戻ります

「冷えてきたね、冬弥」
「……冬だからな」
 俺は寒さに凍える体を震わせ、短く答えた。
 時刻は夕方。まだ五時だというのにすっかり空は暗くなり、冷たい空気と共に夜の訪れが告げられる。
「にぎやかだね、冬弥」
「……クリスマスだからな」
 正確には、明日がイブ。街は赤と緑で飾り付けられ、派手なイルミネーションが点灯している。
 耳に届くのは浮き立つようなクリスマスソング。行き交う人々のざわめきも、笑顔に彩どられている。
 だけど今の俺は、その色彩にも、音にも、心は躍らない。
「冬弥、不機嫌」
 その元凶が、俺を責めた。
「……誰のせいだと思っているんだ?」
 俺が険しい視線を贈ると、はるかはしれっとした顔で、
「冷えてきたから」
 と、俺のコートを羽織りなおし、襟を立てる。
「だからといって、いきなり『冬弥、じゃんけん』と不意打ちして、勝ったからってコートを強奪するか!?」
「今日は今年一番の寒さだって」
「だったらもうちょっと厚着してくればいいだろうに……」
「これで精一杯」
 コートの内側の、いつものジャケットを指す。
 確かにそれで平気なのかとは心配したけれど、いつもと同じ、澄ました顔をしているから、寒さなんか感じていないと思ったのに。
 ひょっとしてコート強奪は、無言の抗議のつもりなのだろうか?
 などと考えていたら、不意に、容赦なく寒風が吹き付ける。
「……ダメだ。緊急避難しよう」
 丁度目の前にコンビニがあった。しばらく暖まって、ついでに温かいコーヒーでも買って凌ごう。
「あ、逃げた」
「逃げたくもなる」
「ずるいな、冬弥」
 ずるいもなにもあるか、と言い返してやりたかったが、唇が寒さにかじかんでいた。
 自動ドアが開くと、むぁっとした、熱いぐらいの空気が流れ出てくる。
 店内はなかなかの混雑ぶりで、暖房と人の体温が凝縮して、こんな温度になったのだろう。
 いつもなら鬱陶しく感じるほどの湿気と熱も、今の俺にはありがたかった。
「立ち読みしていこう。暖まりたい」
「……そう?」
 はるかは少し視線を逸らした。長年のつき合いで分かるが、こういうときのはるかは不満に思っている。
「恨むんなら、コートを強奪した極悪人を恨んでくれ」
「ん、そうする」
 はるかはとてとてと、俺の後をついてくる。……お前のことを指して言ったんだぞ。分かっているのか?
 俺が情報誌を広げた横で、はるかも本を手に取って広げた。
 ……週間少年ジャンプ。意外だ。
「はるかもそういう本、読むんだ」
「手前にあったから」
 なるほど。
 しばらく、無言のままの立ち読みが続く。
 はるかがふと、視線を上げて。
「冬弥、暑い」
「俺は寒かったんだよ」
「返しとく」
 はるかはコートを脱いで、俺の上に被せた。
「……お前なぁ」
「私、十分あったまったから」
「外に出たら、寒いだろ」
「……そうだね」
 ちら、とこっちを見て、すぐに逸らした。
 ……? 今度はなにが不満なんだ?
