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異国旅話


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Subject:149] カンボジアの話
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/14 02:23

私は、もうすぐ三十路なんですよ。
でも、とりあえず、自由に書けるのが、こことおちょくり塾だけなので、ここで、カンボジアについて書かせて頂きます。
でも、果たして、カンボジアの事を記していく事が、ここのサイトの発展につながるのかは分からない。
でも、私は、十数回、カンボジアを旅してきて、あの国において、(まあ、大げさに言えばだけど)私達の最終の敵と考えていたのが、つい最近まで生きていたポル・ポトであり、ひいては、中共へとつながる事を考えれば、この「保守サイト」との関わりも少なくないかも知れません。
最初は、十年程前に交際していた女性の父親に連れられて行き、彼の地を訪れました。
一郎さんとも、三度ほど、行きましたか・・・。一郎さんは、自己主張控えめな文武両道の男なので、とても頼りになった。
来年は、近所の共産党のおばちゃん連中を連れていかなくてはならない(おばちゃん連中に「共産党による虐殺の現実」を見せて、オルグるつもりです^^)。

てな訳で、次回から、ちょっとづつ、カンボジアの事を書いていきます。
でも、私が書くのだから、「物語」形式になりますからね。
また、旅行者には、「カンボジアおたく」が非常に多いのです。もしかしたら、そういった人々を呼び寄せちゃうのが恐いなあ。
私も詳しいつもりだが、上には上が無数にいるからなあ。

ちょうど、一昨日の産経に、カンボジアで亡くなった従軍カメラマン・一ノ瀬泰造の記事が載っていました。で、本日、先ほど、日本テレビの「ドキュメント03」で、同様の内容の番組をやっていました。昨日は、TBSの「ウルルン滞在記」の舞台がカンボジアでした。先週の教育テレビのアニメ番組「モンタナ」では、「アンコールワットは危険な香り」の副題で物語が展開していました。先々週辺りは、テレビ朝日で「鶴太郎のアンコール巡礼」みたいのを放送していた。
私が、ここでカンボジアの事を記すのは、満更、みんなの興味を惹けなくないかも知れません。

一つ、言っておきたいのは、私は多くの国を旅しましたが、長期滞在した国は、ほとんどありません。それは何故かと申しませば、あくまでも私が根付いているのは「日本」以外の何ものでもないからです。「日本」以外の国では住めないし、「日本」以外の国には住みたくないし、「日本」以外の国は、私にとって「旅」する対象にしかならないのです。これからのカンボジアについての話で、私はカンボジアの子どもに対し、格別の優しさを示します。それは、私が、所詮は「旅人」だからです。仮に、カンボジアに骨を埋める事になったら、私は、「優しさ」だけをあらわにするような無責任な事は出来ないでしょう。
私が、「日本」に対し、「優しさ」だけを向けるような無責任を犯していないのは、荒間サイトに集う皆さんと同様です。

それから、ここは、若手の方が活発に議論する掲示板です。議論の出来ない私の事は適度に無視して、他の方は、他の方同士でガンガン語ってください。私の存在(文章)は、ここをクリックしてくれる方に対しての、更新されてない時の寂しさの穴埋め係だと思ってください。せっかく、閲覧者が、この板に来訪してくれたのに、この板が、前回見てくれた時と変わっていなかったら寂しいじゃないすか・・・。
てな訳で、後日より、書かせて頂きます(毎日は期待しないでね)。
次回は、カンボジアの奥地で、撃たれた時のお話です(いきなり、盛り上がる)。
なお、これからは、どんなに長くても、一話600字で収めますね。

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Subject:150] カンボジアの話・ベンメリア寺院(前篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/15 07:26

1998年4月、ポル・ポト(本名サロト・サル)は死んだ。
それから半年後の10月、今なお、ポル・ポト派の残党は、カンボジア各地に潜んでいるとされていて、その奥地への、旅人の侵入を拒んでいた。もちろん、地雷もわんさか!
私・ミッドナイト蘭は、当時は、危険地域とされていたベンメリア寺院を目指していた。
今でこそ、奇矯な旅人ならば、幾らかの金を出せば、半日かけて観光できるトコとなったが、その時点で訪れる人物は、ましてや、研究者でもない一般の人物が来訪する事なぞ、数える程しかなかったと思う。
カンボジアに来るのも五回ほどを経て、もう一人で旅するのに何ら抵抗はなかった。そして、冒険心は、新たなる刺激を求めていた。
フランス人研究家ブリュノ・ダジャンスの著書に、一行だけ記述のあったベンメリア寺院を目指す事にした。アンコール遺跡群から東に40km(直線距離)にある「巨大な寺院」だそうで、期待は高まった。
三人の男を雇い、二台のバイク(スーパーカブ)に分かれ、アンコール遺跡の城下町・シェムリアップから、わりに整備された国道六号線を東に進んだ。両側に低い緑を擁した国道は二時間ほど続き、左折し、北に向かった。国道から離れると、いよいよジャングルが深くなり、そして、道行く子供たちの服装もセミヌードに近くなっていった。
つまり、貧しくなっているのだ。
森に見え隠れする家屋も、コンクリ造りなどなく、木造はおろか、藁葺きの風情のものばかりであった。たまに、良い建築物を発見したと思うと、人民党の事務所だった。
子供たちも大人達も、私を見ると、珍しい旅人に視線を離せなくなる。私は、必ず頭を下げ、微笑んで手を振る事にしていた。
この年(1998年7月)、総選挙が行われたのだが、裸に一枚布を巻いただけの服装の女性達も投票をしたのだろうか?
緑深き中を、赤土の道を進む。空は、雲が多重で、合間に青空が垣間見える。
雨季だったが、天気は良かった。しかし、道は時折、両脇から溢れる水で遮られた。
カンボジアの大地は起伏が少ない、真っ平らなのだ。雨季は水が溢れる。・・・歴代のカンボジア王は、治水管理に知恵を絞ってきた。ポル・ポト時代は、無意味な公共事業でメチャクチャな灌漑工事を行い、各地で洪水被害を出した・・・
私は、何度となく、バイクから降りて、膝まで水に浸かりながら、歩いて進んだ。
三人の男はぶつくさ言いながら、バイクを押して後からついて来た。
私は、先にスタスタ歩きながら、その辺をチョロチョロしている子供たちにちょっかいを出したりする。
私が子供たちと遊んでいるのが長引くと、三人の男は、タバコを吸いながら、道端で待っている。
「ヘイ!」と呼ぶと、男の一人が、私の巨大なスキーバッグを持ってきてくれる。その中には、多量の対子供用グッズが入っている。各々、その子供に似合った物をあげる。
そんなこんなで、ベンメリアに進んでいく。
二時間以上経ち、かなり近づいた気配の中で、とてつもない水溜りが出現した。と言うか、もはや川だった。
私は、腰まで水に浸かりながら、慎重に歩を進めた。
三人の男たちも、バイクや、スキーバッグを持ち上げながらついて来る。
しかし、水量は多く、私達は迂回を余儀なくされた。(後編に続く)

            ・・・すいません。600字は無理でした。しかも前後編。

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Subject:151] カンボジアの話・ベンメリア寺院(中篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/16 14:55

「ベンメリア」は、「花束の池」と言うロマンチックな意味を持つそうだ。
で、私は、そこを目指し、腰まで水に浸かりながら進んでいた。
最初に出くわした水溜りでは、靴を脱ぎ、ジーパンを巻き上げたものだが、水深が腰ぐらいまで及ぶにつれ、どうにでもなれ気分になった。
方向は、三人の男が示してくれていたので、私が先頭になり突き進んだ。

最近知った情報だと、ここの観光が許されるようになったのは1999年の事のようだ。が、この時点では、1998年だった。また、よくよく考えると、この国にはワニもいて、時期的な治安の危険度以上に、常時危険な存在でもあった。コブラもいるし、地雷もある。

進んでいると、斜め前方5m程で、水面が不自然に跳ねた。
イメージとしては、ムササビのような小動物が、水に飛び込んだような感じだ。
私は、見るともなしに、その方向を一瞥し、視線を前方に戻すと、再び進んだ。
が、すぐに見直す。
(う、わーっ!)と思った。下半身の力がスコーンと抜けた。
30m程彼方で、男が、木の幹に背を預けながら、座りながら、ライフル状の長銃を構えていた。
・・・つまり、一発撃ってきやがった。
私が、走行する車の前を横切ろうとして車に気づき、恐怖で動きを止めてしまった猫のように怯んでいると、後ろの三人が状況を察し、銃を構える男に現地語で声をかけてくれた。でも、全く、緊張感がなかった。「おい、通らせてや」って気楽な物言いなのだ。・・・俺は撃たれたんだぞー。
恐怖は、私の五感を鋭敏にし、それまで当たり前だった気温や、セミの鳴き声が、鬱陶しいほど気になった。
二言三言会話を交わし、我々一行は、銃の男に近づいて行った。それまで勇ましく先頭を歩いていた私は、いつの間にやら、三人の陰をこそりとついて行く。足取りが重い。
・・・と、一人だと思っていた銃の男の回りには、二人三人と、どんどん人が集まってきた。カンボジアでは、誰もいないと思って立ちションとかしていると、草むらの中から、ふいに人が現われたりする。深いジャングルの一本道を進んでおり、ふと、森に目を凝らすと、森の中に、騙し絵のように村が存在している事も多い。銃の男の仲間が出現しても、恐怖ではあるが、意外な事ではなかった。
    (すいません、早朝書いていたら、いつの間にやら寝てました。後編に続く)

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Subject:154] おお! 隊長!
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/18 05:56

ここにきて、やっと、のんびりと書く気持ちになりました。
ゆっくりと、てらいなくカンボジア話を書きますわ。
隊長の、中西先生についての論文、丹精な文で、とても羨ましいです。
まあ、私は私の文章で書くしかない。
カンボジア話は幾らでも書けますので、若手版のにぎやか状態は任せてください。
今回は「後編」を書かなくてはならない筈なのですが、長くなりそうなので休日の土曜日にします。
前篇と中篇は、思い出しながら書いていたのですが、後編においては、それでは済まないと思い、撮影したビデオを見直しています。いや、はっきり言って、凄いです。マジで私は、腰まで水に浸かり進んでいます。地雷が除去されてないので、石の上を飛び跳び進んでおります。銃を突きつけられています。恐怖が蘇ってきます。
「ベンメリア寺院」篇が終わったら、続いて「壁の向うの狂気IN民主カンプチア」篇を書きます。かなり洒落にならない、トゥオル・スレンの虐殺博物館報告になります。ここには、イチローさんも行ってます。二度、行ってます。だから、イチローさん、私の文章に合いの手を入れてください。
とにかく、カンボジアは、私の専門ジャンルの一つなので、書き遂げるので、皆さん、楽しんでください。もちろん、アンコール遺跡についても書きまっせ!

東京テレビは、東京メトロポリタンテレビの事ですか?
ケーブルテレビをひいたトコに済んでいるのですな?
ブルジョワジーですな?
ところで、私は、三十路が近いと言っても、まだ、二年近くありますから・・・。
でも、仕事をしていると、老けるのが早いっス。

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Subject:155] カンボジアの話・ベンメリア寺院(後篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/20 03:13

遅れた説明になりますが、ベンメリア寺院は、簡単に説明すると、九世紀初頭から(実質的には)十五世紀半ばまでインドシナで隆盛を誇ったアンコール王朝(主にクメール民族)の、今に残る遺跡の一つである。
主に石造りである。故に、王朝衰亡の原因は幾つも考えられる(項をあらためて書きます)も、王都が放棄された後、その多くの遺跡が、かろうじて、今に残っているのである。
アンコール遺跡の主要なものは、後にきっちりと説明しますが、今回はベンメリア寺院です。ここは、その当時の情報によると、アンコールワットを創建した王・スーリャヴァルマン二世の治世に造られたと言われており、アンコールワットを建造する前の「習作」として十一世紀末から十二世紀初頭に造られたとされていた。(しかし、最近のアンコール遺跡関連の出版物には、これらの記述はない。間違いだったのか? さりとて、他の建立者や建造意図が書かれているわけでもなく、要は、謎のままなのである)
アンコールワットと同じヒンズー教の寺院であり、その周囲は4・2Kmで、ワットよりやや小さめである。

で、私は、そこ・ベンメリア寺院を目指し、正に、その直前で、何者かに威嚇射撃をされ、三人のボディガードともども、その何者かの一族の集団に囲まれつつ、されど緊張感なく、森の中を連行された。集団は、別に「敵」っちゅう訳ではなく、私を珍しがった村人が総出で集まってきた雰囲気だ。でも、清濁不一致のこの国において油断は禁物だった。ただ、数匹、オチンチン丸出しの幼児がいて、そいつらの存在が、私を安堵させる。真っ黒のチビ助、黒いキューピーみたいだ。
私を撃ちやがった男の描写は省略するが、その長銃が気になる。銃身が、途中で折れているのだ。つまり、照準が合わせられない筈なのである。故に、先ほど「威嚇」されたと思っていた(思いたい)銃撃は、私を狙ったのに外れた可能性があるのである。でも、こうして、村人に囲まれていると、段々と恐怖はなくなり、色々と考えられるようになった。
先ずは、数年前にバングラデッシュ(だっけかな?)で、ゲリラに捕らえられた早稲田大学の探検部の事を思い出した。当時、新聞で「無軌道な若者達」と言われたものである。私も、無軌道な若者とされてしまうのか・・・。
続いて、私は、当時、一人暮らしをしており、カンボジア来訪も複数回を数えていたので、今回は家族に旅行の話をしていなかったのである。いちいち心配されるに偲びなかった。もし、殺されるような事あらば、私の消息は、誰にも分からなかっただろう。身ぐるみ剥がされ、奥歯の金冠を抜かれ、その辺の肥料にされていた筈だ。
私は、思想とかは関係なく、昔から変な考え方を持っていて、「結婚は、幸せと共に、不幸を共有できる関係を築くことだ」などと思ったりしちゃっていて、つまり、人は一人の人間を、「愛」の名のもとで不幸に出来るなどと、バカなことを考えているのです。で、それとは、全く関係ないのですが、この時点で、自分の直観が、かなり「死」から遠ざかっているのが理解できたので、私は、決断したのです。・・・殺されても良いから、一人はやっつけてやる!
死の恐怖が遠ざかって初めて、死を覚悟するのが、卑怯な私に相応しい・・・

