聞こえる。
「返してー」
ドアの向こうから、虚ろな声が。
「返してー」
これが本当に彼女の声なのか!? そう疑うほどに、暗い情念の込められた声。
「彼を返してー」
抑揚の薄い声が、かえって不気味だ。その上に、金属のドアを乱暴に叩く、耳触りな音が重なった。
その合間にも低く響く声が、時々ひっくり返りながら、
「彼を返してー、かーえーしてー、かーれーをーカーえーシーてー」と、呪詛のように聴覚に注ぎ込まれる。
僕は耳を塞ぎ、部屋の隅で震えながら、その声と音が通りすぎるのを待っていた。
一瞬音が止んだ。
諦めたのかな? 僕は不安を消せないながらも、幾分ほっとして、恐る恐るドアの方を伺う。
と、いきなりズガンッ! と破壊的な音を立てて、ドアの隙間になにかが潜り込んできた。
斧だ。斧がぎしぎしと金属を擦りながら、めり込んでいる。力任せに捻られ、ドアが歪められ、隙間が広がってゆく。
斧が引き抜かれ、出来た空間から目がのぞく。探るように動いていた瞳は僕を捉え、嬉しそうに細められた。
「……いるんじゃない」
ぞっとするような声だった。
僕はへたり込んだまま、両手足を使って地面を引きずるように後退する。だけど、逃げ場なんてない。
全ての窓は、僕自身の手によって荷物が立てかけられ、板が打ち付けられ、思いつく限りの手段で塞がれている。
しかし、彼女は一番頑強と思われるドアをあっさりと突破してきた。結果、僕は自ら逃げ場を封じてしまったことになる。
壁を背にして部屋の隅っこに張りつくのが精一杯の逃走だった。
彼女はドアの隙間に手を差し入れ、ロックを外す。
斧が投げ捨てられ、重い金属の音を立てた。歪んだドアが軋みながらゆっくりと開く。開く。開いてしまう。
暗い部屋に陽光が差し込んだが、それは彼女のシルエットを、不気味に暗く浮き立たせる演出でしかない。
彼女はゆっくりと歩を進めてくる。真っ直ぐ。僕に向かって。土足のまま、固い足音を立てて。
歯の根が合わない。震えが止まらない。なぜだかひどく寒い。そしてなによりも、恐い。
彼女が一歩近づくごとに、僕も地獄へと一歩近づいている。そんな気がした。
動けない僕の前に立った。暗く塗りつぶされている顔の中で、目だけが爛々と輝いて、僕を見下ろしている。
「見つけたー」
凄絶な笑みを浮かべた。あの、緒方理奈が。
彼女はけたけたと狂ったように笑い声を上げる。
と、突然その笑いを収め、仮面のような無表情を張りつけると、勢いよく、両手を僕の顔の左右についた。
振動が後頭部を打つ。彼女の顔が、息づかいを感じられるほどに近づいた。
僕はズルズルと壁を擦りながらへたり込んだが、それに合わせて彼女も顔を下げてくる。
「なんで逃げたの?」
答えられない。答えたくない。それ以前に、歯ががちがちと鳴って、声を発することさえ出来ない。
「なんで震えてるの?」
恐ろしいから。君が。なによりも君が。
彼女は震えを抑えるように、僕の頬に触れた。その、ひんやりとした感触に僕は悲鳴を上げ、振り払う。
彼女は一瞬きょとんとし、すぐ優しい笑顔を浮かべ、癇癪持ちの子供をなだめるように、両手で僕の頬を挟みこんだ。
「怖がらなくてもいいのよ……」
何十万人もの人間を魅了した笑顔が目の前にある。
それは確かに造形的には完璧な美を保っているのに、どこか空々しく、薄ら寒い。
相変わらず、目が狂気に満ちているから。
「ちゃんと話してくれれば、なにもしないから」
嘘だ。
反射的にそう思ったが、口には出ない。
僕がなにも言えないのを見て、彼女は笑顔のまま困ったように眉を顰めると、不意に僕の唇に指を触れさせてきた。
マッサージのつもりか、指の先を巧みに動かして、僕の唇をゆっくりと揉みほぐす。
「ふふっ……」
彼女は逆の手の指を自分の口に含み、淫靡なしぐさで唾液を絡めると、僕の口の中に無理矢理侵入させた。
二本の指が僕の口をかき回す。舌を撫で、軽く押し、歯茎を擦り、喉をくすぐる。
それはあまりにも淫猥で、こんな状況だというのに僕の下半身は反応を始めた。
「あら……?」
彼女はわざとらしく声を上げ、僕の不謹慎なそれを目を細めて眺める。
