雪色椿

 安普請の天井が雪の重みで軋んでいた。何か、ぱきぱきと枝を踏むような音がする。火鉢で温もった部屋を囲む木材が膨張する音だろうか。関口はインクの切れかかった万年筆を置いて、指先に染みついたインクを花紙で拭った。
 木の伸縮する音がやけに耳障りだ。他の物音もしない。雪絵は買い物に出てしまっている。静寂は、関口の粘膜質の精神にとっては至極不愉快に感じられる。
 窓を開けると、猫の額ほどの庭はすっかり雪で埋もれていた。
 常緑の櫟の濃い緑の枝の上にも、笹竹の細い葉にも、雪は花のように積っている。
 緑──白──。その見覚えのある色のコントラストに、とある夏がフラッシュバックする。
 白い足に血の筋を這わせながら歩み寄る、淫靡な表情の少女──。

「姑獲鳥だ──」

 自分の声に、はっと我に返る。
 気付けば部屋は冷え切っている。あまりの寒さに、関口は乱暴に窓を閉めた。
 肚の底の方に、何かが蟠っている。赤い唇。陶酔した表情──関口はそれから無理に目を逸らした。
 書き散らかした原稿用紙を、端から握りつぶして部屋の隅の屑籠に投げつける。そのほとんどは屑籠の周りに散らばることになった。
 苛々した。何よりも、関口は雪絵の不在に苛々とした。
 散々自分が苦労を掛けたせいで幾分窶れはしているが、雪絵はまだまだ若くて美しい。主婦の香りがし始めた肌は、指さえもはねつける若い頃の張りを失った分、どこまでも柔らかで温かい。
 久方ぶりに関口の中に欲情が湧いた。
 甘い香りのする雪絵の柔らかい肌に包まれて、安堵の息を吐きたいと思った。
 性行為の賤しさには反吐が出る。自分も所詮矮小な俗物なのだということを、愛する妻に見せつける行為だ。貧相な体を晒さねばならぬことも、関口のような劣等感の塊には苦痛でしかない。雪絵が他の男を知らぬ事だけが、関口の唯一の救いだった。
 関口という男は、過剰なほどに自分と他人を比較して、自虐に陥る性質を有している。
 万が一にも雪絵と通じた男が居ようものなら、不貞を怒るより先に、自分の肉体が如何に劣っているか比べられた事を嘆くだろう。
 必要以上におどおどとした態度は自己愛の具現。全く自分の事しか考えない男だ──と、彼の友人なら評するに違いない。
 関口が雪絵に求めているのは、柔らかな「甘やかし」と許容と言う名の「庇護」だ。いわば、母のような存在──関口はそれにこそ欲情するのだ。
 子供などは要らぬ。子供など居れば雪絵の愛情はよそに行ってしまう。
 卑怯な男は、苛々としながら妻の帰りを、待った。

 玄関口でカラカラと硝子戸の鳴る音がする。びくりと背を震わせて、関口は開いてもいない襖をふり返った。
 柔らかい足音がする。帰宅すれば雪絵は必ず夫の狭い書斎を窺う。
 床が延べられているのはいつものことだ。書けねば関口は寝てしまう。
 妻を少々早く床に誘うだけのことに、関口は手に汗をかいた。万年筆がぬるりと汗で滑る。黒々とした筆記用具が、やけに淫らに艶めいて見える。
 するりと襖が開いて、廊下に膝をついた妻が顔を見せる。

「タツさん、只今帰りました」

「ああ……お、お帰り」

 雪絵は夫と目が合ったことに──夫が待っていたかのようにふり返った事に、ふと微笑を見せた。

「どうしました、なにかありましたか? タツさん」

 続けて言葉を掛けられると思っても居なかった関口は突如狼狽し、混乱した。
 まだ日も暮れぬ内から欲情していたとは言えず、かといって、いつものように素っ気なく追い払うのも本意ではない。
 手の中で、万年筆が気持ち悪い程滑る。

