戻るのだ

「犬?」
「うん、見に来ない?」
 僕の飼っている犬が、子犬を生んだ。
 親バカ……とはちょっと違うかもしれないけれど、とにかく、みんなに見せたくて、
 探してみたんだけど、あいにくと冬弥も由綺も、美咲さんも捕まらなくって、誘えたのは、はるかだけだった。
「犬……いっぱいいる?」
「うん。6匹」
「ふぅん……彰、よく頑張ったね」
「生んだの、僕じゃないって」
「あはは。いいよ、行こうか」
 そんなわけで、僕とはるかは並んで歩いている。
 正直、不思議な感じだ。
 最初は冬弥の友達、みたいな感じで友達になったはるか。
 それから長い間一緒に遊んでいるうちに、いつの間にか、そばにいるのが当たり前になっていた。
 性別とかを無視した、自然なつき合いができるようになっていた。
 だけど、こうして並んでいると、やっぱりはるかも女の子なんだな、と、
 滑らかな体のラインや、微かにそよぐ髪の柔らかさに、そう思わせられる。
「彰の家、行くの、久しぶりだね」
「うん……そうだね」
「中学生ぐらいまでは、冬弥の家とか、彰の家とか、結構行っていたっけ」
「うん……」
 あれからなにも変わっていない僕の家。
 だけど、僕たちの間は、なにか色々欠けたまま、埋まっていないように思える。
「ただいまー」
「おじゃまします」
 帰ってきた家の中は、誰もいなくて、しんとしていた。
「犬、どこ?」
 入るなりいきなり、はるかはそう言った。
「こっち。父さんの部屋を寝床に決めちゃってさ。
 もうそこから梃子でも動かなくなって、父さんがぼやいていたよ」
「ふぅん」 
 ドアを開けると、部屋の片隅からハドソンが睨む。
 子供を生んでから神経質になっていて、いつもこんな感じだ。 
 子犬たちはそのお腹の上で寝転がったり、じゃれあったり、こっちに気づいて顔を向けたりする。
 はるかは構わずに、すたすた近づいてゆく。
「あ、はるか……」
 ぺたん、と腰を下ろすと、じっと覗き込む。
 珍しく女の子座りで、両手をついたはるかが、警戒心露わなハドソンと、目を合わせる。
 じっと見つめ合う二人の間に、不思議な空気が流れる……。
 そ、とはるかが手を差し出すと、ハドソンがぺろりと舐めた。
「ん、いい子」
 はるかはハドソンの頭を撫でてやっている。
 普段は僕が近づいても唸るのに、どうしてこんなにあっさり……。
「抱いてもいいかな?」
 と聞くと、ハドソンはクゥンと小さく鳴いた。
「ん、ありがと」
 会話している……。
 不思議だとは分かっていたけど、改めてはるかの不思議さを見せられた感じだ。
 はるかは慎重に、傷つけないように、ゆっくりと手を伸ばした。
 黒と白に色分けされた一匹が、差し出された手に、興味深げに前足を乗せる。
 そっと、両手で包み込むように優しく、はるかが子犬をすくいあげた。
 ハドソンはその状況を目で追いつつも、はるかのするに任せている。
 はるかは両手よりちょっとはみ出す程度の子犬を、愛おしそうに胸に、頬に当てる。
「……かわいい」
 目を閉じて微笑むはるかは、どきっとするほど女性らしかった。
 はるかがめったに見せないこんな顔。
 それは、女性なら誰でも持っている、母親の本能のせいかもしれない。
 新しく生まれた命に対する慈しみ。
 ハドソンもそれを感じて、警戒を解いたのかもしれない。
「あはは、くすぐったい」
 子犬がはるかの頬を、小さな舌で舐めている。
「なんかこの子、彰に似てる」
「僕が生んだんじゃないってば……」
「彰、お手できる?」
 はるかはボクの名前を勝手に付けて、頭を撫でてやったり、小さな足と握手したりしている。
「すごいね。壊れちゃいそうなのに、ちゃんと元気」
「うん。でもまだ骨が弱いから、落とさないようにしてね」
「ん、気をつける……あはは。きもちいい?」
 背を撫でると、子犬が気持ちよさそうに目を細める。
 その背に、はるかが頬を寄せた。
「あったかいね。ちゃんと生きてるんだ。えらいね」
 はるかの言葉は、どこか変なのに、不思議と胸を打った。
 やっぱり不安なのか、ハドソンが小さく鳴く。
「ありがと。返すね」
 そっと、宝物を置くように、慎重に子犬を箱に戻す。
 するとたちまち、他の子犬たちもじゃれて群がってきた。
「あはは。痛い、痛い。噛んでるってば」
 噛まれたり、乗られたりしながらも、はるかは笑っている。
 まぁ、子犬だから、噛まれても、痛いというよりはくすぐったいぐらいだし。
「くすぐったい……どうしようか、彰?」
「えっと……はるかがよければ、そうしてたら?」
「ん。それじゃ、もうちょっと遊んでる。あ、くすぐったいってば。あはは……」
 箱の中からはるかの手を伝い、膝の上に乗ったり、腕にしがみついたりする子犬たち。
「だめだよ彰、服はおいしくないよ」
 はるかの袖を、懸命に引っ張っているのが僕らしい……。
「じゃあ僕、お茶入れてくるから……なにがいい?」
「紅茶。できればミルクで」
「ミルク? 珍しいね」
「この子達とお揃い」
 なるほど。
 僕が紅茶を入れている間も、ずっと、楽しそうなはるかの声が聞こえてくる。
 あんなに喜んでもらえるなら、連れてきてよかった。
 はるかはどちらかと言えば猫系かと思っていたけど、犬とも相性がいいみたいだ。
 ……なんでもいいのかも。