「いやらしいことを考えられるくらいには、落ち着いた?」
喉の奥でくくっと笑った。恥辱に耐えきれず、顔を伏せる。
だけど、彼女は僕のその姿さえも楽しいようで、笑顔を張り付けたままズボンの上から僕のものを擦り始める。
「うあっ! やめ……」
心は拒絶しているのに、金縛りにあったように体が動かない。
「大丈夫。気持ちいいのよ」
僕の鼻をぺろりと舐めた。快感によってか、恐怖によってか、ぞわと鳥肌が立つ。
あれを軽く、リズミカルに圧迫されると、その度に痺れが腰全体に湧く。
僕の理性はどうあれ、嬲るような彼女の動きに、感覚の方は快感を素直に受け止め始める。
きゅっと力を込められるたびに、僕は情けない呻きを上げて、女の子みたいに腰をくねらせた。
「くっ……あっ……」
「窮屈そうね、出してあげる」
彼女は舌なめずりでもしそうな顔でジッパーを下ろし、固くなった僕のものを取り出した。
ひんやりとした空気に触れただけで、よりいっそう大きくいきり立つ。
「ふふ……元気じゃない……」
彼女の繊細な指が、僕のものに絡みついた。
暖かい指にくるまれ、優しく扱かれる。ひどく巧みに蠢く指が、否応にも僕のものを高めていく。
先走りの汁を指ですくい、先端全体に優しく塗り込む。
くびれの部分を指で作った輪で擦り、裏筋の部分を優しく辿る。
「あっ……やっ……やめっ……」
恐怖と快感の板挟みにされて、精神が破綻しそうだった。
彼女の指の動きが早まる。シュッ、シュッとリズミカルに音を響かせ、僕のものを高めていく。
根元の方から貯まった白濁が少しずつ水位を上げるのを感じる。
ギリ、とカーペットに爪を立てるが、そんなものではなんの防壁にもなりはしない。
彼女は僕の頬を舐め、空いた手で僕の乳首を服の上から探り当てると、くりくりと捻り潰した。
「あっ……くぁっ!」
だめだ、弾ける……!
そう思った瞬間、彼女の手が僕のものを強く握りしめ、輸精管を親指で塞いだ。
荒れ狂う白濁が僕の幹で渦巻いて、放出を求める。
だけど……彼女は残酷な笑みを浮かべたまま、指を外そうとしない。
そうするうちに高ぶりは徐々に引いてゆき、後は中途半端なわだかまりのようなものだけが残る。ひどく不快に。
「くぅっ……」
彼女は征服感と蔑みとを両目に湛え、僕を見下す。そして問う。
「冬弥くんと寝たの?」
全身が凍り付いた。
乱れた息が止まり、汗が一気に引く。再び震えが僕の身体を犯す。
未だに彼女の手の中にある僕のものだけが、灼熱のような焦燥に燃えていた。
ぎぎ、とゼンマイ仕掛けのように首を正面に向けると、暗い炎を点した双眸が、僕の目の前にあった。
「ねぇ?」
僕は無言のまま、ぷるぷると首を振った。
「ちゃんと答えなさい」
「ぐあっ!」
僕のものに、親指の爪がきつく食い込む。左右に揺さぶりながら、深く抉ってくる。
僕は彼女の手を引き剥がそうとしたが、彼女の手は万力のように強固で、どうしてもかなわない。
「いっ……痛いよっ……」
「早く答えないと、使い物にならなくなるかもね」
彼女はもう片方の手で亀頭部分をつまみ、爪でえぐる。
「ああああっ!」
鋭い痛みが全身の神経を狂わせそうなほどに責めたてる。
爪と肉の隙間から血が流れ始め、僕のものを赤く染めた。
「これはこれでおもしろいわね」
鼻歌でも歌い出しそうな表情で、僕のものをいたぶる。
千切れそうなほどに痛いのに、僕のものはますます固く、熱く高ぶり、射精を求めてビクビクと震える。
だけど輸精管はしっかりと爪で押さえられている。
管が破れ、そこから精液が吹き出すんじゃないかと思うほどに強く。
「お願い……許して、許して……」
ひどく淫らで、残酷で、狡猾な尋問者に、僕は屈した。
痛みを止めて欲しいのか、快楽を放出させて欲しいのか、どちらを優先したいのか分からない。
ただ、このままの状態にはもう耐えられなかった。
「なら、答えてくれるわよね」
額が触れあうほどに、顔と顔を近づけてくる。
ぼやけた視界で歪んだ彼女の顔は、まるで悪霊のようだった。
「……答えなさい。YES? NO?」
息が詰まるような長い沈黙の後――僕は、頷いた。
「ふぅん……」