さて、村人の中には、軍服を着ている奴もいるのだが、軍人なのか警官なのかは不明である。どっちでも良いのであろう。私を撃った奴はいつの間にやら消えていた。後で考えるに、おそらく、奴は、村の自警団なのだろう、定位置に戻ったのだろう。
いや、私は、現地語はおろか、英語も限りなく話せない。回りの状況は推測するしかないのだ。
三人のボディガードは、何やらしきりに、集団のリーダーと話している。後で聞くに、ベンメリアは観光できないと固持されていたそうだ。それを三人が、「そこを何とか」と頼んでいたらしい。私は、知ったこっちゃなく、近くを歩く幼児のホッペを引っ張ったりしていた。
とある高床式の「木筋藁葺きリート(鉄筋コンクリートじゃなくて)」の家屋の中に入っても、なかなか話はつかない。
私は、家屋の外に群がった子供たちに、スキーバッグから取り出した対子供用グッズを配った。小さな村の三十人近い子供は狂喜乱舞した。幼児は良いなあ。純粋に喜んでくれる・・・。子供も、恥らいつつも、笑顔を絶やさない。

三人の男の話によると、「お金を少し払わないと、ベンメリア観覧は出来ない」との事。そういった時、私はクールになり、三人の男に言い放つ。「君達には、充分な報酬を渡してあるのだから、それでやりくりしてくれなくては困る」 すると、三人の男は渋々、経費内での交渉を開始する。

かくして、ベンメリア寺院観光が始まった。
ボディガード(遺跡監視員か?)が、更にいっぱい増え、総勢二十人位の大所帯で寺院内を巡ることになった。チビ助どもは、さすがについて来なかった。どこかで、私のあげた物で遊んでいるのだろうて。
今度は、完全なる軽機関銃を担いだ奴らも一緒である。
さあ、期待に胸を高鳴らせ、寺院へ。
しばらく森の中を進むが、なかなか見えてこない。
「まだか?」と、近くの男に問う。
すると、男が答えた。「もう、ここは、ベンメリアの中だ。東口から入ってきているんだ。
えっ!? 確かに、ブロック状に切り出された砂岩はその辺に転がっている。・・・しかし・・・。
その時、前方に本殿が見えてきた。しかし、森と一体化していた。
つまり、ベンメリア寺院は、ボロボロに崩壊していたのだ。石材は崩落し、そこに木々が根をはり、森を濃くしていたのだ。・・・ショック!
                     (す、すいません。完結篇に続きます)

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Subject:159] カンボジアの話・ベンメリア寺院(完結)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/24 04:20

皆さんも、テレビや雑誌で、アンコール・ワットの威容を見たことがあると思いますが、広大な大地にどっしりとせり上がる石造りの大伽藍。あれは、土台自体も高くなっており、その上に、有名なシルエットを形成する塔が立ち並ぶ<ピラミッド型>と言われるものです。対して、一説には、その「習作」として造られたと言われるベンメリア寺院は、その敷地の広大さにおいてはアンコール・ワット(東西1・5km 南北1・3km)に引けを取らない規模なれど、平らな大地に建造物を誂えた<平面展開型>の寺院であります。故に、いまいち見通しが悪いし、何よりも、整備されていないので朽ちるままになって、植物は生い茂り、森の中に隠れていた訳です。
ちなみに、「ワット」は「寺院」を意味します。だから、ベンメリア・ワットと読んだ方が良いのかも知れませんが、今までのままで通します。

ベンメリア寺院は、あまりにも、崩壊しすぎていました。
私は、獣道にも似た、踏みしめられた草むらの間を、前の同行者の歩いた足跡に自らの足跡を重ねて進みます。
地雷の危険がありました。本来、地雷の撤去作業の済んでない土地には、赤地に、頭蓋骨の絵と「Denger Mine!」の文字が白抜きになった看板が立てられているものですが、ここには、撤去・未撤去関係なく、看板が立てられてなかった。
「ここらの地域の地雷の状況はどうなんだ?」と私は、現地の奴に聞く。
・・・すると、「分からない」などとほざきやがる。

ベンメリアの本殿が近づき、崩落した石材も多くなり、その墓石風の上を、同行の20人でピョンピョン跳ねて進む。
私は、研究材料として、本殿壁面のレリーフをビデオに撮っていく、と言いたいのだが、この遺跡、壁面に、あまり浮き彫りが施されてないのだ。アンコール遺跡のほとんどの壁面には、神々や神獣・神話をモチーフとした芸術作品が見られるのだが・・・。ちょっと寂しかった。でも、のっぺらぼうの壁面に、素材である砂岩をくり抜いた格子模様の窓があるのも趣があった。
本殿入り口の破風部分には(この箇所には、特に細密な浮き彫りが多い)、三頭の象に乗ったインドラ神のレリーフがあり、ちょっと磨耗してたが、本来の精巧さが窺えて、とても嬉しかった。(彫刻ネタはまだあるけど省略)
本殿は、後に発売されて重宝した「地球の歩き方・カンボジア篇」によると、外周は一辺200m程だそうだ。「一辺」と言うからには、四角である。ここに限らず、多くのアンコール遺跡のほとんどが「方形(それも正方形に近い)」を基本としており、それぞれ四辺が、東西南北に対応している。寺院の中央塔から東西南北へ伸びる通路の、それぞれの辺(周壁)の中央には、それぞれの方角の名を冠した入り口や門がある。
その入り口の一つから、中に入る。途端に暗くなり、ひんやりと涼しくなる。
みんなで黙々と暗い回廊を進んで行く。当然ながら、照明器具などない。
アンコール遺跡には、大広間の空間は存在しない。残念ながら、その建築技術がなかったのです。故に、通路と、通路の幅(2mから4,5m程)の小部屋しかなく、それらをつなぎ合わせて巨大建造物を造り上げています。
なにぶん、何百年も森の中に放って置かれた遺跡であり、自然の静かなる猛威に晒されており、一つ何百キロもあろうかと思われる石材は、地中からゆっくりと成長してきた植物によってなぎ倒され、崩されている。倒された石材の上には苔がむし、植物が根を張り巡らせている。
「こりゃ、いかんなあ」 日本語をブツブツ呟きながら、異国の言葉を話す集団とともに、もう、墓石が折り重なっているような空間をピョンピョンしたり、はたまた、急に暗転する回廊へと進む。
と、その時、またもや、近くで石が「バチーン!」と跳ねた。
「うわっ!」と私は、しゃがみ込む。また、誰か撃ったのかーっ!
そろそろと後ろを向くと、若い奴がパチンコを持っていた。そいつは、通路の天井近くを指差した。暗いので見えなかったが、コウモリがいたのだと思う。
「言ってから、打てよー」 私は、やっぱり日本語で文句を言う。
道理で、通路内が臭かった訳だ。コウモリの糞の匂いだろう。

少し進むと、格子模様の影が通路に映っていた。外からの光が窓を通して床に落ちていたのだ。とても、美しい光景だった。光の帯の中に(映写機の光の中みたいに)、大気中の塵・芥がキラキラと瞬いていた。
そして、その窓の外は、通路だらけの本殿の中の、ちょっとした中庭風になっていて、やっぱり石材が折り重なっており、全体が緑に覆われていて、そこに、中空にある木々の樹幹の合間から、幾筋もの日差しが舞い降りており、また、その中を、雨上がりの草いきれがプランクトンのように漂っていた。・・・神々しかった。
いよいよ、中央塔に至る。
しかし、そこには、こんもりとした丘があり、やはり緑に覆われているだけだった。
完全に崩壊していたのである。目を凝らしても、緑の隙間に、崩れた石材の姿の一つも確認出来なかった。よりによって、一番大事な場所が消滅していた訳だ・・・。

かくして、私のベンメリア寺院探訪は終わる。
さて、そこら辺の村人全部を集めて、持ってきた古着を配る事にした。
ベンメリア周辺は、貧しい人が多かったので、こっちとしても配り甲斐があった。
子供も集まる。さっきも配ったし、子供なんか全部同じ顔に見えるので、おもちゃを二個貰う子もいたかも知れない。まっ、良いか! いつもの通り、おもちゃ・古着・文具は大量に持ってきていた。
幼児もトコトコ来る。赤ちゃんも、お母さんにしがみつき、やって来る。
みんな、まん丸で黒目がちで可愛いんだわ、これが!
そして、私を銃撃した奴もやってきた。
何やら、自分の長銃を指差し、私に訴えかけている。何言ってるか分からないが、こいつは私に、かけがいのない経験をさせてくれた。一生語り告げるネタをくれた。私は、そいつにリーバイスのジーパンを渡した。歯を見せて笑うスナイパー・・・、しかし、前歯が一本欠けていたので、ちょっと間が抜けていた。

アンコール遺跡の城下町・シェムリアップ州に戻り、知り合いのカンボジア人のタクシードライバーに、ベンメリア探訪を話しました。すると、「えーーーーっ! バンメリーアに行っただとーーー!?!?」と、凄く驚かれ、ちょっと優越感に浸りました。
・・・1998年の事でした。

それから十ヵ月後の1999年7月、「ニュース・ステーション」で、「幻のアンコール遺跡」と題してベンメリア寺院が紹介されてました。日本のドキュメンタリーの草分け的存在と呼ばれているそうな、牛山純一と言う高齢の方が、三十人ぐらいの軍人を引き連れ、ヘリコプターでベンメリア寺院まで行き、探索していました。
「ここは、まだまだ危険ですからねー」と、その方がのたもうていました。
私は、テレビを指差しながら、口をポカンとさせていましたとさ。    ・・・Fin

PS・皆さんの心の中で、ベンメリア寺院の姿が想像できないでいたら、すいませんです。アンコール・ワットの話をする時に、ちゃんと説明します。今は、イメージで捉えといてください。・・・うう、ね、眠い。おやすみです。

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Subject:162] カンボジアの話・ぬいぐるみ大作戦
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/26 03:23

カンボジアにも二度ほど行ったことのある我が弟は、1999年に結婚した。そのお相手であるハルちゃん(仮名)は、独身時代、かなりのゲームセンターマニアでした。特に、UFOキャッチャー(クレーンゲーム)を大変に好んだようです。
  ・・・クレーンゲームとは、
  透明なガラスに覆われた立方体の底に敷き詰められたおもちゃ(主にぬいぐるみ)を、
  同じく内部に設置されたクレーン状のマジックハンドで、
  外部からの操作によって挟み込み手に入れると言う、
  景品取得ゲームである。(1プレイ、100〜200円ほど)
                   ・・・・・年輩の方にも分かり易い説明^^
かくして、当時のハルちゃんの部屋には、とてつもない数のぬいぐるみがひしめいていました。しかし、さて、結婚する事になり、これだけの数のぬいぐるみを花嫁道具として持っていくのは正気の沙汰ではなく、さりとて、実家に置きっぱなしにしては、両親がそれを持て余すだけになってしまう。でも、処分するには、あまりにも可愛く、忍びない。そう、200体強のぬいぐるみ一つ一つに思い出が詰まっている。
 ・・・私は結婚し、幸せになる。だから・・・、
        ・・・だから、ぬいぐるみ達にも幸せになって欲しい!
ハルちゃんのそんな思いとは裏腹に、ぬいぐるみ達は、どうやら、次の燃えるゴミの日に処分されるのを覚悟したらしい。どのぬいぐるみの人形の瞳も、ハルちゃんの心象を映し出すかのように悲しい色を湛えていた・・・。
 ・・・ああ、どの子(ぬいぐるみ)も、
           幸せになる為に生まれ(作られ)てきたのに・・・。
        ぬ い ぐ る み の 運 命 や 、 如 何 に ! ?