「はるかもコートとか買ったら?」
「これ、気に入ってるから」
「その上から着ればいいだろ。もっと暖かい服買わないと、これから厳しいぞ」
「……考えとく」
 視線はジャンプに落としたまま。まるで関心のない口振りだ。
 結局、その話題はそれきりで、しばらくしてから俺たちはコンビニを出た。
 一緒に買った缶紅茶を、ほっぺたにくっつけて。
「あったかいね」
「すぐ冷えるぞ。急いで帰ろう」
「寄り道したのは冬弥」
「いや、そうじゃなくって……」
 言ったとおり、すぐに紅茶はぬるく、冷たくなり、なくなった。残された缶は手に痛いほど冷え切ってしまう。
「冬弥、寒い」
 はるかが物欲しげに俺を見る。
「……じゃんけんなら、もうしないぞ」
「ボタン開けて」
「は?」
「コートの前」
 言う間にはるかが勝手に、コートの前ボタンを外してゆく。
「お、おい。はるか……?」
 開いたコートの内側に、はるかがするっと潜り込んでくる。
 はるかの少年のような体がふわりと収まり、手をボタン代わりに交差させてコートを閉じた。
「ん……あったかい」
「……」
 まぁ、いいか。
 俺ははるかの手に重ねるように、両腕を回して抱え込んだ。
 はるかの髪の毛の中に、顔を埋めると、微かに石鹸の匂いがした。
 さすがにこのまま歩けないので、歩道の片隅に突っ立ったまま、静かな時間を過ごす。
 多分行き交う人に見られているんだろうな、とは思うけど、気にならない。
 気のせいか、音楽までも小さくなったようだった。
「……冬弥」
 はるかが消えそうな声で呟いた。
「なに?」
「……カンガルーみたい」
 くすりと笑って、そんなことを言った。
「お前な」
「あ、忘年会で、これやろうか。二人羽織とか言って」
 即座に俺の中にその光景が浮かんだ。
 俺が必死でうどんを掴み、平然とそれを顔で受け止めるはるか。……笑えない。
「……やめとこう」
「そう?」
 はるかはちょっぴり残念そうだった。
「逆の方がいいかな?」
「え?」
「私が後ろで冬弥が前。……ん、そっちの方がいい」
 妙に確信めいた口調で頷く。もっとも、俺がわたわたしている姿を見たいだけなのに違いないが。
「だからやらないって……」
「冬弥、ノリ悪い」
「俺はノリノリのはるかなんか、見たことないけど」
「本邦初公開」
「頼むから勘弁してくれ……」
 そんな痕裏シナリオの楓ちゃんのようなはるかは見たくない。
 はるかは俺の情けない顔を見てくすりと笑い、俺の体に体重を預けた。
「……冬弥」
「今度はなんだ?」
「あったかいね」
 どこかうっとりとした声で、はるかは言った。
「……そうだな」
 二人の体が触れ合っている部分から、熱が染み出して、寒さを感じさせない。
 伝わる鼓動が重なって、心地良いリズムを刻んでいる。
 いつまでもこうしていたいと、そう願ってしまう穏やかな時間。
「これならコートなんかいらないね」
「俺のコートを使っているからだろ?」
「うん。冬弥がいれば、コートを買わなくてもいいや」
「俺がいないときはどうするんだ?」
「……考えてなかった」 
 はるかがわずかに、俺の身体に体重をかける。
「それにこのままだと、いつまでたっても帰れないし」
「……帰りたい?」
 はるかが首を上向けて、逆さまになった顔で、俺を見上げる。
 一瞬、返答に窮すると、はるかはするりとコートから抜け出て、
「帰ろっか」
 後ろ姿で、短く言った。
「あ、はるか……」
「帰るね」
 一瞬、はるかがそのまま闇に溶けてしまうかと思った。
 思う前に、俺の手は、はるかの手を掴んでいた。引っ張られたはるかが、バランスを崩しかける。
「……冬弥、痛い」
「あ……ごめん」
 俺は手を離し、黙ってうつむいたはるかを前に、戸惑った。
 はるかが孤独な小動物みたいに体を震わせる。
 群で生きる生物じゃないのに、寒さのあまり、仲間を求めるような。
 自然と体が動いて、一番正しいと思われる行動を取った。
「冬弥?」
 右袖をコートから抜いて、はるかを引き寄せ、その肩に掛ける。右手はコートの上からはるかの肩に回した。
 一枚のコートを二人で分け合うように、寄り添う。