品定める視線が、僕の全身を這い廻る。
彼女が判決を下すまで、僕は身を固くして待ち受ける。
やがて彼女は視線を止め、ぽつりとつぶやく。
「入れたんだ」
「え?」
「入れたんでしょ、これ」
握られたままの僕のものを、力任せにひねる。
「冬弥くんの中に」
あ……。
僕のものをじっと見つめていた視線が、ゆっくりと上げられ、ぴた、と僕の目の中を覗き込んで止まる。
目尻が細められ、鋭さを増した瞳の中で、澱んだ沼のような黒さが渦巻いている。
「……入れたんでしょ、差したんでしょ? 今みたいに扱いてもらったり、舐められたり、互いのものを出し入れしあって、擦りあって、気持ちよくなって、出して、汚したんだ。気持ちよかった? 幸せだった? 満足だった? 私の目を盗んで、コソコソと、二人で密室で汚しあったんだ。真っ白に、どろどろした男の精液で、わたしの冬弥くんを、わたしの冬弥くんを、わたしの冬弥くんをおおおおおおおっ」
獣じみた叫びを上げ、僕の首を鷲掴みにする。締め上げながら、前後に振る。
ガンガンと後頭部を激しく打ち付けられ、痛みと振り回される衝撃とで、意識が朦朧とする。
悲鳴どころか呼吸さえ出来ない。命の危険すら感じるのに、僕の体は未だに握られたアレから沸き出す快感を感じていた。
――いつの間にか、彼女は動きを止めていた。
薄く目を開くと、彼女はうつむき、荒い息を整えている。
そしてぽつりと呟いた。
「これ、いたのよね」
え?
「冬弥くんの中に、いたんだ……」
彼女は僕のものに愛おしげに頬ずりする。飛びかけた意識の中で、快感だけが鮮烈に僕の脳をかき回す。
「冬弥くんに触れたものは、全部私のものよ……」
熱に浮かされた瞳で、彼女は僕のものに舌を這わせ始めた。
流れた血の跡を逆にたどり、癒すように傷跡を舐める。痛みの代わりに痺れるような生温さに包まれる。
敏感になっている傷口から、暖かさが染みこんできて、ひどく気持ちいい。
「ああ……」
僕と彼女と、二人の感嘆の吐息が重なった。
未だに根元は押さえられてはいるんだけど、彼女の舌の愛撫はひどく優しく、安らぎさえ憶える。
亀頭全体に舌を這わし、すっかり全部の血を舐め取ると、先端部にキスをした。
そのまま唇を滑らせるように、亀頭全体を包む。ゆっくりと顔を上下させ、優しく唇でしごく。
彼女の口腔は暖かく、湿っぽく、永遠にその中にたゆたっていたいと思わせる。
舌で裏側を舐められるたびに、徐々に徐々に、高ぶりが戻ってくる。
と、不意に全体を思い切り吸われた。
傷口から微かな痛みと、精が吸い出されるみたいな快感が湧いて、僕の腰を跳ねさせる。
「うわっ……くっ、う……」
「イキたい?」
口を離し、艶容に微笑んで、彼女が問う。
僕は無言で頷いた。その先になにが待っているのか知っていても、目の前の快感は圧倒的で、逃げることなど考えられなかった。
いや、本当は、彼女が扉を開けたときから諦めていたんだ……。
「ふふ……いい子ね」
彼女は深く、喉の奥まで僕のものを飲み込む。
早く、激しく、僕のものを口全体で扱き立てる。
舌が別の生き物のように蠢いて、とろけるような柔らかさで絡みつく。
否応もなく快感が込み上げてくるのに、彼女の指は未だに僕の根元を押さえたままだった。
「あっ、ああっ……」
僕は彼女の頭を掴んで、乱暴に奥へと突き込む。
激しく頭を揺さぶり、彼女の粘膜に僕のものを擦りつける。
時に歯が掠めるけれど、その些細な痛みさえも僕の中の快感を高める材料になった。
頭の中が真っ白になって、思考はシンプルに、そして浅ましくなってゆく。
気持ちいい、気持ちいい。出したい、出したい。
「だっ……出したい。出させてよ……ださせてっ! ねえっ!」
彼女の目が笑った。
僕が彼女の喉の限界まで突き込むと同時に、なにもかも吸引するように、彼女の口が僕のものを啜る。
そしてずっと僕を封じていた指が、ついにはずれた。
「あっ、あっ……、うわああああああっ!」
貯まりに貯まっていたものが僕の中を駆け抜け、吐き出される。
どくどくと際限なく白濁が吹き出し、彼女の口内に発射される。