「あ、あ……う」

 混乱は失語の発作を誘発し、そのまま強い目眩に襲われる。
 雪絵は、いつも怯えたように見上げてくる夫の目が、ゆらりと濁ったのを見た。

「タツさん?」

 雪絵の膝の方に、何か黒いものが転がってきた。
 汗に濡れた、万年筆だ。
 拾い上げて夫に渡そうと、それに手を伸ばした雪絵に、ふと、影が掛かる。

 短い、不器用そうな指が伸びてきて、万年筆に触れた。
 背を屈めて黒い古びた万年筆を拾い上げる関口を、雪絵は見上げた。

「雪絵……」

 常にどんよりとしてつかみどころのない夫が、何か、切羽詰まっているのを感じる。
 締め切りはまだまだ先の筈で、家計は苦しいけれど危ういという程ではない。持病の鬱ならば症状が違う。
 そう考える間に、汗ばんだ手が、雪絵の荒れた指を包んだ。
 触れる手がやけに熱い。生々しい脈動に気付いて、雪絵は顔を上げた。

「タツさん?」

 関口は雪絵の肩に縋り付いた。肌に感じる鼓動が早い。
 関口の緊張を、雪絵も感じる。
 少し、笑ってしまった。妻を寝床に誘うだけのことに、これほど構える夫もいるまい。

「……いいかい?」

「ええ」

 いつまでたっても、初心な少年のようだ。そんな夫を、可愛らしいと思う。
 肩に回っていた手が、雪絵の乳房に触れた。袖を通したばかりの割烹着の上から、柔らかく掴まれる。
 自信がないのだろうか。掴むか掴まないかの強さで、躊躇しながら揉んでくる。
 おどおどとした夫の手は、慎ましさを雪絵が自ら捨て去ることを要求していた。揉むのか揉まないのかもはっきりしないような触れ方に女の本能が焦れる。
 雪絵は、夫に協力するように体を寄せた。自然、関口の手のひらに、雪絵の丸みが強く押しつけられる。
 技巧も芸もない揉み方だが、たどたどしさが、かえって刺激になるということもあるものだ。滅多に関心を向けてこない夫が雪絵を求めいるという実感こそが、なによりも甘い。夫に揉まれている乳房に、痺れるような官能が走る。

「ああ…タツさん…」

 自然と、色めいた声が口をついて出た。
 関口がそれに怯えたようにびくりと戦慄く。粘膜質の──ひどく感じやすい精神を持った夫は、常人なら気にならないような些細なことにも、怯えたり、傷ついたりする。安心して情事に没頭させる為にも、雪絵が気を配らねばならないのだ。

「タツさん、下着の骨が、指で押されて痛むんです」

「あ、ああ、ごめんよ……す、すぐに外すから」

 割烹着の紐にようやく関口の手が掛かる。
 雪絵は一緒にセーターも脱いだ。ふっくらとした女の曲線を僅かに腕で隠す。

「タツさん…あちらで良いですか」

 雪絵は布団を見た。畳の上では後が辛い。
 慌てたように移動する関口は、やはり、未経験の少年のようだった。妻の体への気配りも出来ない自分を恥じるように、胡乱な視線をあちこちに向けていた。

 冷えた部屋で放置されていた布団は表地が冷えている。ひやっとする感触に肌を竦めながら、雪絵がその上に横になった。インクの染みついた関口の指先は、慌ただしくシャツのボタンを外していく。
 下着の間からすぐに露わになった乳房に、関口は吸い付いた。赤子のように、卑猥な水音を立てて舐る。ふくよかな乳房は、どこまでも柔らかく関口を受け止める。胸の間から香り立つ、雪絵の甘い体臭に陶然となりながら、関口は自分の妻の乳に顔を埋めた。

