たジェットフライヤーだけだし……うちの機にはシリアルナンバーと発信器がついてるから、誰かがカプセルから戻せばすぐ見つかると思うわ。問題は帰りの足よね」
確かに世界一の富豪のことだ、一般人が車一台を無くしたのとは少々事情が違う。ブルマの心配は無くしたカプセルよりも、西の都までの遠い道のりのことに移っていた。
「そんなら、おらが筋斗雲でブルマさンちまで送ってくべか?」
「あっ」そうか、と思った後でブルマは自分が筋斗雲に乗れないことを思い出した。「い、いいわよ、西の都まで往復してたら孫くんたちが餓死しちゃうわ。そうね、父さんにでも電話して迎えに来てもらうか、それも駄目ならタクシー拾うわ」
「筋斗雲ならそう時間もかからねえべ、そったら遠慮することねえだ」
彼女の忘れたい過去を、希望通りすっかり忘れてくれていたチチの提案を大丈夫だからと断って、ブルマは乾いた笑いを浮かべ足早に自動ドアをくぐった。
「本当に大丈夫だか?」
「大丈夫ダイジョブ、あはは、それより早く帰らないと暗くなっちゃうわよ」
そうだべか? となおも心配そうなチチの背中を押し、ブルマは額にかいた汗をぬぐった。
人通りのない裏手の路地まで歩いたブルマは、呼び寄せた筋斗雲に乗ったチチと握手した。
「またね」
握ったその手の平は若かりし少女時代のものとは違い、すっかり母の手になっている。日々衰えていく若さと美貌を意識しつつも、不思議と嫌な気分はしなかった。
「近いうちに悟飯ちゃんや悟天がそっちに遊びにいくかもしれないだが、そんときはよろしくな」
「ええ、待ってるわ。いつでもいらっしゃいって伝えておいて」
「そんじゃな!」
お互いの手が離れると、筋斗雲はチチを乗せたままふわっと上昇しはじめた。
「孫くん達によろしくねー!」
チチは上空から手を振り返し、太陽とは逆の方向へむかって一筋の軌跡とともに消えていった。水色の空にその姿が見えなくなるまで見送ってから、ブルマはおもむろに通信機を取り出し、父親の番号をプッシュした。