フィンは、ぐいと大地を踏みしめると、砂埃にまみれたプルートに対面した。
プルートは、もはや走るのをやめ、ゆっくりとフィンのほうへと迫ってきていた。追い詰めたことを確信しているのだろう。その姿には、余裕さえうかがえる。
もう、さっきまでのようにやりすごすことは不可能に近い。脇を駆け抜けようにも、動きを読まれ、進路を阻まれるか、一気に踏み潰されるか。そのどちらかになる可能性が高い。
そうと分かっていても、生き残る可能性を得るためには、そちらに逃げるしかないのだ。
ぎりり、と奥歯が鳴る。フィンの視線は、重々しく動くプルートの脚部に集中していた。プルートの分厚い脚甲に覆われた右足が地面をけり、宙に持ち上げられた、その瞬間。
「おおおおおおおおお!」
フィンの両足が、地面を蹴る。そして、弓から放たれた矢のごとく、フィンはプルートに突撃していた。プルートが脚を前に踏み出す、その動作を取る瞬間に、ほんの一瞬だけ生まれる隙をつき、足元を駆け抜けようというのだ。
上手くいくかどうかは、分からない。だが、今はそれに賭けるしかないのだ。たとえ、どんなに分が悪いと分かっていても。
フィンの体は、風となった。
そして、プルートの足元まで、あと数メートルと迫った、その瞬間。
プルートの体が、唐突に傾いだ。
ご丁寧にも、前のめりに、フィンをしっかりと押しつぶすコースを取って。
プルートの足元を注目していたフィンは、しっかりと見ていた。なにか半透明の物体が、プルートの左足に近づいていくのを。
そして、その半透明の物体が、「よっこらしょ〜〜〜〜〜〜!」と、まるで大木を切らんとする木こりのごとき、牧歌的な掛け声とともに、斧をプルートの左足に叩き込むのを。
斧がめり込んだのは、ちょうど「弁慶の泣き所」と言う場所だ。叩かれたら、かなり痛い。そんな激痛を、右足を持ち上げ、左足のみで立っている二足歩行生物が受けたらどうなるか。
まぁ、立ってはいられないに違いない。いや、むしろ間違いなくバランスを崩す。
「なるほど、だから倒れたのか」
フィンは冷静にそう分析すると、納得顔で頷いた。現実逃避しているだけ、とも言えるのだが。
まぁ、倒れてくるプルートに向かって、全力ダッシュしてしまっている現状を考えると、現実逃避の一つや二つ、したくなってしまうのも分からないでもない。
慣性の力というのは容易に打ち消しがたい。いまから急制動を駆けても、スピードを落としている間に人間パンケーキの完成になってしまう、という塩梅だ。
さすがに覚悟をきめ、フィンは目を閉じた。
だから、分からなかった。若草色の救世主が、右側面から文字通り「飛んで」来るのを。
「フィン師匠、あぶなぁぁぁぁぁぁぁぁい!でつ」
どぐわしゃ!!
「ぐはぁ!?」
鋭利かつ破壊力にあふれたドロップキックが、フィンの右わき腹に喰い込んだ。
いや、食い込んだだけでは終わらない。フィンと少女、そして救世主の3人の体は、ドロップキックの勢いそのままに、左方向へと一塊になって吹き飛んでいく。それほどまでに、すさまじい勢いだったのだ。
そして、次の瞬間。
ほんのコンマ数秒前までフィンたちがいた場所を、プルートの巨体が押しつぶしたのだった。
「いやぁ、あぶないところでつた!」
出てもいない汗をぬぐいながら、若草色の胴着と鍔広帽子をかぶった青年は、少し言葉尻に訛りを含ませながら、爽やかに言い放った。
「のびたくん、一つ聞きたい」
右わき腹を抑えて、しゃがみこんだフィンが、食いしばった歯と歯の間から、声を絞り出した。ちなみに、鼻も真っ赤である。背中の少女を庇って、顔面から地面につっこんだ結果だ。
「もうちょっと穏便に助けられなかったのかな?」
「ムリでつな!」
きっぱり。言い切られた。
フィンはなにか反論をしようと、口から漏れる痛みの唸り声を押し殺し、言葉をつむぎだそうとした。だが、それは、彼と同じように地面に這いつくばる同士によって妨害されることとなった。
早い話が、プルートが暴れ出したのだ。いや、暴れるというよりも、左足の痛みを堪えて転げまわっている、といったほうが正しいか。
実際に、あそこを強打されたときの痛みを想像すると、この行動も理解できるのだが、なにせこの巨体である。迷惑なことこの上ない。プルートから、数メートルも離れていないフィンたちには、なおさらである。
ずず〜〜〜ん!
