戻るのだ

「あの、弥生さん……相談があるんだけど」
 由綺が珍しく歯切れ悪く、そしてどこか嬉しそうな様子で、弥生に言った。
「なんでしょうか?」
「……できちゃったみたい」
「――は?」
 弥生が珍しく五秒ほど硬直し、そしてどこか呆然とした様子で、ようやく間の抜けた返事を返した。
「だから、その……赤ちゃん」
 きゃっ、と小さく声を上げ、赤くなった頬を手で押さえる由綺。
 対照的に弥生の顔は蒼白になり、色と共に表情まで抜け落ちる。
 スキャンダル発覚、汚れたアイドル、できちゃった婚、引退宣言などと、不穏な単語が弥生の胸中で渦を巻く。
 なのに、ああ、なんてことか。由綺の回りにはお花畑が咲いている。
 すでに彼女の頭では、甘いウェディングライフと生まれるのは男か女かなどという、
 お気楽、極楽、脳天気な悩み事が輪になって踊りつつ、聖歌を合唱しているのだろう。
 同じ部屋にいるのに二人の温度差は、あまりにも違い過ぎた。
「――だからこれから先、お腹の子のことも大事にしたいから、あまり派手な振り付けはできないし、
 お腹が目立ってきちゃったら衣装映えしないし、病院にも通わなくっちゃいけないから、
 スケジュールの調整とかも大変で、やっぱりこうなった以上、冬弥くんと、
 その、にゅ、にゅ、入籍しなくっちゃいけないし、あ、正式にお母さん達にも紹介しなくっちゃ。
 そうなると結婚式とかハネムーンとかも考えないと駄目で、やっぱりアイドルだったら、
 ホテルとか借り切って大々的にやらなくっちゃいけないのかな? 
 一応、貯金なら結構あるんだけど、あの、弥生さん聞いてる?」
 聞いてなかった。
 正確には、耳に入っていなかった。
 由綺が甘やかな賛美歌のようにのろけ相談を歌い上げた横で、
 弥生は必死に乱れまくった思考をフル回転させていた。
 やがて、弥生は顔を上げ、無言で由綺の手を掴み、大股で力強く歩き出した。
 由綺は戸惑いながらも、ふにゃっとした笑顔を貼り付けて、引かれるままについてゆく。
 ついたのは社長室。勢いよく開いたドアの先には、緒方プロダクション社長、緒方英二。
 椅子にだらしなく腰掛ける英二に、弥生はつかつかと歩み寄る。
「少々、相談したいことがあるのですが」
「どうしたの弥生さん。恐い顔しちゃって。由綺ちゃんは楽しそうな顔だけど」
 5秒後には、英二は難しい顔になっていた。
「マジで?」
「マジですか?」
 今さら弥生が確認するのは、よほどショックが大きかった証拠だ。
「マジマジ」
 由綺はにっこりとVサイン。
 頭を抱える二人を、どうしたんだろうと疑問符を浮かべて眺め、すらすらと説明を並べ立てる。
「最近、生理が不順気味で、もしかしたらって思って妊娠検査キット使ってみたら、陽性ってでたんだけど、
 でも冬弥くんをぬか喜びさせるのもどうかなって思ったから、
 ちょっと恥ずかしかったけど、病院に行ってちゃんと検査してもらったの。
 そうしたら、なんとびっくり、『おめでたです』って。妊娠三ヶ月」
 やたら饒舌な由綺の後ろで、天使が景気良くファンファーレを鳴らしていた。
 彼女にとって妊娠とは慶事以外の何事でもなく、冬弥ももちろん喜び、周りも祝福してくれると確信しきっている。
 元から天然でマイペース気味なところはあったが、極限まで浮かれるとこうも周りが目に入らなくなるとは。
 長年つき合いのある弥生や、めったなことでは動じない英二ですら、そのギャップに大いに戸惑い、
 そして疑いようもなくなってしまった妊娠という事実に困惑し、苦悩した。
 一体、誰がこんな事態を引き起こしたのか……といえば、当然、由綺と、もう一人。
「お相手は、藤井さん……ですか?」
