戻るのだ

 その日『喫茶店・エコーズ』は珍しく大盛況だった。
 すでに陽は落ちているが、店先は内側から漏れる灯りと、外からも窺えるにぎやかさで明るく照らされている。
 そして珍しくヒマになった由綺がエコーズの前に立つと、時を同じくして入ろうとしていた少女が一人。
 長い黒髪の上にベレー帽を乗せた少女は、美人だがどこか地味で、少し由綺に似た印象を持っていた。
 少女はドアを押さえ、無言でお先にどうぞと促す。
 由綺は「ありがとうございます」と頭を下げ、ドアをくぐった。
 中では冬弥が忙しそうに動いていたが、由綺の姿を認めると、笑顔を見せて、足早に歩いてきた。
「いらっしゃいませ。今日オフだったっけ? あ、いらっしゃいませ」
 後者は由綺の後ろに立つ少女に向けたものだ。
 冬弥は「知り合い?」と由綺に尋ね、由綺が首を振ると困ったように奥の席を見る。
「いま、あそこの四人掛けしかあいてなくってさ……」
 冬弥の声を聞いて、少女が踵を返そうとする。だが、その前に由綺が提案した。
「あの、よかったらご一緒しませんか?」
 少女は戸惑うように視線を揺らしていたが、やがてこくりと頷いた。


 由綺はカフェオレを頼み、少女も迷ったあげくに同じものを注文する。
 冬弥は由綺と話したげな雰囲気だったが、「ごゆっくりどうぞ」と言い残して、厨房へ足早に戻った。
 その忙しそうな後ろ姿を、由綺は残念な気持ちとほっとした気持ち、半々で見送る。
 姿勢を戻すと、喧噪の中に紛れそうなか細い声が、由綺の聴覚に届いた。
「あの……本読んでもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
 話ができないことを少し残念に思いながら、由綺は頷いた。
 少女は駅前の大型書店の名前が記された重そうな紙包みを取り出し、封を開ける。
 中から文庫本が三冊に新書が二冊出てきた。その量に、由綺は友人の一人を思い浮かべる。
 由綺も本はそれなりに読む方だったが、読書家というものは桁違いにたくさんの本を読む。
 少女がカバーの掛かってない真新しい新書に、自前のブックカバーを掛けようとしたところで、
「あ、それ……」
 由綺が声を上げ、少女が不思議そうに視線を上げた。
「それ、『ネトラレ』だよね。この前書籍化したばっかりの……」
 愛した人が次々に奪われる”能力”を背負った人々を描いた、
 コメディータッチの恋愛マンガで、この秋からドラマ化も決定。
 それがつい最近、ノベル化されたものが少女が手にしたその本だった。
 内容は由綺には少々落ち着かないものだったが、コメディとして読めばそれなりにおもしろい。
 実はそのドラマの主題歌を歌うのが由綺で、先日レコーディングを済ませたばかりだった。
 それで、つい声を上げてしまったのだが、少女は気分を害した風もなく、素直に頷く。
「私の先生に……」
「え?」
「『これおもしろいから読んどきなさい』って言われて、マンガの方を貸してもらったんです。
 それで、おもしろかったから……小説の方も、読みたくなって……」
 初めて少女は微笑んだ。小さな花がほころびるような笑顔だった。
 嬉しくて、つい由綺も声を弾ませ、会話を繋げる。
「そうなんだ。先生って、学校の先生?」
 だとしたら、かなり楽しいタイプの先生だと思ったが、はたして彼女は首を振った。
「マンガの先生……」
「マンガの?」
 それはちょっと意外な返答だった。
「漫画家さんなんだ。それとも、アシスタントっていう方?」
「いえ。同人誌を……少し……」
 少女がうつむき、消え入りそうな声で呟く。頬を軽く染めて恥じ入っているしぐさに、由綺の方が慌ててしまう。
「あ、ごめんなさい。私ったら、勝手に話進めちゃって……」
「いえ……」
 気まずげな空気が流れかけたとき、タイミング良く冬弥が現れた。
「お待たせしました」
 二人の前に湯気を立てたカップが置かれる。由綺は心の中で冬弥に感謝した。
「お砂糖、いくつ入れますか?」
「……2つ」
 少女のカップに2つ、自分のカップにも同数の砂糖を落として、スプーンでかき混ぜる。
 挽きたてのコーヒー特有の濃厚な香りが立ち上り、優しく空間に広がった。
 息を吹きかけながら口に含むと、コーヒーの強い主張をミルクがまろやかに包み込み、舌の上に溶ける。
 じわりとにじんでくる液体の暖かさに、ほぅっとため息をついた。
「おいしい……」
 呟いたのは少女の方だった。由綺も「うん、おいしいよね」と笑った。
 その暖かさが、少女の口を軽くしたのか、
「このお店……よく来るんですか?」
「うん。ほら、さっきのウェイターさん。あの人……えっと、一応……その、恋人……だから」
 照れながら、口ごもりながらも、言うだけのことは言う。
 回りくどい表現自体が、ほとんどのろけになってしまっている。
 そのしぐさがあまりにも幸せそうで、少女もつられて笑顔になった。
「……羨ましいです」
 由綺が照れて頬に手をやった。ごまかしついでに別の話題をふる。
「ええと、あなたはこのお店、よく来るの?」
 常連と言っていい由綺だが、彼女の姿を見たことはなかった。
「ここのお店……昼間は静かだから、たまに本を読みに来るんです……」
「うん、そうそう。夜になると急に混むんだよね。昼間はガラガラなのに」
「びっくりしました。いつもはすいてて、静かで、落ち着くんですけど……」
「喫茶店としては、あんまりよくないんだけどね」
 二人で軽く声を立てて笑った。
「あ、そうだ。さっきの人とは別の、もう一人のバイトの男の人、知ってる?」
 少女はこくりと頷く。
「その人ね、ミステリーとか好きな文学青年だから、きっと話が合うんじゃないかな?」
 少女は脳裏に文学青年の姿を思い浮かべた。なるほど、確かにそれっぽい顔つきをしている。
 本人が聞いたら「なにそれ」と困った笑顔をするだろうけど。
「あ、そうだ。話を戻すけど、『ネトラレ』のマンガでね……」
 ドラマの撮りで聞いた裏話なんかも交えながら、会話に花を咲かす。
 少女は静かだったが、特に不快な顔も見せず、話に耳を傾け、時折自分からも話をふった。
 由綺も同年代の友人と話すのは久しぶりなので、すっかりはしゃいでいる。
 少し冬弥が寂しそうな顔をしていたが、由綺にしては珍しく、それに気づくこともなかった。
 どのみち店は大忙しで、冬弥が会話にかまけるヒマなどはなかったのだが。