「のあああああ!?」
数センチも離れていない場所に、プルートの太い腕が叩きつけられ、フィンは慌てて飛び退った。視界の端に、のびたが巨大な腕に潰される姿が映ったような気がするが、とりあえず見なかったことにする。
だが、プルートの大暴れもここまでだった。
「ええい、大人しくするんじゃ!」
どぎゃっ!
やたらと年寄りじみた口調の若い声と、なにか硬いものが砕ける音が、ほぼ同時にあたりに響いた。そして、プルートの動きは、まるで糸のきれた操り人形のごとく、ぴたりと止まった。
声のした方向をみると、プルートは白目をむいて気絶してしまっていた。その頭にあったはずの兜は、真っ二つに砕け散っている。そして、その脇には人影がひとつ。
「ぐっじょぶ!グニちゃん!!」
「そうじゃろうそうじゃろう」
からからから、と笑いながら、その人影は斧を肩に担いで胸を張った。鹿の頭をそのまま使った頭巾を被り、鎖帷子で体を包んだその姿は、まごうことなき戦士の姿だ。
だが、グニ・・・あくまで略称で、本名はグニッチモというのだが、彼には普通でない点が一つある。
透けている。体を通して、向こうの景色が見られるくらい。この姿を見て、連想できる言葉はただひとつ。幽霊、という、少々ぞっとしない名詞だったりする。
実際、彼はいま幽霊だ。とはいっても、別に死に損なって現世をうろついている、というわけではない。斧使いの戦士でもあり、死霊魔術師でもある彼は、その呪文の一つである「レイスフォーム」を使って、体を幽霊化させているのだ。
幽霊だけに、物理的な攻撃にも強く、プルートのような力押しの相手には、最適の姿といえる。
もちろん、プルートの脚を砕いたのも、彼の一撃によるものだ。
「ふむ、一匹片付いたようでつな」
やれやれ、といった様子で、ノビタが呟く。そんなノビタに、フィンは素朴な疑問を投げかけた。
「・・・きみ、さっき潰されてなかったっけ?」
「覚えがないでつな」
明後日の方向を向きながら、ノビタはフッとニヒルに笑った。丈夫なものである。
ちなみに、ノビタとグニの二人も、ギルド「ef」の一員であり、有能な戦士だ。さらにノビタは、達人級の料理人でもある。
「しかし、よくここに来られたね?」
いまだ気絶し続ける少女の体を背負い直しながら、フィンは首を傾げた。二人とも、ここの詳しい場所などは、知らないはずだし、ここはそう簡単に来られる場所でもない。
「ああ、それはじゃな・・・」
グニは質問に答えかけ、そして、答えかけたまま、凍りついた。
いや、グニだけではない。ノビタもフィンも、同じように、まるで彫像のように固まってしまっていた。
「な・・・なんでつか?この殺気は・・・」
背後から迫る、圧迫感を伴ったつめたい殺気。3人は、恐る恐るといった様子で、後ろを振り向いた。
「恥辱だわ・・・・」
病的なまでに白い肌と、銀の髪を靡かせた殺気の主は、地響きでも伴いそうな歩調で、一歩一歩、トンネルから出てきたプルートに迫っていた。
「いくら驚いたとはいえ、あんなのに後ろを見せてしまうとは・・・」
ギリリリリ、と唇を噛む音が、ここまで聞こえてきそうだ。そんなフレイヤのさらに後方で、リーとタカシが、なにやらジェスチャーをこちらに送っているのが見えた。
「ご・め・ん・な・だ・め・き・れ・な・か・っ・た・・・?」
