「お兄ちゃん。絵本よんで」
そう言って、理奈が俺の膝の上に乗っかってきた。
忙しい身ではあるが、幼い妹の頼みをむげに断るわけにもいかない。
理奈を泣かせると母に怒られ、こづかいをカットされる……と言うこともあるが、なにより、俺はこの妹が好きなのだ。
時々鬱陶しく感じることもあるが、にこ、と微笑まれてお願いされたら、大概の男はその願いを叶えてやるだろう。
……これはあくまでも兄妹愛だ。断じて炉ではない。ないはずだ。
「お兄ちゃん?」
ちょこん、と俺の膝の上でかしこまり、首を上向ける。
大きな瞳が不思議そうな色で俺を見る。目が合うと、なにが楽しいのか笑顔になる。
「はやくはやく」
ゆさゆさと俺の上で揺れて、催促する。
「よしよし。今日はなんだ?」
「えーとね、ひとさかな……なにこれ?」
「ああ、姫だ。人魚姫」
「にんぎょーひめ」
「違う違う。人形じゃない。人魚」
「にんぎょ?」
「ほら、こういう風に、下半身が魚なんだ」
「ふわ……すごい。理奈もにんぎょになったら、たくさん泳げるようになるかな?」
「ああ、なれるぞ」
夢を壊さないために、あえてそう言っておく。
「じゃあ、りな、いつかにんぎょさんになるね」
「そうだな。そうしたら海に泳ぎに行こうな」
「うん!」
俺は去年の、理奈の愛らしい水着姿を思い出した。
つるぺたではあるが、すべすべな肌が、僅か布一枚越しに触れる感触……いかんいかん。
今は理奈が膝の上にいる。危険だ。
「お兄ちゃん、よんでー」
「ああ」
俺はページをめくった。
正直、俺は人魚姫というやつがそんなに好きではない。
願いを叶えるためになにかを引き替えにする、それはいいだろう。
だがそのあと、手に入れたものは全て失われるのだ。読み進めながら、俺は少し後悔した。
理奈に聞かせる内容じゃなかったか、と。
案の定、理奈は声を引き替えにする場面で身を竦ませた。
「声……出せないの?」
「そうだな」
「じゃあ歌もダメ……?」
「……ああ」
「私、歌えないのやだよ……」
理奈は俺の影響もあるのかも知れないが、歌が好きだ。
歌うのも、聞くのも。楽器にも興味を示している。
もしも自分から歌が奪われたら……そう考えるとぞっとする。幼い理奈には、もっと恐ろしいだろう。
「どうする? やめるか?」
「……ううん。読んで」
王子と結ばれるくだりで、ようやく理奈は笑顔を見せた。だけど、すぐに話の雲行きは怪しくなり、泡となって消えるラストに、
「ふぇ……」
泣き出してしまった。
「やだ……かわいそうだよ。せっかくにんげんになったのに。どうして?」
「……そういう約束だったからな。人魚はやっぱり、人間にはなれないんだよ」
「やだやだっ! じゃあわたし、にんぎょになんかならないっ! 歌も歌えないで、泡になっちゃうなんて、そんなのやだっ!」
俺は泣きわめく理奈を抱きしめて、なだめた。
「そうだな……でもな、このままじゃ人魚姫もかわいそうだ。俺がちゃんと幸せな話を作ってやるから……」
「ほんと?」
「ああ、本当だ……」
そして俺は、理奈のためにハッピーエンドを追加した。
泡になって消えてしまった人魚姫を哀れんで、海神が奇跡を起こし、彼女を人間にする。
声も元に戻してくれた。感謝の気持ちを歌にして送ると、その声を聞きつけて、王子が彼女を迎えに来る……。
チープでありきたりな話だ。だけど理奈は、その話をひどく喜んでくれた。
理奈の幼稚園の卒園文集には、『大きくなったら人魚になって、お兄ちゃんと一緒に泳ぎます』と書かれている。
『たとえこの恋が消えてしまっても……
あなたを思う気持ちだけは 歌に乗せて……