昼間の学食は戦場と同じ。
僅かな陣地を確保して、確実にミッションを――
たとえば人気のスペシャルランチを手に入れるとか――遂行し、敵を撃破したら、即座に撤収がお約束。
だけど私と裕子の2人は、とっくに食事は終わっているのに、未だに陣地に貼りついている。
延々と、大食いなわりに食べるのが遅い、沙恵の健啖家ぶりを見せつけられているのだ。
今日も変わらず、元気でおいしそうで幸せそうな食べっぷりだ。
「あれがあそこにいってるのよねぇ」
平均を大きく上回る、彼女の胸。私も並程度にはあるつもりだけど、さすがにかなわない。
「安心しろ、理奈くん。日本は軽量コンパクトがもてはやされると、大正時代から決まっている」
そんな励ましをする裕子の胸は、見事なまでにぺたんとしている。
本人曰く、脳というものを活動させるには、莫大なカロリーが必要なのだ、胸に回す余裕などない。と。
普通の人がいったら負け惜しみだが、この子の場合、本気でそう思っている。
「ごちそーさまでしたっ」
ようやく食べ終わった沙恵が、大げさに手を合わせた。
「それじゃ、いきましょうか」
「おーっす」
「きみはいつもAランチと月見うどんだな。栄養学的に問題があるぞ」
「経済と満腹感をコラボレートした芸術的な組み合わせが、なんでわかんないかなぁ」
「偏るのが問題なのだ。毎日続けるなら、もう少し炭水化物を減らしてだな」
「ほらほら、迷惑だから、さっさと出ましょ」
と、2人を注意してたら、私が別の人にぶつかってしまった。
といっても、すれ違い様に、トンッ、と肩が軽くぶつかっただけ……なのに、一方的に押しのけられる。
っと、ととっ、なに、この人? 格闘家かなにか?
「失礼しました」
「あ、いいえ、こちらこそ」
と返してふと、違和感に気づく。今の人、なにか変なものつけてなかった?
「どうしたね、理奈くん」
「ねぇ、今の人――」
「すみません」
確認しようと振り向きかけた先から、さっきと同じ声がもう一回。
「あ、はい」
「こちらを落とされたのではないでしょうか」
差し出されたハンカチは、確かに私の物だ。ぶつかった拍子にポケットから滑り落ちたのだろう。
「あら、ごめんなさい。ありがと……」
「いえ」
礼を求めるでもなく、無表情に答えるその顔は、明らかに人工のそれだった。
綺麗だけどガラスみたいな無機質な瞳に、なによりも耳についた白いカバー。
「おお、これはまさしく噂のメイドロボっ」
沙恵が大声を出したせいで、むやみに視線が集まった。
「はい。こちらで試験運用させていただいている、HMX-13、セリオともうします」
確かに噂には聞いていた。去年からうちの学校で生徒として通っているメイドロボ。
遠目には見たことがあったけど、学年が違うせいで、こうも間近で見たのは初めてだ。
人間によく似てはいるけど、でも、やっぱり人間とは違う。
ハンカチを差し出したセリオの手と、動きが止まってしまった私の手とを、裕子が上からがっしと掴む。
「きみ」
メガネの奥の瞳が輝いた。
「なんでしょうか?」
「ここであったのも何かの縁だ。少々分解させてもらえるかな? なに、とりあえずは腕の一本でいい」
「申し訳ありませんが」
「そうか、残念だ」
意外とあっさり裕子は諦めた。いや、食い下がられても困るけどね。
「ちょっと、ちょっと、うちのセリオは時計じゃないんだから、変なこと試みないでもらえるかしら?」
いたずらっぽい笑顔で、セリオの肩に手をかけたのは、やっぱり噂の来栖川綾香。
お嬢様学校の寺女にあって、エクストリームチャンプという異色の有名人だ。
一年先輩の相手に、裕子は軽く肩をすくめ、
「残念ながら、今し方断られたところです」
「そりゃそうよね」
「いやいや、こいつは断られても、やるっすよ」
沙恵が割り込んで、裕子のほっぺたを引っ張った。それでも裕子は生真面目に、