「どうぞ。熱いから、その子たちには近づけないようにしてね」
「ん。はい、お母さんのところに戻って」
 言われておとなしく戻る子犬たち……。
 はるか、サーカスとかに入った方がいいんじゃないかな?
 そんなことを考えながら、並んでミルクティーを啜る。
 子犬たちもお腹が空いたのか、ハドソンのお腹に仲良く吸い付く。
「……かわいいね」
「う、うん」
 なんでだか、今日のはるかには、なにげない一言にどきっとさせられる。
 そう、あの頃……。
 まだはるかの髪が長かった、あの時みたいに。
「ん……あったかい。紅茶入れるの上手いね、彰」
「いつも入れているからね」
「あはは。そうだった」
「たまにはミルクティーもいいね」
「ん、おいしい。みんなもおいしい?」
 子犬の代わりに、ハドソンが鳴いて答えた。
「あはは、ハドソン、自分で言ってる。ハドソンも飲む?」
「猫舌だからね、紅茶はちょっと……」
「そうだね」
 ふぅっと息を吹いて冷ましながら、紅茶を啜るはるか。
 いつもなら、その横には冬弥がいて、その向こうには由綺がいる。
 ぼうっとしたようなその瞳に、二人の姿はどんな風に映っているのだろう?
 僕は多分、はるかの気持ちに気がついていた。
 同じように、想いを隠しているから、分かるのかもしれない。
 僕たちはあまりにも、自分の感情を隠すことに、上手くなりすぎた。
 見ていて痛ましいぐらい、伝わらない気持ち。
 ただ、揃って紅茶を啜ることしかできない自分が、どうしようもなく悲しいけれど。
 不意に、はるかが口を開いた。
「この子達、全部飼うの?」
「う、うぅん。1、2匹残して、誰かにあげようかなって思うんだけど……はるか、どう?」
「本当? なら、欲しい」
「うん。じゃあ、どの子がいい?」
 はるかはじっと、子犬たちを眺めていたけど、
「どの子でもいい。選べない。彰、選んで」
「えっと……そう言われると僕も困るけど。さっき、一番最初に抱いた子は?」
「あぁ、彰?」
 そう言うと、まさにその子犬が振り向いた。
「うん、キミ。私はるか、よろしく」
 指と足が触れ合い、ちょん、と握手した。
 子犬は再び、食事に戻る。
 ……普通、食事中は一心不乱なはずなんだけど。
「じゃあ、もうちょっとして、親離れしたら、はるかにあげるね」
「うん、ありがと。よろしく、彰」
 でも、名前はやっぱり彰なんだね……。


「今日は楽しかった」
「送ろうか?」
「平気。まだ暗くないし、彰、バイトあるんだよね?」
「うん……」
「それじゃ、彰とハドソンにもよろしく」
 はるかはふわりと身を翻し、あっと言う間に夕暮れの中に駆けてゆく。
 いつもそうだ。
 つかみ所のないしぐさで、風のような素早さで、みんなの前をすり抜けて行ってしまう。
 今日見せた笑顔や優しさの中に、本当のはるかは潜んでいるのかもしれないのに。
 そんな表情はまるで見せず、ただ、側にいる。
 なにも考えていないような、ぼうっとした笑顔で。
 もっと強く、その優しさや、自分の気持ちを示してもいいのに……。
 ……僕が言えたことじゃないか。気持ちを伝える勇気も持てない僕が。
 それに、僕には、はるかの応援はできないし。
 由綺と冬弥を裏切るみたいだし、なにより、はるか自身がそれを望んでいない。
 ただ、僕はどうしようもなく不器用な幼なじみに、ちょっとした元気を与えるだけ。
 時折紅茶をおごったり、一緒にチョコをかじったり、今日みたいに、子犬と会わせたり。
 あの子達と会えたことを、はるかが喜んでくれて、本当によかった。
 子犬たちといることで、はるかの優しさが引き出せるのなら、
 僕は何万匹だって、はるかに子犬をあげてもいいのに。
 ……僕が生むわけじゃないけど。


 半月後、僕は『彰』を綺麗に飾ったバスケットに乗せて、はるかに手渡した。

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