2000年、200体強のぬいぐるみは海を渡った。
ぬいぐるみは、三人の男によって、カンボジアに運ばれた・・・。
私と一郎さん、そして、ゼット君の三人は、首都プノンペン〜シェムリアップ町〜アンコール遺跡を観光しつつ、チビどもと見るや、ぬいぐるみを配りまくった。他にも、おもちゃや古着・文具も大量に持ってきていたので、ぬいぐるみは幼児にのみ渡した(・・・いや、すいません、可愛い女の子にせがまれると、断れずにあげてました)。
・・・ゼット君は、そのような時、何をとちくるったのか、子供達に、おもちゃを放り投げてあげたりしました。ゼット君は、前の会社の上司だったのですが、その時ばかりは、私も声を荒げます。
「ゼットさん! ちゃんと一人一人に手渡してあげてくださいっ!!」
そして、子供達にも言います。
「みんなも、ちゃんと並んでくれ! 一人一個は渡すからさあ!」
私が怒鳴ると、しばし、子供らはおとなしくなるのだが、三十秒もすると、また混沌としてくる。中には、乱暴な子もいて、揉み合い圧し合いに癇癪を起こし、「アギャギャー!」とか叫びながら、隣りの子を殴ったりするのです。「ボコン!」とか音が聞こえると、もう、我々は、ドッと疲れがあふれてきます。
いつも心に言い聞かせます。「平等、平等・・・」
でも、たまにキレます。「こんにゃろー!」
かように、子供達にグッズを配ると言う作業は、とてつもなくハードな作業であり、カンボジアの各所で多くのパニック状態を引き起こします。出来る限りの知恵を働かせ、パニックを押さえつつ、我々は穏便に事を遂行していきます。
炎天下の中の遺跡観光は、ただでさえ疲労します。主要な遺跡が三十ほどあるのですが、どの遺跡でも2〜3キロほど徒歩での行動を余儀なくされます。そんな中、各所に子供はいます。更なる体力の消耗は避けられません。
でも、豆チビどもの喜ぶ顔を見ると、メチャクチャ嬉しくってたまらないのです。時には、喜びの表わし方を知らない子供もいます。でも、渡したミッキーマウスを両手でギュッと抱きしめたりしてるのを見ると、「ああ、無表情ながらも喜んでくれているのだなあ」と感慨深くさせられる。また、私の手から、おもちゃをもぎ取って逃げて行く子もいます。でも、そんな子に限って、私がその場から去る段になると、遠くから、「オークン(ありがとー^^)!」と手を振ってきたりします。私は頷き返すしかない。
そして、カンボジアには、多くの奇形の子らもいます。手の無い子、白内障の子、せむしの子、知能障害の子・・・(これらの子は、ベトナム戦争時の、アメリカ軍による枯葉剤の影響の二世・三世とも思えますが、それについては項を改めます。しかし、アメリカは、今回のイラク戦争でも劣化ウラン弾を使ったりしやがって、そういったトコは最悪ですな)。けれども、そのような不具者も、結構、みんなと交じり合って遊んでおります。地雷で足を失った子らもいます。最初、私もそのような子らを見るとショックを受けましたが、次第に「この国は、そんな国なんだ」「どいつもこいつも子供は子供、悪いガキは殴れば良い」と思えるようになってきた。で、ぬいぐるみを配りまくった。
また、ハルちゃんへのおみやげとして、ぬいぐるみを持って微笑む子らの写真を取った。

夜、我々は、アンコールワットの城下町・シェムリアップの食堂で夕食を済ますと、日中の体の火照りを冷ます為、真っ暗な町をふらついていた。
私と一郎さんは、どこかで一杯引っ掛けるつもりだった。
ゼット君は、「ZETURIN」であるので色街に消える予定だ。
カンボジアは素晴らしい遺跡の数々でも有名だが、街の各所に置屋(売春宿)を抱えているのでも有名だ。幸か不幸か、私と一郎さんは、そっちの方にはさしたる興味がなく、まあ、タイのゴーゴーバーを覗く程度であるが、ゼット君は違った。毎夜、色街に消えた。
人それぞれ旅の目的は違うので、私と一郎さんは、そんなゼット君を、毎夜、笑顔で見送った。呆れると言うより、昼間にハードな観光をこなしているのに、夜も夜で「ハードな観光」をこなすゼット君のタフさに感心していた。
で、三人で街をふらついていると、街の中心を流れるシェムリアップ川のほとりに堀っ立て小屋があり、そこに家族の姿が見えた。四畳半ほどの小屋である。父親と母親は起きていて、ロウソクの火の中、何やら語らっている。すぐ横には子供が二人寝ていた。生まれたばかりの子犬のように、クターッと体をくっつけて寝ている。私は、ゼット君に預けていたリュックの中から二つのぬいぐるみを取り出し、その堀っ立て小屋にサササと近づき、両親に「チュムリアップソー(こんちわ)」と頭を下げつつ、それぞれの子供の首元にぬいぐるみを置いた。朝、子供達が起きたときの喜びようを考えると感無量になりつつ、その場を去ろうとした。両親は、笑顔で「オックン(どーも)」と言っている。
その時、一郎さんが言った。「もう一人、いるよ・・・」
私は戻り、子供達をジッと見た。すると、確かに、二人の間に、もう一匹の幼児が挟まれていた。何で、身を寄せ合って寝るのか・・・? ホント、生まれたての小犬達のようだった。
で、ぬいぐるみをもう一個置くと、私達は、今度は本当にその場を去った。
そして、ゼット君は色街に消えた。

さて、日本に帰り、ぬいぐるみに喜ぶ子供達の写真をハルちゃんに渡す。
ハルちゃんは、写真を両手で持ち、ジーッと凝視した。
自分が大事にしてたぬいぐるみ達が、別の主(あるじ)の手に渡り、ハルちゃんも感慨無量だったであろう。ズーッと写真を見ていた。
堀っ立て小屋の子犬三兄弟の写真も、念入りに見ていた。
そんな、ハルちゃんを見て、私も少しホロっとさせられた。
そしたら、呟いた。
「このプーさん(ぬいぐるみの一つ)、
     取るのに三千円もブチ込んだ(お金をつぎ込んだ、との意)んだよね〜〜」
あんたの最初に言う事は、それかいっ!?!?!  ・・・ホロっとして損した。

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Subject:163] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第一の校舎・前篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/27 02:53

(お初の閲覧者の方へ)
私、ミッドナイト・蘭は、この保守思想サイトで、何故かカンボジアについての旅行記を書かせてもらっています。No149から、一連のカンボジア話を断続的に投稿しているので、興味のある方は、そこから読んでくださいな。

・・・私は、カンボジアの首都プノンペンにある、ポル・ポト政権下で実行された虐殺行為を今に伝える「トゥオルスレン博物館」には、五、六回ほど行ったことがある。兄弟やら友人、先輩やら彼女、色んな人とここを訪れたが、どの人物も一様に、そこを後にする時、暗澹たる思いに囚われるようだ。でも、カンボジアの悲劇を知ることは、カンボジアの栄光(アンコール朝)を見る前の試練だと言えた。そう言った意味で、私は、カンボジアの空路の玄関口はプノンペンであるべきだと思う。旅人は、プノンペンでここを見学し、そしてアンコール地方に移動するのが、あるべきこの国の観光の順序だと思っている。
・・・残念ながら、日本からカンボジアへの主たる経由地バンコクからは、プノンペンを経ないで、直にアンコール遺跡のあるシェムリアップへの飛空便がある。

以下、五年程前に書いた、私と知り合いの合作の文章を、ちょっとだけ手直しして投稿します。少し整合性に欠ける点がありますが、長い文章から抜き取った箇所なので勘弁してください。
また、私達は、キリング・フィールドを観た後にここを訪れたことを付記しときます。キリング・フィールドについても、そのうち記します。

・・・いまだ、太陽は中天に位置していたが、キリング・フィールドを経た僕らは、視界に、あまりにもの<非現実>のフィルターを被らされていたので、プノンペンの町は、にわかにもの悲しく、西日に照らされてでもいるかのような寂しい町並みに見えていた。
車は、トゥオルスレンのポル・ポト派による虐殺犯罪博物館に向かっている。町は、次第に悲しみのセピア色を濃くしていく。
車は止まった。目的地に着いたようだ。が、水たまりが、出入りを拒むかのように門前に存在していたので、モニリス(タクシードライバー)は、門の中まで車を乗り入れ、管理小屋に横付けしてくれた。
僕らが車から降りると見るや、門の内や外から、何人もの人たちがもの言いたげに寄ってきた。やはり、みやげの売り子や、身体の不自由な人々だった。それまで地面にうずくまっていたり、壁にもたれていたりして微動だにしなかった人々が、お金を持っていそうな観光客と見るや、のそりのそりと動き始める様は、何とも「ゾンビ」を思わせる。外見も、正直言って大差ない。
降りる前に、僕はメロン君(仮名)に言った。「悪いけどなあ、メロン君。ここはキリング・フィールド以上にきついかも知れない。でも、行こう・・・。ここを見とけば、カンボジアの悪い面のほとんどを知ることができる。後は、良い面ばかりだからさ」
メロン君は無表情で頷き、僕に続いて車から出る。
声を出さないメロン君に、僕は言い訳でもするかのように付け加えて言う。「ここはショッキングだけどさあ、これがカンボジアの全てではないって事を分かっておいてくれよ。子供たちはめんこいし、アンコール・ワットの素晴らしさには、きっと、度肝を抜かれるだろうしさ・・・」
「・・・何だよ、ドギモって・・・?」 メロン君はポツリと言う。
・・・かつては、ハイスクールであった敷地が目の前に広がっている。中庭を囲むように、四つの、かつての校舎がある。中庭を挟んだ向うに横に並んで二棟、両サイドに一棟づつ。そして、門を通り過ぎての直前に管理小屋がある。
モニリスは、近づいてくる者たちに現地語で何かを言い、遠ざけてくれた。(先ずは、とりあえず、中を見てもらおうじゃないか)とでも言ってるのか・・・。
管理小屋の前には、透明なプラスチックの箱が置かれている。中には、ドル紙幣の数枚が枯葉のように重なっている。見学料は2USドル、キリング・フィールドと同値段だった。
僕らが金を払うと、管理小屋のおじさん達は頷き、左手の校舎を示した。
僕らは、緑豊かな中庭をポツポツと横切っていく。辺りには、スコール後の晴天の、清々しい大気が満ちていた。植物は瑞々しく、可愛らしく咲く小さな黄色い花々の花弁には、露が光っている。花壇の周りには、無害な小虫が飛び回り、自由を謳歌していた。
キリング・フィールドでは案内人がついてきたのだが、ここでは僕ら二人だけの見学になりそうだった。キリング・フィールドでの案内人の額には、丸く、アザのような跡があった。何かのおまじないなのだろうか、お灸の跡なのか分からなかったが、何となくユーモラスだったので、僕はメロン君と顔を見合わせ、微笑みあったものだったが、彼・案内人の話す、ポルポト政権時の大虐殺の話に、僕らはしばし、笑顔の封印を余儀なくされたのだった。
トゥオルスレンの敷地の外からは、子供達の遊ぶ声が聞こえる。しかし、その声は遠い。僕は、ここが苦手だった。今さらながら言えば、出来ることなら来たくなかった。僕の足取りは、雲の上にでもいるかのように、覚束なく感じられるのだ。
歩いてる先に、いつの間にやら片足のない男が立っていた。笑顔を見せつつ、「さあ、見てこいや」とばかりに、両手で僕らを先に促した。片手にスコップが握られているので庭師なのだろう。僕とメロン君は、片足の男に対し、何度も小刻みに頷き、第一の棟に向かった。
       < 黙 示 録 > の 始 ま り だ。

(前置きだけでこれだけ長くなってすいましぇん。第一の校舎・後篇は、明日必ず!)

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Subject:164] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第一の校舎・後篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/28 00:23

 ・・・1975年4月から1979年1月、3年8ヶ月に及んだポル・ポト政権下では、全土で無謀な社会主義改革が強行された。それを妨害する「反革命分子(スパイ)」とみなされた人々は家族とともに次々に捕えられ、激しい拷問を加えられて尋問された後、処刑されていった。その「粛清」の舞台の一つとなったのが当時「S21(Security Office 21)」と呼ばれたトゥール・スレン刑務所で、現在はポル・ポト派の残虐行為を後世に伝える博物館として公開されている。・・・(中略)・・・ここには記録にあるだけで約2万人が収容されたが、そのうち生還できたのはわずかに6人。
                   (「地球の歩き方・カンボジア篇」より)
 ・・・ここで旅慣れた方は、「何だよ! 引用が<地球の歩き方>かよ!」と文句を言うかも知れません。別名「地球の騙し方」なんて言われるほど、情報の裏づけがあやふやと言われてますからね。でも、「地球の歩き方・カンボジア篇」は出来がとても良いです。ホントにカンボジアを好きな、<カンボジアおたく>が書いたのがよく分かる出来です。私は、カンボジア関連の本をかなり持っていますが、他人(初心者)に薦めるNo1のカンボジア本です。

(前篇からの続き)
メロン君は、「う〜」と、僕の肩を握っていた。強く・・・。
かつての教室だった場所がある。ロープで遮られ、中に入ることは出来ない。
コンクリートの床には、焼け焦げた黒い跡がある。骨組みだけのベッドがあった。その骨組みの一部には鎖が嵌められている。鎖のもう一方の端には、枷(かせ)が付いていた。再び、視線を床にやると、四角いブリキ状の箱が置かれている。少し錆びついている。便器だったのではないかと推測できる。窓には、鉄格子。
壁には一枚のパネル写真が掛けられている。
白黒の写真に映し出されているのは、この部屋の光景のようだった。
   一ヶ所だけ、違った。
写真の中のベッドには、真っ黒な人間が枷に自由を奪われて横たわっていた。
真っ黒であるのは、焼かれているからではないだろうか。既に、生きる自由が奪われた後の写真であった。(この写真は、いわゆる「カンプチア救国民族統一戦線」が、プノンペンを解放した時に撮られたものと私は考えるのだが、となると、ポル・ポト派の兵士が撤退する前に、嫌な言い方だが、「行き掛けの駄賃」とばかりに、収容者に油をかけて焼き殺して逃走したという可能性も大きい)
次の部屋も同じような光景が広がっていた。しかし、元<教室>である。よく言ったものだ。
「ここは、元々は学校だったそうだよ。今なお、強烈な教育をしかけてくるぜ・・・」
僕は、メロン君を振り向く。メロン君は、僕の顔を見返すことなく、何を答えるでもなく、泣き笑いのような表情で、部屋を凝視していた。僕は、愚かで、陳腐なことを言ってしまったものだと後悔する。
臭いはなかった。もし、少しでも何かが匂ったら、僕は耐え難い。
次の部屋も、その次の部屋も、同じような有り様だった。骨組みのベッドに布切れが残っていたりもしていた。
僕は、顔を両の手で拭い、「フゥ〜」と深い息をついてみた。教室の中は暗かった。部屋を越えて、視線を対面の窓から外に映す。鉄格子の彼方には、美しい青空が望めた。宇宙空間を彷彿とさせる、濃い青色だ。雲も濃く純白だった。風は、なかった。
第一の校舎を出る。
中庭である外界に戻ると、テレビでサスペンス映画をハラハラしながら観ていて、コマーシャルにでもなって、しばし現実に戻り、ホッとする、と言った安堵感に似た感情が起こってくる。

