戻るのだ

 青い空に、淡紅色の花片が舞っている。
 風に流されながら、くるり、くるりと左右に揺れ、少しずつ大きくなる。
 ふわさ、と視界のごく間近、下方ギリギリに降りてきた。
「ん……ねぇ」
「どうした?」
「取って」
「はぁ?」
 冬弥は芝生の上から身を起こした。
「取ってって……これか?」
 はるかの鼻先にちょこんと乗ってる、小さな桜の花びら。
 はるかは大の字になったまま、指1本動かそうとしない。
「ん……くすぐったい」
「おまえなぁ」
 ため息をつきつつも、花びらを取ってやる。
 はるかはおかしそうに、喉を鳴らして笑った。
「あはは……」
「まったく……」
 穏やかな春の日の午前。
 満開を通り越した桜の木は、後は枝につけた無数の花々を散らせるだけだ。
 合間合間には緑色の葉が見え始め、おそらくは三日としないうちに、全ての花は散ってしまうだろう。
「今年最後のお花見だね」
「……そうだな」
 朝っぱらから講義をさぼって何をするのかと思えば、ただ芝の上に寝ころんで、散りゆく桜を眺めるだけだ。
 ただそれだけのことが、はるかには妙に楽しいらしい。
 いい加減、はるかの突飛な行動につき合い慣れている冬弥は、諦め気分で再び寝転がり、腕を首の後ろで組んだ。
 ざっと風が吹いた。
 飛ばされた花片が吹き散らされ、空を埋める。
 そして雪崩のように降り注いでくる。
「あは……ピンク色の雪みたい」
 はるかが空に手を伸ばした。
 指の隙間を抜けて、無数の花弁が舞い降り、はるかの上に積み重なる。
 手のひらや顔、胸から足先まで、桜色に染まってゆく。
「綺麗だね……」
 その声が、冬弥の耳には、妙に遠くから聞こえた。

 突然、はるかの視界に、黒い影が割り込んだ。
 逆光に遮られ、影を落としたその顔は――冬弥の顔は、ひどく真剣だ。
 伸ばされたままのはるかの手を、痛いほど強く握ってくる。
「……冬弥?」
 痛みに顔をしかめながら名前を呼ぶと、冬弥ははっとして、慌てて手を離した。
「ごめん……」
「どうしたの?」
 上体を起こすと、積もった桜が流れ落ちた。
「……なんでもない」
 冬弥はなぜか顔を赤らめて、視線を逸らした。
 はるかは不思議そうに冬弥を眺めていたが、不意に握られていた手を押さえ、体を折る。
「いたたたた……」
 あまり痛そうじゃない声だ。
「なんでこんなに痛いんだろう」
 ちら、と冬弥を見る。
 その上目づかいの視線に、冬弥は折れた。
「わかった。おれが悪かったから……」
「ん、じゃあどうして?」
「……笑うなよ」
「ん」
 冬弥は横を向いたまま、語り始める。
「はるかが……桜に埋まっていったから。それがすごく綺麗で、幻想的だったから……」
 桜は春の象徴でありながら、人を酔わせる、狂気に誘うという言い伝えもある。
 紅の花が咲き乱れ、散ってゆく光景は、確かにどこか非現実的だった。
「桜が、はるかをさらっていってしまいそうな気がして……」
 笑われる、かと思った。
 だけどはるかは、むしろ困ったように視線を彷徨わせて――。
「あ……」
 そっぽを向いたままの、冬弥の背中にもたれかかった。
「大丈夫」
 それこそ、まるで桜の精のような。
「どこにも行かないよ」
 優しい暖かさが、冬弥の背中に伝わってくる。
 はるかは冬弥の首に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。
 目を閉じて、髪を触れあわせ、耳元で囁く。
「また、来年も見ようね」
 小さな誓いを祝うように、桜が舞い踊る。
 柔らかな白い手に、冬弥は自分の手を重ねた。
 間に指輪の代わりに、押し花のように花びらが挟まれる。
「……ああ、そうだな」
 冬弥は小さく呟いて、誓約をかわした。

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