「とりあえずタオルで頭拭いとけ」
「ありがとう…」
クラウドは手渡されたタオルを受け取った。そして濡れた髪をタオルで拭きながらカーテンの隙間から窓を覗いた。
外は薄暗く、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。
* * *
雨が降り出したのはクラウドが大学の講義の後に入れていたバイトを終えて、自宅へ帰る途中の時だった。
バイトを早い時間に上がったので気になっていたお店に寄るなどして道草を食っているうちに、空模様があやしくなってきた。
朝、母親から今日は雨が降ると教えられたが、遅刻ギリギリで家を出た為、傘を持って出るのをすっかり忘れてしまった。そのことを思い出したのは最寄り駅に着く直前だった。
しかし大学を出る頃になってもバイトをしている最中も特に雨の降る様子がなかったのですっかり油断していた。
(しまったなあ…)
見る見るうちに空が暗くなり出し、ついに雨が降り始めてしまった。
ぽつぽつと降っていた弱い雨が次第に強くなり、五分も経った頃にはスコールのような大雨になっていた。
駅まではまだ遠いし、住宅街のど真ん中の為、ビニール傘が買えそうなコンビニも雨宿り出来るような場所も見当たらない。焼け石に水ではあったがカバンからミニタオルを取り出して頭に乗せると駅へ向かって急ぐ。じっとりと濡れ始めた服が肌に纏わりついて気持ち悪い。靴にも浸水してきかねない雨量だ。髪はシャワーを浴びたようにしとど濡れ、ミニタオルを掛けている意味もあまりなくなってきた。
(確かそこの角を曲がると駅への近道だったはず…)
クラウドは角を右に曲がってさらに走った。
いくらか走っていると前方に傘を差した人がこちらに向かって歩く姿が見えた。
ああ、あの傘を貸してもらえたら大分楽になるのに…。
そんなことを考えながらその横を通り過ぎようとしたところで声を掛けられた。
「…クラウド?」
「え?」
思わず立ち止まって後ろを振り返る。
傘を差して歩いていたのは中学・高校で同級生だったザックス。高校を卒業して以来、半年ぶりの再会だった。
「あ…ザックス…」
「久しぶり…っていうかお前ずぶ濡れだな」
「あの、傘忘れて…」
久しぶりに見る懐かしい顔に、クラウドはどこかモジモジしながら答えた。
「オレんちここから近いからちょっと寄ってけよ。風邪引いちまうぞ」
「でも…」
ザックスは有無を言わせず、クラウドの腕を引いて自分の差している傘の中に引き入れた。
「ザ、ザックスが濡れるから、いいよ」
「大丈夫だよ。お前に比べれば全然濡れてねえから」
一つの傘に入りながら、二人はザックスの自宅へと向かった。この大雨の中、誰が見ているわけでもないが、妙に気恥かしかった。
こうしてたら恋人同士に見えたりするのかな。
そんなことを考えていたクラウドはハッとザックスを見やった。
「…ザックスの家ってここから近かったっけ?」
「ああ、大学行き始めてから実家出て、この近くにあるアパート借りてそこで暮らしてるんだ」
一人暮らし?それとも…。
クラウドは余計な詮索をする自分の頭を軽く振った。
数分ほど歩いていると前方に白塗りの壁のアパートが見えた。ザックスはそこを指差しながら
「ほら、あそこ。新築だからキレイだぜ」
と自慢げに話した。雨の日でなければもっと美しく映えただろう、小洒落た外観のアパートだった。一緒に住んでいる女性と選んでここにしたのだろうかとクラウドはまだ見ぬ彼女を想像した。
だって相手は高校の頃からいたのだから…。
そこの2階の角部屋を借りているそうで、クラウドはザックスの後について階段を上がって行く。突き当たりのドアの前でザックスが傘を片手にもたつき始めた。
「あれ、カギどこだ…」
どこか焦った様子でポケットをしばらく探ると、お目当てのカギを見つかったようで、カギ穴にそれを差し込む。何を慌てているのか、カギ穴に差し込むのにも少々手間取っていた。
急がないと彼女が帰ってきちゃうからかな。なら来いなんて言わなくてもいいのに。