先ほどのキリング・フィールドでは、9000人もの虐殺犠牲者の頭の骨が供養されている塔でお線香をあげ、合掌した。その供養塔を後にした時も、卑怯な感情かも知れないが安堵感が起こった。
しかし、案内人は、そんなささやかな安堵を許さずに話を続けたのだった。
「今歩いている場所こそが、虐殺現場だったんだ・・・」と。そして、彼は赤土の地面を足でこすり、少しだけ土を掘り、目的の「物」をヒョイと拾い上げたのだ。
・・・それは人骨だった。
僕とメロン君は唖然としながら、そして、にわかに顔を青ざめさせながら、周囲に視線を巡らせた。
・・・すると、辺り一面に人骨が落ちていた。
・・・言葉がなかった。
メロン君は、無言で僕の顔を見た。
僕は、どんな表情をしていいか分からなかった・・・・・。

続いて、第二の校舎に向かう。

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Subject:165] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第二の校舎・前篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/30 06:20

二番目の校舎は、外から見学するだけではなく、教室内に入る事ができた。
人間の上半身を写した大きな写真が、何枚も壁に掲げられている。胸に番号札を付けられたカンボジアの男たち、女たち。色々な感情を窺うことの出来る、複雑な表情をしている。直立不動のムスッとした顔の者がいる。両手を羽交い絞めにされ、辛そうな顔の者もいる。痩せ細った男がいた。諦めきった表情の女がいた。
ポル・ポト派によって為された大虐殺の犠牲者の一部だ。ほんの一部だ。

・・・1975年4月17日、首都プノンペンにクメール・ルージュ(赤いクメール民族)の政権が樹立された。市民は、暗色の軍服の若き兵士を大歓迎で迎えた。
その夜、市民達は、それぞれ、自分達の住んでいる場所の扉をドンドンと叩く音を聞く。こわごわとドアを開く。そこには、銃を構えた表情の固いクメール・ルージュ兵が立っていた。
 「15分以内にここを出て、プノンペンから国道沿いに6キロ離れた地点に行け!」
後に、「カラス」と呼ばれ、民衆に恐れられる事になる黒い軍服のクメール・ルージュ兵は、そう命令してきた。首に巻かれたクロマー(襟巻き)も暗色だった。
全てのプノンペン住民が、それから五日間の間に自分の家を追われることとなった。プノンペンはゴースト・タウンと化した。この短期間の強制退去によって、多くの家族が離散し、そのままお互いの消息が不明になった。
クメール・ルージュ、いや、ポル・ポト派は、逃げ遅れた前政権であるロン・ノル時代の政治家達を一つ所に集め、射殺した。その家族に対しても容赦はなかった。セントラル・マーケット周辺には、300人にのぼる人々の亡骸が、無造作に重ねられていった。
郊外に退去させられた市民は、<新人民>と呼ばれ、蔑まれる者とされた。身体の不自由な者や、反抗的な者は、殺された。そう、キリング・フィールドの案内人が語っていたように、竹槍で突かれたり、鋭い葉っぱで喉を裂かれたりして・・・。新しき国家・民主カンプチアの為に有用な<労働力>の歯車に慣れる者だけは、地方の農村に強制移住され、命を奪われる事だけは免れた。農村では<旧人民>と呼ばれる、ポル・ポト派にとって都合の良い、西洋文化に侵されていない、素朴で質素な生活を続けている者たちがいた。または、ポル・ポト派支持層がいた。そこで、<新人民>は、生き地獄を味わう事になる・・・。
ポル・ポトを始めとするクメール・ルージュ首脳陣は、自分達がそうであったように、知識人・教養人の<恐ろしさ>を知っていた。「知識は民衆を操作する」と言っている・・・。そして、一般民衆には<学>は必要ないと、と断じた。
   「我々の言う通りにすれば、カンボジア国民として、
       国家の自立に誇りをもてる生活が開けている」
   「カンボジアの問題に、何ら他国の知識が必要だろうか?」
ポル・ポト派の首脳陣どもは、その政策に付随するだろう多くの矛盾に気付く術もなく、そのような確信を抱いていた。かくして、何らかの嫌疑を受けて、もしくは、国家に対しての反逆の疑いなどを受けなくても、知識人は、何らかの言い掛かりをされ、投獄され、ると同時に、殺された・・・。

次の<教室>に入る。
やはり、人物の写真があった。先ほどのパネルサイズよりも小さな写真(日本のスナップ写真サイズ)で、数が多い。先ほどの部屋の写真を1とすると、6掛け6の細かさで、壁に貼られている。
多くの人物の顔が、こちらを見ていた。
次の部屋。写真のサイズは同じだが、更に数が多くなっていた。
更に次の部屋。
壁の全てに隙間なく、犠牲者の写真が張り巡らされていた。何百人と言う数にのぼるだろう。何千人かも知れない。
僕の背後で、さすがに、僕の上着の裾をきつく握り、沈黙のうちにいたメロン君が言った。「この国では、何が起こったんだ? 何で、こんな事になってしまったんだ?」
                              (To Be Continued)
PS・でもポル・ポトと、私が名前を出す事を自粛している「あの人」は似ているなあ。
  そろそろ、一郎さん、出張ってください。

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Subject:166] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第二の校舎・中篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/03 21:38

・・・僕の背後で、さすがに、僕の上着の裾をきつく握り、沈黙のうちにいたメロン君が言った。「この国では、何が起こったんだ? 何で、こんな事になってしまったんだ?」
無垢なる未成年者は、当然に起こってくるだろう質問をしてきた。キリング・フィールドでも、若者は同様の問いを発していたのだが、僕は返事を濁し、その質問の答えを案内人に委ねた。案内人は、「アイ・ドント・ノー・・・」と答えていた。ポル・ポトの狂気の理由なんて、私には分かろう筈がないよ、と。
次の部屋に行くと、ポル・ポトと思われる人物の胸像が置かれていた。その顔面には、ペンキで「X(バッテン)」がされている。この部屋には、収容者に対しての拷問の道具も幾つか陳列されていた。部屋は暗く、僕らの他に観覧しているのは、既にこの部屋にいた白人の初老の男と、そのガイドをしているカンボジア青年だけだった。青年の口から洩れてくる英単語が、ポル・ポト派の残忍さを訴えている。が、何にしても、人の気配があるのは、少し安堵する。
   ポル・ポト政権は、殺戮を繰り返し、生き残ったカンボジア国民に
              徹底的な恐怖を植えつけ、何をしたかったのか?
「オウム真理教の事件があっただろ」 僕はメロン君の問いに答える努力を始めた。
「麻原(彰晃)は腐りきった汚物のような奴だったが、少なくとも、回りの者の多くは、その初期の段階においては、自分達の信じる神に理想を抱いていたと思うんだ。しかし、結果として、あんなにも片寄った、間違った組織に堕し、ハチャメチャな事件を引き起こした。・・・ポル・ポト派も同じだ。共産主義と言う、その定義においては、なかなか大層ご立派な政治思想の下、カンボジアに<理想郷>を築こうとした。でも、理想ってのは、スピーディーに叶えられるものではないらしい。じっくりと、段階をおって成熟するものらしい。俺みたいな、いい加減な男がそんな事を言っても、説得力ない事この上ないんだけどなー。でも、俺みたいな、いい加減な男でも口にする事が出来るのが<理想>だ。・・・だからと言って、憧れの理想のアイドルが、俺の彼女にパッ!となってくれるような、むしの良い<理想>は叶えられん・・・」
僕は、メロン君の顔を見た。メロン君、頷いてやがる。
「チェッ! そう言う時だけ頷きやがる。・・・うん、だからさ、俺みたいな人間が理想を実現させる為には、長い時間をかけて、ゆっくりと努力するしかないんだ」
ああ、何だか、話の趣旨がどんどんズレていく。所詮、僕には宗教や思想を語る事は荷が重い。「つまり、だ。理想を追い求めていく時、安易に結論に飛びつこうとすると、それは杜撰で、滑稽で、酷い結果を生むことになるってこと。分かりましたかっ!? メロン君っ!?」
僕は、努めて明るく言った。
「分からない、ゼンッゼン分からない。もっと分かりやすく言ってよ」
そう言うメロン君は、少しだけ元気が出てきた。
「だからあ、答えを簡単に求めるなって言ってんだろ。急がば回れ!って事を言いたいんだよ。ポル・ポト派も、オウムも、早急なる変化を目指し、歪みを生じさせたんだ(もっとも、それは、多くの原因の中の一要因に過ぎないが・・・)」
僕は、わざとに荒っぽく言っている。何にしても、メロン君にふさぎ込まれちゃ、寂しくっていけない。確かに僕らは、衝撃的な記録を目の前にしている。しかし、僕たちは僕たち、不幸な彼らになる事は出来ない。・・・自分達の出来ることから始めようぞ。
「ハイハイ」
メロン君は、冗談めかし、顔に笑みを浮かべて答えるのだけども、顔には赤味が差していて、過酷なる出来事の記録に対しての心の疲労が窺えた。
・・・・・第二の校舎の出口に向かった。出入り口からは、外界の光が差し込んできていた。僕らは、眩しさに目を細めつつ、その部屋を後にした。

「こんなにも、悲しい出来事を知ってしまったのに、・・・」 メロン君は語り始めた。「心に、本当の悲しみが込み上げてこない。僕は、冷たい人間なのかなあ・・・。衝撃は受けているんだけどね。腹の下のほうに、何とも言えない不快感が漂ってる・・・」
「ははは、な〜に見当違いの事で、自分を責めるんだよ。俺達は、彼らではない。彼らの受けた悲しみを、100%共有するのは難しいよ。・・・でもさあ、メロン君、自分の身内に不幸があれば悲しいだろ?」
頷くメロン君。
「でも、隣町の誰々さんが亡くなっても悲しくないだろ?」
頷くメロン君。
「悲しみを共有できる、してくれる人間関係の範囲って、あると思うよ。その事件・事例によっては、悲しみの共有が「国」の規模になるときもあるだろうし、その反対の極北には、とてつもなく無関心とされる「死」もあるだろうし・・・。その代わり、喜びを分かち合える人間関係の範囲もあるだろうし・・・。説明するのは難しいけど、例えば、メロン君が、このカンボジアの悲劇の話を詳しく知り、自分の毎日の生活の中の情動が、その悲劇の話とシンクロした時、初めて、この悲劇を理解することになるのかも知れない。・・・まっ、もしかして、これから旅を続ける中で、多くの人たちと出会い、その人たちと、喜びや悲しみを共有できる関係が出来るかも知れない。それで良いんじゃないかい?」
「そっか!」 微笑むメロン君。
「とは言え、ここに渦巻く悲しみの数々は、スルーし難いな。知らんぷりするには、罪悪感が起こってくる。・・・でも、もう、難しい事は聞いてこないでくれ、疲れるから・・・」
                                (後篇に続く)

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Subject:170] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第二の校舎・後篇と、第三の校舎・全篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/10 04:20

(・・・これらの文章(トゥオルスレン篇)は、七年ほど前の出来事を、五年ほど前に記したものなのですが、内容が、表現が、現在の私の言動と、ほとんど同じで面白くてたまらない。つまり、私は全く成長していないのです。ただ、元の文章はもっと長くて、縮めるのが難儀でやんす。後、引用する書籍の著者に「左翼」な方も多数いると思われますが、もう面倒くさいので、そのまま突っ走ります。まあ、かえって、日本共産党党員の著者の方が、自分の党とクメール・ルージュとの違いを明確にしなくてはならないので、ポル・ポト派の所業に対し、容赦なかったりしています)


  ポル・ポト政権は、殺戮を繰り返し、生き残ったカンボジア国民に
              徹底的な恐怖を植えつけ、何をしたかったのか?