3人の顔に、諦めにも似た微笑が浮かぶ。そして、そそくさと、プルートたちから距離を取った。
一方、トンネルから上体を出したままの、もう一匹のプルートは、正面から迫るフレイヤに、激しい恐怖心を抱いていた。その殺気は、皮膚をぴりぴりと突き刺すような、そんな感覚さえ抱かせるほど鋭い。
だが、この状態では、さきほどの3人のように素早く逃げることもできない。とにかく、一度トンネルを出ようと、必死にもがくのだが。
遅かった。
「さ〜〜〜、どう料理してあげようかしら・・・」
フレイヤの口元に、美しいまでに残忍な笑みが浮かぶ。そして、流麗な抑揚をつけた呪文が、その唇から紡ぎ出された。
「枯れ果てよ生命の息吹(In Bal Nox)」
呪文の影響は、すぐに現れた。突然、酸素が肺から搾り出され、プルートの顔が驚愕に歪んだ。再び酸素を肺に送り込もうと、どんなに呼吸をしようと試みても、まるで喉の奥を綿でふさがれたかのように、空気が肺に入ることはなかった。
死霊魔法の一つである「ストラングル」の仕業だ。相手の呼吸を止め、じわじわと悶絶死させる。いかにも、死霊魔術らしい魔法といえるだろう。
苦しみ、のた打ち回るプルート。フレイヤも満足げである。ただ、少々問題があるとすれば。
ピシ。
あまりのプルートの動きの激しさに、壁に亀裂が入り始め。
ピシピシピシ。
その亀裂が伝染して、天井付近にまで届き。
ガラガラガガラガラガラ!!
「のわ〜〜〜〜〜〜〜!?」
広間が崩れ始めたことだろうか?
爆弾を爆発させたり、巨大な生き物が走り回ったり。丈夫に作られていたとはいえ、所詮、土を固めただけの空洞である。ここまで大暴れをされると、さすがに脆くなってしまっていたようだ。
そして、脆くなっていたところに、プルートの悶絶の舞を叩きつけられ、とうとう崩壊が始まってしまったのだろう。
天井から大量の土砂が流れ落ち、あたりはもうもうと土煙に包まれ、ほとんど視界がきかない。
フィンは、他の仲間を見失い、逃げ道を探していた。秘薬がない今、移動魔法は使えない。このままでは、脱出は不可能に近いだろう。
「お〜い、こっちこっち〜〜〜〜!!」
と、土砂が崩れ落ちる轟音に負けじと、必死にこちらを呼ぶ声が耳に入り、フィンはその方向へと走った。
そこには、青く輝くゲートと、その側に立ち、手招きをするスシとハジメの姿があった。
「これに入って!」
言うが早いか、ハジメとスシの二人はゲートに飛び込んだ。ひび割れが広がる音があちこちから響き、土砂がなだれ落ちる速度も、加速度的に上がっている。もう、ここは限界だろう。
フィンは、疲労で崩れ落ちそうになる膝を叱咤しつつ、走った。背中の少女がずしりと重いが、自分の命がかかっているとはいえ、さすがに置いていくわけにはいかない。
半ば倒れこむようにゲートに飛び込んだ、その瞬間。さきほどまでとは比べ物にならないほどの轟音が、背後から響く。どうやら、間一髪のところで、最悪の事態は免れることができたらしい。
「な・・・なにごとダニ!?」
なにやら甲高い声が、轟音に混じって聞こえたような気がするが、その声の主が何者か、確かめる暇はない。
フィンの視界は、青い輝きに埋め尽くされ、体はどこか彼方の地へと、光に溶け込みながら、飛ばされていった。
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