「ああ……」

 鼻から抜けるような、雪絵の吐息に関口は興奮する。軽く瞑った目元のほんのりとした紅、首筋から鎖骨にかけて柔らかな脂肪が薄く骨を覆っているのが分る。温かく、柔らかい雪絵の肌を指先で確かめながら、関口は妻の裸体をしげしげと眺めた。
 滑らかな肌は乙女のように清く白いのに、関口にしゃぶられた乳首が唾液に濡れて、ぬらりと光っている。それがやけに淫らで、自分の見知った妻の体ではないようで、そこばかりが気にかかる。
 乳房の半ばまでを口に含むと、雪絵がもぞりと身を捩った。舌先でなめ回すと、くっ、と顎が仰け反った。これが好いのかと何度も繰り返すと、切なそうな声が関口を煽る。
 関口は、スカートを穿いたままの雪絵の脚を、大きく開かせた。めくれ上がったスカートが、押し上げられて腰でたぐまる。思わぬ淫靡な光景に、関口は息を呑んだ。
 太股の中心で、白い下着が慎ましく秘所を覆っている。だが、その布地は、陰裂の形にじっとりと湿っている。
 思わずそこに指先で触れた。女性の匂いと、その場所の複雑な形を確かめるように、顔を近づける。

「止めてください……タツさん……」

 か細い拒絶が聞こえてくる。聞こえなかったように、関口は答えた。

「女の人はここが気持ちのいい場所なんだろう、雪絵?」

 下着の上から無遠慮にそこをさする。最も濡れている場所を強く押すと、雪絵が身を捩った。

「あぁ……押されたら、入ってしまいます……」

「さっきのは気持ち良かったかい、濡れているみたいだけど」

 布越しに繊細な場所を圧迫されて、雪絵は声もなく体を引きつらせた。

「雪絵?」

 関口は、自分の行為が雪絵の言葉を妨げている事に気付いていないのか、慈しむように雪絵の秘所を指先で撫でていた。

「ええ……タツさん、とても……んんっ……」

 雪絵の脹らんだ花芯を捕らえた関口の指は、慰みがわりにそれを弄くる。答えようとした雪絵の言葉は、その所為で、途切れた。

「……ここも好いんだね、雪絵?」

 ポイントを捉えた事に気付いた関口の指が、強く、指先で圧迫する。一つ覚えの愛撫ではあるが、その分だけそれは強烈に雪絵を悶えさせる。

「あっ……いい…、そこ……好いです! ……タツさん……イイっ……!!」

 脚を閉じようとしても、それは関口に止められる。非力で無精な夫であっても、男の腕力に雪絵が敵う訳がない。雪絵は敷布を掴んで大きく仰け反った。
 湿気を含んだ下着から蜜の香りが立ち上る。
 生々しい女の匂いに、関口は顔を近づけた。

 下着の上から、関口は其処に舌を這わせた。

「タ……タツさん、そんな……!」

 雪絵が驚いたように身を震わせる。関口も、したこともないような事をする自分に、内心驚いていた。

「ああ……、そんな、そんな事をしたら……穿いていられなくなってしまいます……」

「それなら、後で替えればいいじゃないか。大体、こんなに濡れているんだ。もう穿いてはいられないだろう?」

 呼吸の度に分泌液の生物めいた匂いが鼻をつく。関口は夢中になって舌を抉り込んだ。

「ぁあ……あ、あっ……!」

 まだ日も沈んではいないというのに、狭い書斎は息の詰まるような翳りに満ちている。すすり泣くような雪絵の喘ぎが其処を異界に変えていた。
 常になく淫らな行為を行う夫に、雪絵は本気で抗おうとはせず、羞恥に顔を染めたまま、その行為に耐えている。耐え切れぬようにくねる腰は、普段あれほど貞淑な雪絵のものとは思えない。
 遠い夏の日の、記憶すら途切れるような鮮烈な性行為にも似ているような気がした。
 関口はもう、愛撫すら碌に知らぬ青臭い若造ではない。だが、無防備に晒された雪絵の白い肌と淫らな反応が、無性に関口の獣性を駆り立てていく。
 下着の上から尻の方の窄まりまでを舐り倒すと、張り付いた布地が雪絵の陰部を露わに形取っていた。その一種グロテスクな形状は、関口の雄の本能を直撃した。
 雪絵は、衣服すら乱していなかった夫が、性急にベルトを外し、洋袴を下着もろとも降ろすのを見た。それしか知らぬ雪絵にとってみれば充分に長大なその部分は、今は一段と大きく、また硬く反り返っている。
 だが、手際悪く避妊具を付け始めた夫に、雪絵は溜息を吐いた。

