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タイトル古代の年の数え方
投稿日: 2004/12/23(Thu) 14:47
投稿者荒間宗太郎
Subject:新年  From:波浪規定  Date:2004/05/18 23:01
No:1882
徒然草でしたか、東国では新年に先祖がくると書いてありました。盆が定着したのは、夏のあの時期に先祖がおとずれるという民俗信仰が仏教にひきつがれたからでしょう。もともとは夏と新年の二回、先祖がおとづれたのでは。

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Subject:Re:新年  From:荒間宗太郎  Date:2004/05/19 14:49
No:1883
古代には今の一年を二つに分けていた可能性もあるから、その場合は「一年に一度、(先祖)神は訪れる」と言うことになるし、それが「一年に一度」という概念だけが引き継がれて「古代の一年」ではなく「現在の一年」に於いても一度だけ訪れることになって正月のみになったんじゃないかなぁ。
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/Subject:遥かなる古代、二つで一つ… /荒間宗太郎 /H12/02/16 21:58:07 /No:2

 遥かなる古代、二つで一つ… 『月』は上弦の月と下弦の月とで別れていた。『年』
は上の年と下の年とに別れていた。だから現在で言う一年は都合25カ月であった。
どういう事かと言うと古代(縄文期)においては日にちを数えるのに月の運行を利用し
ていたと思われるし、この事については大方の賛成がえられるだろう。で、その数え方
なんだが、新月から次の新月まで、あるいは満月から次の満月まででは無く、上弦の月
の時期と下弦の月の時期とに数えていただろうとおもう。
これであればひと月の日数は最大15日となる。16日以降が無い理由はここに在ると
思う。月の運行は29日と30日の間であるから一年365日で割ると上弦の月下弦の
月合わせて25月ある事になる。人が手振り身振りで現される数は15だと思う。と言
うのは、両手の指は10本両手両足を屈折して4つ首を曲げて一つ合計15である。
これは遠くからでも確認出来よう。足の指は立っているから見えない。これから判断し
て、一年の25月は多すぎる。だから、この25を半分にして上の年と下の年とに分け
ていたと思われる。これは北国の生活にはぴったしであった。
なぜなら、雪の得る月数と降らない月数に合うからだ。
また落葉樹の葉っぱの附けている月数と附けていない月数とも合う。
      上の年 下弦の月
          上弦の月
      下の年 上弦の月
          下弦の月
 このように数えると、現在で言う2年で一巡する事になる。
しかも、これだと、既に気が付かれていると思うが、全てが二つで一つとなっている。
二つで一つと言う概念は重要だと思う。古事記にも書かれているが『二神で一つ』なの
だから。
 現在でも時々あらわされる言い方に『かのと』『かのえ』と言うものが在る。端的に
言うと『兄』『弟』と言う意味で、二つで一つである。これらから古代においては二つ
で(現代で言う)一年になっているものと思う。
 これで古事記を読むと古代天皇の長寿が理解出来る。何の事はない単純に現在と同じ
年数の数え方をしているものと読むからであって。本来はその半分であったの。だから
153才で死んだとは76才で死んだと理解するべきである。これだとまったく不思議
ない歳となる。
 また、なぜ古事記の日にちに16日以降が無いのかも説明出来る、そう15日でひと
月だったからだ。しかも数ではなく干支で年を表しているかの説明も出来る。少なくと
も欠嗣八代と言われている2代〜9代までの天皇の時代はこの暦の数え方だったと思わ
れ、古事記を編纂していた時代は現代に近い数え方であって、古代の数え方では無かっ
たものと思う。だから編纂する時に古代からの伝承どおりの言い方でしか書けなかった
ものと思う。
 なぜか?。それは当時すでにあった国史や風土記の者達と古事記日本書紀の書き手で
は文化が違ったからだ。朝廷以外の国史や風土記の担い手たちは土着の人たちだった。
だから古来からの数え方なり言葉が、朝廷の担い手の人たちには理解し難いものだった
のではないのか?という疑問が残る。と言うのは、彼らはすでに言葉で書かれているは
ずの国史や風土記を、わざわざ一度読み込んで口述によってから記述を始めているのね。
 有名な稗田阿礼がなんで口述しなければならなかったのかが判る。
それは、各風土記や口承伝達などの言葉を翻訳できる者だったからだ。そして、翻訳者