「やだぁ、弥生さん。当たり前じゃない」
 弥生の胸中を露とも知らず、あっけらかんと由綺は返す。
 膨れあがった怒りのオーラが弥生の髪をざわりと持ち上げる――ような気配を英二は感じた。
「避妊はなさらなかったのですか?」
 由綺は、さすがにばつが悪そうに目を逸らし、
「あ、うん……ちょっと計算間違えちゃって、安全日だと思っていたんだけど……。
 でも遅かれ早かれ、いずれは、って思っていたし。少し順番違っちゃったけど」
「このことは、藤井さんには?」
「今朝、病院に行ってきたばかりで、まだ会っていないから……。
 でも、スケジュールのこととかあるから、とりあえず弥生さんに報告しとかなくっちゃって思って」
「それは幸いです」
「?」
 弥生の瞳に暗い影が揺らめいた。
 英二と額をつき合わせ、「今のうちに殺りましょう」と、小声で物騒なことを呟く。
 目は限りなくマジだった。視線だけで冬弥を殺せそうなほどに。
「いや、落ち着け弥生さん。気持ちは分かるが、この際、殺ってもしょうがないから」
「しかし、殺らないままに放置しては、致命傷になります」
 殺る殺らないだの物騒な単語が、藤井冬弥の周囲を飛び交ったが、幸いにして本人には届いていない。
「だけどさぁ、いまさら青年を消してもどうにもならないぜ。由綺ちゃんが、おろせって言われておろすと思う?
 青年が消えても、妊娠の事実が消えなければ同じだ。いや、かえってやっかいになる」
 ちらりと弥生が振り返れば、由綺はお腹の子になにやら話しかけている。
 一瞬、弥生の心がときめきかけるが、すぐに凍てつくような冷たい怒りが、それに取って代わる。
 原石から発掘し、磨き上げてきた宝石を、一瞬にして砕かれ、踏みにじられたようなものだ。
 マネージャーとしての公的な怒りもさることながら、私憤の部分はそれ以上に大きい。
 この点、英二の方が、弥生よりはるかにビジネスライクで冷静だった。
 たちまちの内に頭の中でスケジュールを組み替え、
 どのようにすればもっとも効果的に、このスキャンダルを利用できるかを思案する。
「――これから先の予定は全部キャンセルだ。下手にすっぱ抜かれる前に、こっちから先手を打って発表しよう」
「ですが由綺さんは清純派アイドルです。急激な路線変更は従来のファンを失いかねません」
「あっ、ひょっとして、これって学生結婚になるのかな?」
 真剣に先行きを探る二人をよそに、由綺は脳天気にどーでもいいことを考える。
「いやいや、だからこそさ。由綺ちゃんは天然でやっているところがある。
 下手にこちらの型にはめて方向性を歪めるより、自然にあるがままを晒した方が、いい結果を生むだろう」
「電撃的に婚約発表して、さっさと結婚まですませるおつもりですか?」
「赤ちゃんを育てながら学校に通うのかぁ……いいかも。はるかや美咲さん、どんな顔するかな。ふふっ」
 脳裏に浮かぶはキャンパスライフ。まごうことなき天然思考は明るい色に染まりまくりだ。
「ああ、そうだ。全国のお母さん方を味方に付けよう。仕事と育児の両立が社会問題として注目を集めている。
 そこの所をつつけば、新しいファン層を開拓することも可能だ」
「――しかたありません。計算が合わないと騒がれるのも困りますので、婚約発表は本日の夕方。
 挙式は来月頭の連休にしましょう。帝国ホテルなら懇意にしてますから、緊急でも確保できます。
 ご両親には私から連絡を。適当に説き伏せておきましょう」
「やっぱり身につけるものは手作りの方がいいよね。美咲さんなら、編み物とか得意かなぁ?」
 こうなったらもう、由綺に合わせて明るく前向きに行くしかないと、英二と弥生も開き直る。