そんな卑屈な考えがクラウドの頭に浮かんで来る。
「悪ぃ、待たせちまったな」
中はワンルームだったが、ロフトがあるせいか広々としていた。
ザックスはカラーボックスの引き出しからタオルを取り出し、クラウドに渡してやった。
「とりあえずタオルで頭拭いとけ」
「ありがとう…」
クラウドは渡されたタオルで髪を軽く拭いた。少し雨宿りさせてもらって、それでもまだ雨がやまないようなら傘を借りて帰ろう。そう思っていたが。
「風呂沸かすから、ちょっと待ってろ」
「え!?いいよ、そんな」
「そのまま帰ったら風邪引くぞ」
ザックスはクラウドの返事を聞かずに浴室へと姿を消した。
びしょ濡れの身体のまま、どうしたらいいかわからず、クラウドはタオルを首から下げたまま立ち尽くした。しばらくザックスが戻ってくる気配もないので何とはなしに部屋を見回す。
衣類を入れるカラーボックス、音響機器にパソコン。小さめのローテーブルに一人用のクッションソファ。シングルのスチールベッドの横にスチールデスク。置かれている家具からは女性が同居しているようには感じられなかった。一緒に暮らしてないんだろうか。
「今沸かし始めたからちょっと待っててな」
「あ、うん」
浴室から戻って来たザックスに室内を物色しているところ見られなかったかハラハラしながらクラウドは視線を泳がせた。
「……久しぶりだよな。卒業式以来?」
「うん…そうだね」
中学高校と同じ学校で、その6年間でクラスが一緒になったり別れたりしたが、中学の最初の年に一緒のクラスで隣同士の席になって以来、どういうわけか気が合って休み時間や授業中も話の絶えない仲の良い友達になった。
小学生のようにふざけ合ったりしていたが、いつの頃からか、そういうことが出来なくなった。きっと自分が意識し始めてしまったからなのだろうと、クラウドは過去を思い返す。
高校最後の年も同じクラスになったが、その頃にはほとんど会話を交わすことなくなっていた。だからこうして相対して話をするのは本当に久しぶりのことだった。
「学校のヤツらと会ったりしてる?」
「ううん…会ってないよ。今日ザックスに会ったのが初めてかな」
「大学楽しいか?」
「うん。バイトしながらだし、ちょっと忙しいけど」
積もる話はあるはずなのに、そこで会話が途切れてしまった。何ら変わることのないザックスの口調が仲の良かった頃を思い出させ、クラウドは胸がズキズキと痛むのを感じた。
無言のままでいると、浴室から電子音が鳴り響いた。
「あ、風呂沸いたみたいだ。入れよ」
「あの、でも…」
「ん?」
「…誰か帰って来るんじゃないの」
その言葉が何を意味しているか瞬時に察したザックスはクラウドの頭を小さく撫でた。
「誰もいねえよ。オレ一人だから気にするなって」
「そう、なんだ」
聞き様によっては断るに十分な発言だったが、クラウドは促されるまま脱衣所へ入っていった。
シャワーを浴びて簡単に身体を流すと、湯の張られた浴槽に静かに身を沈めた。
一人って言ってた。やっぱり一緒に暮らしてないのだろうか。それとも…。
何かを期待している自分にクラウドはパシっと頬を叩いた。もう大学生で、一人暮らしをしているのだ。いないはずなどない。同じ学年で思いを寄せていた女の子もいたし、高校卒業の年には彼女がいたことも知っている。
本人から聞いたわけではないが、ザックスが他校の女生徒と歩いている姿を目撃したクラスメートがいた。その女生徒とは近所にあった女子校の生徒だったらしく、学校帰りと休日に遊んでいる姿を見たクラスメートもいた。それの他にも仲のいい友達に好きな子がいるとザックスが話しているというものもあった。つまりはその女生徒のことなのだろうと推測できた。
それを聞いた時、クラウドはひどく落胆した。ずっと思いを寄せていたのに、取られてしまった。取られたと言っても告白すらしていないが、自分が高校に通ってる間ずっと思い続けた相手に失恋してしまったという事実に変わりはない。
もしかして告白していれば、思いに応えてもらえただろうか。今更悔いても意味のないことだが、思わずにはいられなかった。