「カンボジア最前線(岩波新書・熊岡路矢著)」
  ・・・ポル・ポト派政権は、直接的な共産主義の実現を目指して、
  市場・貨幣・学校・病院を廃止し、仏教およびあらゆる宗教を否定し、
  全国民を「サハコー(合作社)」と呼ばれる人民公社に収容し、管理した。
  「サハコー」は、内容的には強制収容所であり、強制労働者キャンプである。
  家族は分けられ、旧体制の者や、反抗し不満を漏らす者、家族の死を悲しむ者は、
  多くの場合殺された。子どもは、「ポル・ポト派の財産」という観点から、
  物理的・精神的に親から切り離され、親を密告することまで奨励された・・・」

トゥオルスレン虐殺博物館第二棟で示された、膨大な数の収容者の写真・・・。それを、中学や高校の卒業アルバムに重ね合わせて見れば、不謹慎ながらも分かりやすい。
お世話になった先生、親友(マブダチ)、クラスメイト、部活の仲間達、憧れた先輩、生意気な後輩、大好きだった異性・・・。
そのほとんどが、死んでしまった、と言うか、殺されてしまったと想像してみる。
僕は不謹慎なことを記しているのだろうか? しかし、僕らには想像すること以外に何ができよう。カンボジアの人々には、それが、<現実>として襲い掛かってきた。
第四棟に記されているポル・ポト派によって虐殺された犠牲者の数・・・。
   死者      274万6105人
   行方不明者    56万8663人
   合計      331万4768人
カンボジアの人口、900万人に対してだよ。東京の人口に比すと、その4分の1がいなくなっちゃったんだ。少なくとも、家族の一人は亡くなっちゃったんだ。
(現在の私の注・もちろん、この数字をそのまますんなりと受け入れるつもりはないけど・・・)
僕らは、次の建物に向かう。屋外に出ると、やっぱりホッとしてしまう。建物の中で示されている出来事が、狭義で言うところの<過去>のものであったことを外気が教えてくれる。
・・・しかし、過去とは言え、現実に起こった出来事だ。
僕とメロン君は、見るともなしに、目の前に立てられている「やたらと背の高い鉄棒状のもの」を眺めていた。
下腹部に、言葉に出来ない不安が澱み始める。
「こ、これって・・・これってさあ・・・」
メロン君は、熊手のように長く細い指でお腹を擦りながら言った。未成年ではあるが、手首から先だけは大人っぽい。
「・・・これって、もしかして・・・?」
僕は、きっと情けない顔で答えていたと思う。
「ああ、絞首刑に使われたんだな、きっと・・・」
                   (第二の校舎・後篇・終わり)
続いて、
   カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第三の校舎・全編)
僕たちは、トゥオル・スレンのポル・ポト犯罪展示場第三棟にて、戦慄させられていた。
ここには、収容者の雑居房が、そのままに残されている。
第一の棟の収容部屋とは、かなり異なっている。先のものが独房・個室(おそらく、重要政治犯、もちろんポル・ポト一派に対しての)だとすると、ここは、一般の、反ポル・ポト体制の人々や、体制の不適合者の人たちを収容する、小さく区画割りされた大部屋だった。
細長い校舎のワンフロアーをぶち抜いていて、公衆便所の個室ほどの大きさ(半畳)で、茶色のブロック塀で小さく区切られている。個々の部屋に扉などはない。しかし、収容者は逃げる事はままならない。ちゃんと鎖と枷が壁に埋め込まれている。そして、犬の餌箱にも似たお皿が置かれている。
トゥオル・スレン全体には、四棟三階建ての、かつての校舎がある訳だが、展示場として開放されているのはグラウンドフロアーだけである。二階や三階は封鎖されている。おそらく、ここで見られるような多人数収容部屋が、<恐るべき単調さ>で存在しているのであろう。
   自由を奪われ、何もない、この狭い空間で、収容者たちは何を思ったのか?
想像ができない。僕にとっては、とてつもなく恐ろしいことのように思える。
メロン君は、小部屋の一つに入り、中腰になって回りを見渡している。手を伸ばし、壁面ブロックに手を触れている。
「見て。捕らえられた人たちの手を伸ばせる範囲のブロックは、角が欠けてる・・・」
「・・・捕らえられて、この部屋に入れられ、死を待つのみとなった人々が、無気力に苛まれ、手を伸ばしていた箇所なんだろうなあ・・・」
僕は、何とも言葉の無意味を感じた。そんなことが分かったからとて、何のメリットがあるのか、と。
その時! 立ち上がったメロン君が、僕の背後に視線をやり、ビクッ!と体を震わせた。瞳に驚きが宿っている。
「どうしたん?」 僕も背後を見る。
視界の中は、ブロック塀が折り重なり、迷路のように見えていた。壁によって、更に暗さの深まる小部屋もあった。
「ううん、ううん」 メロン君は首を振りながら答える。「何かさあ、そこの斜め前の部屋に、少年の姿を見ちゃったような気がしちゃってさあ」 無理やりに笑って見せる。「いや、妄想と言うか、幻影と言うか、何て言えば言いか・・・、自分が、わざとに見た想像だってのは分かるんだけど・・・、・・・。だってさ、こんな悲しい歴史上の出来事があったって、今日初めて知ったでしょ。だから、僕、混乱しちゃって、そこにさあ、捕らえられた、上半身裸の少年の幻を見ちゃったみたい。本当だよ、ホント。膝を抱えてうずくまって、上目づかいにこっちをみつめているような感じで・・・」
そして、メロン君は、直視したくないのだろう、片目を閉じ、もう一方の瞳を薄目にして建物の外に出ていった。
僕には、何ともコメントのしようがなかった。だけども、メロン君の気持ちは、とてもよく分かった。こんなにもの<負(マイナス)>の情報の数々である。何がしかの、被害者からのメッセージを、心に想起させられてもおかしくはない。僕も、この犯罪博物館に入ってから、何とも言えない圧迫感を感じ続けている。この建物の、閉ざされている上層階に、何十人、何百人のもの人の気配さえ感じてしまうのだ。ミシッ・・・、などと天井から、幻聴さえ聞こえてくるかのようだ。

・・・僕にでも、その<少年>の幻影を想うことは容易だった。第二棟で、カメラを見据えていた少年の瞳が思い出される。どの人物だとは特定できない。全ての人々の写真を引っくるめた総体の姿だ。
ならば、答えてみよう。少年の、<月光>のように澄んだ瞳の輝きは、何を訴えているのかを・・・。
・・・月は、欠けた時期のほうがはるかに長い・・・。
   (満月)
カンボジアの人々が懐かしむのは、平和で暮らしやすかった1953〜1970年と続いたカンボジア王国時代(シアヌーク政権)だった。貧しくはあったが、今は亡き家族との団欒があった。離れ離れとなった友人との語らいの時があった。忘れがたい思い出のいっぱい詰まった日々だった。
   (新月)
トゥオル・スレンは、監獄と言うよりも処刑場と呼ぶべき施設であった。そして、全ての一般国民が加入を余儀なくされた<地獄>が、強制労働者キャンプ<サハコー(合作社)>と呼ばれる人民公社だった。再び、「カンボジア最前線」から引用します。
  「・・・(サハコーでは)直接的な処刑ではないが、人海戦術による、大規模な堤防、
   かんがい設備、ダムをつくること、農作業は、早朝から深夜まで続いた。
   少量の食事と、医療が否定された事によって、この時代に亡くなった人々は、
   100万人の単位であるといわれている。ポル・ポト時代の三ヶ月に、
   家族の誰かを失わなかった人は非常に少ない」
ポル・ポト政権の権力機関は、<オンカー>と呼ばれ、ポル・ポト時代の唯一無二の絶対権力であった。
  「オンカーは、パイナップルと同じで
   たくさんの目を持っているから、我々の目は誤魔化せない」
  「知識人、旧体制の人間、文句の多い人間は、
   田圃の肥やしになるしか役に立たない」
オンカーの脅迫は、言葉通りに実行されていく。ポル・ポト派が、反専門家・反知識人・反学問の政策を執っていることは何度となく語ってきたが、サハコーで行われた作業は、その内容の杜撰を極めた。多くの時間を費やし、多数の犠牲者を生み出すこととなった灌漑の大規模工事も、基本設定に無理があり、その後のカンボジアの農業と生活に、役に立つどころか障害となった。堤防やダムの決壊は至る所で起こった。
カンボジアでは、雨季には雨水を保水地に蓄え、乾季に使うのが生活のサイクルになっていたのだが、クメール・ルージュの素人が設計した保水地・運河によって、水の流れが変わってしまい、水飢饉の村が続発した。
・・・アンコール・ワットを語る時、もっと考えてみたいのですが、<水>は、カンボジア国を考えるにあたり、非常に重要なキーワードであります。
・・・ポル・ポト関連の知識は、他には、小倉貞夫著「ポル・ポト派とは?(岩波ブックレット)」や、和田正名(日本共産党^^;)著「カンボジア 問題の歴史的背景(新日本選書)」、その他もろもろを参照させて頂いている。本多勝一著の「検証 カンボジア大虐殺」なんかは、あまりにも残酷な写真が多いので、読むに耐えられなかった。
熊岡路矢氏は、ポル・ポト派の国家事業に対し、こう感想を記している。
  「(サハコーでの)重労働は、実際の堤防とかの実現を物理的に目指すというより、
   人民の反抗へのエネルギーをそぐ為のものではないかと思えるほどである」
                          (次は、第四の校舎へ突入)

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Subject:171] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第四の校舎・前篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/13 02:35

最後の第四棟だ。
「メロン君、若いのにここまでよく見たよ。もう充分じゃないかい? ここは、いちお、俺だけがサラッと見てくるからさ、メロン君は門の前で待っててくれよ」
僕は気を使ってそう言ったのに、メロン君はついて来た。言い知れぬ不安感・不快感を下腹部に宿して、右手をお腹に添えつつ、僕の後を歩いてくる。
「僕は、良いことも、そして、いやな事も、経験しておきたい。この借りは、アンコール・ワットで返してもらいますよ」
「おお! 返してもらえるさ! この国の懐(ふところ)は深いぞう」
強い若者である。苦難に対しての適応速度が桁違いに速い。「泣いたカラスがもう笑う〜」って感じだ。まあ、この、芯の強さをして、若齢にもかかわらず僕の旅について来させたのだろう。・・・いや、その柔軟性は、若いからなのかなあ。
僕は、後ろを歩くメロン君の顔を確認した。メロン君は、アゴを心地、上方に向けている。この自信は何なのだろう? つい数時間まで、単純に観光を楽しんでいた子どもだった。そして、キリング・フィールド、トゥオル・スレンを経験し、生きる上での「どうにもならない、起こってしまった世界的悲劇の存在の一つ」を知ってしまった。数分前まで、大量の悲劇の情報に戸惑いを隠していなかった。急激な情報流入は、その真摯な思いに<妄想>さえ引き起こさせていた。
しかし、今は、自信を取り戻している。
  ・・・、・・・・・答えを得たのだろうか?
              この、未曾有の民族的苦難に対しての自分なりの答えをっ!
「負けず嫌いのガキだぜ・・・」
僕は、何かムカついたので呟いた。

第四の校舎、その最初の教室には、ポル・ポトを始めとする民主カンプチア国家の首脳らの写真が掲げられている。若い頃に写されたらしく、仲間と笑っている。
「あまり良く言いたくないけど、けっこうさあ、人の良い顔だよね」
と、メロン君が言うとおり、なかなか良い人相をしている。インテリゲンチャにも見えなければ、殺人を平気で犯すような人物にも見えない。町内の、気の良い、頼りになるおじさん、てな感じなのである。

   ポル・ポト(派)の小伝
 (ちょっと長くなります。この頃やっていたTV番組「知ってるつもり」風です)
ポル・ポトは、本名をサロト・サルと言う。<猿>である。
<猿>は1925年、カンボジアの中部、コンポントム州のある村で、地主の7人兄弟の末っ子として生まれる。親戚には、当時のモニヴォン国王の側近に選ばれた者もおり、<猿>はエリート階級の出身であると言えた。幼少時は僧門にいた年月もあり、その頃の体験が、権力掌握後の反宗教政策の背景になっている。
   「僧侶は社会の寄生虫や」
1943年、<猿>はプノンペンの技術専門学校に入り、そこで奨学金を得て、翌年にはパリの無線電気学校に留学する。そこで<猿>は、後に、ともに政権を担う事となるイェン・サリと出会い、彼が結成したマルクス主義者のグループに入会し、フランス共産党に入党する。
<猿>は後に語る。
   「留学の最初の年は一生懸命に勉強したが、
    翌年、進歩的な学生グループ(チンポ的な、In The Groove?)と、
    一緒になって活動した為に、勉強する時間がなくなってしまった」
   (注・「イン・ザ・グルーブ」は俗語で「矢継ぎ早に性行為をする」の意味あり)
猿にマスターベーションを教えると、無限にやり続けてしまう。それこそ、オチンチンから血を噴くまでやめないと言う。いや、血を流してもやめない。<猿>は、1997年(当時)の現在までも続けている。ポル・ポト主義政権の樹立を目指し、カンボジアの大地を揺るがすが如きマスターベーションを続けている。
<猿>の所属する留学生グループは、スターリン主義の洗礼を受けて、共産主義によるカンボジア国家再建を目指す点で全員の一致をみた。
   (しかし、ポル・ポト派は、定義上の共産主義とは言えないんだよなあ。
    オウム真理教が、金輪際、仏教とは言えないのと同様に・・・。
    アルカイーダが、純粋なイスラム教かと言うと、疑問が起こるのと同様に・・・。
    ・・・あるいは、共産主義を目指すと、結果的に<必ず>、
    虐殺に代表される「残虐」に至るのかも知れない。
    ・・・いや、そもそも、純粋な共産主義を目指して成功した国があったのかよ?!)