「よろしく頼むよ。俺は、その間におめでたキャンペーンの内容でも考えておく。
 あと、合わせて新曲も作っておかなくっちゃなぁ……さすがにこの手のは畑違いだから、外注するか」
「子守歌でも作りますか?」
「ハネムーンは日本だと騒がしそうだし、海外の方がいいかなぁ。ヨーロッパなんか素敵だよね」
 素敵なのはあんたの幸せ回路だよ、といいかげん二人も突っ込みたくなっているのではないだろうか。
「弥生さん、それ皮肉? でもグッドアイディアだ。いただこう」
「では適当と思われる作曲家をリストアップしておきます。他になにか指示はありますか?」
「冬弥くんに、パパになりましたよって言ったら、びっくりするだろうなぁ。ふふっ」
 ええ、びっくりしましたとも。これ以上ないくらいに。
 ため息と共に由綺を眺めた二人の顔には、そう書いてあった。
 そして英二はそのはけ口を、一人の男性に求める。
「青年殴っておいて。俺も殴っとくから」
「かしこまりました」
「あと七ヶ月かぁ……ふふっ」
 苦悩と諦観をブレンドした顔で、今後の対策を立てる二人をよそに、
 由綺はひたすら、くるくると浮かれまくっていた。


 その日の午後、藤井冬弥はいつもの通りADのバイトに入り、会場のセッティングをしていた。
 よほど急ぎの仕事らしく、質問を差し挟む余裕もないまま、冬弥は言われるままに配線を繋ぎ、マイクを並べる。
 由綺が会場に姿を現して、初めて彼女に関係することなんだと気づいたほどだった。
 じきに緊急記者会見が始まり――発表と同時に生じたどよめきが、会場を揺るがせる。
 ざわめき乱れる会場の中でただ一人、冬弥だけが彫像のように固まっていた。
 すでに婚約はすませたことになっていて、挙式からハネムーン、その間の芸能活動休止期間・再会時期に至るまで、
 僅か半日で、一年先まで完璧に立てられたスケジュールが、英二の口から発表される。
 その中には母親のイメージを強調したアルバム発売や、2時間ドラマの出演予定まで含まれており、
 あまりに手際が良すぎて、妊娠という事実までが、緒方英二のプロデュースなのではと疑わせるほどだった。
 戸惑う取材者たちをよそに、由綺は笑顔で質問に答えてゆく。
 いつもは返事するまでに、少し考えたり戸惑ったりすることが多いのに、今日は別人のようにはきはきとしていた。
 相手の名前は伏せられていたのに、うっかり「冬弥くん」などと発言し、さらに反響を呼んだりもした。
 戸惑いと驚愕の内に、記者会見は終わり、この一大発表を記事にしようと、芸能記者たちが飛びだしてゆく。
 やがて誰もいなくなったスタジオに、冬弥は一人取り残された。最初から最後まで、ずっと顎は外れっぱなしだ。
 寝耳に水、どころの騒ぎではない。
 一体、いつの間に自分を取り巻く運命が、こうも嵐のまっただ中に叩き込まれたのか。
 不意に、ぽんと肩を叩かれ振り向くと、英二と弥生が立っていた。
「そういうことだから、よろしく」
「そういうことですから、よろしくお願いします」
 そういうこと、と言われても、なにがなにやら分からない。
 妊娠? マジ? それって俺の子? てゆーか結婚って聞いてないし。
 新婚旅行にヨーロッパって言われても、俺、パスポート持ってないんですけど。
 などと雑多な思考がひたすら混乱を煽るばかりで。
「え、えーと、あの、すみません。俺、一言もこのことについて相談受けてないんですけど……」
 英二が笑った。
 弥生も微笑んだ。
 左右からのボディーブローが完璧にタイミングを合わせて叩き込まれ、冬弥はその場に崩れ落ちた。


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