 思うさま嬲る為に、痺れるほど開かせた足を閉じさせて、濡れた下着を引き下ろす。それだけの事が、不器用な夫には難しい。
 挿入を待ち望んでいた体が多少白けていくのを感じて、雪絵はこっそりと苦笑した。燃え上がった体は不満がるが、夫の不器用さこそが愛おしい。
 汗が冷える前に、夫と体を合わせたい。
 雪絵の女としての本能が、欲情と混濁して再び淫らに脚を広げさせた。

「タツさん……来て、ください……」

 最前と同じように脚を開いて見せると、関口がごくりと唾を飲んだ。
 濃度の高い粘液で、陰裂は潤っている。指で開くと、それはとろりと溢れて尻の方へ流れた。

「あ、ああ……」

 硬く勃起したものを指で押し当て、ぎゅっと目を瞑った関口が、ゆっくりと腰を沈めてくる。待ちわびていた肉が、太い先端に押し広げられる感触に、再びの昂揚を感じる。
 まるで逆だ、と雪絵は思った。満たされ広げられる感覚に思わず目を閉じるのは、普通、女の方であろう。
 ぐい、と奥まで押されて、雪絵は目を細めた。奥の奥、最も感じるところに、関口の鈴口が当る。脈打つ熱い肉棒が性感帯を圧迫する肉の悦びに、雪絵は陶酔した。

「……タツさん……」

 感極まって呼んだ声に応じるように、熱い塊が動き始める。
 胎の奥を肉の凶器が乱暴に抉る。反射して入り口がきゅうと縮む。雁の返しが逃げるようにその口をこじ開ける。
 粘ついた水音が立つほどに擦り上げられて、雪絵は乳房を掴んで悶えた。

「あ……はっ、あぁ! ああ!! タツさん! タツさん!!」

「好いかい? 雪絵? ……ああ……僕はイイよ……雪絵の此処は、まるでちゅうちゅう吸いついてくるみたいだ」

「ひっ……! 言わないで、ください……ああ、イイ! 佳いです!! タツさん……!!」

 夫の律動に合わせて、雪絵も淫らに腰を振った。若い娘のように夫の腰に足を絡ませ、大きく尻を揺らした。たぷりたぷりと揺れる尻を、夫が鷲掴みにして引き寄せる。
 淫水にぬめる雪絵の肉襞は、夫の肉棒を隙なく貪欲に貪っていた。
 激しくなる突き上げに総毛立つような快感を得て、雪絵は関口にしがみつく。

「タツさん! あぁ……イく! イきます!! あああぁ……!!」

 官能に大きく仰け反った雪絵の奥が、ぎゅうと関口を締め付けた。痺れるような快感に、関口も弾ける。
 胎内で感じた射精の瞬間、雪絵は自分の蜜壷が絞り上げるように収縮するのを感じた。
 だが、どれほどの精子を絞り出そうとも、それは薄いゴムに阻まれて受胎する事はない。生殖の為に蠢く身体が、ひどく虚しかった。
 慰みのように、夫の唇が雪絵の口を吸った。無精髭が当ってちくちくする。
 雪絵は、夫の背中を抱いた。

「タツさん……」

 夢見心地の妻の声で、関口はふと我に返った。
 少女のように頬を染めた妻は、腕の中で温かく自分を包んでいる。

 嗚呼、何だか夢を見ているやうだ。
 私は生温い液體に浸ってゐる。

 ──────否、私は妻に浸ってゐるのだ──。

 終
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