鈍色雨模様 雲行きが怪しくなってきた。午後4時、私は中佐に連れられ車に乗り込んだ。 先刻まで日は照っていたのに、 雲が空を呑み込んで空は気が遠くなるほどにどこを見ても果てしなく灰色だった。 こんな日は決まっていつも頭痛がする。どうしようもない吐き気と共に。 でもまだその波がこないので彼の前で笑っていられる事に安堵した。 「私、中佐の車に乗るのは初めてです」 「お、そうか。いい車だろ?」 「車の種類なんて詳しくないからわかりませんて」 上手く笑えただろうか。顔が引き攣りそうだった。 彼のお世辞にも美しいと言えない笑顔は私の気持ちを和らげてくれる。 だけど彼に上手く笑えない自分が手に取るように分かって、彼の笑顔を見ていると息苦しくもなる。 心が落ち着いたかと思えば、笑顔が引き攣りそうなくらい落ち着かないときがある。 彼と居るとそれの繰り返しで、私の心はとても不安定なのだ。 「雨、降ってきましたね」 「こりゃ酷くなるな…。俺雨嫌いなんだよな」 「好きな人なんてそうそう居ませんよ。私は好きですけどね」 「濡れて困るだろうが。洗濯するのはグレイシアだしな」 私の胸を痛めつける、魔法の呪文。グレイシア。 グレイシアさんは嫌いじゃない。こんな無愛想な私にも優しいし。 だけどその名前を聞くと、頭痛ではなく、胸が痛む。 胸が痛いという事は、つまり心臓が痛いという事だろうか。前々から気になっていたんだ。 心臓が痛いとしたら、それは病気だろうし(よく分からないが)胸が痛いという表現の 方が痛々しい感じがしない。 それにしても優しく接してくれるのに、なんて私は薄情な人間なのだろう。 よく考えれば、彼女の前でも私は笑った事がないはずだ。 彼女に限定された事ではない。私の周りで生活している複数の人間に当てはまる。 いつからこんな風に喋らずに頭の中で一人、文字を並べているのだろうか。 だけど例外がただ一人居て、もっと話したいと思ったのは初めての事かもしれない。 雨がポツポツと窓に落ちてくる。 私は、何故か車のワイパーが雨水を弾く瞬間がとても好きだった。 特有の機械音が、私達の距離を繋いでいる気がした。日頃喋らない 私に助け舟をだしているようだった。 続かない静寂と、規則的に耳にする機械音と、不規則な雨音。それらが心地よかった。 「申し訳ないな」 「はい?」 「仕事あと少しで片付くところだったんだろ?付き合わせちまってすまねぇ」 「ああ、気にしてませんよ」 「そうか?ならいいんだけどな」 何故、彼はこんなにも自然に笑えるのだろう。 私と居て楽しいと感じてくれているのだろうか。いや、それは無い。 仮にも今私が助手席に居られるのは、グレイシアさんあっての事だから。 それを思い出して、また胸が痛くなる。 『明日、グレイシアの誕生日なんだよ。』 『プレゼント選ぶの手伝ってくんねぇ?』 勿論、私は直ぐに答えた。だから今ここに居る。 きっと彼は彼女に指輪か何かをプレゼントするのだろう。彼はそんな人だ。 そして明日は家族全員で彼女の誕生日を祝って笑いあうのだろう。 私はきっとその頃今日やり残した書類を片付けていて、今この時を思い出して胸を痛めるのだろう。 今私がここに居るのは紛れも無く彼女のおかげだ。 彼女がこの世に存在していたからこそ私が彼の隣りに存在していられるのだ。 なんとも皮肉な事だろう。 彼女の存在を好ましく思っていない私が居て、そんな彼女の夫を私は好ましく思っていて、 だけどそんなの通用する訳が無い事で。 途端に頭痛と共に微かな吐き気が襲う。 頭痛は仕事中頻繁に起こる事なのであまり気にしない。 そして、この微力ながらも感じる吐き気は単に私が車に酔っただけなのだろう。 だけどそれは確かに私の胃から食道に向う吐き気なのだ。 こうゆう時はとにかく私の胃にある嘔吐物を吐きたくてしかたがなくなる。 吐きたい、だけどそれ以上に胸が痛かった。 「…?どこか痛むのか?顔色が悪いぞ」 中佐が車を道路のわきに止め、問い掛けた。 こうゆう時普通は、心配しないでどこも痛まないわ、と答えるべきなのだろう。 私が彼に何も答えられなかったのは、決して、胃から食道に向う吐き気のせいではなく、 堆積物のように私の心奥底に堆積する、吐き出したい想いのせいだ。 「ちょっと外の空気でも吸うか?なんなら司令部に…、」 「大丈夫」 「大丈夫ったってな…、」 「大丈夫ですから。少し、酔っただけです」 「…、」 「酔った、だけですから」 前、誰かに言われた事がある。 もっと人に頼りなさい、と。もっと人を信じなさい、と。 私なりに頼っているつもりだし、信じているつもりだ。 なのに、何故人の目から私は酷く孤立して見えるんだろう。 中佐は酷く心配した表情で私の顔を覗き込んでいた。 私はその真っ直ぐな瞳を見れなかった。 俯く私に気を使ってくれた中佐は、視線を道路に戻し運転を再開した。 流れる沈黙に響く機械音。徐々に吐き気が治まっていくような錯覚を起こせた気がする。 今、例えばこの車内で。 私の心奥底で堆積した想いを伝えると彼はどんな行動をとるだろうか。 彼は、どんな表情をするのだろうか。 彼は、笑っていられるだろうか。 今、例えばこの車内で。 私がむせび泣き、想いを伝えると彼はどんな行動をとるだろうか。 涙して想いを伝えるのとそうじゃないのとでは、何かが違ってくるだろうか。 彼はグレイシアさんにするように私を優しく抱きしめてくれるだろうか。 彼は、どんな言葉を選ぶのだろうか。 「中佐、奥さんを、グレイシアさんを、…大切にして下さいね」 あんな事を考えておいて、私はこんな言葉を吐いた。 「ああ、当たり前だ。世界一大切にしてやるよ」 彼は、この言葉で私が苦しむのを知らない。 彼は、この言葉が私の想いに答えているのを知らない。 あんな事を考えて、こんな会話をしている私は、世界一の臆病者で、 世界一の卑怯者なのかもしれない。 鈍色の空は、吐きたくなるほど、大きかった。 鈍色雨模様・終幕(050320 何度も何度も吐き気を訴えてみた |