後に、シアヌーク体制の批判勢力となるポル・ポト一派は、元々は、シアヌーク国王自身が、国家の独立・再建に有為の人材を養成する為に、国費でフランスに留学させた優秀な学生たちであった。そのエリート学生たちがパリでマルクス主義に傾倒し、「反王制」を掲げることになった。皮肉な話である。かくして、シアヌークは怒り、1953年、
   「お前たちは、頭の中が赤くなってしまった!」
として、国費留学生の34人を「クメール・ルージュ(赤いクメール人)」として非難した。故に、ある意味で<クメール・ルージュ(お尻の真っ赤な猿軍団)>が公然化してしまった。
1950年代後半、続々とカンボジアに帰ってきた留学生達は、その多くがプノンペンの大学、リセ(高等中学校)などの教育機関の教員に採用された。それは、都市における彼らの活動を拡大させる事となった。
課外活動としての共産主義研究会を組織し、地下活動を活発化させたクメール・ルージュは、主に学生らの支持を受けて急速に勢力を伸張させていった。1960年代後半、シアヌーク政権によって弾圧を受けると、彼らは支持層とともに、「解放区」のジャングルへと入っていった。
<猿>が<ポル・ポト>と改名したのは、政権を握った後の、1975年の事だった。   「自分は貧農の出身だった」
と語り、王家との関係を否定したのは、自派を率いる為に、貧しい家庭の出身である事を強調しなければならなかったのだ。・・・猿の浅知恵。
<猿>が生まれ育った環境は、王家を取り巻くハイソサエティだった。兄は王宮の官房に勤務し、その頃、<猿>は王宮に自由に出入りすることが出来た。王家に繋がりを持つカンボジア人の世界は、カンボジア民族の伝統と誇りに生きる素晴らしい空気に満ちていたと言う。そこには、純粋クメール人として、カンボジアに寄生するフランス人・華僑・ベトナム人などより、圧倒的に優れているのだという強烈な意識があった。その意識の、歪んだ発言(ある一面の奇形的突出)が、後の政権時における政策に、確かに垣間見える。
そして、その事実が彼らに民衆の尊敬を集める一つの要因として、<猿軍団>の指導者34人の多くが、そろって、名門シソワット高等中学校の出身だった、がある。<猿>と同じく、後に歪んだ形での自負心を生み出す「種」を、そのエリート学校で宿したとは言えないだろうか? けして、その教育が悪かったのではなく、校風が、一部卒業生のその後の人生経験と、悪い方にシンクロしてしまったとは言えまいか・・・?
<猿>は最高権力者となった当初、
   「アンコール王朝より巨大なクメール国家を建設する」
と、熱っぽく語っている。このセリフ単体は良い意気込みだが、それに付随する「行き過ぎちゃった」自意識(他者を認めない)、及び、政治政策の「暴力」と言う<歪み>は、王家を囲む特権社会の一員になりきれず、「小判鮫」のように張り付いていたが故に起こる劣等感の現われと言える。<猿>の周囲にも、特権的階層で育った者が多い。
   ・・・いや、ここまで書いて思ったのですが、
    やっぱり、現代の保守派の戦いは両面の戦いを強いられますなあ。
    行き過ぎちゃった野郎ども、「右」に対しても、「左」に対しても・・・。
    そして、保守派自体からも「誤解」を受けそうだ。
    蘭ちゃん、やや、神経質になっております。
    でも、保守派に気を使って、自分の意見を調整するのは嫌だしなあ。
    間違っていた箇所があったら、どうぞ言ってください。
    でも、バランスは失っていないと思ってるので、続けます。
    ・・・しかし、ポル・ポトは、行き過ぎちゃった「あの人」と重なるなあ。
    いや、この後の文章など、左翼や「あの人」のことを言ってるに等しい^^;
    「あの人!」「左翼!」「あの人!」「左翼!」「あの人!」ですよ。

さて、シアヌーク政権時、弾圧を受けて「解放区」のジャングルに撤退したクメール・ルージュはどうなったか?
そこで彼らは、自分たちの「致命的弱点」を知る。そして、その弱点に気づき、その弱点を(当初は無意識だったのだろう)、覆い隠そうとした時、世界史上でもまれな、悪魔的な政体へと変貌していったのだ。
彼らのウィークポイント・・・、国の根幹を成す農村においての活動に全くの実績がなく、その活動はプノンペンの都市部に限られていた点だ。故に、彼らは「頭でっかち」と揶揄される事になる。
僕は、こんな話を思い出すのだ。フランス革命時のことだ。パリの民衆がパン(食物)を求め、ヴェルサイユ宮殿に押し寄せた。その報を聞き、マリー・アントワネットは言った。
   「パンがないなら、クロワッサンを食べれば良いんじゃなくて・・・」
世間知らずの、頭でっかち、だった。卓上の理論を振り回している間は、内外の知識人の支持も得られた。しかし、実践に移った時、カンボジア一般民衆に対しての政策の施行に躓いた。続いて、思い通りにならぬ事に腹を立てた<駄々っ児>が、自分のことを棚に上げて他者にあたるが如く、<大虐殺>に至る。
マルクス君も言ってるんですよねえ。
   「共産主義は、高度に発達した社会とともにある」
カンボジアは美しい自然を持った国だと思う。アンコール・ワット、本当に、真実、素晴らしい、見事な国家的プロジェクトの結果としての建造物だ。しかし、どう考えても、逆説的に考えても、高度に発達した社会ではない。いや、そもそも、総合的に考えて、世界に一国でも、「高度に発達した社会」を達成した国など存在してないと思う。日本を含め、世界中の全ての国は、「永遠の不完全」から逃れられないと思う。人間も、努力は怠らずとも、「永遠の不完全」が死の際には待っているのだと思う。それで良いのだと思う。

初期のポル・ポト(派)の「志」の中に、結果として残ってしまった<狂気>は宿っていたのだろうか?
二人の人物の言葉を引用したい。
池波正太郎は、その作品の中で、主人公にこう言わせている。
   「人間ってやつは、良いことをやっていると思ったら、
    いつの間にやら、悪いことをやっちまっていたりする」
そして、その逆説としての、社会学者マンデヴィルの「蜂の寓話」がある。そのテーマは、<私悪すなわち公益>である。つまり、私悪(私益)を追求することが、社会の経済等の循環を促し公益に繋がる、だ(蜂は、蜜の採取と言う種族の都合で多くの花弁を行き交うのだが、それが結果として、植物の花粉の交配に貢献しているっちゅう事)。
これを、更に逆転させる。公益を求めていたつもりが、いつの間にやら、私益の為に行動していた、と・・・。
かなり古くて、同列に記すのは問題あるのですが(まあ、七年前の経験・思考を、五年前に書いたのですよ。勘弁!)、政治家の田中角栄や金丸信、オウム真理教や日本赤軍、北朝鮮国家。その初期段階においては、純粋なる理想に燃えていたはずだ。故に、目的の逸脱を経た後も、少なからずの支持を得る田中角栄みたいな人物もいるのだろう。
理想に燃えた若きポル・ポト、その心はカンボジアの繁栄と自立、そして、平和を求めていた。それが、実際の行動に移った時、いつの間にやら、狂っていってしまった。その狂気は、<大虐殺>として噴出する。
・・・それこそが、正に、共産主義の、確実に避けられぬ<落とし穴>なのだろう。
しかし、彼(ポル・ポト)は生きている(1997年当時)。罪にも問われていない。罰も受けていない。あまつさえ、シアヌーク(この人も非常に問題のある人物だが・・・)は、ポル・ポト派に門戸を開いている。
                      (ポル・ポト小伝 終わり)

僕は、ポル・ポトの顔写真に呟いてみた。
「おそらく・・・、死んだら地獄に行くんだろうけど、せめて、少しだけ、今からでは遅いけれども、それでも遅くないから、ほんの少しだけは良い事して、そして、速やかに死んでくれや」
メロン君は、無言で、僕の脇に立っている。
                        (第四の校舎・中篇or後篇に続く)

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Subject:172] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第四の校舎・中篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/15 11:53

(これらの文章は五年前に書いた、と、もう一度言っときます^^)

第四棟については、具体的に記したくないし、記さない。酷いんだこれが・・・。マンガ的、とでも言えば良いのか。コミック本を手に取るが如き気軽さで、虐殺を行うポル・ポト兵の姿があらわになっている。しかも、その展示の仕方も、あまりにもマンガ的な直接的表現法による。
五つほどに分けられた最初の部屋こそ、前回も記したようにポル・ポト政権首脳陣の写真やら、破壊されたプノンペン市内の風景が展示されている。その街の風景はと言えば、戦争で破壊されたと言うより、あの事故後のチェルノブイリ近郊の街の如く、人々が強制退去し消えてから、街が廃れ、朽ちていったかのように、「主なき家は滅びる」てなイメージでゴースト・タウンと化していた。
・・・二番目の部屋からだ。稚拙なテクニックで描かれた、拷問の大きな図があった。たくさん、どの部屋にも掲げられている。キリストの受難の絵画の如く作者は記したかったのかも知れないが、芸術性は皆無だ。考えを巡らす必要なく、情景が頭に突き刺さってくる。マンガのように描かれているので、クリアーに光景が伝わってくる、それが重要なのかな・・・。具体的には記さないが、被害者の表情も、加害者の表情も、拷問道具もちゃんと描かれている。
淡々と描かれている。単純に、心に、恐ろしさが浸透してくる。恐怖は、下腹部の憂鬱なモヤモヤ感に重みを加えてくるのだ。
「うわ〜っ・・・」
僕もメロン君も顔をしかめてしまう。
拷問道具の本物(実際に使用されたもの)が陳列されている。大きなものから小さなものまで多種多様だ。いや、目的は一つなので、多種一様だ。拷問とは、「無理に白状させる為に、犯罪の疑いのある者に肉体的苦痛を与える事」と辞書にはある。
ならば、ナイフが一本あれば充分だろう。
しかし、ここに、三部屋に渡って展示されている拷問道具の数々は何を意味しているのだろう。違う、のだ。拷問によって得られる情報よりも、拷問そのものの為に作成された道具としか考えられない。どう考えても違う。・・・変だ。
「・・・SMみたいじゃないか・・・」
僕は、メロン君に聞こえないようにだが、呟いてみた。心中で思うだけでは卑怯な気がしたのだ。不遜な考えを抱いた時、それに対してのリスクは背負いたいと考えるからだ。だけど、僕の前を早足で進んでいく純粋な若者には聞こえないように言うってのが、やっぱり「俺」は、男らしくないなあ。
そして、ある一つの、根源的な疑問が生まれる。
   「何故、カンボジアの民は蹂躙され続けているのだろう・・・?
          そのような屈辱的立場に、甘んじているのだろう・・・?」
この問題は、項を改めて、ゆっくりと考えることになります。あるいは、この国を出る時には、メロン君の力を借りて、僕にも答えが出せるだろう。
 最 後 の 部 屋 は、 今 ま で に も 増 し て、 衝 撃 的 だ。
本物の人骨が多数展示されているのだ。
しかし、僕らは、キリング・フィールドにて9000人もの被害者の頭蓋骨を前にして、合掌し、お線香をあげていた。それは大変にショッキングなことではあったが、慰霊塔として死者を祀るのは良いことだ。
・・・が、この部屋はどうだろう・・・。
人骨を組み合わせて、壁面に、巨大なカンボジア地図を作っているのだ。
「なっ・・・!」
メロン君は絶句した。
僕もまいっちゃう。これにはまいっちゃう。そんなものは、あまりにも酷いものなのに、そこに存在してしまっている。
何故だ! 頭蓋骨を玩具の如く組み合わせて、こんなものを作らなくてはならないのか!
・・・この人骨地図は、ポル・ポト派が、その政権時に作ったものだそうだ。
ならば、何故、現政権は、この<骨>を、供養してやらないんだよ!
                            (今夜の完結篇に続く)
PS・しかし、この、七年前の出来事を五年前に書いた文章、これから、最も慎重な「操船」を余儀なくされます。「無差別テロ」以前の、「テロ」についての言及があるのです。あえて、文章の手直しはしません。どうか皆さん、「違いの分かる人のゴールドブレンド」的な見方をして頂きたい。
(注・キリング・フィールドですけど、当然ながら、カンボジアの各所にあります。今回話題とされているのは、プノンペン近郊のものです。私は、三箇所ほどで、手を合わさせて頂きました)

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Subject:173] カンボジアの話・トゥオルスレン博物館(第四の校舎及びメロン君・完結篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/16 07:11

確かに、衝撃的なトゥオル・スレンのポル・ポト犯罪展示場だ。そこで示された残虐行為は、この先の人類史で、けして繰り返してはならない事だろう。しかし、ここの幾つかの展示の構成は、<虐殺>と言う極重犯罪を展示するにあたって、してはいけないと思われる作為が感じられてならない。
ポル・ポト派に対する現政権の思惑を裏読みしなくてはならない。
そう、つまり、全てをポル・ポト派に押しつけちまえ、と言う思考である。
ドイツ人が、ナチスに、戦争責任の全てを押しつけたのと同義である(もちろん、普通のドイツ人も、戦争の加害責任を、いまだにコンプレックスとして抱いているようだが)。
もしくは、左翼が、先の大戦の全責任を旧日本軍に押しつけるのはおろか、現在の日本人全員に贖罪意識を植え付けようとしているのと同根の根を有する。
(もしくは、保守派を名乗る一部が、「戦前」「戦中」「戦後」全ての責任をアメリカに押し付けて、安心してるのと同じである。・・・注:もちろん、旧日本軍を、ナチスとポル・ポトと並列するのは、非常に問題ある(と言うか、完全な間違いな)のは承知ですが、それを利用する側は並列に値するでしょう・・・)

