そこに、一つの水晶があった。
人間一人が、すっぽりと入ってしまいそうなほど大きい。だが、その大きさゆえの存在感があるにもかかわらず、どことなく儚げな雰囲気をまとう、そんな水晶だった。
その中央部は、美しい乳白色の淡い光を放っており、その光は、まるで太陽の光のごとく、優しい温かみを纏っていた。その光景は、ひどく幻想的であり、一目みれば、だれもが美の女神に感謝の接吻を捧げたくなるに違いない。
それほどまでに、美しいのだ。
しかし、その美を鑑賞できる人間は、いない。なぜなら、この場所を訪れることができる人間など、存在しないからだ。
どこが壁で、どの高さに天井があり、はたして床があるのかすら疑問に思えるほど、濃い闇に包まれた部屋の中で、水晶はずっと、ただ一人、淡い輝きを放ってた。それは、これからも永遠に続く、水晶の運命なのだ。
そのはずだったのだ。
突然、闇がざわめいた。水晶が、怯えたように光を放った、その次の瞬間。
にゅるり。
男の顔が、まるで闇から滲みでるかのように、水晶の前に現れた。
いや、正確には、顔全体は見えていない。まるで闇色のフードを被ったかのように、病的なまでに白い口元のみが、闇の中に浮かび上がっているように見える。
その口元が、微笑を浮かべた。優しげで、上品な笑み。その笑顔の持ち主が整った顔の美男子であると、見る者にたやすく想像させてしまうような、そんな微笑だった。
微笑みの形だけを見れば、だが。
実際に、その微笑をみて、人が何かを感じるとすれば。それは、強烈な邪気に他ならない。まるで腐敗臭を嗅いでいるかのような、そんな錯覚を覚えさせるほどの圧倒的な悪意。そして、死と破壊が交じり合った雰囲気を、男は纏っていた。
絶望的なまでに、男は邪悪だった。
「ようやく・・・会えましたね・・・」
男の声は、流麗で、涼やかだ。まだ声色は若い。だが、その声にも、常人が聞けば気が狂いかねないほどの、負の感情が交じっているのだ。
水晶が、激しく光を放った。まるで、男を威嚇しているかのように。
フッ・・・と男が失笑を漏らす。
「大人しくしなさい・・・。あまり手荒なことはしたくない・・・」
静かな声とは裏腹に、男から漂う邪悪の腐臭は、さらにその濃さを増していた。
怯えたかのように、水晶は何度か瞬いた。そして、数度、激しく光を放ち。突然、光は消え去った。
一瞬、男の口が、あせったようにゆがんだ。だが、それも、ほんの数瞬のこと。すぐに、その口元には、冷たい微笑が戻っていた。
「逃げましたか・・・。いいでしょう、好きなだけ逃げればいい・・・。その間に私は・・・。」
低い、低い笑い声が、部屋の中に響き、そして、だんだんと消えていった。男の顔は、完全に闇の中に溶け込み・・・。
そして、闇に包まれた部屋には、だれもいなくなった。