「……ひゃひかに(ぺしっ)、時と場合によっては抑えが効かないときもあるな。きみ自身も気をつけてくれたまえ」
「私に危害を加えられた場合、半径三キロ以内が放射能汚染されるかも知れませんので、ご留意を」
「な、なんだってーっ」
驚愕のざわめきが学食を走る。
「と、言っておけば、どことなく不気味で手を出す気になれないだろうと、綾香様に言われまして」
「こらこら、そこまで言っちゃったら、脅しにならないでしょ」
綾香さんは、セリオの髪の毛を、軽く引っ張った。友達そのものの仕草で、微笑ましい。
だが、なぜか裕子は得意げに、
「残念ながら、私は本気で目の前のものに取り組むときは、周囲の迷惑など考えないタイプだ」
「ちょっと裕子、放射能汚染はシャレにならないから、考えてよね」
「いやーっ、禿げて死ぬのはいやーっ」
「面白い子達ねぇ」
もうっ、笑われちゃったじゃないっ。
ふと、沙恵が興味津々な目つきで、
「ところで、メイドロボも食事をするんすか?」
「しないしない、今日は私のつき合いよ。ちょっとお弁当が用意できなくってね。
っと、いっけない。ただでさえ出遅れたのに、食べ損ねるわ。それじゃあね、後輩さん」
「失礼します」
そうして一人とメイドロボは、学食の喧騒に消えていった。
私達は教室に戻り、早速、先ほどの出来事を語り合う。
「いやぁ、いいものみたねぇ。みんなに自慢しようか」
「興味のある人は、とっくに見に行ってる。今頃自慢しても、感心されまい。
……しかし、機械工学は専門ではないが、あれほどの出来だと仕組みを調べたくなるな。かなりの完成度だ」
「むー。どうですか、理奈っちは? ハンカチ手渡されたりして。恋が芽生えたりした?」
「しないわよ」
苦笑しながら答える。印象的ではあったけど、さすがに、恋はねぇ。
ん? あれ?
「あ……」
「どしたん?」
「ハンカチ、返してもらってなかった……」
そこで裕子が、なぜか訳知り顔でメガネをずり上げる。
「それはフラグだな」
「なにそれっ!?」
「しかも二本目だ」
「なんでっ!?」
「綾香様」
「んー、どしたの、セリオ?」
「先ほどの方のお名前、分かりますか?」
綾香はちゅるんと、うどんをすすりこんで、
「そうねぇ……いい機会だから、自分で調べてみなさい。サテライト使っちゃダメよ」
「かしこまりました」
セリオは手の中のハンカチを見ながら、頷いた。
えっと、裕子からはフローチャートがどうのと説明されたけど、よく分からないことにしておいた。
その日の放課後、裕子の予言よりいささか早く、『二本目のフラグ』がやってきた。
「理奈っちー、おっきゃくっさんーっ」
沙恵の横でぺこりと頭を下げるのは、やっぱりセリオだった。
「二本目か……」
うるさい、うるさい。なに、にやりと笑ってるのよ。もうっ。
「ありがとう。わざわざ、探してくれたんだ」
……やっぱりメイドロボ相手だと、敬語使うのも変よね。向こうが敬語なんだし。
「はい。あちらの方の特徴を伝えたら、すぐに判明いたしました」
視線の先には裕子がいる。
「おそらく同じクラスだと思いましたので、後は簡単でした」
「参考までに、どのような特徴を伝えたんで?」
「眼鏡をかけて、私を分解したがるような方に心当たりはありませんかと」
思わず吹きだしてしまった。
「あははっ、そりゃ一発だわ。そんなマッドサイエンティスト、この学校に一人しかいないっ!」
「確かにね」
と、笑いあう私達の背後に、揺らめく影が。
「……どうやら先に、君たちを分解した方が良さそうだ」
「わーっ! マッドが来たぞ、逃げろーっ」
え? 私も? セリオもまとめて引っ張られてるしっ!
「ちょっと、ちょっと沙恵っ!」
「あはははははっ」
結局、屋上にまで引っ張ってこられた。って、逃げ場ないじゃないっ! 走って引き離した意味ないわよっ!