いや、カンボジア現政権が、全てをポル・ポト派に押しつけてるのは構わない。ポル・ポト派はそれだけのことをしでかした。でも、この博物館において、「虐殺被害者の頭蓋骨を、玩具のように組んで仕立てたカンボジア地図」を供養もせずに、そのまま展示しておくような現政権のやり方を見せつけられると、「あんたら、同じじゃん!」と突っ込みを入れたくなる。
      ・・・現政権の一翼を担うフン・セン首相は、ポル・ポト派出身である。
        シアヌーク国王も、何だかんだでポル・ポトを容認していた・・・。
僕が言いたいのは、密室虐殺国家の内部では、権力者・民衆区別なく、何百万人もの純粋な犠牲者を監視し、危害を加えるのに協力していた<準犠牲者>の存在の事実があると言うことなのです(稿をあらためて後述)。
つまり、ポル・ポト派、(ポル・ポト派からカンボジア民衆を解放した)ヴェトナム軍・ヘン・サムリン(ポル・ポト後の政権首班)軍、現政権、国王、そして、ポル・ポト政権下で、一般民衆でありながら一般民衆を管理した者たち、「どいつもこいつも同じ穴のムジナだあ!」「大人はみんな汚ねえ!」と左翼的に言いたくなっちゃう誘惑に駆られるのである。例えば、「ポル・ポト派の軍隊を撃退するにあたって、更なる銃弾を必要とし、更なる犠牲者の血を流さなければならなかったに違いないからなあ」などと・・・。
でも、ここで相対化を踏みとどまらなくてはならない。どの立場であっても、確かに、僕が頭の中だけで考える分には、「悪」の要素を持ちえてしまうのだが、やっぱり、ポル・ポト(派)こそが、第一に殲滅させられるべき「巨悪」なのである。それは、こうして、トゥオル・スレンを見ていけば、どうしようもなく明らかなことだ。
究極的には、「殺しまわる奴(極悪)は、(小悪をもってして)殺すしかない」のである。

ここで、またも考えてしまう。寄り道ばかりの文章をやめろい! と、お叱りを受けてしまうかも知れないが、それが私の持ち味ってことで・・・。
・・・ポル・ポト政権のような、目に見えての圧倒的な悪に対して、その下で苦しむ民衆を助けようと戦いを挑む軍隊がある。そして、表面には現われないが、腐敗していると考えられる政権に対して戦いを挑むテロリストのグループがある。前者の軍隊は義勇兵とされ、後者の集団は犯罪者とされる。この違いは何なんだろう? どちらにしても、流血沙汰は避けられないのである。世界のほとんどの指導者が、テロには屈しない、と高らかに宣言する。しかし、その人物がリーダーである政権が、既に、どうしようもなく(例えば)金権腐敗していないとも限らない。その金権体質は、国民全体に及んでいないとも限らない。「金(かね)」を持っているものが至上とされる価値観の横行。未成年者の性が、金で買われていないとも限らない。持たざる者は、懐にナイフを忍ばせ、他人を切りつける準備にいそしむのか・・・。表面に表われない腐敗は、痛覚に訴えない重病と同じで、気づいた時には、既に死んでいるのである。国家の<病死>である。それに気づいているのが、テロリストと呼ばれる奴らだけなのかも知れない。
ポル・ポト政権は、カンボジア国と言う肉体に瀕死の<重傷>を負わせた。世界の多くの国々が、その<手術>に協力している。しかし、その協力国の多くは、自国が、死と同義の<病気>にかかっていることに、全く気づいていないのかも知れない。
   (注・この頃の私は、テロリストは他国に危害を加えるものだ、
                  と言う事実を、どこかに置き忘れているなあ)

僕らは第四の校舎を後にする。
太陽は、まだ、照っていた。
「これで終わりだ。とりあえず、この国について、知っておかなくてはならない悲劇はない・・・。でもさあ、なかなか勉強になっただろ?」 僕は軽快に言ってみた。
「大学入試に出るかな? 僕、社会科は世界史を取ってるんだ」
僕らは、再び、管理小屋の前に至る。
管理人のクメール人と視線が合う。僕は、顔をしかめて「厳しい場所だね」って感じで応対した。した後、自分の表情が、彼には笑っているように見えてしまったかも知れないと思えてきて後悔する。そして、この期に及んで、そんな些細な世間体を気にする自分に不快感が起こってくる。
自分に対しての不快感は、すぐに、自分に対しての怒りと変わる。しかし、この、僕の下腹部に蠢く、トゥオル・スレンを巡っての不安感・不快感、いまだ怒りに変貌することなく、消極的なる「恐れ・脅え」へと縮こまってしまった。
けれど、自分としては、今現在のところはそれで良し、と思っている。少なくとも、回りの者に、何かを訴えられると言う可能性は残った訳だから・・・。「怒り」は男らしくて強いものだけど、「恐れ・脅え」もまた、強い。怒って突き進む強さは、時に粉砕される。しかし、相手の正体が判明するまでの長い時を耐え忍び、相手を見極めた後に発揮される強さには、何者をも敗北を喫するだろうて、ヒヒヒ。
「じゃあさあ、メロン君。その大学入試がさあ、こんな問題だったらどうする? <では、あなたは、その局面(悲劇)に対して、どのような対策を考えますか?>って」
僕は、スタスタと先に歩き始めてしまったメロン君に、意地悪く問う。(簡単には答えられない問いだべェ)と・・・。
すると、メロン君は立ちどまり、振り向くのだ。胸を張って、両足を心地開く。両手は腰に・・・。その顔、今までにない、大人びた表情だった。頬の紅潮までも凛々しい。こいつは、高校の仲間とバンドを組んでいて、多くのライブハウスで活躍している。自分をカッコ良く見せるアクションに長けていやがる。例えるならば、源義経、その若き頃の牛若丸みたいだ。
僕は一瞬、怯む。
「僕? 僕は・・・」 メロン君はハキハキと言った。演技者のようなセリフ回しも得意としている。「僕は、理解のできない出来事に対しては、けして、納得したりしない。断固として<ノー!>と言い続ける。怒りをパワーにして戦いを挑みますよ。そして、僕の戦い方といったら、これしかない・・・」

                「 歌 う こ と の み 」

まさか、そのような答えを用意しているとは思わなかった。(畜生・・・) 自分が情けなくて惨めになってきた。追いかけっこで先行していたのに、いつの間にやら抜かされて、おいてけぼりを喰らった様な気分・・・。
ああ、どんなに知識を得ようと、どんなに経験を経ようと、紛うことなき答えを提出できる<才能>には勝てないのだなあ・・・。心に、強烈な嫉妬心に似たものも生まれてきた。
僕は、映画「アマデウス」のサリエリを思い出す。天才モーツァルトの音楽を誰よりも理解しているサリエリ。しかし、その宮廷音楽家には、モーツァルトの如き才能は一片たりともなかったのである。
目の前にあるのに、手に入れられない才能・・・。
あるいは、織田信長と明智光秀の関係に似てようか。
・・・サリエリと明智光秀に共通するのは、自分にとっての<神の如き存在>の人物を手にかける事である。
僕は、精一杯明るく言う。
「協力するから・・・」
「うんっ!」 メロン君は、再び歩き始めていた。「もちろん、僕一人の力では何も出来ない。みんなの協力が絶対に必要・・・。だから、ミッドナイトさんも協力してくださいね」
僕の前を歩く<若き才能>は、それ程には傲慢ではないようだった・・・。
「ああ、協力してやるよ・・・」
「・・・じゃあ、次のライブのチケット、20枚捌いてきてね・・・」
・・・やっぱり、傲慢だ。
僕は、メロン君の背後に近づくと、両手で印を結び、思いっきり<カンチョー>を喰らわしてやるのだった。
「ウギャーーーーーーーーッ!!!」と、厳かな空間に奇声が響いた。
                            (トゥオルスレン篇・終了)

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Subject:174] カンボジアの話番外篇・ベトナムの話(引用転載)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/18 03:48

六年程前に、ちょっとした雑誌で読んだ短いエッセイを転載します。
短いのですが、何とも言えぬ、文章の「うまさ」を感じました。
昨日、ふと思い出したので、部屋の奥から探し出しました。

   「アオザイの秘密」 神田憲行
        (講談社 文庫情報誌「IN POCKET」1997・2月号より)
 初めてリナと会ったとき、僕はひと目で彼女に夢中になった。サイゴンの高級ホテルのディスコの中で、彼女は僕の友人でもあるゲイの弟と一緒だった。年のころは二十三、四、中国系の母親の血を引く淡い白い肌に長い髪とよく動く黒い大きな瞳が映えていた。もちろん僕はアプローチしたけれど、まったく相手にされなかった。
 なにしろディスコの中の男どもが一分と間をおかず、リナの脇に来ては一緒に踊らないかと誘うのだ。しかし彼女はどの誘いにも乗らず、相手が何を言おうがずっと煙草をくわえて、口を開くのはビールを飲むときだけだった。
 それから何週間か後、テト(旧正月)を迎える深夜に僕がひとりで屋台でビールをあおっていると、白いアオザイのリナがやってきた。月の光が照り輝いて、リナの姿は闇に浮いた隠花植物の花のように妖しく美しかった。彼女は疲れた様子で僕の隣に座った。
「60ドルでいいから抱いてくれない?」
 彼女は通りの角でシクロに乗って、こちらを観察しているベトナム人の男を指さしながら話した。
「あの男からお金を借りていて、今日中に40ドル返さなきゃいけないのよ。でも他の友だちからは断られて・・・。あたしのこと好きなんでしょう? 60ドルであたしの体に何してもいいのよ」
 いまさら売春を云々するほどウブではないが、この間まで真剣に好きだった女が相手だと、さすがにちょっと抵抗感があった。
「母親が病気であたしと弟がこうして稼ぐしかないのよ。でも娼婦じゃないのよ。誰でもいいわけじゃないの」
 アオザイの汚れた裾をいじりながら、彼女は一生懸命僕に弁解した。それが僕の心の留め金を外していった。
 結局、僕はリナを自分のバイクに乗せて真夜中のサイゴンをぶっ飛ばして帰り、テトで僕以外誰もいなくなったホームステイ先の家で、彼女を存分に抱いた。
 それから次にリナと会ったとき、彼女は白人の男と一緒だった。彼女はあのときと同じ白いアオザイを着て、昼間のサイゴンの日光を避けて木陰を選びながら歩いていた。そして僕を見つけると、すれ違いざま隣の男がわからないよう俯いて含み笑いを投げて行った。その一瞬の笑顔に僕はあわてて振り向いたが、アオザイが街に流れる風にあおられてまるで手を振っているようにひらめいただけだった。
 ベトナム土産にアオザイを作って着る日本女性は多いが、僕が言うのも僭越ながら、ベトナム女性の美しさにかなう人はいない。その理由はスタイルや容姿より、もっと大切な<秘密>があることを、僕はリナから教えられて知っている。(終わり)

・・・うーん。うまいなあ。
「彼女を存分に抱いた」。さぞかし、「存分に抱いた」んだろうなあ。
たったワンセンテンスである。でも、とても「エロティック」だ。
・・・余談だが、この、ワンセンテンスを最大に活かす文章を書ける人は素晴らしい。
西尾幹二先生も同様の才能を持つ。一つ例を挙げたい。
                  (最新論文「<癒し>の戦後民主主義」より)
    「・・・本郷の安田講堂前の緑地帯で、昼食を食べながら、
     「人間・この劇的なるもの」について友人に興奮して語ったのを覚えている。
     あのころ昼食はいつもコッペパンと牛乳だった・・・」

・・・「コッペパンと牛乳」・・・、もうそれだけで、「存分」な「青春」の姿が、私の心に広がるのです。言葉の装飾はいらないなあ、無限の可能性を秘めた「青春」だ。
なんか、ちょっぴりホロッとくるものもあるのです・・・。

・・・二回目にカンボジアに行った時の、首都・プノンペンでのことです。
雨季で、雨が降り止まないので、観光を夕方で切り上げ、滞在していた中流ホテルに戻った。部屋への廊下を歩いていると、客室係の、少年に毛の生えた程度のボーイが話しかけてきた。「女はいらないか?」 私は、首を横に振った。ただ、カンボジアのそういった世界の情報には興味があったので問うた。「へー、幾らなの?」 ボーイは、私の英語が分からなかったのか、何も答えなかった。
一時間後、部屋の扉をノックする音がした。「誰だい?」 強盗かも知れないので、ドアを開けずに問う。「おいらだよ」と、ボーイの声。さて、扉を開けると、ボーイと、そして、雨にずぶ濡れの後藤久美子似の美女が立っていた。もしや? と思ったら案の上、ボーイの野郎が、娼婦の押し売りをしてきたのだった。「何だよう!? 頼んでないだろ」と不満を浮かべると、「いや、ミスターは値段を聞いてきた。だから、連れて来ましたですよ Sir!」 長嶋じゃないんだから、ミスターと呼ばれても困るし、サーの称号を頂いても、その気のない女性と寝る気はない。
しかし、その女性は綺麗だった。雨に濡れた顔や体を、クロマー(本来はマフラー、でもカンボジア人はタオルとして活用)で拭っていた。私と目が合うと、しなを作り、笑顔を向けてきた。
カンボジアの美人女性に似てる日本のタレントを挙げておく。後藤久美子、中山美穂、阿室奈美恵、上戸彩などである。目がくっきりしていて、浅黒い肌のタイプだ。顔立ちは、いたって整っている。この後藤久美子似は、実際にはカンボジア人かは分からない。娼婦の多くはベトナム人らしいからだ(後から知った)。

