今月の本 2310号 ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2) G. ペアノ (著), 小野 勝次 (翻訳/解説), 梅沢 敏郎 (翻訳/解説)




(今回はメルマガ発行後の誤字脱字の訂正や状況の変化や説明を加えたい点について随時加筆しています。)






今月の本 2310号 ペアノ 数の概念について (現代数学の系譜 2) G. ペアノ (著), 小野 勝次 (翻訳/解説), 梅沢 敏郎 (翻訳/解説)

今回は久しぶりに本です。 テレビで珍しく数の概念について説明する番組を見て 少々ものたりなくて読んだ本の一冊です。

どの辺がものたりないかというと 天下り的に自然数の定義を 説明しているのですが、私的には前々からしっくりこないので 新たな挑戦をしてほしかったのです。 もともとは小学校の時に数える数と計算する数が同じでよいのか と若干の違和感を覚えたのですが、とりあえず規則を覚えれば うまくいくのでそのままスルーしました。 しかし大学に入って集合論の表現による定義を習って さらにこれでよいのか?と疑問に思いました。 でつっかかって危うく単位を落とすところでした。 その後わかるのですが大学で学んだところで 私が疑問におもっているところは 大抵私が正しくて数年後新たな概念や方法が生み出されているのです。 数の定義もあとから集合論のものは主流ではないことを知りました。 でもまだ疑念があります。 ですから、ぜひ皆さんには新しい数の体系をつくることに 挑戦してほしいと思いこの本を選びました。

この本は自然数の定義で必ずでてくるペアノ氏の原著を翻訳された方が 同時に詳しい解説をしている本です。 数学の他の本もこれくらい詳しく書いてほしいと思うくらい詳しく解説 されています。おかげでどのようにペアノ氏が考えていたかが よくわかります。この本を読んで自分なりの数の体系を 作り上げていただけたらと思います。

ちなみに、 数の定義について 私がいくつか気が付いたことを述べておきます。

まず、数の定義を精密化してどうするのか と思われる方がほとんどだと思います。 しかし、物理法則はすべて数学を用いて 組み立てられています。 もし、自然数の定義に物理的前提が含まれるなら 循環論法にならないかという不安があります。

現状私は、以下の定義が問題が一番少ないと 考えています。
A.1個とは人間が普段一個と数える概念である。物があるときに一個でない場合を複数とする。
B.点が複数あるときに、最初に1個の点に0となずけ、その他のまだ名前がついていない点に 順に名前をたとえば1、2,3,・・・となずける。
C.すべての点に名付けることができて、その順番を覚えることができたら、 最後に名づけた名前がNendであるとき、 それらの点が0からNendまでの自然数を表す。 (便宜上0を含めてます)

ここでは幾何学の点の性質を使っていることがわかると 思います。 これを問題視して では数学的に定義すればよいではないかと いうのがペアノ氏や集合論的定義ですが、 その定義の準備段階で自然数をつかっているように 思われます。自然数をつかっているものを つかって自然数を定義しては結局循環論法になる のではないでしょうか。

