暁は瑠璃色の玻璃の大鉢の縁を汗で濡れた指でつい、と撫でた。
大鉢は暁の指で奏でられ澄んだ音で一声啼く。
「これは、本当に僕に下さるの?」
「ああ。誕生日の祝い、と言うにはかなり早いけどね」
「嬉しい…こんな、綺麗な」
そう言うお前の方が綺麗だよ、と使い古された歯の浮く軽佻浮薄
な台詞をつい呟きたくなる。半分だけとは言え血のしがらみがあ
るのでそれに怯みそうにはなる。しかし、暁の美しさを感じてし
まうと、そう言う怯えなぞ何処かに行ってしまうので始末が悪い。
恐らく溺れてしまうのは環境の所為もあるのかも知れない。暁と
僕の二人を世情から隔絶してしまう、この離れと言う環境が。
僕がこの家に引き取られる時の条件の一つに、暁の世話と言うも
のがあった。が、一つ布団に入って愛しみ合うのは世話の一環で
は恐らく無いだろう。暁の体力を奪う挙動の一つとは認識されて
も。
それでも、この営みがある為に暁の心持が穏やかになり、ひいて
は体調の安定に繋がっているらしいので無碍にも出来ないらしい。
だから僕に家から渡される金子は幾許か多い。その多い金子で暁
の為になるものを、と言う無言の考慮なのだろう。
ただ、この大鉢はその範疇ではない。僕の小遣いに相当する分の
中から少しずつ貯め、出入りの骨董屋に見立てて貰って取り寄せ
ようとしたものだ。手付けにも足りぬ額しか用意出来なかった為、
鼻であしらわれると覚悟していた僕に、骨董屋はその時静かに囁
いた。
『穣様の心一つで、この鉢をお譲りする算段を付けても良う御座
いますよ』
『僕の心一つ?』
『はい。穣様が華開く様をお観せ戴ければ』
『一席設けて?』
『いえ、ここで』
そして、軽く哂う。
『この鉢に蜜の彩を今ここで加えて下されば、お手持ちの額でお
譲り致しましょう』
僕に迷いはない。操を好き勝手にされるよりは、少しましだ。
『ああ、服は全てお脱ぎにならずに。できれば茎だけを見せる様
に』
『珍しい好みだな』
『穣様は華開いても乱れ咲く様な方ではありますまい』
自分の茎だけを露にして快楽に耽るのも、なんだか妙な気分だ。
いっそ全てを脱ぎ捨てている方が背徳感が無い。こういう風にさ
れると却って焦れてしまい、それが又次の快楽を呼ぶ。
『お暑いのならば、胸元を肌蹴ればよろしゅうございましょう』
胸元から薫ってきてしまう予想外に濃い汗の臭い。自分の汗だと
いうのに。まだまだ子供の臭いだと持っていたのにいつの間にか
男紛いの臭いになったのか。
自己愛はそんなに強い方だとは思わなかったのに、自分の中に潜
むものに一々快楽を呼び覚まされてしまう。
『そのお姿を暁様がご覧になれば、さぞやお悦びになるでしょう
な』
耳の中に滑り込んでくる囁きで、余計に汗の薫りがきつくなる。
行為に没頭する為に軽く瞼を閉じたら閉じたで、今度は扉の前か
らこちらを凝視している暁の存在を幻視する。
いっそ操を奪う寸前まで弄ばれた方が開放されると思ってしまう。
内奥の菊花も綻びてきて肉の楔が打ち込まれる事を待ち望んでい
るのだと。
『!』
瑠璃色の鉢の上に、白いしたたりが二筋散った。
『これはこれは…』
骨董屋の驚嘆する声。そして、静かな呟き。
『穣様は、暁様を心底想っておいでなのですなぁ』
彼はもう一つ携えていた風呂敷を解く。果たしてそこに入ってい
たのは色とりどりな砂糖菓子の詰め合わせだった。
『これは御二人の為の土産に。お納め下さいませ』
『ああ、有難う。では、鉢の代金を』
立ち上がりかけた僕の袖を、骨董屋が引き止める。
『穣様が今お見せ下さった暁様への想いで、御代は充分でござい
ます。何卒遠慮なくお持ち下さいませ』
『良い、の?』
『爺の気まぐれとお思い下さいませ。ささ、変に気の変わらぬ内
にお納めをば』
こうして、この瑠璃色の鉢は暁の部屋に来た。本物の空を滅多に
見る事の出来ない彼の心を慰める彩の一つとして。
暁はこの大鉢に削り氷を山と盛り、ただ眺めているのが好きだっ
た。
「冬になったら、この鉢に雪を盛ればいいかも知れないな」
「この鉢だったら、さぞや沢山の雪が盛れるでしょうね」