一瞬悩んだが、多少のお金を渡し、お引取り願った。
本当は、お金を渡さなくちゃならない理由などないのであるが、ボーイの皮算用とは言え、どしゃ降りの雨の中、稼ぎへの期待を胸に抱き、ずぶ濡れで来た後藤久美子似に悪い気もしちゃったのだ。
さて、二人を追い払い、扉をロックし、ベッドに寝転がった。
(しかし、綺麗な娘だったなあ)と思った。
                     ・・・その夜は、悶々として過ごした。

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Subject:175] カンボジアの話・森本右近太夫一房
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/21 07:28

・・・歴史ある落書き
   アンコールワットの中腹、十字回廊には、こんな遺筆がある。

   「寛永九年正月二初而此処来ル生国日本
    肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫
    一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リ一念
    之胸ヲ念ジ重々世々娑婆浮世之思ヲ清ル●
    為ココニ仏ヲ四行立奉物也
    摂州津西池田住人森本右近太夫・・・・・・
    ●家之一吉●裕道仙之為娑婆ニ・・・・・・
    ●ニ書ク物也
    尾州之国名黒ノ郡室●・・・・・・
    老母之魂明生大師為後生・・・・・・
    ●ニ書物也
           寛永九年正月●日
      (●は文字分からず、・・・は文字が消えている)

370年程前の、毛筆で記された立派な<落書き>である。
意味も何となく分かると思います。
十年程前は、かなり読めたのですが、今は消えかかっています。
熊本から海を渡ってきた森本右近太夫、その距離、直線距離でも3500キロ!!
当時の常識では、決死の大冒険だったはずです。
・・・朱印船制度の確立により、それから三十年後の第四回鎖国令発布(1636年=寛永13年)の間までに、十万人近い日本人が東南アジアに渡ったと言う。
プノンペン近郊には、200人以上の日本人が日本人町を形成しており、彼らが「祇園精舎」と呼んだアンコール・ワット詣でが盛んに行われていたと言う。
その200人の多くは、キリシタン弾圧で日本から逃れてきた信者達でもあったようで、にもかかわらず、ヒンドゥー教や仏教寺院であるアンコール遺跡を訪れるってのが、うーん、いかにも日本人らしい。
森本右近太夫の冒険に想いをはせ、その旅の目的とした「祇園精舎」との対面を空想すると、とても雄大な感慨が起こってくる・・・。

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Subject:180] カンボジアの話・島野兼了
From:ミッドナイト・蘭 /H15/08/26 20:56

秀忠から家光へと徳川の代は移り、日本の対外政策は「鎖国」政策をとる時代となる。
日本船の海外渡航は禁止され、海外在住者も、帰国した場合は即処刑と言う厳しい時代を迎える。
しかし、家光は、その令を発布する直前に、長崎の役人であり通詞(通訳)である島野兼了に、命を発していた。
       「仏教の聖地<祇園精舎>を視察せよ」
当時、海外帰国者の間で話題になっていた<祇園精舎>に、三代将軍家光は興味を抱いたのであろう。
かくして、兼了は、オランダ船に乗せられ、<祇園精舎>の確認と、そして、その姿を克明に報告することを任務とし、水平線の彼方に消えた。
十七世紀(1623年から1632年と推定される)の事だ・・・。

冒険は伝説となり、神話の彼方へ・・・、・・・(なんちゃって)。

時は流れ、1911年、東京帝国大学工学部の伊東忠太教授(建築史学者)は、ハノイに行ったおり、フランス極東学院を訪問し、アンコール遺跡の資料に接した。そして、くだんの森本右近太夫一房の遺筆が残っているアンコール・ワットの<十字回廊>を、「他のどの遺跡にも見られない配置」との説明を受けた時、(日本に、似たような古い図面があったなあ)と思い出した。
・・・それは、大きな建造物を表わしたものだが、まだどこの何とも確認されていなかった。
帰国してから、伊東教授は図面を探し出した。・・・そして、数年後、フランス人の日本研究家ノエル・ぺリがアンコール遺跡最古の図面を「発見した」と発表した。
それこそが、島野兼了が大冒険の果てに描いてきた<祇園精舎>の見取り図であった。
(正確には、島野兼了が記録してきたものを、当時の長崎奉行・藤原忠義によって模写されたもの)
どうやら、十七世紀初頭、当時の海外を旅する日本人には充分な情報がなく、仏教発祥の地マガダ国は、タイやカンボジアの辺りにあったとされていた。東南アジアは「南天竺」とされていたそうで、そこにそびえるアンコール・ワットを見た日本人参詣者が、その極大石造寺院を「祇園精舎」と信じ込んでしまうのは、むべなるかな。

で、その「祇園精舎の見取り図」であるが、かなり精巧な鳥瞰図なのだが、何と、石造りの寺院を、あたかも木造建築のように描いていたり、中央塔を「五重の塔」に描いていたり、シンハ(獅子像)を唐獅子、ビシュヌ神を「仁王」に置き換えたりと、<通訳>であった島野兼了の面目躍如である。つまり、伊東教授は、こんな事を言っている。
      「建築までも、翻訳して描いている(笑)」
・・・その「見取り図」は、所有者を点々とさせ、現在は茨城は水戸の、
             (財)水府明徳会 彰考館徳川博物館に所蔵されている。
私は、遠出をして見に行ったのだが、改装中なのか分からないが閉まっていた。しょうがないので、水戸歴史博物館を見てきたことがある。タイムカプセルがありました。


後、言っときたいことがあります。
私は、このような文章を書くとき、常に三冊以上の資料を照らし合わせています。で、それぞれを比べて、あやふやをなくし、「良いトコ取り」をしております。補完しあっておるのです。その作業は、かなり大変なんです。
今回は、鎖国の年代の確認をする為に「新しい歴史教科書」も見ましたですよ〜(^^)
       明日は、みんな大好き森本右近太夫についてもう少し書きます・・・

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Subject:186] カンボジアの話・その後の森本右近太夫一房 「森本家は保守?!」の巻(前篇)
From:ミッドナイト・蘭 /H15/09/01 11:33

アンコール遺跡研究の権威・上智大学の石澤良昭先生の著書より抜粋

・・・(森本)右近太夫は、帰国後どのような生涯を送ったのであろうか。これまでまったく知られてなかったが、最近その子孫にあたる森本謙三氏(岡山県津山市在住)がその菩提寺と父子(右近太夫と父義太夫)の墓を発見され、いくつかの新事実が判明した。
右近太夫一房は、鎖国令前の慌ただしい雰囲気のなかで帰国したようであった。その当時、加藤家は改易(1632)となっており(注を参照のこと)、肥後藩(熊本)は細川藩にかわっていた。
(注・右近太夫の父義太夫は加藤清正家の重臣であり、朝鮮の役で武勇をはせた人物であったが、息子の右近太夫はカンボジアに渡航する前に、改易間近い加藤家を辞し、肥前の松前藩に仕官していた)
                               ・・・後篇に続く

あまり資料がなくて、すべて石澤良昭先生の御著書に「おんぶに抱っこ」です。すいません。
今回の話で興味深いのは、森本謙三氏の存在です。
熊本近辺で活躍していた一族が、今は岡山に住んでいると言うこと・・・。いや、別に四世紀も経れば(いや、それが十年であっても)、一族が居住地を変えるのは珍しくないのですが・・・。
岡山と言ったら、この板とリンクしている「きびだんご」板の本拠地です。確か、魂のよしりんさんは岡山在住ではないかと・・・。森本謙三氏を掲示板に招聘してみてくださいよ^^
余談ですが、津山と言うと、「津山三十人殺し」を思い出してしまう。

>「最近その子孫にあたる森本謙三氏(岡山県津山市在住)がその菩提寺と父子(右近太夫と父義太夫)の墓を発見され」
>「右近太夫は、父義太夫の菩提を弔い、老母の後生を祈るため、はるばる数千里の海を越え、アンコール寺院へ」
森本家の方々が、如何に祖先を大事にしているかと言う事がよーく分かります。
一族の「精神」が現在に引き継がれているのである。

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Subject:189] カンボジアの話・マリファナ
From:ミッドナイト・蘭 /H15/09/04 07:22

おととい(9/2)、九州の私大の学生グループが、大麻草の栽培・売買・吸引等の罪でしょっ引かれたとの事。(「しょっ引かれた」って表現を使ってみたかった〜^^)。

マリファナは、カンボジアでは容易に手に入ります。
私は、タバコも吸わないので、興味はないのですが、町の、ちょっと寂れた市場の片隅に行くと、あたかも、お茶っ葉でも売るかのように、乾燥大麻がうず高く盛られていたりしました。

首都・プノンペンの安い宿に行くと、売春目的の日本のおじさん達に混じって、長期滞在者の日本の若い奴らもチラホラいます。

私 「良いなー^^ 長くいられて。
   俺も、シェムリアップ(アンコールワットの村)にずっといたいや。
   やっぱ、アンコール遺跡はゆっくり見た訳だ?」
若者「いえ・・・、まだ行ってないんです・・・」
私 「・・・?、ああ、これから行くのかな?」
若者「え、ええ・・・、まあ・・・」
私は、その若者を凝視した。ジッと、その瞳を観察した。
      ・・・若者の目は、屋外であるにもかかわらず、瞳孔が開きっ放しだった。
私は、得心した。
・・・若者の目的は「ガンジャ(大麻)」でトリップすることだったのだ。
(まっ、他人に迷惑かけなければ良いさね)
私は踵を返し、その、有名な安宿から歩み去るのだ。

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Subject:190] カンボジアの話と、西尾幹二先生新刊「座シテ死セズ」を絡めて
From:ミッドナイト・蘭 /H15/09/06 06:06

西尾先生が石破防衛庁長官と対談した新刊「座シテ死セズ(恒文社21)」は、特筆すべきことの多い本であるが、とりいそぎ一つだけ記します。
(引用)
石破「(超党派訪朝団に参加して)・・・しかし、彼の国でじかに見た独裁政権の怖さというのが、自分にとってはいちばん、防衛問題に真剣に取り組むきっかけになったと思います。とにかく、<怖い国だ。こんなに怖い国がこんなに近くにあるんだ>という一種の人生観が変わるようなショックでした」
西尾「たとえばマスゲームなどでしょうか」
石破「・・・マスゲームは最もショックでした。ルーマニアのチャウシェスク大統領も、あれを見ておかしくなったといわれていますし、平成二年九月に訪朝した金丸信元副総理もマスゲームを見て感動した、と伝えられています・・・」

ここで、驚いたのが、北朝鮮の恐怖を語った石破長官に対し、西尾先生は、第一に「それはマスゲームですか?」と聞いているところです。
一瞬、「マスゲームが第一に聞くべき事なのかなあ?」と思ってしまったのですが、死や暴力の強制でなく、自由の代名詞とも言われる娯楽を(不自由にも)牛耳られることこそ、そして、それが何千人の人々の一糸乱れぬ動きで現出していることこそ、<真の恐怖>と理解も出来るのです。
石破長官も、すぐに「マスゲームは最もショックでした」と応じています。

ここで、私の経験、カンボジアの話と絡ませていただきます。
私は、カンボジアに行くとき、子供用に大量の玩具や文具を携えていきます。
で、村や小学校で配るのです。
ある時、アンコール遺跡の中の聖なる池スラ・スランにある古びた木造の学校に文具を持っていきました。町内の小さな寄り合い所のような規模の校舎でした。
ここは、後に行ったとき、フン・セン首相の全国的な政策により、なかなか綺麗なコンクリの校舎に立て直されていましたが、当時(1996年頃)はボロボロで、木材の隙間から外の景色が垣間見られるほどでした。
私は、壇上に立ち、英語で簡単な挨拶をすることになりました。横には、闖入者である私と、私について来たプリン君を受け入れてくれた若い女教師が立っております。
私が壇上に立つ、と同時に、四十人ほどの低学年の生徒達がビシッ!と立ち上がりました。そして、皆が皆、直立不動で、微動だにしないのです。
みんな、やはり可愛いのです、まん丸で黒目がちのチビ助ども!
普段は彼等彼女等とて、南国の住民としてダラダラ生活を続けていると思うのです。
でも、今は、外人の私が珍しく、そして、脅威らしいのです。
私は、頭をポリポリかきながら、固まっていた生徒達に、<どうぞ、座ってください>のジェスチャーをしました。すると、途端に、ズサッ!と、全員が着席したのです。
ドーピング後のベン・ジョンソン並みの反応速度です。
私はその時、全身に、ゾクゾクッと鳥肌が立ったものです。
(俺の、一挙手一投足で、こいつらの動きを「支配」できる・・・、・・・)
プリン君が私に耳打ちした。「あなた、独裁者になれるよ・・・」
しかし、私はこう思い、鳥肌を振り払いました。
     ( こ れ は 、 魔 性 だ ・ ・ ・ )
そして、早々に挨拶を済まし、さっさとその学校を去ったのです。
プリン君は、明らかに動揺している私に、シニカルな笑みを向けていました。
     (コレハ魔性ダ。「私」ハ溺レテハイケナイ)と、思ったのです。

北朝鮮の「マスゲームの恐怖」にも似たものが、私を襲ったのです・・・・・。

PS・プリン君は、これからも度々出てきます。
   「その後の右近太夫・後篇」も、すぐ書きますから・・・。


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