八犬伝特集
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■山田風太郎「忍法八犬伝」について
ここでは、山田風太郎のもうひとつの八犬伝。「忍法八犬伝」(徳間文庫版)について書いていこうと思います。
初見は高校生のころですが、当時の感想など記録していないので、以前、再読したときの感想を書いておきます。
ネタバレしている箇所があります。それでも構わないという方のみ、お読みください。
【あらすじ】
時は慶長十八年。里見家の宝珠、伏姫の八つの珠を時の将軍の子、竹千代が所望。里見家当主安房守忠義はこれを承諾する。受け渡しは来年九月九日と決まった。
ところがその年の暮れ、八つの珠は何者かに盗まれてしまう。
黒幕は本多佐渡守正信。里見家をとりつぶすため、伊賀忍者服部半蔵に命じて盗ませたのだ。
来年九月九日までに八つの珠を取り戻さないと里見家はつぶされてしまう。甲賀卍谷で修行していた八犬士は無事八つの珠を伊賀忍者から取り戻せるのか?
【感想】
解説によると、本書品は週刊アサヒ芸能に連載された。とある。後年、風太郎先生「八犬伝」を朝日新聞の夕刊に連載した。なにかしら朝日新聞社と縁があったのかもしれない。
それよりも、連載先が芸能週刊誌と、新聞とではこうも違うのかと思いたくなるぐらい、八犬伝に対するイメージが変わってくる。
連載時期も関係しているのだろう。「忍法八犬伝」は1964年。一方「八犬伝」は1982年から1983年。
二十年近い隔たりがある。作者の年齢も関係してくるのか、「忍法八犬伝」は若々しく、テンポよく物語が進んでいくのに対して、「八犬伝」は老齢の曲亭馬琴ばかりが印象に残ってしまう。
前置きはこれくらいにして、細かく内容に触れていこう。
物語としては馬琴の八犬伝(以下馬琴版とする)の後日談という形になっている。序盤登場する老齢の八犬士は、馬琴版の八犬士の孫で、忠義の権化のような形で描かれている。
珠を盗まれてしまった責任を感じ、老齢の八犬士は切腹して後事を息子たちにたくす。
本書で活躍するのは、その息子たち。馬琴版の八犬士のひ孫たちなのだ。
ところが、この息子たち。甲賀忍者の里、甲賀卍谷での修行を一年ちょっとで切り上げて好き勝手なことをしている。
里見家から珠を取り返すように依頼が来ても、息子たち全員がどうみても利口にみえない主君里見安房守をきらいときているから、里見家がどうなろうと知ったことではない。
忠義のために奔走するなどまっぴらごめん。というわけだ。実に現代的。馬琴版とは全く違うキャラクターである。
このままでは珠を取り返す話にはならないから、風太郎先生、村雨というお姫様を登場させる。この村雨、里見安房守の奥方で、里見家をとりつぶす一因にもなっている。
村雨は責任を感じ、息子たちに珠を取り戻してくれるよう、自ら頼みにいく。
この姫様に好意を持っている息子たちは、頼まれるとイヤとはいえない。
結局、姫様のために珠を取り返すことになるのである。
やっと珠を取り返す展開になった。
八人揃って珠を取り返せばいいようにも思えるのだが、八人の戦闘を同時に書くのも大変だろう。読む側にしても、誰かが戦っている間、他の人がどうしているか気になってしまい、集中できない。
そこで、風太郎先生。村雨と会った途端、息子たちがやる気になって珠を取り返す展開にし、一人で戦うように話を進めている。そのため実に読みやすい。
また時間経過もスピーディだ。
珠を盗まれたのが年末。
老齢の八犬士の切腹が一月九日。
村雨が息子たちに頼みにいくのがその二十日以降。
連載期間が最初から決まっていたからこうなったのか、連載打ち切りになったためこうなったのかわからないが、ともかく、この展開の速さと読みやすさが物語をおもしろくしていることは間違いないだろう。
物語の展開が速いので、あまり気にならないかもしれないが、本書では人物の行動に論理的な理由がちゃんと存在する。
特に服部半蔵が息子たちの罠にかかるあたりは論理的に筋道が通っている。