特に集合論をつかった定義では そもそも集合という概念が数えられる 性質を持っているので数の性質が でてくるのはあたりまえという気がします。 リンゴが一個二個という図で数を教える小学校のやり方と変わらないのではないでしょうか。 どういうことかというと、 集合では含むか含まれないかという二値で判断します。 その結果、要素は個々に分かれているのでそもそも数えられることが前提です。 しかし、そのようにはっきり分かれることは一般にはありません。 たとえば集合の例で男性と女性の集合みたいなものを 小学校で習いましたが、 最近の生物学的医学的研究によると 体的には男でも精神的には男性的な部分と女性的な 部分が存在していてその割合が人によって異なるということです。 そして最近では外見と異なる内面性の部分の方が高くて 苦しんでいる人を法的に救おうというのが世界的流れになっています。 ですから、その場合の男性というのは外形に関係なく自分の男性的な部分の方が 女性的な部分より多い人という定義になるのでしょう。 女性はその反対です。しかしその差がどれくらい多ければという判断レベルは政治的社会的な恣意的判断で一意的に決められるものではありません。学問的にはすべての人が男性であり女性であってその割合が人によって異なるという一意的に決められてかつその人の性質がよりわかる決め方にすべきです。 つまりそうなるとすべての人間が女性であり男性であるという集合は作れますが、 それぞれの含まれる割合というものを表すのに集合は不向きなのがわかると 思います。たいていの物事はこのように連続的に変化してかつ混ざり合っているのです。 ですから男性何人女性何人などと簡単には数えることができないのです。 それはたまたまだろうと思われるかもしれません。 しかしリンゴであっても実は一個と数えるには深い考察が必要です。 リンゴはほっとけばエチレンガスを放出してます。 そこまで含めて一個としたらどんどん空気中にリンゴが広がっていくことになりますし、 そのガスをほかのものが吸収したらそのものの中にとりこまれます。 いったいどこまでが一個なのでしょうか。 でていったガスを切り捨てればよいではないかと 思われるかもしれませんが、そうなると 収穫した時点を1個としたら時間とともに0.999…個になっていることでしょう。 果たしてこれが数えるという行為にあたるのか深い思考が必要です。 実際そのように考えると、木星や土星や太陽のようなガスの星はほとんど大きさが なくなります。そもそも物の大きさは触ったときの静電反発力で判断すべきと 考える方もいるでしょうがその場合もガス惑星の大きさは判断できません。 そして力で判断すべきというなら星は巨大な重力を持っています。その力 で大きさを考えると太陽の力は太陽系外縁部まで届いていて、 そこでとなりの太陽系と力学的にまじりあっています。つまり太陽の 大きさは見えている部分だけでなく太陽系規模の大きさということに なります。そしてニュートンの式によると重力はすべての人やモノが質量に 応じて持っているのです。つまり閾値によっては我々もすべての元素も太陽系規模や 宇宙規模の大きさを持っていることになります。そうなるとすべてのものは 重ねあってまじりあっているということになりますから男女の問題と同様な 問題が生じて簡単には数えられないことになります。しかもさらに量子力学 の教えるところではボーズ粒子は同じ状態に何個も入れるということに なります。こうなってくると集合とは相いれない世界になっているように 思います。(外延性の公理を認めてよいのでしょうか。) つまり集合のような数えられる形で表現することができるものというのは 深く考察すると世界にはあまりないのです。つまり集合論も 人間の素朴な体感が含まれているように思うのです。 (このようにほとんどの事象は広がりを持って重なりあっているのです。 ですから実社会で必要なのは集合論のような二値の論理ではなくファジー理論のような 範囲を持った連続値をもった関数を扱う論理です。 (集合が目指すべき表現を私なりに今の集合論から類推すると以下のような ものを目指すべきではないかと思います。 集合の要素や条件はすべて連続的に餅のようにつながっているものでもよい。 また、男、女とかではなく男的要素10%女性的80%のように その集合に含む割合が0から100まで連続的に変化するようなものも表現できる。 (実際の人間ではそもそも男性化の要素や女性化の要素 は人間的要素や生物的要素のほんの一部ですから実際にはそれらについても どの程度含んでいるかを示せる必要があります。 多次元的にどの程度含まれているかというような表記になるべきでしょう。) ) そして、それらに含まれる個々の人間も呼吸した元素まで考えればすべての人間の元素が混じって いるのですから、地球上(隕石を考えると宇宙中)のすべての元素循環まで記述できてそういうすべての生命体が少々混じっていても表現できる。 (もっと簡単にいうと濃度勾配のある砂糖水と塩水をまぜたようなものを位置ごとの砂糖や塩の 濃度分布のようなもので表したものでしょう。あるいは地下茎でくっついている竹とか、菌糸で山ごとつながって らしいキノコのようなものをうまく表現する方法が必要でしょう。どこまでが一個でどこまで細かく性質を 調べるかというところが問題となることでしょう。工学のウエーブレット変換のような局所的性質を 調べて表現する数学的手法が必要なのかもしれません。) という感じでしょうか?こんなものにどう演算が定義できるのかどう表現できるのかわかりませんが、 より集合を一般化してより実世界の表現力に近づけるにはこういうものが必要だと思います。 )