「ふ……、どうやら、ぜぇ、ここがきみたちの、はぁ、墓場のようだな……」
少し遅れて追いついた裕子は、いつの間にか、殺す気満々に。
「ふ……、はたして、そう上手くいくかな?」
さすがにバスケ部の沙恵は、息も切らしていない。
沙恵と裕子は互いにきゃーきゃーいいながら、狭い屋上でぐるぐると走り回る。バターにならなきゃいいけど。
息も切らしていない、と言えば、こっちもそうだ。
「ふぅ……。ごめんね、セリオ。こんなことにつき合わせて。時間は平気?」
「はい、大丈夫です。あの、こちらをどうぞ」
「あら、ありがと……って、これやっと返してもらえたわね」
差し出された私のハンカチで、汗を拭う。
「そうですね」
気のせいか、光の反射か、一瞬セリオが微笑んだように見えた。
セリオはふと、フェンスの外に視線をやって、
「屋上に上がれるとは、知りませんでした」
「そうなの? 私達は、けっこうよく来るのよ」
「逃走経路ですか?」
学習能力高いわねぇ。
「あー、うん。それもあるけど、ここは、ほら、気持ちいいじゃない」
言うと同時に、風が吹き抜けた。私とセリオの長い髪が、心地良く煽られる。
風もあるし、日差しも暖かいし、眺めもいい。壁に覆われた教室とは、やっぱり違う。
「そうなのですか」
セリオは首を傾げて、風に向けて、目を閉じた。
今、彼女は、これが『気持ちよい』ことだと、学習しているのだろうか。
だけど、彼女の中のなにかは、それを理解しきれない様子で、セリオの顔には戸惑いが見える。
これも気のせいや光の加減……だとは、思いたくはない。
やっぱり、はっきり目に見えるような変化をしないだけで、この子にも心はあるんじゃないだろうか。
ただ人の言うことを聞くだけなら、さっきみたいに、気づいたことを語り始めはしないはずだ。
それとも、それもプログラミングや、学習機能の成果なのだろうか……。
セリオの横顔は、今はなんの表情も見せない。耳のカバーだけが、メイドロボであることを、やたらと主張して。
「どう思いますか、教授」
「うむ。やはり私の仮説は間違ってなかったようだ」
「三本目ゲットっすね!?」
「予想以上にペースが早い、これは私も上方修正を入れて、計算しなおす必要があるな」
「なっ……」
いつの間にか2人が、私の横顔を観察しながらニヤニヤしていた。
「ちょっと、なんの話よっ!」
「ふっ……やはり女の友情なんて儚いものさぁ……理奈っちよ、今は恋に生きて恋に死せ」
「なかなかレアなケースだ。今日から彼女との蜜月の日々を、詳細に記録してもらえるか? なに、悪いようにはしない」
「あ、あなたたちねぇっ!」
今度は私がぐるぐる追いかける役だ。セリオは時折盾にされて、困った様子。
危うくぶつかって抱擁しかけたり、そこをまたからかわれたりで、もうさんざん。
いっとくけど、そんな趣味ないんだからっ! 裕子みたいにメカフェチでもないしっ!
「で、肝心のセリオちゃんの今のお気持ちは? さぁ、忌憚なくどうぞっ」
「……複雑です」
「なに聞いてるのよっ、もうっ!」
こんな出来事も、セリオはメモリーに保存して、永遠に記録しておいてくれるのだろうか。
それは、少し素敵かもしれない。
――なんて、気楽に学生生活を楽しんでいた私だったけど。
それは突然に、帰ってきた。
「おう、お帰り」
「……それはこっちのセリフよ」
「ははっ、そうだったか?」
そんな食えない返事で、帰宅した私を迎えたのは、実兄の緒方英二。
安楽椅子にだらしなく寄っかかって、身体を揺らしている。
とても人前にはさらせない、情けない姿。
こんなののファンがミリオン単位でいるんだから、世の中わけがわからないわよね。
だけど今は、天才ミュージシャンとしての地位も名声もなげうって、収入なしの自称プロデューサー。
色々なところを飛び回って、なにかしているみたいだけど、遊んでるんだか仕事の準備してるんだか。
うちに帰ってきたのも、二週間ぶりだ。
ため息混じりに横を通り過ぎた私に、なげやりな声をかけてくる。
「決まったぞ」
「なにが?」
「お前のデビュー」
鞄をベッドに投げようとした手が、止まる。
いつもいつもこんな風に、どうでもいいような調子で、聞き逃せないことを言ってくる。
振り返ってみれば、やっぱり勝ち誇っている顔。
「唐突ね」
「そうでもないさ、今からきっかり半年後」
少し、ほっとする。芸能界へのデビューは、とっくに合意していたし、それなりにレッスンも積んでいた。
だけどいきなりよりは、覚悟を決める時間があった方がいい。
「ちょっと、のんびり過ぎない?」
「全然。足りないくらいだ。明日から本格的なレッスンにはいる。今までのお遊びとは違うぞ。
ああ、そうそう。退学届けは俺が出しておいてやるよ。一応、保護者だしな」
「え――」
明日? 退学? それは……いずれそうなるかも、とは思っていたけど、でもっ!
