戻るのだ

 気持ちのいい春の風に撫でられながら、俺はまどろんでいた。
 後頭部に当たるのは、目の粗いジーンズ。
 肌触りはけしてよくないが、その内側に包まれたはるかの太腿は、
 優しく俺の頭を受け止め、心地良い眠りへ誘おうとする。
 と、はるかの両手が、俺の頭をわっしと掴んだ。
 驚く間もなく持ち上げ、ひょいと横にずらして、手を離す。万有引力が俺の頭を引っ張った。
 どさっ。
「たっ……!」
 芝生の上だから、そんなには痛くない。だけど、落とされた衝撃が脳を揺さぶった。
「いきなりなにするんだっ!」
「ん……痺れたから」
 ……足ですか? そりゃ、正座していたら痺れるだろうが……。
「だからって、いきなり落とすか、普通」
「冬弥、頑丈だから」
 あはは、と無邪気に笑う。恋人ムードで膝枕なんかしてくれると思ったら、すぐにこれだ。まったく。
「ん」
 頭をさすっていると、はるかがぽんぽん、と自分の横の芝生を叩く。
「なんだ?」
「交代」
「はぁ?」
「私の番」
 どうやら俺に、膝枕をしろと言っているらしい。
 男の沽券に関わるような気もするが、まぁ……減るもんじゃないし。
 いつもはやってもらうばかりだから、たまにはいいか。俺は芝生の上に正座する。
 ……なんだかまぬけだ。
 はるかはごろりと横になると、俺の太腿の上に頭を置いた。
「ん……らくちん」
 はるかがうっとりと目を閉じる。意外と長いまつげ。そよぐ前髪。実は結構広いおでこ。
 もうずっと側にいて見慣れているはずだけど、逆さまになるとなんだか新鮮だ。
 俺はそっと、はるかの前髪を撫でた。
「ふふ……くすぐったい」
 はるかが珍しくかわいい声を出した。いやがるように、俺の手を払いのけようとする。
 手と手が触れて、指が軽く絡まり合った。
 なんてことのない触れあいのはずなのに……ちょっとどきっとする。
 指同士の軽い戯れ合いをしていると、はるかがくすくす笑いながら、腿の上で頭を捩らせる。
 まるでなついたネコのように。
 なんだっ? なんだか、妙にかわいい……ような。
 う。
 ……困ったことに、俺の男の部分が、微妙に反応をし始めた。
 まずい。ジーンズ越しだからまだばれていないが、その内抑えが効かなくなる。
 そんなことがばれたら、はるかがどういう反応をするか……ちょっと想像つかない。
 冷静に考えれば、さっきやられたみたいにはるかの頭を落としてやればよいのだが、
 焦った俺は、静めよう、静めようとばかり思って、かえって意識してしまう。
 はるかがくるりと向きを変えて、手とか、口とかで……って、そんな妄想浮かぶなっ!
 必死で妄想を掻き消していると、不意にはるかが動きを止めた。
「冬弥」
 ぎくぅっ。
 ひっくり返った眼差しが、俺の目を見る。どこか冷めているように見えるのは、犯罪者意識だろうか?
「……エッチなこと、考えてない?」
「お前は超能力者かっ!」
 あ。
 はるかが微かに赤くなって、目を逸らした。
「やっぱり」
 違うんだーっ! 
 と、心の中で叫んでみても、後の祭りだったりする……。
 くるん、とはるかは頭を横にした。ていうか離れないのか、お前。それはそれで……困るんだけど。
「んー」
 視線を横に向けたまま、なにか考え込んでる……。
 再びくるん、と今度は両手を顎の下に敷いて、うつぶせになる。って、その体勢だと、視線はもろに……。
 なんだ! なにをする気だっ! と、俺の心に焦りと不安と期待とが錯綜する。
 だがはるかは俺の期待には応えず(……当たり前だ。真っ昼間の公園で)、
 両手を脇について、がばっと身を起こした。
 丁度目の前、5センチと離れていないところに、はるかの目が真っ直ぐ来る。
「……エッチ」
 う……うるさいっ、分かっている。俺だって分かっているけど、男の性(サガ)なんだからしょうがないだろうっ!
 心の中で言い訳めいたことを必死で主張していると、はるかがふわりと倒れ込んできた。
 俺の首に両手を回し、頬と頬を触れさせて。
 とさ、っと柔らかい芝生が俺たちを受け止めた。
 滑らかな頬が、力のこもった腕が、微かな胸の膨らみが、全てが柔らかい感触となって、俺の上に重なる。
「は、はるか……?」
 まさか欲情でもしたんじゃないだろうな……いや、はるかに限ってそんなこと……。
 あるのか? いや、それはそれで嬉しいが……。
 鼓動が激しくなる。俺の変化した部分がはるかに当たるんじゃないかと、気が気じゃない。
 耳元をはるかの吐息がくすぐった。
「……」
「え?」
「……考えとく」
 消え入りそうな声でそれだけ言った。
 聞き返す間もなく、はるかはぺしっと俺の顔を覆うように叩き、それを支えにして立ち上がった。
 俺が顔面を潰された衝撃に呻いているスキに、一人でとっとと歩き出す。
「お、おい。待てよ、はるか」
「待たない」
 慌てて後を追う。だがはるかは、はるからしからぬ早足で遠ざかる。
「はるか! おい、待てってばっ!」
 はるかは駐輪していたメルセデスに跨った。そして容赦なく、全力でペダルをこぎ始めた。
「こら、はるかっ! 俺をおいていく気かーーーっ!?」
 俺の叫びは、小さくなってゆく後ろ姿に空しく吸い込まれていく。
 俺がどんなに懸命に走っても、自転車との性能差を埋めることはできなかった。

 ……息も絶え絶えで到着した駅前で、はるかは自転車に寄りかかり、スポーツドリンク片手に待っていた。
「冬弥、遅い」
「おっ……おまえっ………人を置き去りにして、言うことは、それか…………?」
 はるかは無言で目を逸らす。いつもの通りの無言のポーカーフェイス。
「ん」
 とドリンクの缶を差し出すしぐさも、普段と変わらない。
 だけど俺は見ていた。
 自転車に乗って駆け出す直前、短い髪の隙間からのぞいている耳が、真っ赤に染まっていたことを。
「なぁ、はるか。さっきの……」
「聞こえない」
「いや、だからさ」
「聞こえない」
「はる――」
「聞こえない」
「……」
「……」
 ……やっぱり照れている。
 まぁ、次の楽しみということでいいか。
 はるかのことだから、次に会ったときにはもうきれいに忘れているかもしれないけれど。
 ……それがちょっと恐いな。
「なぁ、はるか……今日、家に寄ってくか?」
「えっち」
 ぐはぁっ……。

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