八犬伝特集
ホームページへ戻る | SPECIAL BOXトップページへ戻る
■鎌田敏夫「新・里見八犬伝」について
ここでは、鎌田敏夫「新・里見八犬伝」(カドカワノベルズ版。上下二巻)について書いていこうと思います。
私が初めて八犬伝に出会ったのは、本書です。
通常は、映画を観てから原作を読むことが多いのですが、この里見八犬伝に関しては原作小説のほうが先でした。
読むきっかけは、本の帯に「角川映画化」という文字があったためです。
それに当時の角川文庫のしおり。というか文庫に、はさまれた宣伝にエンターテイメントの最高傑作「南総里見八犬伝」という文字があった。ということもあります。
今から思えば、エンターテイメントの最高傑作という文言に過度の期待をしてしまいました。それゆえ、八犬伝熱が、しばらく続くことになるのですが、当時の私は、そんなこと知る由もありません。
初見は高校生のころですが、当時の感想など記録していないので、以前、再読したときの感想を書いておきます。
ネタバレしている箇所があります。それでも構わないという方のみ、お読みください。
【あらすじ】
不思議な珠をもつ八人と、悪人との対決を描く。
【上巻感想】
まずは上巻の感想から書いていこう。
初見時、上巻は助平な小説だとおもったが、再読時もその感じはぬぐえなかった。それも無理はない。官能伝奇ロマンとうたってあるのだから。
しかし、助平な小説というだけで終わってしまっては、わざわざここに書く必要もない。それ以外で気になった箇所を書いていこうとおもう。
映画「八犬伝」の原作、山田風太郎の「八犬伝」(以下風太郎版とする)を先に読むか、本書を先に読むかと問われたら、私は断然本書を先に読むことをオススメする。
風太郎版は馬琴の八犬伝(以下馬琴版とする)とほぼ同じであるため、馬琴版の和漢混淆文になれない人には親しみやすいものの、やはり馬琴版をベースとしているため、八犬士たちの出生に関する記述が多い。
両親が何をしていた人とか、昔どうだったとか、八犬士が生まれる以前や幼少期の話が多く、それが複雑に絡み合っている。
これが八犬士たちに生まれる前から宿縁があったかのように思わせ、八犬士たちが結束していく一因ともなっているのだが、八人の両親となると十六人。八犬士と合わせると総勢二十四人。それぞれが複雑にからみあっているので、なかなか話が先へ進まない。
ところが、本書は不思議な珠を持って不遇な境遇という共通点以外何もない。両親に関する記述も控えめで、犬士たちが、行く先々で偶然出会ったような感じになっていて、読みやすい。
また、時代物にありがちな二尺三寸といった単位や、小袖といった着物や容姿に関する用語も控えめ。地名も現在と大差ない場所にしてあるのでわかりやすい。
そういった時代物、歴史物に苦手な読者に対する配慮もさることながら、タイトルに「新」の文字があるように、馬琴版とはちがった展開をみせている。
まず、伏姫の話からはじめるのではなく、いきなり八犬士のエピソードからはじめる。そして、道節、毛野、荘助、親兵衛のエピソードを変更し、悪役に妖之介、幻人、毒娘の三人をオリジナルキャラクターとして登場させている。
一方、信乃、現八、小文吾、大角のエピソードは馬琴版に近い。微妙な違いがあるものの大筋は同じだ。
特に信乃のエピソードは、ほぼ馬琴版と同じ。馬琴版では最初に登場する犬士であるため、この犬士の人気がその後の八犬士の人気を左右しかねない。
馬琴版では幼少期から書かれ、荘助登場、浜路との恋物語、道節登場、現八との決闘、小文吾、新兵衛の登場まで信乃が主人公ではないかと思われるぐらい、信乃がメインで物語が進む。