「待ってよ、そんな勝手に……」
「俺は聞いたぞ。理奈、お前、アイドルとしてデビューする気はあるかって。
んで、うんと答えたお前に、いいんだな、本当にアイドルにするぞって、念を押した。
お前はこれにも頷いたな」
なぜか、気圧される。
「そうだけど、私にだって、自分の生活があって……」
「芸能人にそんなもんはない。あるやつは売れない芸能人だ。
俺はお前を、そこらの二束三文の奴らと同格にするつもりはない。
お前は俺が、緒方プロダクションがプロデュースする、最初のアイドルだ。
ましてや身内人事。絶対に失敗は許されないし、失敗を願う奴らをねじ伏せて、黙らせなくちゃならない。
そのためには環境や演出、本人の資質もさることながら、タイミングだって完璧を狙わなくちゃダメだ。
今から一年後がその時で、準備時間的にはギリギリだ。タイアップの話だって進んでいる。
コーチや振り付け師、スタジオのスケジュールも押さえた。他にも何百って人間が動き出している。
もうお前一人の身体じゃない。お前は『緒方理奈』という名前の商品になる」
淡々と、だけど口を挟む余地のない口調で、まくし立てられる。
いつもよりも、はるかに強引で、乱暴で、でも反駁の余地のない、正論。
それにしたって、いきなりすぎる。こんなの、納得できっこない。
「なぁ、理奈」
ずるい兄さんは、不意に優しい声を出して、私の反論の行き場をなくす。
「なんで俺が、ミュージシャンをやめたのか分かるか?」
「……知らないわよ」
聞いても曖昧に笑って、ごまかしていたくせに。
「俺は天才だよ。ミュージシャンとしてももちろんそうだが、演出家、プロデューサーとしても」
「なによ、今さら自慢? だから、やめてそっちへ行ったの?」
「いいや。そっちの方でも天才だから、分かってしまった」
兄さんは、椅子に深くかけ直した。視線は天井。声は優しいのに、なぜか、恐い。
唐突に煙草に火を点けた。私は嫌いだっていってるのに。
赤い炎の欠片が、迷うように唇の先で揺れる。まるでネオンサインだ。
そのサインには、どんな言葉が描かれているのか。
長い沈黙。
兄さんはため息と一緒に煙を吐き出して、言った。
「……ミュージシャン、いや、アイドルとしては、理奈、お前の方が上だ」
なにかが崩れる音がする。
「なに言ってるのよ……」
聞きたくなかった、そんな緒方英二の言葉。そんな褒められかたしても、ちっとも嬉しくない。
いつも傲岸不遜で、人を食ったように笑って、大口叩くけど、全部それを現実にしてしまう、緒方英二の――。
らしく、ない言葉。
「本音だ。忌々しいことにな。っと、お前が忌々しいんじゃないぞ。
俺より上の存在を認めることが、忌々しいって言ってるんだ」
「――同じよ」
「そうかな? ……そうかもな」
兄さんは、いやな笑い方をした。
「お前、一回だけテレビに出た事あったろ。俺の妹ってことで、ほんの三分だけ紹介されて。
あの時の反響、凄かったんだぜ。俺の方が霞んでしまうくらいさ。
俺もちょっとしたもんかと思っていたけど、いや、驚いたね。とんだ道化だよ」
そんなの知らない。私の知ったことじゃないっ。
あんな、見せ物みたいなの、いやだって言ったのに、面白がったの兄さんじゃないっ。
兄さんは、必要以上に力を込めて、煙草を灰皿に押し潰した。
「……本当は、とっくの昔に気づいていたんだけどな」
声色が、変わった。
「だから理奈、期待に応えろ」
立ち上がり、尋常じゃない目つきで、私に迫る。
私はその迫力に、恐怖に押されて、私の部屋にまで後ずさりして、ベッドに躓いて、座り込む。
兄さんは、私の上に半ば覆い被さるような姿勢。
逆光が、影を落とした。
「俺はお前みたいな本物を前にして、のうのうと歌い続けられるようなお気楽じゃない。
俺がお前に勝つには、お前と違う分野でないとダメなんだ」
兄さんの手が、肩に痛いほど食い込んだ。
「お前がミュージシャン・緒方英二の命を奪ったんだ。責任を取れ」
血を吐くような、本音が襲ってくる。
「勝手に、自殺しただけじゃないっ」
「じゃあ、遺言だ。叶えろよ。それが生者の義務ってもんだ」
息が、私の顔にかかった。