というのは一般に言葉のエキスパートかも知れないが各々の分野の専門家ではないので
専門的な知識を必要とする場面での翻訳に難があるのが一般的でかの人の場合も例外で
はなかった。
 つまり、その地方地方の風土や慣習に造詣が深かったわけではないために、思わず自
分の育った慣習とそれほど違いはないだろうと考えたのか。だから、古事記に記述され
ている年数の理解に誤りが出てきて、半年で一年と数える風習を一年は一年としたので
はないだろうか。
その風土では153歳とは通常の76歳の意味なのに意訳せず直訳したためにとんでも
ない長命の天皇が出現してしまった。初代から八代までの天皇が十五日以前の日にちに
死んでいて、十六日以上の月の後半の場面がないのはやっぱり不自然だべさぁ。
 そして、何とかの何年という言い方ではなく、わざわざ干支でしか表現できないのも
当然であったのね、だってかの人が口述した地方の風習の二年はかの人たち古事記の編
纂者たちの一年なんだから。
つまり、推測ではあるけれども、縄文時代人たちの文化は現在の暦で言う一年を夏場と
冬場の二年としていた可能性がある。粟を耕作し集荷する夏場の一年と、狩りをして過
ごす冬場の一年を区分けしていたのではないだろうか。
彼らにとってそれは生活のリズムと合致していたから、何の不都合さもなかった。
弥生期に入り米の生産が活発になるとそれを主食とするようになって、それ以外の食料
は副食となった。それが為に、半年で一年と数える必要性がないために、現在にも通じ
る一年という感覚が生まれたのね。
縄文時代人にとっては、食に主食という概念が無く、いずれの食料も丹念に食したため、
夏場に主に耕作し採れる粟などの穀物類と冬場に仮で獲物を捕る魚や動物類との主に二
種類の蛋白源(植物性と動物性)があって、それらの恵みをもたらす季節毎に一年二年と
数えたために、現在の暦で言うと彼らの二年分が我々の一年分になったのではないだろ
うか。
 この古代の暦は北国の生活感覚に適合する。
 また、船で航行する時に指標となる月の運行とも合う。水(海)の民であった縄文人に
実に合った暦であったと思われる。古代への浪漫はつきることがないね。まぁいつもの
ワケワカメということで(^^ゞ、
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Subject:Re[3]:新年  From:キルドンム  Date:2004/05/20 18:56
No:1895
 継体帝の頃には…、どうでしょう?確かに八十二歳で崩ぜられたとする史料と、四十三歳だったとする史料とがありますが、これはこのあたりから今と同じ紀年法が並行して使われるようになったからではないのでしょうか。 また、その前の武烈帝の崩年も、史料によって著しい差があるようです。十八歳とする文献と五十七(あるいは五十八)歳とするものとが並存しています。 ただ、継体帝の場合には、八十二歳とする説の方がよいように思えます。一つには、安閑帝が即位時六十八歳であったと『大日本史』で考証しておりますが、これを今の三十四歳として考えると、父帝の崩年との関係でやや不安になるということ(二年の空位期間があったとする説はしばらく置く)。父が八十二、息子が六十八とするなら、理屈の上でまだ成り立つのではないのでしょうか。 二つ目に、即位前に相当勢力と人望とを蓄えていたということ。二十代では少し無理があるのでは。 では、何故四十三歳とする史料ができたのか。想うに、かつては春秋ごとに年を数えていたという記憶が残っていたため、機械的に原資料の年齢を書き直した文献(書物とは限りませんが)があり、それが基になったのではないのでしょうか。暴論かも知れませんが(なお、福井市の足羽山にまるで仙人のような継体天皇像が建っていますが、勿論これは証拠にはならない)。 逆に武烈帝の場合は、十八歳とする方が理屈に合っているように感じます。

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Subject:魏志倭人伝  From:波浪規定  Date:2004/05/20 20:43
No:1897
「倭人は正月や四季を知らない。ただ春耕秋収を記録して年数を数える。」
これは「1年は2年」の根拠になりますね。

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Subject:継体天皇  From:波浪規定  Date:2004/05/20 20:50
No:1898
継体天皇入り婿説があるけどどうですかねえ。応神天皇の子孫と認めていいと思うが。
雄略天皇と武烈天皇は同一人物とする説があるけど、これも支持しません。