また移動に関しても同様で、敵味方いずれも論理的に行動している。偶然そこに現れるのではなく、そこに現れるには必然ともとれる理由が必ず存在している点は特筆すべき点だろう。
いかにして珠を取り返すかは実際に読んで欲しい。山田風太郎作品独特の荒唐無稽、奇想天外なお色気満載の忍法が登場してくる。とだけしておこう。
印象に残った忍法は二つ。
一つは袈裟御前。この忍法にかかったら、本当に現八のようになってしまうのだろうか。にわかには信じられない。
もう一つは地屏風。「おぉ。」と驚かずにはいられない。
その他で印象に残ったのは、村雨と信乃の話や、角太郎の顔が漫画的な点や、息子たちが村雨をめぐって妬きもちをやくあたりだ。
【馬琴版との違い】
ここでは、馬琴版との違いを書こうとおもう。
「八犬伝」を読めばわかると思うが、馬琴版の八犬士は幼くして両親を亡くし、作中で親類縁者を亡くし天涯孤独になってしまう。
そのため、不思議な珠をもち、牡丹のアザがあるという共通点が何かしら運命的なものを感じさせ、仲間を求めて各地を探し回ることになる。
ところが、本書はそんな孤独感や運命で結び付けられているという感じが全くない。テンポを重視したのか、八犬士は江戸周辺に集まっていて、八人がなにかしら連絡をとりあっている。そのため、すぐに八人が登場できるようになっている。
さらに、馬琴版では唐獅子のような巨大な犬、八房は序盤しか活躍しない。
ところが、本書は八人それぞれに八房がいる。この八房。本書では終始活躍する。
珠を取り返すよう息子たちに指示を伝える役。ちょっとした事件の発端となる役。敵の目をくらませる役…。
風太郎先生、変幻自在に八房を活躍させている。
他にも、馬琴版では村雨は鞘から抜くと水がしたたり、血のあとをとどめず、切れ味抜群の名刀として登場するが、本書では姫様として登場する。
馬琴版で同じような可憐な女性役といえば、浜路だが、本書では信乃が一時名乗る名前として登場している。
馬琴版を知っている人にも楽しめるよう、趣向をこらしているあたりはさすがだ。
一方で、忠僕滝沢さ吉が最後まで息子たちを発見できない場面では、展開の遅い馬琴版を皮肉っているようにも思える。
物語が進むにつれて登場人物が増えてくる馬琴版と対比をなすかのように物語が進むにつれて登場人物が減っていくあたりも同じような感じを受ける。
【余談】
「八犬伝」を先に購入したのか、「忍法八犬伝」を先に購入したのか忘れてしまった。初見では「八犬伝」のほうが面白かったように思う。
すでに、「魔界転生」は読了し、いくつか忍法帖も読んでいたため、忍法の出ない「八犬伝」の方が新鮮にうつったのかもしれない。
しかし、久しぶりに読んでみると本書の展開の速さに驚かされる。あっという間に読んでしまった。
ところで、内容に触れないで感想など書けるものなのだろうか?
ある解説に「解説はどう書くのが正解なのか?」というようなことを書かれていたのを思いだしたからだ。
作品の序盤だけなら、文庫版の表紙の一部に書かれていたり、冒頭の一ページに書かれてあったりするが、あらすじ全部を書いてしまうのは果たして解説としてありなのか?
本書の解説中島河太郎氏は解説にはよく登場する方で、他の山田風太郎作品の解説やミステリー作品にも解説として登場することがある。
そのどれもが、ほとんどネタバレしているため、本文を読まずとも解説だけですんでしまうところがある。
そうかといって、それなりのページ数が決まっているのだから「あぁ、面白かった」だけで解説を終わらすわけにはいかないだろう。
ネットにも似たようにあらすじを書きながら感想を書いているサイトがいくつかある。すでに内容を知っている人からすればあらすじなどはどうでもいい情報だ。
逆にあらすじだけを知りたい人には感想などどうでもいい情報だ。
あらためてどう書くのが正解なのだろう。という疑問が沸いてしまう。
感想自体は好きに書いて構わないと思うけれど、どこまでネタバレしていいものか困ってしまう。ミステリー作品の場合は特にそうだ。
そんなことを考えながら、今回は感想を書いていた。
以上が再読時の感想です。