それで気がついた。
兄さん、酔ってるんだ。
そうでもしなければ、きっと言えなかった言葉なんだ。この、遺言は――。
――やだ。
こんな兄さん、悲しすぎる。
バカみたいに自信過剰で、私を散々振り回した、兄さんの言うべき言葉じゃない。
こんな、敗北宣言……緒方英二にしてほしくないっ。
――だけど、それをさせてしまったのは、私なんだ。
胸の奥が、寂しさで震えた。
視界がにじみ、熱い雫が頬を滑っていく。
それで、悪い魔法が解けた。
「……理奈?」
兄さんの声が正気に戻る。
驚いた瞳は、昔の――ずっと昔の、兄さんのものだった。
私が子供の頃の、よく泣いていた理奈に戻ったように。兄さんも。
素直に、仲の良い兄妹だった頃の、一緒に歌をよく歌っていた、私達の――。
「……すまん。ちょっと、酔っていた」
あ……。
自嘲するのは、兄さんが大人になってから身につけた、私の嫌いなクセ。
身を起こす兄さんが、また遠くに行ってしまいそうで、私は、服の裾を掴んだ。
だけど、言葉が喉から出てこない。
……いつから私達は、素直に兄妹でいられなくなったのだろう。
2人だけで生きていくことを決めた、あの日から――かもしれない。
だとしたら、今の兄さんを作ったのは、私でもあるんだ。
天才という偶像の上で足掻き続ける、『緒方英二』という、道化師を。
責任、と兄さんは言った。
確かに、それはある。
私がのんきに学校で友達とふざけていられるのも、兄さんが体を張ったおかげだ。
兄さんの人生は、人から見れば、天才の順風満帆なサクセスロードに見えただろう。
それは否定しないけど、でも、それだけじゃない。
兄さんを大人になったんじゃなくて、ならざるをえなかった。
少なくとも半分は、私のために。
そんな兄さんを、私は――。
兄さんは、そっと私の手を外し、背中を向けて、
「俺としたことが急ぎすぎた。もう少し、頭を冷やすとしよう。それからスケジュールを組み直して……」
「いいわ」
兄さんは肩をすくめ、やっぱりな、と呆れた笑顔で振り向く。
私達は、本当は、互いに分かりすぎるほど分かってるんだ。
たった2人の兄妹なんだから。
「なるわ、私。『緒方理奈』に」
兄さんと同じ、偶像に。
なれるのか、というのは野暮な疑問だ。
緒方英二が、あの天才が認めたんだから、なれないはずがない。
だからあとは、ちょっと覚悟を決めて、時計を予定より早めに回すだけだ。なんてことはない。
「学校はいいのか?」
なんてこと、ないけど……。
友達の顔が、脳裏に浮かぶ。好きな先生、嫌いな先生、教室、学食、グラウンド、屋上。
さ来月に控えた学園祭のことや、受けたくもないテストの予定まで。
色々なことに、心を乱される。
私はそれを、全部即座に切り捨てられるほど、強くなかった。
「……今週だけ、行かせて。その分のレッスンは、寝るのを削ってでも受けるから」
残り四日。それが私の、多分最後の学園生活。
兄さんは、背中を向けて、表情を隠した。
見えないけどその顔は、きっと、ある種のやるせなさに、彩られていたんじゃないかと思う。
理不尽ななにかに、怒ることさえ出来ずに。
だけど、口に出したのは短く、
「ああ、そうだな……」
そう、呟いただけだった。
翌日、こっそりと、沙恵と裕子にだけ話した。
「なんですとーっ!?」
「しーっ、しーっ」
昼食後の教室は、適度にざわめきがあって、内緒話には持ってこい。
まぁ、誰かに聞かれたとしても、いつかばれることでもあるからいいけど。
にしても、声、大きすぎ。
「あいや、すまぬ」
ストレートに驚いてくれた沙恵に対し、裕子は納得顔で、
「ふむ、そうか」
と、肩透かしな反応。
なんだか……どっちもいつも通りの2人で、少しブルーが入っていた私が、たちまち日常に引き戻される。
「ちょっと裕子、ドライにも程があるぞ。もちょっと驚きと義理と人情の板挟みをだな」
「いずれそうなるかも、という想定はしていた。緒方英二の実妹であるのは、一部の人間には公然の秘密だったからな。
時折、修行と称して海外旅行に行っては研鑽を積んでいたようだし」
「……私、海外でレッスン受けてたなんて、話したっけ?」