ところがギリシャ以来の二値論理を 官僚になる人は法学部で習います。これがより問題を引き起こしているように思います。 本来の事象というのは 上記に述べたように多様な現象や値が重なりあって広がっているのです。そこに 二値論理を持ち込むのは誤りです。たとえば東洋的な考えでは国境は存在しない 場所がほとんどです。例えば竹島は使い道がないので、人は住まずただ両国の船の 風よけとして使っていたので両国がそれぞれ別の名前をつけてますが、 常に使っていたわけではありません。しかし、ひとたび排他的経済区域という西欧風国境 ができてしまったので両国の国益の争いになっているのです。(もっともその概念は日本船がそれこそ東洋的価値観で海はひとつということで世界中で乱獲した結果なので日本の責任でもあるのですが。) 各駅停車で旅行してみてください。大抵は県境にいくほどさびれてきて県境を決める必要などないような状況です。 そういうところの山は持ち主も手放したいそうですから税収の意味もないことでしょう。 国のそういうところは国の直轄地にして、国もいらないところは国連の直轄地に するなどするとそれぞれの集団が境を接しなくなるので境を争いがへることでしょう。 (世界連邦運動というものがあってモントルー宣言では税は個人から取るとなっていますが、 国経済圏の広さに応じて税を課すことにすると、砂漠や海など利用価値のない部分を 無理に国境にしようとしなくなってそれこそ世界連邦のものとできることでしょう。 さらにそういうところの権限を江戸の南北奉行所のように利用する時だけお金を払って時間的に 所有するなどができたら更にそういうことがしやすくなって争いはなくなることでしょう。 隣り合う国が共同で払って共有するなどということもできるかもしれません。 また、インターネットのデジタル税などはぜひ世界連邦の税にしてほしいものです。 インターネットに店をだしたら世界中につながって 地球の裏側へ商品が売れるかもしれませんが、そのまったく知らない国へ税金を おさめろといわれても中小業者は途方にくれるだけです。昔は本社がある場所だけに 納税すればよかったのですが、それだとGAFAなどがもうけすぎるとして、 購入した人がいる国でも課税できるような流れになっているのです。 そのため私などは最近は海外への販売は自粛してます。 そういうときに世界連邦に納税したらあとは関係国間でそれを分ける ようなシステムができたら、そういう心配せずに世界中に商品を売ることができることでしょう。) このように二値による論理は本来必要がない争いまで引き起こします。そろそろ二値論理を やめるときがきたのではないでしょうか。そうするとパレスチナ問題も解がみつかるのではないでしょうか。 二値論理は扇動者や詐欺師が論理を捻じ曲げるのによく使われます。 (ちなみに論理的に説得されそうになったときにわからないという領域を加えて論理を再構成してください。 たとえば先ほどの男女の例では、男性的女性的要素の差が少ない領域はわからないという 領域にするのが妥当です。(本当は上記のように男女要素が混じった形で議論すべきですが、 とりあえず二値理論から移るにはこの方法が簡便です。) こうなると論理学の協力な武器である命題の否定の否定は命題自身というテクニックが 使えなくなるので、論理学手法での推論できる範囲が縮小されてだまされにくくなります。 よく聞く言葉に敵の敵は味方という言葉がありますが、まさにこのテクニックを誤用した例です。 三国志をみてください。敵の敵は敵になったり味方になったりでわからないが正解で あることを歴史が示してます。 この言葉はわからない部分を意図的に論理手順から排除しているのです。 それでは論理学の有用性がなくなるではないかと思われるかもしれませんが、 実社会の命題でわからない部分がない命題などまず存在しません。 もしこうすることで論理学の適用範囲がせばまるなら今まで実社会に それを適用することが誤りだったということがほとんどのはずです。 専門家はもっとわからない部分がどれくらいあるかを示すべきなのです。 (放射能やワクチンの害も実際には学問的に絶対安全という領域も小さくて絶対に危険という領域も小さいのに 絶対に危険な領域だけ議論していて、専門家はその間の広範囲な領域について危険性を 世間に知らしめていません。安全だと誤認させています。その結果何人の優秀な日本人が犠牲になったことでしょう。 専門家はもっと絶対に安全とは言い切れない領域について危険性を語るべきです。) それをどう判断するかは政策責任者や事業責任者の役割であって 理論家の役割ではありません。))