 結局、少女は本を1ページもめくることなく、一時間ほどしてから席を立った。
「ごめんなさい、話につきあわせちゃって」と謝る由綺に、笑顔でふるふると首を振り、一礼してその場を辞した。
 そのころには一時期の喧噪が嘘のように、店の中は空いていた。
「あー、ようやく一息つける」
「お疲れさま」
 冬弥はすぐ近くのカウンター席に軽く腰をかけて、大げさにため息をついた。
「こんな日に限って、彰のやつはいないし……せっかく由綺が来てくれたのにな」
「うん。でも楽しかったから。それに、まだ時間はいっぱいあるし」
「オフなんだ?」
「うん、急にね……。前もって分かっていたらよかったんだけど」
「いいよ。由綺と会えたし、こうして話もできるし……そう言えば、さっきの子となに話してたの?」
 少しいたずら心が湧いた。
「浮気の話」
「え?」
 冬弥がぎくりとして、椅子からずり落ちかける。
「そういうマンガのお話。びっくりした?」
「なんだ、マンガか。驚かさないでくれ」
「ごめんね」
 冬弥が軽くこづこうとしたのを、頭を抱えて大げさにかわす。だけど捕まって、頭をぐりぐりと撫でられる。
 きゃあきゃあと声を上げるが、店内の注目を浴びたことに気づいて、慌てて頭を下げたり。
 そんな些細なやり取りは、先ほどまでの穏やかな会話とは違った幸せだった。
「あれ、それ……由綺の?」
 不意に冬弥がテーブルの上を指す。
「え? ううん……」
 そこに栞が一枚落ちていた。素朴だが趣のある、淡い水彩の風景画で、あの少女が持つにふさわしいものに思えた。
 手にとって眺めている内に、それが市販のものでなく、手書きのものであることに気づいた。
 めくると、裏には流れるような字体で、長谷部彩と書いてあった。
「長谷部、彩さんかぁ……」
 栞を透かして、今日出会ったばかりの少女の姿を思い起こす。
「どうする? あの子見たことあるから、店で預かっておこうか?」
「うん……」
 常識的に考えれば、それが一番手っ取り早い方法だったが、なぜか由綺は、
「うぅん、私が持ってる。できれば、直接返してあげたいから」
 大切そうに、手帳に栞を挟んだ。
 またいつか会えるといい。そんな願いを込めて。

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