それぐらい重要な犬士であり、馬琴版を読もうとした読者が最初に記憶にとどめる犬士でもあるため、あえて本書でも変更しなかったように思う。
馬琴版には馬琴版の面白さがあるとおもうし、本書のオリジナルエピソードもこれはこれで面白いとおもう。どちらがいいとはいい難い。
ただ、大角のエピソードについては馬琴版の方が理にかなっている。ネタバレになってしまうが、マタタビを集めてくる時点で大角の父親が化け猫だったという見事な伏線になっているのに対し、本書では巨大蜘蛛になっている。
本書は映画化されているが、映画化することを想定して蜘蛛にしたのか、化け猫では恐怖感が出ないとおもったのかそのあたりは不明だが、マタタビを集めてくる行為が意味をなしていない。設定をただ借りただけになってしまった点が悔やまれる。
他にも赤い月が効果的に使われている点は面白かったが、犬士たちが集まる理由が、運命というのはどうだろう。初見時は気にならなかったが、再読時にはご都合主義に思えてしまった。
今回は再読ということもあって、馬琴版との違いを確認しながら読み進めていたため大変だったが、本書で初めて八犬伝に触れる読者は読みやすいと思う。
上巻に関する感想はこんなところだ。
【下巻感想】
ここからは下巻の感想を書いていこう。
下巻は馬琴版とはちがう完全オリジナルストーリーとして話が進む。
静姫登場。浜路の話。八字文殊菩薩からはじまる昴星の里の話に光の一族。館山城での決戦。
それでは、くわしく書いておこう。
まずは、静姫登場。この設定、山田風太郎「忍法八犬伝」の村雨に相当する。「忍法八犬伝」の方が先なので、本書がパクッたような感がしないでもないが、村雨よりも静姫の方が神秘的だ。
馬琴版では伏姫にその神秘性が宿っているが、本書では伏姫は物語から退場しているので、静姫にその神秘性を宿らしたと思われる。
静姫登場とともに、親兵衛も登場。青春恋愛小説のような展開をみせる。「俺たちの旅」「金曜日の妻たちへ」といったドラマを手がけた鎌田敏夫作品らしい。
次に馬琴版では早々に物語から姿を消す浜路の話が最後まで書かれている。この浜路のエピソードは悪人を描くためにあったようにしか思えない。下巻になると助平な話はもうどうでもよくなってくる。上巻が「闇の巻」という副題がついているため仕方なかったとはいえ、下巻では正直ウンザリだった。
馬琴版では浜路とそっくりな姫が登場し信乃と結ばれる。今から思えばいかにも男性目線の都合のいい展開だが、韓流ドラマの火付け役ともなった「冬のソナタ」も同じような展開だ。
女性目線からしても好きな人とそっくりな人と再会するのは心踊り、胸はずむ展開なのだろう。
次は信乃、現八、小文吾、荘助が一つのグループ。道節、毛野、大角が一つのグループとして行動をともにする点。
馬琴版は八犬士が離合集散を繰り返し、なかなか八人が揃わない。ネットやスマホもない時代の物語なので、当然といえば当然なのだが、そのため物語が先へ進まない。
一方、本書は信乃グループと道節グループで行動する。そのため、物語の展開がスピーディだ。
上巻の感想にも書いたが、運命によって出会う犬士をご都合主義すぎると思ったのか、下巻では笛に導かれたり、北斗七星の謎解きをしたりして出会うようにしてある。
特に心の清いものにしか聞こえない笛の音は、馬琴版にも「忍法八犬伝」にも登場しない本書オリジナルだ。この笛の音。実に効果的に使われている。
次は八字文殊菩薩からはじまる昴星の里の話。
これはもう高田衛の「八犬伝の世界」のパクリ。北斗七星と関連づける点も全く同じだ。初見時は「おぉー。」と唸っていたが、「八犬伝の世界」を読んでしまうとそのまま流用しているのがよくわかる。
本書を発表する以前に「八犬伝の世界」がすでに世に出ていたからだろう。高田衛氏の解釈とは別解釈を新しく構想するにはいたらなかったとみえる。