仲のいい友達だったはずが、いつの間にか関係がギクシャクしてしまっていた。その原因はクラウド自身にあった。
高校に上がった頃から友達ではなく、異性として見始めてしまい、その時から友達として付き合えなくなった。会話も段々少なくなり、ザックスも次第にクラウドから疎遠になっていった。宿題のことや、連絡事項などの必要最低限の会話はしていたが、以前のようにバカなことを言ってじゃれ合ったりすることもなくなってしまった。
そうやって浴槽に浸かりながら昔のことをボーっと思い返していると、脱衣所からザックスの声が聞こえてきた。
「クラウド、オレので悪いんだけど一応着替え置いておくから」
「あ、ありがとう…」
親切にされればされるだけ胸が苦しくなる。もう手の届かない存在なのに。
いつまでも長風呂していられないと、ザックスが脱衣所から出て行ったのを見計らって、クラウドは浴槽から上がった。
ザックスが置いていったのはシャツとジャージで、当然ながらザックスよりも体格の小さいクラウドには大きく、ダボダボだった。ふと通したシャツの袖を鼻に近付けた。ザックスのにおいがした。
* * *
雑誌を読んでいたザックスは脱衣所から出てきたクラウドに視線を走らせると、少し顔を赤らめながら照れ隠しのように声を張り上げた。
「あ、やっぱりオレのじゃでかすぎるよな!」
「色々気遣ってもらってごめん…」
「これくらい大したことねえから」
クラウドはテーブルの脇に座るザックスの反対側にちょこんと座った。
「ウーロン茶くらいしかないけど飲むか?」
「うん…ありがとう」
ザックスは立ち上がって台所へ向かうと、小さめの冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップに注いだ。それをクラウドの前に置いてやると、元の場所に座って落ち着きなくクラウドの方をチラチラと窺いながら口を開いた。
「そういえば髪切ったんだな」
「ん…ちょっとね」
「短いのも合ってるな。かわいいじゃん」
軽く言い放たれたかわいいの一言にクラウドの胸は高鳴る。
髪を切ったのは自分の中でけじめをつける為。もうザックスのことは諦めようと高校の卒業式の後にばっさり切った。その原因となった張本人に褒められて、クラウドも内心複雑だった。
「お世辞なんて言わなくていいよ」
つい憎まれ口を叩いてしまうのは中学の頃から何ら変わっていなくて。褒めてくれてるのにどうしてこんな言い方しか出来ないのだろうとまるで成長していない自分にクラウドは自己嫌悪した。
「別にお世辞じゃねえよ…高校の頃からそう言われてただろ」
「え?」
「他のクラスのヤツでお前のこと…知ってるだろ?」
「し、知らないよ。そんなこと言われたことなんてないし」
「お前のこと好きだったやつ、結構いたんだぜ」
そんなのは初耳だった。ザックスの手前、言われたことはないとクラウドも言ってしまったが卒業式の日に他のクラスの男子生徒から呼び出されて、好きだと言われたことは一度だけあった。名前も顔も知らない生徒だった。
突然好きだと言われてもどうしていいのかわからず、クラウドは一言謝ってすぐその場から逃げてしまった。例え見知った人物であったとしてもその気持ちに応えることは出来なかった。目の前にいる人物以外は。
他の誰に思いを告げられてもそれは意味のないことだった。そんな気持など知りもしないザックスに無性に苛立ったクラウドは反論するように口を開いた。
「…ザックスこそ色々噂あったくせに」
「オレ?」
「彼女と歩いてるところ、見た子がいた」
「…彼女?」
ザックスは鳩が豆鉄砲を食らったような間の抜けた表情をした。まるでそんなものいないと言いたげな様子でクラウドを見やった。
「ごまかさなくてもいいよ。みんな知ってたから」
「待てよ。ごまかすも何もいねえよ、彼女なんて」
少し不機嫌そうに言い返すザックスに今度はクラウドが面食らった。そんなはずはない。確かに噂で…とクラウドが言いかけたのでザックスが遮った。