なんで目を逸らすのよ。
「いやー、そりゃあたしも、そんなこともあるかもとは思っていたけどねぇ、
それにしたっていきなりっすよ、今週中なんて」
「ごめんね、もっと早く話せれば良かったんだけど……なにぶん昨日、急に決まって」
「芸能界ってのは、恐ろしいですなぁ」
「あはは……正直、ちょっと不安もあるし、学校に未練もあるんだけどね」
覚悟を決めても、じゃあ他のは全部いらない、というとこまでは、なかなか思い切れない。
今、目の前にいる2人だって、私の未来と、どっちが重いかなんて比べることも、引き替えにすることも出来ない。
捨てるのではなく、ちょっと離れるだけ。それなら、我慢できる。
沙恵が私の手を、ぎゅっと握ってきた。
「理奈っちが芸能人になっても、あたし達、ずっと友達だよね?」
「当たり前でしょ」
握られた手を、強く握り返す。ちょっと潤みそうになったところ、なぜか沙恵は、企み顔でにやりと。
「となると、将来、緒方理奈の過去にスポットが当たった場合、あたし達に取材が来たりもするわけか」
「可能性は高いな」
あら? なんか雲行きおかしくない?
「そしてカメラの前で私達は言うわけだ。『こんなことをするような人には思えませんでした』」
「ちょっと、それ違うっ!」
「あはははは」
もうっ……。まぁ、変にしんみりするより、こうしてくれた方が気楽かも。
「理奈くん」
「な、なに?」
「きみが上手いことミリオンセラーでも出して、莫大な報酬を得た暁には――私の研究に、是非とも投資を。」
あの、なんか、随分と即物的な……。
「もちろん見返りはつけよう。ちょうど今開発している画期的なOSがあってだな。
これにきみの名を採用して、『理奈ックス』と名付けようではないか。どちらにとっても、いい宣伝になるぞ」
「……いらない」
「そうか? 随分と謙虚だな」
あ、投資はもう確定なんだ?
「……ミリオン出したら、考えるわ」
「うむ。よろしく頼む」
「いーなぁ、私にも投資しない?」
「きみのなにに投資しろと言うのだ」
「えっと、ほら、変わらぬ友情に対する感謝を形で現してみるとか」
「俗物だ……」
「俗物ね……」
「うわ、二人していじめるっ。あたし達の友情はこの程度のものだったのねっ」
あー、もうっ。この2人といると、シリアスに落ち込んでる暇もない。
気を使ってくれたのか、地なのか知らないけど。……とても、ありがたい。
「お手紙ちょーだいね」
「引っ越すわけじゃないんだから」
「歯ぁ磨けよ」
「うわ、裕子がギャグ飛ばした。明日は雨だっ」
「ふふふ。体育など全て潰れてしまえ」
「おぉ。そーいや、明日はマラソンだっけ」
「やぁねぇ。どうせなら、もっと楽しいことにして欲しいわ」
「よし、裕子を逆さてるてる坊主にしよう。脳に血行が集まって、なんかいいかも知れないしっ」
「いいわけなかろう」
「まぁそう言わずに。理奈っちでもいいけど」
「いくら女子校でも、スカートでそれはちょっと」
「ジャージかしたげる」
「自分でやりなさいよっ」
「そうか……理奈くんのブルマ姿も、これで見納めか……」
「あ、あのねぇ。そこって大事なとこ?」
「高く売れたのだが……」
「ちょっと、撮ってたの!?」
「ふっ……軽いジョークだ」
「裕子、私の目を見て言ってくれない?」
「ちなみに相場の三倍っす」
「あれは儲かった……」
「やっぱり撮ってるんじゃないっ!」
こんな馬鹿馬鹿しい会話も、なかなか出来なくなるんだろう。
やっぱりそれは、少し残念。
……ううん、大分残念。
そんな2人ではあるけれど、やっぱり別れには儀式が必要と言うことで、
放課後、遊びに行こうかということになった。
だけど2人は、掃除当番だったので、少し時間を潰しに屋上へ。
と、そこにはセリオがいた。
「あら」
気づいて、一礼する彼女に向けて、手を上げて挨拶。
「どうしたの?」
「今日、綾香様が掃除当番で、私も手伝いを申し出たのですが、断られまして」
「あはは、私と一緒だわ。それで暇を潰しに?」
「経験値を積んできなさい。学校なんて狭いようで、あなたの知らないことがいっぱいあるんだから、