 少し右腕が寒いけど、はるかの体温が伝わるので、我慢できた。
「横型二人羽織?」
 くすりとはるかが笑った。どうやらよっぽど気に入ったらしい……それとも本当に忘年会で披露したいのか。
「帰るぞ」
「……ん。冬弥」
「なに?」
「雪、降るね」
「そうか?」
「ほら……」
 はるかがふっと空を見上げた。
 暗い空から、花びらのような白い雪片が、ひらひらと舞い始める。
 まるでダンスのように軽やかに円を描きながら、少しずつ少しずつ、白が闇の中に散ってゆく。
「気が早いね。明日ならよかったのに」
「そうだな」
 ひゅうっと寒風が流れる。大きく開いたコートの前から冷たい空気が流れ込んできた。
 顔に当たった雪が、冷たい感触を残す。はるかがぎゅっと、コートの端を握った。
「……服、買おうかな?」
 唐突にはるかが、さっきの話題を持ち出してきた。
「いいんじゃないか?」
「トナカイの着ぐるみとか」
 だけどセンスは最悪だった。
「クリスマスネタか?」
「さっき読んでたマンガに、そういうのが出てきた。7段変形おもしろトナカイ」
「ワンピースネタか」
 妙に熱心に読んでいると思ったらこれだ。
「冬弥はサンタね」
「……せめてはるかがサンタになってくれ」
「冬弥、トナカイになりたい?」
「俺は靴下用意して待っている良い子になるから」
「あはは。冬弥、良い子なんだ」
「はるかみたいな不良じゃないから」
「あげよっか?」
「え……?」
「プレゼント……」
 すぐ真横で、はるかが俺を見つめていた。微かに上気した頬。
 唇から零れる白い吐息が、俺の顔をくすぐる。大きな瞳の中には、俺が映っていた。
「はるか……」
 半ば開きかけた唇に、不意に甘い感触が押しつけられる……って、この味は、チョコバー?
 クラッシュアーモンドと、甘ったるいほどのチョコレート。口になじんだ、はるかお気に入りの銘柄だ。
「サンタさんからのプレゼント」
 はるかは罪のない笑顔を見せる。
「いつもと同じじゃないか」
「あはは。冬弥、良い子でよかったね」
「こんなプレゼントを渡されたら、全国の子供たちは暴動を起こすぞ」
「良い子は暴動なんてしないよ」
 はるかにしては生意気に、うまい切り返しを見せた。まったく……。
「期待した?」
 俺の下心を見透かすように、はるかが不意に切り込んでくる。瞳がいたずらっぽく笑っていた。
「……うるさい」
 俺は照れくさくなって、目を逸らした。
「あはは。ね、冬弥」
「なんだ?」
「私のプレゼント、コートでいいよ」
「はぁ?」
「私はあげたから、お返し」
「ちょっと待て。そっちのプレゼントはチョコバーで、俺からはコートか?」
「寒いから」
 答えになってない……。
「公正取引委員会に訴えられるぞ」
「でも、冬弥が勧めるから」
「お前なぁ……」
「ん……でも、いいや」
 唐突に、前言撤回するはるか。長年のつき合いでも、やっぱり時々掴めない……。
「こうしてる方が、いいや」
 はるかはぎゅっと身を寄せて、抱きつくように、腕を俺の腰に回した。
「冬弥、あったかいし」
「まったく……」
 少し窮屈だけど、はるかの温もりを感じながら、不器用に歩き始める。
「明日はクリスマスだね」
 はるかは今さらながらに、そんなことを確認する。
「ああ、そうだな」
「メリー・クリスマス。冬弥」
「だから明日だって……気が早いぞ」
「あはは……」
 雪の降る中を、俺たちは寄り添いあいながら歩いてゆく。
 残された、白い足跡の上には真新しい雪が積もり、すぐに埋めてしまうだろう。だけど……。
「はるか」
「なに、冬弥?」
「来年もよろしく」
「冬弥、すごく気が早い」
「うるさいな。言っておきたかったんだよ」
 来年も、その先もずっと、はるかと一緒にいられるように。
 たとえ今日という日が、時間という雪の中に埋もれてしまうとしても。
 いつまでも、こうして二人で不格好に、寄り添いあいながら生きていけるように。
「ん、よろしく……冬弥」  


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