「何だよその噂ってのは」
「クラスの子が…ザックスが近所の女子校の生徒と歩いてるところ見掛けたって話してた…」
それを聞いて腑に落ちたようで、ザックスは表情を和らげた。
「ああ!あの子か。あれ見てたやつがいたのか…」
あの子…やはり本当のことだったんだ。
あれはただの噂で本当は違うかもしれない。そんな淡い希望をいまだに抱いていたが、たった今それが現実だとわかった悲しみからクラウドは我知れずに涙を流していた。
ザックスが当時を思い出していると、目の前でクラウドが泣いてることに気付き、ぎょっとしてその顔を覗き込む。
「え?な、なんで泣いて…」
言われて初めて自分が泣いていることに気付いたクラウドは大急ぎで涙を拭った。それでも、拭っても拭っても涙が流れ出て止まらない。
「ちがう、ゴミが…」
そう言いながら顔を伏せて泣きじゃくるクラウドにザックスはうろたえた。
「あのさ…お前、もしかして誤解してるんじゃないか?」
「…っ、ご、誤解って…何が……っ本当の、ことだった、んじゃないか…」
しゃくり上げながら言葉を紡ぐクラウドにザックスは頬を仄かに紅潮させた。そして所在なさげに頭を掻きながらボソボソとつぶやいた。
「オレ…自意識過剰?お前って…オレのこと…好きだったりする?」
こんな風に泣いてしまえば、気付いてくれと言っているも同然だ。クラウドは返事をすることなく、また泣いた。
疑問が確信に変わり、ザックスはテーブルに身を乗り出す。
「あのな!女の子と歩いてたのって、そういうのじゃないんだ」
「…?」
例の女の子と歩いていたという話の真実はこうだった。
他校の女生徒から告白されたというのは本当だった。しかし、その子には付き合うことは出来ないとその場で告げた。それで終わるかと思ったが、その女生徒は付き合えなくてもいいから、一回だけデートをして欲しいとお願いしてきたのだ。それならば…と一回だけというのを条件に学校が休みの日に二人で出掛けた。
彼女とはそれきり会ってないし、別れ際に本人から「すっきりできた」と明るい表情で言われた。ザックスにとっても、その女生徒にとってもその日で全て終わった話だった。
「そんなの、ウソだ…」
「ウソじゃねえよ。お前に言われて久しぶりに思い出したんだぜ。大体あの子の連絡先も知らねえし」
後腐れのないよう、アドレス交換はやめようと事前に決めていたという。
「じゃあ、好きな子がいるっていうのは…」
「そっちは本当」
ズキリと胸が痛む。
同じ学年の子?友達のうちの誰かだろうか。誰なのか聞きたい。だけど怖い。
ザックスは不安げな表情を浮かべるクラウドからすっと視線を逸らすとぼそっと小声で言った。
「…目の前にいる子だよ」
その言葉の持つ意味が理解出来ず、クラウドはただ瞬きを繰り返した。
「今オレの目の前にいるのはお前だけだろ…」
それでやっと誰のことをさしているのかわかったクラウドは首を横に振る。
「ウソ…ウソだよ…なんでそんなこと言うの…」
「まあ急に言われても信じられねえよな…」
ザックスは当時を思い返すように天井を見上げた。
「オレたち中学一緒でずっと仲良くやってたじゃん。あの時からさ…気になってたんだ。でも高校上がってからオレのこと避けるようになっただろ」
「あ……」
「だから嫌われちまったかなって…」
どこか寂しそうな顔をするザックスに胸が締めつけられた。ちがう、そうじゃないと言いたかった。
「諦めてちがう子好きになろうって思ったけど…やっぱダメだった。…部活の仲間でお前のこと好きだって言ってるやつがいてさ。オレすげえあせってたんだぜ。そいつが告ったらお前取られちまうんじゃないかって。でも…それでも言えなかった。振られるのが怖くて」
「そんな…それじゃ…」
「オレたち…両想いだったってことだよな?」
ザックスが涙で濡れた両頬を手で包む。クラウドはまた涙を浮かべた。
「…お前って結構泣き虫なんだな」
そう言ってゆっくりと唇を重ねた。
外はすでに暗く、強めの雨が降り続いていた。
END