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Subject:Re[4]:新年  From:荒間宗太郎  Date:2004/05/22 09:03
No:1915
> 継体帝の頃には…、どうでしょう?
> 確かに八十二歳で崩ぜられたとする史料と、
> 四十三歳だったとする史料とがありますが、
> これはこのあたりから今と同じ紀年法が並行して使われる
> ようになったからではないのでしょうか。

実はワシもそう考えているの(^^;;。
継体帝は入京するのに時間がかかったワケも、その年数も「理由があった」と思っている。


> ただ、継体帝の場合には、八十二歳とする説の方がよいように思えます。

継体帝こそが我が国を真に再統一した天皇だったと思っています。そこから暦の数え方は現在に繋がる一年を十二ヶ月(大の年は十三ヶ月)に全国的にしたのではないだろうか。つまり、継体帝以前には15日(大の月は16日)をもって一月としていた地方が沢山あった(日の本)し、30日(29日)をもって一月と数えていた地方(倭)の風習の方を採用した、「日の本は名を」取り「倭は実を」とって統一され融合したと。

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Subject:Re[5]:新年  From:波浪規定  Date:2004/05/22 22:38
No:1918
>継体帝こそが我が国を真に再統一した天皇だったと思っています。
そこから暦の数え方は現在に繋がる一年を十二ヶ月(大の年は十三ヶ月)に全国的にしたのではないだろうか。
つまり、継体帝以前には15日(大の月は16日)をもって一月としていた地方が沢山あった(日の本)し、30日(29日)をもって一月と数えていた地方(倭)の風習の方を採用した、「日の本は名を」取り「倭は実を」とって統一され融合したと。
なるほど。

統一をどう定義するかにもよりますが、私は4〜5世紀統一説をとります。4世紀に福島県、5世紀に宮城県と山形県に古墳が作られています。これは大和朝廷の勢力が東北南部におよんだことを意味します。5世紀後半の雄略天皇による反対派粛正が裏目にでて、返って朝廷の権威が揺らいだのを立て直したのが継体天皇と考えています。

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Subject:Re[5]:新年  From:キルドンム  Date:2004/05/24 16:56
No:1926
>継体帝こそが我が国を真に再統一した天皇だったと思っています。
>そこから暦の数え方は現在に繋がる一年を十二ヶ月(大の年は十三ヶ月)に
>全国的にしたのではないだろうか。
>つまり、継体帝以前には15日(大の月は16日)をもって一月としていた
>地方が沢山あった(日の本)し、30日(29日)をもって一月と数えていた
>地方(倭)の風習の方を採用した、「日の本は名を」取り「倭は実を」とっ
>て統一され融合したと。
 そこまでは考えいたりませんでしたが、確かにその可能性は大きいと思います(あるいは、日の本と倭とが逆の関係ということも)。

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Subject:Re:継体天皇  From:キルドンム  Date:2004/05/24 19:17
No:1929
 揖斐郡根尾村に、薄墨桜というのがあり、毎年花見時になると全国から見物人が押し寄せ、山中の一本路が大渋滞になる。
 地元に伝わる話によると、継体帝のお手植えらしい。
 ご幼少のみぎり、父親を武烈帝に殺され(ということは少なくとも武烈帝の十八歳崩御説は成り立たなくなる)、この山里に逃れてきたとか。
 成長して、都に戻られる際に、記念に植えられたということです。

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Subject:Re[6]:新年  From:荒間宗太郎  Date:2004/05/24 20:56
No:1931
>(あるいは、日の本と倭とが逆の関係ということも)。
中国の古書に「倭が日本と併合し日本と名乗る」と記されているのがあるのね。つまり、中国から見て実態は倭にあると見ていることを意味し、小の倭が大の日の本を飲み込んだと、日の本と合併したことが記されているのね。しかも、日の本のすべてとではないことがその後の我が国の古書に記されている。それは、元寇の役の後の蝦夷地の記述に、日の本というのが出てくる。元々列島は日の本であり、倭は半島に位置していた。それが徐々に東征し、列島の西側の大半を占める要になり東国の日の本を飲み込み、北半分を残し統一された。それでもなお、北半分には日の本が存在し続けた。日本海側に「柵」の遺跡が多々見られるが、その形状から判断すればいずれも南西からの攻撃に対しての防御のように判断される。つまり、日本書紀に書かれている東国のまつろわぬ人々は「防衛のために柵を構築し続けながら北上していった」と思われる。アイヌの伝説に、列島のすべてはアイヌの祖先達であり、やがて大陸(半島)から北人たちと混血していき、アイヌは北海道に移り住んだらしい口伝がある。アイヌもまた混血していると思われるから、縄文人達の事だと推測されるし、やって来た人たちは弥生の人たちだろう。そうだとすれば、わりと我が古代史は靄のかかったものでは無くって明るく読めると思う。
参考>http://www8.tok2.com/home2/aramar88/bbs2/webdiary.cgi?mode=allread&no=4&page=0