と、常々綾香様がおっしゃられているので、昨日、初めて上がったここに、来てみました」
「そうなの、感想は?」
「よく、分かりません」
あらら。
「ですが、知らない場所というのは、なにが起こるのか、準備するべきもの、非常時の対処方法、
そういったデータが不足しているので……困ります」
私はセリオの横に並んで、フェンス越しに遠くの空を見る。
すっかり日が短くなって、もう夕焼け色が、空の片隅を染め始めている。
「あなたにとっては、この屋上に来ることも、ちょっとした冒険なのね」
「そうかもしれません」
でも、この子はここに来た。
「分からないことはたくさんあります。
昨日の学食、屋上もそうでしたが、なによりも、出会ってない人が、たくさんいますから」
セリオが私の目を、じっと見返す。オレンジ色の髪が、オレンジ色の光で、いっそう赤く映える。
「ですが、そういう新たな発見や出会いは、私にとって、きっといいことだと思われます」
――あ。これ、この子の言葉だ。
誰かに言われた言葉そのままではなく、いくつもの経験を通して、自分で探し当てた言葉。
その言葉が素直に染みこんで、私の背中を後押ししてくれる。
「そうね。きっと、そういう経験を積んでいくことで、人は――私達は、成長していくんだわ」
「はい」
少し心が軽くなる。
「誰かと出会って、誰かと別れて――。私達がこうして話している時間も、いつか思い出に変わって」
だけどため息は零れる。
「別れるのが、遠い未来じゃないのが、残念だわ」
セリオは言葉の意味を掴み損ねて、黙っている。
「私ね、今週で学校を辞めるの」
「……なぜですか?」
「新しい場所へね、踏み込んでいくの。私が選んだ道へね。だから、学校には、もう来られない。
なにかを得るためには、なにかを犠牲にしなくちゃいけないこともあるから。
だけど最後に、あなたと友達になれて良かったわ。一つ、思い出が増えたもの」
多分私は、上手く笑えていたと思う。だけど、セリオは、
「私は……」
言葉を途切れさせる。
それは、次になにを発言すべきかの、演算処理が間に合わないだけかも知れない。
だけど、それは人が言葉を失うのと、どう違うというのだろう。
「そんな顔しないで。半年後には、また会えるわ。ブラウン管……じゃなくて、液晶越しかしら?
はでにデビューするから、見のがさないでよ」
「デビュー……ですか?」
「そう、期待の新星、緒方理奈のアイドルデビュー。
ミリオン取って、街中の至る所に歌を流させて、いやでも聞かせてあげるけどね」
セリオはまだ私の言葉を処理しきれてない様子だったけど、
「分かりました」
頷いて、こう続けた。
「楽しみにしています」
その時セリオは、確かに微笑んでいた。
「……なんか教授、これ確定フラグではないですか?」
「間違いないな。以後、別の出会いフラグは発生せず、
このルートをそのまま進むか、無理に外れてバッドエンドかの二択だ」
「困ったわねぇ。あの子、私の嫁入り道具の予定だったんだけど」
屋上の出入り口からこちらを伺う、縦に並んだ三つの頭。
なぜか頬が、ひどく熱くなる。
「ところでこれ、重大なスキャンダルじゃないっすか?」
「むぅ、デビュー前だから影響力は低いが、不安の芽は刈っておくにこしたことはない。
揉み消してもらえますか。来栖川の財力があれば可能でしょう」
「私としては、このまま世界中に広めて、あの子をちょっと困らせてみようかなと構想しているとこなんだけど」
良からぬ妄想をしている三人を、私は睨みつけ、叫んだ。
「だからなんの話よっ!」
「……複雑です」
結局この誤解は――おそらくは意図的に、だと思うが――最後まで解かれることはなかった。
三日後、私は西園寺女学院を退学した。
半年は、あっと言う間に過ぎた。
辛くはないけど、思いっきりきついレッスンの合間に思い出すのは、
やっぱり現実から逃避したいのか、お気楽だった学校生活のことばかり。
特に最終日は、ひどい大騒ぎになって、印象深い。
いつも以上にはしゃいでいた沙恵が、最後の最後で大泣きして、私やあの裕子までもらい泣き。
またセリオからハンカチを渡されて、ぐしゃぐしゃにしちゃったっけ。