そのままではただの流用になってしまうので、光の一族という設定が登場する。この光の一族。どこからきたのか、いつからいたのかよくわからない。
八字文殊菩薩の説明がくわしく理にかなっている分、光の一族に後付け感がありありだ。
馬琴版が善と悪の戦いであった点を、光と闇の対決にするため、わざわざ登場したようにもみえる。
それでも、「仁義礼智忠信考悌」の意味を現代風にアレンジしている所は素晴しかった。
特に素晴しいのは「忠」と「義」だ。
忠義という言葉に代表されるように「忠臣蔵」のような主君や全体のために個人を犠牲にする、いわゆる滅私奉公のようにおもわれがちなこの二つを本書では
「忠」は「自分の仕えるものの心を知り」とし、
「義」を「人として行うべき道を知り」としている。
ここまでくわしく書いてきたが、どれも面白いエピソードで一杯だ。
読者によってはここまで剣と魔法のRPGゲームのようにも思えるかもしれないし、光の一族がウルトラマンのように思えるかもしれない。あるいは、本書と同時期に映画化された「幻魔大戦」のように思えるかもしれない。
なにを連想するかはさておき、物語はいよいよ、館山城での決戦へと進んでいく。八犬士が集合して、敵の本拠地に乗り込み、さらわれた姫を救出するという定番の展開がたまらない。
さらに光の弓矢を放った静姫が宙を舞う場面など秀逸だ。
スーパー歌舞伎、ピーターパンの舞台、アイドルのコンサートなど宙づりは見せ場の一つだが、本書の宙を舞う静姫を想像のおもむくまま楽しんで欲しい。
はてさて、光と闇の対決のゆくえやいかに。それは、読んでのお楽しみだ。
【余談】
読書中に連想したどうでもいいことをとりとめもなく少し。
私事で恐縮だが、八犬伝は信乃の物語だとおもっている。そのため信乃の物語が一時途絶えてから登場する毛野、大角の印象がうすい。後半親兵衛がどんなに活躍しても後付か、外伝のように思えてしまう。そもそも八人ではなく五人ぐらいがちょうどいい。
作中赤い月がでてきて、「エヴァンゲリオン」みたいだが、こちらが先。というより、赤い月は不吉なものとして古今東西の神話、民話、伝説、物語にはよく出てくるので、とりたてて騒ぐほどでもないだろう。
また、山下城が七日間燃えるのも「風の谷のナウシカ」の火の七日間みたいだが、キリスト教に七日で世界を作った話があるので、これまたとりたてて騒ぐほどでもない。
北斗七星にまつわるエピソードも「北斗の拳」みたいだが、こちらが先。というより、三国志演義が先。八犬伝のモチーフの一つが三国志演義であることを考えるとまたまた騒ぎたてるほどでもない。
ちなみに「北斗の拳」に出てくる死兆星は三国志演義にでてくる「そえぼし」のことに違いない。孔明の死期を予感させるために効果的に使われる星のことだ。
今時、八犬伝でもないような気はする。たまたま手元に八犬伝関連の本、
山田風太郎「八犬伝」。
山田風太郎「忍法八犬伝」。
鎌田敏夫「新・里見八犬伝」。
高田衛「八犬伝の世界」。
があったので、こうして書いているだけだ。
「ハリーポッター」が毎年のように公開されている頃なら、和製ファンタジーの傑作として需要があったかもしれないが、「ハリーポッター」も完結してしまい、一時のファンタジーブームも去った感はぬぐえない。
ただ、CG技術が進歩したので、昔は映像不可能な場面もいくつかは映像化できるのではないかと思ったりもする。
また、古典的名作はいろいろな作品の元ネタになっていることが多いということを書きたかったというのもある。
うーむ。とりとめがなくなってきた。だらだらと長く書いても仕方ないので、ここらでおわるとしよう。
以上が再読時の感想です。