「雪うさぎどころではなく、ね」
「うれしい…そんなに沢山?」
軽く、胸の痛み。暁の世界はこの離れの中にしかない。この家に
引き取られるまで身一つで生きねばならなかった僕と違い、この
少年は手厚く手厚く重ねられた絹細工の様な世界の中で今迄を過
ごしてきた。ぬくもりの代償として世間に対する窓を極端に狭く
せざるを得なかったのだろう。だから無垢で儚いのかも知れない。
護らねば。せめて離れの窓から一面の銀世界を見て笑える様にな
るまで護らねば。そう、心に決めていたあの夏の日。
玻璃鉢の底に軽く雪を敷き詰め、その上に堅めに引き締めて造っ
た雪達磨を載せる。雪達磨の眼には暁が好きだったビー玉をあし
らった。
明日は聖祖祝日。そして暁が空蝉となって一週間目。あっけなく、
そして眠る様な瞬間だった。
あの日暁はせめてもの食事として練乳を塗した雪を所望していた。
「天上のアイスクリームだとでも、言うつもりかい?」
「天上の白くまかしら。甘納豆よりも干し葡萄が良いな」
冗談にしてしまいたいと、わざと話を反らせてみせる。でも、暁
は静かにあの時告げた。
「兄様」
「何?」
「これで、兄様を縛る鎖は、なくなりますね」
本当に、ただ静かな声で言う。
「鎖、か。僕は、リボンだと思っていた」
僕はそれでも往生際悪くはぐらかそうとしていた。暁を失うと同
時に、暁と過ごした日々を失うのが怖かったから。
「兄様とは、別の形で逢いたかった」
「肌を重ねる、とかではなくて?」
「いえ、兄様の枷にならない形で」
その声に欠片でも嘆きが含まれていたなら、多分僕は救われたか
も知れない。でも、暁の声は余りに淡々としていた。
「兄様を縛り付けて傍にいて貰っても、かえって不安だもの」
白い唇が、静かに言葉を紡ぐ。
「僕の方から兄様を捕まえに行ける様な関係なら、こんな不安は
きっと感じなかった。ただ待っているだけと言うのはとても不安
だもの」
そして、一筋の涙。
「今でも、兄様を解き放ちたいと思いながら忘れて欲しく無いな
んてつまらない不安に捉まってる」
そして、指で雪を掬い、僕の口元に運ぶ。僕はその白過ぎる指を、
静かに舐る。その指を胸元に導けば乳頭を軽く摘んだ後、脇腹を
すべり腰から双丘の狭間へと至り、菊華の隙間から僕の中に入り
込んで蠢き、僕の劣情の温度を上げてくる。それは人の肌に触れ
て手馴れた指遣いではなく、草紙を読んでこうしたらああしたら
と惑いながら紡ぎだそうとするたどたどしいもの。その指が出会
った時よりも更に白く透き通ってしまっているのが哀しかった。
でも、そんな指が紡ぐ手管にさえも僕は酔えてしまう。暁に体を
開かれている、と思うだけで。
「兄様、良いの?」
「訊くな…そう言う暇が…あるなら…」
後の言葉は暁の唇の中に吸い取られる。それはやがてねっとりと
した滴りとなり二人の口腔を循環し、二人の劣情の燃料となって
ゆく。
他人の劣情を受け入れるのは久々だと言うのに、暁の白い茎はあ
っさりと僕の中に滑り込み、そして熱い蜜を溢れさせている。後
は唯息遣いばかりの会話。言葉を紡ぎ出だす暇も惜しんで暁は僕
の中に蜜を吐き出してゆく。いつも肌の上でしか感じて居なかっ
たから勘違いしていたのかも知れない。暁の蜜も相応に熱かった
のだと僕はその時初めて知った。
暁がこの世から暇乞いをしたのは、それから暫くして五回目の蜜
を吐き出してから二時間経った後の事だった。
そして僕はもう暫くこの離れで暮らす事になった。恐らくは暁の
存在が雲散霧消して風化してしまう瞬間まで。それまでは思い出
と戯れていろ、と言う誰かの思し召しなのだろう。
それならば、この玻璃の鉢と共にそれまでの時を過ごしてゆこう。
さしあたってはこの鉢を庭に見立て、暁好みの聖祖祝日の風景を
描くのも良いやも知れない。紅の彩として、苺の砂糖煮を後で持
ってきておかなければ。
(2007.9.24脱稿/2007.12.1UP)
作者:葡萄瓜XQO
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