1・初めて誰かを殺めた日




 ハッハッと自分の口から出る荒い息に驚く。ドキドキと信じられない位に早打つ心臓にキリリと痛みを感じる。それがまた自分の呼吸を酷く乱す悪循環。
 そんな自分の状態から驚いたように目が覚めた。今までに無い酷い目覚め方。
 キリキリ痛む体を起こし、呼吸を楽にしようと思うのだが、自分の体なのに重い通りにならない歯痒さ。何よりも全身の痛みに声無き悲鳴を上げる。
 震える指先は痺れて自分の意思などそこには宿っていない様に動かず、知らず知らずに勝手に流れ出る涙。

 込み上がってくる吐き気を抑えて、遮光カーテンで閉じられた暗い空間の中を手探りで時計を探す。丁度近くにあったそれを力が入らない右手で引きずるように手繰り寄せる。
 胸に抱いた目覚まし時計の正確な秒針の音に合わせてゆっくりと小さくでも深く息を吸い込む。

 かちっ
 はぁあっ…

 かちっ
 …っは……

 かちっ
 …っすぅ…

 詰まりながらだけれども、確実に酸素を取り込んでいるのが判る。このままでも酸欠で死んでしまうから、今度は逆に吸い込んだ空気を少しずつ吐き出す。少しだけ心臓の音が和らいでその分苦しくなくなった気がする。
 何度か吸うのと吐くのを繰り返して、楽に呼吸が出来るまでゆっくり深く呼吸をする事だけ専念する。


 落ち着いてから、暗闇の中先ほどから正確に時を刻んでいる目覚まし時計を目を凝らして見ると、三時…半を少し回ったところ。確か寝たのは十時頃だから、十分とはまでいかなくても体はしっかり休んだはず。それなのに、呼吸のリズムを崩したせいで大分体力を使ってしまい、体に残ったのは倦怠感と少しの嘔吐感。
 良い目覚めとはお世辞にも言えない。むしろ悪い部類だろう。

 キシキシ痛む体の節を動かしながらベッドから降りる。
 小さな自分体には不釣合いの大きな白いベッドは、病院の物と同じで清潔感は有るけれども面白みに欠けたもの。ここが医療室の一角だから病院のものと言ってもおかしくは無いが、年頃の娘にとってはやっぱりつまらないものでしかない。
 モコモコした心地良い肌触りをしたピンク色の兎のスリッパを足に引っ掛けて、緩慢な動きで部屋を静かに出る。扉を閉める音が出ない様にまだ力の出ない手でゆっくり押さえて閉じる。電灯のの灯っていない廊下を手探りで移動し、上りの階段へ向かう通路をゆっくりと歩く。



「ふぅ……まだお星様がキラキラの時間だね」
 空気は夜の冷たさを十分に閉じ込め、そろそろ春なのに喉を刺す痛みを持っている。
 目的地は十二階にあたる屋上。本来ならばしっかり施錠がされている場所なのだが、少女の手には既製品ではない銀色の数本の鍵。この鍵束の内一本がこの屋上の鍵だという事を物語っている。
 まだ夜明け前だということもあって濃紺の色に支配された空の下では風は冷たく、体力を消耗した体には辛いものがあるのだが、生ぬるい空気の自室に戻るという気にはなれない。

 星明りなど当てにならないネオンに彩られた街を見下ろしつつ考える。
「アタシは此処に居ても良いのかな……」
 今身を寄せているのは、ある施設の医療室。此処では幼いながらも看護師の真似事をしながら先生の仕事を手伝っている。アタシはこれでも医療知識や技術はその辺のお医者さんに負けない位あるからお手伝いは簡単に出来るけど、外見が小学生だから患者さんはアタシのお手当てを嫌がる。他の看護師さんにしてくれとかロリコンは趣味では無いとか……全く、見た目で判断されると困るんですけど。

 アタシを此処に連れて来てくれた先生は医者でもあり科学者でもあるちょっと変わった人。前に居た所では塵みたいに扱われていたアタシに手を指し伸ばしてくれた不思議な人。
 アタシをアタシとして見てくれた。アタシに『逆木 色深』の名前をくれた初めての人。
 先生は大切で今では傍に居る事が当たり前…そんな存在。




 思考が昔…数年前に戻っていく。










 今よりも少しだけ小さかったアタシは狭い檻にいた。
 正確に言うとそこは白い壁紙と思わしき部屋。四方の壁を薬品棚と機械類で埋め尽くし、床に広がる無数のコードの束。物と物の間からちらりと見える白がこの部屋の元々の色なのだろう。
 それが知っている全ての空間で絶対の領域だった。

 そんな部屋にアタシは繋がれていた。
 ただ息をして、心臓を動かして、飼育員の望む動きをする。
 何も考えない、何も思わない。何も感じない。
 そんな生き方をどの位していたのかは覚えていない。だって、何もアタシの主我は理解しようとしていなかったのだから。
 ただ周りに合わして、流されて、飲み込まれていく。それがアタシの生き方だった。

 先生がアタシの目の前に現れるまでは。


 ある日突然アタシの目の前に男が現れた。
 それからかな、アタシが『我侭』になったのは。自分の言いたい事、思った事を口にし始めた。
 未発達の幼い子供の様な生きる為の成長をアタシはやっと始めた。それまで必要の無い行為だったから誰も教えてはくれなかった。

「もう此処には戻れないがそれでも良いか?」
 その言葉に一度だけ頷く。この狭く隔離された檻から出る事は、生まれてきてはいけないアタシの心のどこかで望んでいた願いだったから、その問いに一片の異論は無い。
 アタシが居なくなって困るのは白い服の人達だけ。それも、研究対象が居なくなるから。
 それでも、問題じゃないはず。だってあの人達には代用品がいっぱいある、又は新しく作るから困らないだろうけどね。