ですから、どうせそうなら上記のように、1つという概念はギリシャ時代のように 天下り的に与え、自然数は点の性質として定義した方がよっぽど わかりやすいのではないでしょうか。

ついでに上記の私流の定義の説明をすると、 まず、有限個の定義としているのは自然数の数学的定義にそもそも無限が含まれることに 危うさを感じているからです。 一旦無限を含むと実世界ではぜったいに不可能なものを定義すること になります。なにしろ宇宙が収縮するにしろ発散するにしろ寿命は 有限の値です。有限の時間で無限のものを数えることはできません。 自然数の無限を含む理由というのはとりあえずは足し算を閉じた世界で行うためです。 たったそれだけのためにそんなリスキーな定義を取り入れるべきでないと思います。 (無限の世界ではいろいろ不思議なことがおきます。そして、大抵は現宇宙の原子の数程度まで 用意すれば事足ります。実際ほとんどの計算機はそれよりはるかに小さい数を扱っています。 (四倍精度浮動小数点数で同程度です。実際にはそれよりもっと定義可能範囲が 小さい倍精度浮動小数点数を使っているはずです。)それでほとんどの計算は問題ないのです。 絶対に無限を必要とするときだけ使うようにしてもその場合はそれほど多くありませんから問題ないはずです。 そしてそうすることで素人にはわかりにくい無限の誤用を防げます。 私は二度ばかり無限を使ってはまずいのではないかという場面をみたことがあります。 そしてそもそも無限の概念は素人にはわかりにくい世界になっていますから 極力適用範囲を小さくしておくべきでしょう。なにしろ無限は数え切れないのに無限の間に大小が生じるのです。) 足し算のときに上限を超えるときはその分自然数の上限を増やすという操作を 足し算の定義に加えておけばよいのです。そうすると危険な無限の概念に触れる ことなく自然数を定義できます。(そのほかの演算も大抵は足し算の延長で定義されますから同様に処理できると思います。) 次に、C項が仮定法になっているのは、実世界ではそうならない可能性も大きいからです。 たとえば、沸騰している泡にたいして上記の定義をつかって自然数をつくろうと 思ってもうまくいきません。せっかく名付けても泡が途中できえたり、 新しい泡がでてきたりするからです。実は実世界でも小柴さんが実証しようと したように陽子に寿命がある可能性があります。そうなるとほかの素粒子にも あることでしょう。そうなると物質すべて、沸騰している泡とかわらなくなります。 ですからああいう定義が実世界で可能かわからないのです。 理想世界での定義と考えれば実世界で可能でなくてもよいでは ないかという方もおられるでしょうが、そうして定義された自然数は実世界を 描画するために使われるのです。なるべく実世界の数に近づけるべきです。 そのためにも有限範囲での定義というのは有用です。陽子が消える前に 計算を終える確率が高まります。そうすることでより実世界の数の表現に近づきます。 できれば自然数が保持できる確率を自然数を使うときに常に表示するようにすると よりその論理の正確さがどの程度かが把握できて誤りがおこりにくくなることでしょう。

このように皆さんもこの本を読んで自分なりの数の体系をつくってみてください。

では、また来月に。

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