吐き出しても吐き出しても止まらない。一噴きするたびに僕は腰を揺すり立て、さらなる放出を促す。
同時に吸われる。僕の精液を彼女が啜り、飲み下す。
射精している間も彼女の舌は蠢いて、腰が溶けてなくなりそうな快感を与えてくる。
「ん……んんっ!」
あまりの量に飲みきれなくなり、ついに彼女は口を離した。
その美しい顔に向けて、僕のものは容赦なく白濁を叩きつける。
女神のような美しい顔が、白濁によって淫猥に汚されてゆく。
その間にも、彼女の手は僕のものを扱き続ける。
僕はのけぞり、身悶え、情けない呻きを上げながら、全部空っぽになるまで徹底的に放出し続ける。
「ああ……」
彼女は目を閉じ、恍惚とした表情でそれを受け止める。
白い粘液で化粧した彼女は、恐ろしく淫らで、綺麗だった。
「ふはぁ……」
僕は全身を細かく震わせ、最後の一滴まで搾り取られたのを感じると、大きく息をついて、へたり込んだ。
死ぬほど気持ちいいというのは、まさにこのことだと思った。
最後の一滴まで搾り取られ、満足感よりも、気怠い喪失感の方が重く僕の体を支配している。
このままなにもかも忘れて、眠りたかった。だけど、
「……冬弥くんの味がする」
彼女は妖艶に微笑んで、ひどく淫靡な動きで、唇の白濁を舐め取った。
その名前が僕の魂を凍り付かせる。
彼女の恋人の名前。僕の恋人の名前。僕が彼女から寝取った相手の名前。
彼はもういない。どこにもいない。
数日前、冬弥は、『まさか取って食われやしないだろう』と、冗談めかして彼女の元に僕との関係を告白に赴き、
――帰ってこなかった。
「最後にいい思いできて、良かったわね」
彼女は肩から下がった髪を掻き上げ、背中に落とした。
精液がまとわりついてひどく汚れているのに、かえってつやつやと輝いているようにも見える。
ぼうっと眺めていたら、いきなり彼女は僕の前髪を掴み、引きずり上げた。ちぎれる痛みが脳髄にまで響く。
顔を歪める僕を、少し満足したように見下ろして、言った。
「冬弥くんは君を殺してから、ゆっくり探すから」
――え?
「探す……って?」
冬弥は、彼女の元にいるはずなのに。
彼女はうつろな目で、僕の向こう側、壁の向こうのどこかを見ながら呟く。
「……本物の冬弥くんよ」
「本物?」
急速にある種の疑念が僕の中で膨れあがる。黒く重く、僕の胸を圧迫する。
「私を裏切るような男は、冬弥くんじゃないもの」
姿を消した冬弥。帰ってこない冬弥。それは僕の目の前からという意味でなく――。
「どこに隠したのか知らないけれど、見つけてみせるから」
二度と会えない場所にいってしまった……ということなのだろうか。
「あなたも、冬弥くんのニセモノと、同じ所に送ってあげる」
まるで掃除してからとでも言うように、簡単に。ケラケラと楽しげに笑って。
その異常さが、逆に、彼女の言ったことは真実なんだと確信させた。
冬弥の笑顔が脳裏をよぎった。
小学校の頃からずっとつきあっていた冬弥。
はるかを除けば、僕が一番冬弥の側に、近くにいた。
僕の脳の中で占めている面積が最も大きい人物、藤井冬弥。
交わした言葉も、触れ合った肌も、手に入れる未来も。全てが、失われた過去のものとして、音を立てて崩れてゆく。
熱いものが溢れて、僕の頬を流れ落ちた。
顔を歪めしゃくり上げる僕を、彼女はきょとんと眺める。
「なに泣いてるの?」
低く嗚咽を繰り返す僕を見て、彼女は首をひねり、やがて、納得がいったというように頷く。
「大丈夫。地獄に堕ちてもお仲間のニセモノさんがいるから、寂しくないわよ」
なぜかひどく優しく言われ、頭を撫でられ、そのせいで、いっそう泣けてきた。
彼女はしばらく子供をあやすように僕を抱きしめ、撫で続け……、
「そろそろいいわよね」
囁き、僕を胸から引き剥がした。そして、狂気を孕んだ酷薄な笑みを浮かべた。
「さよなら、ドロボウ猫さん」
愉快そうに笑う彼女を、僕は哀れみを込めた目でじっと見つめる。
彼女はきっと、僕も冬弥もいなくなった世界で、永遠に彷徨い続けるのだろう。
その狂気の行きつく先はどこか、僕は見定めることは出来ない。
彼女の両手が、僕の首にかかった。