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Subject:Re[7]:新年  From:キルドンム  Date:2004/05/25 18:55
No:1940
>あるいは、日の本と倭とが逆の関係ということも
 言葉足らずで、誤解を招きかねませんでしたね(笑)。
日の本が30日一月制で、倭が15日一月制であった可能性もある、と申し上げたかったのですが…。
 と思いながら、『旧唐書』を再確認してから、ついでに『新唐書』の方も見てみると、あれ?意味が全然逆になっている!すなわち、『旧唐書』巻199上では「日本国は、倭国の別種なり…或は云ふ、日本は旧小国なるも、倭国の地を併すと」となっており、小の日の本が大の倭に取って代わった(実態は日の本)ことになっているのですが、『新唐書』巻220の方は、「或は云ふ、日本は乃ち小国にして、倭の并す所と為る、故に其の号を冒す」として、倭が日の本を併合した後、自ら日の本と名乗ったこと(実態は倭)になってしまっている。これはどうしたことなのやら。
 まあ、こんなことは古代史の専門の方々には常識になっているのかも知れませんが(と思うがよくはわからない)、この記述の混乱は倭が「日の本」に変わる際の現実の混乱を反映したものなのか(笑)。
 それよりも中国の史書がことごとくは信用できないことの一証左とした方が無難でしょうね。

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Subject:Re[8]:新年  From:荒間宗太郎  Date:2004/05/25 22:35
No:1948
日の本の方が倭よりもかなり大きかったのはほぼ間違いないところ。文化というの攻撃的な文化で言えば倭の方が上で(^^;;。
そこで倭が日の本と合併し実をとったというのが真相だろうと推測している。
合併に漏れたというか加わらなかった日の本もかなりあったと思われ、その後ずっとまつろわぬ人々と言われる「国家群」が東日本に残っていたし、西暦の15世紀頃までにも北海道に残っていた。
この日の本と言われる人たちの国家群が縄文人達だろうとかなり強く思っている。
五千年以上前からこの列島に都市国家群が無数にあったという前提で。
イングランドやスコットランドはローマ帝国に組み込まれて居なかったと言われているけどしっかりローマ帝国時代の遺跡がスコットランドに残っている。
イングランドの史跡は跡形もなくアングロサクソン達に滅ぼされてらしいが(^^;;。
ユーラシア大陸の東西の弓状列島でそう言うことがあったのだろう。

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Subject:昔は0歳が無かった  From:波浪規定  Date:2004/05/26 23:36
No:1958
1 2 3 4 5 6 7 8 9
    1   2   3   4
上の段が1年で2年の歳の数え方下の段が普通の数え歳?

普通の数え歳を1年で2年に換算する場合
X=2
1歳はX+1=3
2歳は2X+1=5
3歳は3X+1=7
という方程式?でいいかな。

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Subject:Re[2]:昔は0歳が無かった  From:荒間宗太郎  Date:2004/06/08 10:47
No:2015
>>1 2 3 4 5 6 7 8 9
>>    1   2   3   4
>>
>>上の段が1年で2年の歳の数え方
>>下の段が普通の数え歳?
>
>普通の数え歳を1年で2年に換算する場合
>X=2
>1歳はX+1=3
>2歳は2X+1=5
>3歳は3X+1=7
>という方程式?でいいかな。

a>> 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
b>> 1   2   3   4   5   6   7   8
c>> 0   1   2   3   4   5   6   7
aが古来の現在の一年を二年と数える場合の歳の数え方、
bは明治までの「かぞえ歳(零(ゼロ)の概念がない)」の数え方。
cが現在の数え方(零(ゼロ)の概念がある)と言う事で、オーケーだとワシも思うよ。

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Subject:Re[3]:昔は0歳が無かった  From:波浪規定  Date:2004/06/08 20:12
No:2020
ありがとうございます。1年で2年というのを、学者もちょとでいいから、けんきゅうしてほしいです。

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以上「竹林問答塾(http://f4.aaa.livedoor.jp/~aramar/)」より転載