カラオケ屋の店員さんに不審がられるし、ろくに歌えないしでもう散々。
けど、楽しかった。
そういえばセリオの歌、ものすごいトレースぶりで、驚いたけど、納得もした。見方によっては、私より上手い。
あれでもう少し情感込められれば素敵なんだけど……私もセリオも、まだまだ修行が必要ってことよね。
歌って言うのは、やっぱりただ上手いだけじゃ駄目なんだ。
色々な気持ちを込めないと、ただ綺麗な声や、素敵な歌詞だけじゃ、きっと人を感動させることは出来ない。
その点、今練習している歌は、凄く、気持ちが込めやすい。
兄さんが企画した、緒方理奈のデビューシングル、第六弾……って、それもうデビューじゃないわよ。
困ったことに、あの男、デビューから毎週、十連続で、私のシングルを出すという暴挙に出た。
十週連続で初登場第一位を繰り返し、ベストテンを緒方理奈で埋めるんだ、ってバカな企画。
普通なら考えないし、考えてもやらない。
……今のところ、成功しちゃっているけど。
さておき。第六弾シングルのタイトルは、「alternating current」。
交流電気って意味だけど、そこに込められた意味は、もうちょっと深い。
機械と人間と、互いの交流は可能か否か。そんな歌詞になっている。
そう、これは、今月から発売になるHM-13……セリオの妹たちの、CMソングでもあるのだから。
『妹たちを、よろしくお願いします』
そのことを伝えたセリオからは、そんな堅苦しい返事が届いた。
CM撮影は終わっていて、今日の新曲発表と同時に、大々的に流すことになっている。
『今日のは特に、見のがしたらダメよ』って、セリオには念を押しておいた。
今頃、ちゃんとテレビの前にスタンバイしているかしら?
「綾香様、そろそろチャンネルを」
「はいはい。まだ十分は時間あるのに、落ち着かないわねぇ」
「……そうでしょうか?」
「ビデオの確認なら終わってるし、念のため三カ所で予約してるわよ」
「ありがとうございます」
「……本気で、取られちゃったかしら?」
「なにがですか?」
「秘密」
『もしもし、私だ。ちゃんと待機してるか?』
「バッチリっすよ、旦那。今度は見逃しはしませんて」
『前科者にバッチリもなにもあるか』
「あうー。一回ちょこっと録画をミスって寝こけただけなのにー」
『そんなうかつな女に、わざわざ確認の電話を入れてやってる、私への感謝はまだか?』
「あー、そろそろ始まりそうだねぇ。また後でのー」
『……やれやれ』
ステージの中央で、開演の時を待つこの時間が、たまらなく不安で、たまらなく心地良い。
新しい場所。私の場所。すでに経験して、慣れたはずの場所。
だけど何度この場に立とうとも、胸の鼓動が完全に落ち着くことはない。
同じ場所でも、時間や人や、歌が違っただけで、そこは全然別のステージになるのだから。
多分、他のスタッフもそれは同じだ……けれど、袖の兄さんは、あいかわらず憎たらしいほどの余裕の笑み。
あー、もう。あなたはそんなとこにいていい人じゃないでしょっ。ちゃんと統括してなさいっ。
おまけに今日のバックダンサーは、ほんの少しも動揺しないから、私だけが損している気分。
私の後ろでは13体のHM-13が、微動だにせず、最初のポーズで開演の時を待っていた。
……あら? だけど一体だけ、ちょっと強張っているみたいに、腕を固くしている。
私はその子に歩み寄って、軽く肩を叩く。
「大丈夫よ。ちょっと不安なのもわかるけど、でも、踏み出してしまえば、意外となんとかなるものよ」
「はい」
その子は分かったのか、分からないのか、無表情に返事。
けど、これでちゃんと、肩の力は抜けたかしら?
「一分前です」
鼓動は高鳴ったまま。でも、その高鳴りが身体に馴染んでいく。
心地良い緊張が不安を吹き飛ばし、私を高揚させる。
そう、いつだって私達の前には新しい世界が開けている。
次から次へと扉を開いて、時折、通ってきたルートを懐かしんで、その思い出を力にして、前へと進む。
今日は、最後の五日に出会った友達との思い出を、胸に抱きながら――。
そして、幕が上がった。