 そうかとだけ言うと男はアタシの手を引いて、まだ一度も出た事の無い部屋の外へ向かう。
 ああ…此処の扉からからもうアタシの知らない世界なんだ。
 アタシの知っている世界はあの小さな部屋が全て。失敗作のモルモットのアタシには自由に出歩く権利は無かったから。
 男の大きな手が扉を開ける。
 アタシの世界に別れを告げる。10m四方程の小さな檻にサヨウナラ。







 初めての知らない世界は赤い色に染まっていた。







 それから施設を抜けるまでの道程は灰色を赤く変えていくばかりだった。
 男に持たされた小さな凶器はアタシの体温を吸い生暖かく、そのせいか手に余っていたはずなのに馴染んだ様に感じられた。
「あと、少しだ。頑張れるな」
 視線を前に固定したまま、疑問系ではなく肯定の言葉を男は言う。
『あと少し』
 それを越してしまえば、アタシは檻の外に出られる。初めて外の世界をアタシの目で見る事が出来る。それは希望であって期待だった。
 その時だった。

 キィーン…
 頭に、脳に走る違和感。いや、予感。


 勝手に動く体。
 吹っ飛ぶ自我。
 今アタシの中に在るのは何?

 生きる為の本能? それとも、アタシの本性?


 気づいたらアタシは持っていた凶器を構えて、殺気を放つ者へ弾丸を撃ち込んでいた。
「……え?」
「こいつは驚いたな。連中にただの知識の器だと言われていたのに、きちんと生存本能があるじゃねーか」
 自分の手の中の物体から上がる白い煙。
 向けた銃口の先には、蹲る影。その下からじわじわと流れ出る赤い液体。

 頭の奥から情報が出てくる。
 あれは“血”なんだって。生き物が生きる上では欠かせない生命の水分。それが今対外へ溢れ出ている。
 そのままだといずれ倒れている男は…

「…死んじゃう」
「この状態なら助からないだろう。お前が此処に一発打ち込んだからな」
 男が右手の指で示したのはアタシの左胸の部分。丁度ドキドキと煩い位に脈打っている臓器がある場所。
「…心臓」
「正解」
 男の言葉よりも、アタシの目は倒れている人だったものに心惹かれて目が離れない。


 アタシは……今、人間を殺しました。
 鳥篭から抜け出す為に飼育をしていた人を葬り去った。


 罪悪感は感じなかった。たた、じわじわと広がる赤い色彩に魅入られていた。
「…おい」
 赤に染まったものに向かって伸ばした手を男に捕られる。力を込めて強く握られた手首に痛みが走る。強引に引っ張られた男にアタシの小さな体は簡単に抱き上げられた。
「いいか、アイツは死んだ。それ以外でもそれ以上でもない」
「……死んだの?」
「ああ、アイツの生は終わった。母体から産まれたアイツの体は死に、この後体は朽ち果て、やがて土に還る。それが自然で正しい摂理だ」
「……つちにかえる」
「ああ、そうだ」
「アタシとは違うのね」
「……そうだな」

『自然で正しい』
 その言葉は不自然で間違ったアタシの存在を締め付ける。


 アタシは正しく産まれませんでした。
 アタシは自然な成長をしていません。



 それでも、アタシは生かされていました。
 お揃いの白い服を着た人間達の手によって、いつからかは忘れてしまったけど気が付いてから目の前の男が現れるまでの気が遠くなる程長い時間。
 でもこれからは…

「時間が無い。行くぞ」
「…うん」
 男に抱かれたまま灰色の施設を後にする。初めて外から見た箱は檻に居た時は想像が出来ない位大きい物だった。それが今は橙色の炎に包まれて熱く光っている。
 燃え上がる建物は綺麗だとは思わなかった。同じ赤でも、自分を抱いている男から少しだけ滲み出た出た赤い血の方がよほど綺麗だった。
「血…」
「ん? あぁ、掠ったやつか」
「動かないでね」
 これからアタシは何を行おうとしているかは知らない。でも、アタシのこの体はどんな行動を起こそうか知っている。
 両手を患部にそっと添えて、頭や体の中を流れる感覚に身を任せる。何だか温かいものが奥底から溢れ出てくる、そんな不思議な感じ。
 それは暖かい光となって男の患部を癒そう包み込む。
「お前さん…覚醒していたのか」
 新しい細胞に被われた肌を見ながら男は驚く。
「覚醒?」
「いや“複製体”なら最初から覚醒していてもおかしくは無いか…。ま、それは帰ってからゆっくり教えてやるか」
「何処かに帰るの?」

 アタシの飼われていた巣箱は今焼かれています。アタシと貴方の放った火によって、ボォーッと低い唸り声を上げながら朱色に染まっています。
 それ自体に何も不満は無いけど、そっとした喪失感。

「ん、オレん家」
「……バイバイ?」
「何言っているんだ、お前さんも帰るの」
「アタシも? アタシのお家はもう無いよ」
「だったら新しい家を作ればいい。それまで暫くの間オレの所がお前さんの家だな」
「アタシのお家…」

 アタシに所有権を貰える日が来るなんて思わなかった。だってアタシは所有物だったから。まるっきり人として見られていないものだったから。
 男は何だか妹じゃなくて娘が出来たみたいだと苦笑していたけど、アタシは嬉しかったよ。血は繋がってはいないけど、家族が出来たみたいだと思った。

 それから男は『カゲヤマ』という名前だという事、お医者さんだという事を教えてくれた。そして何よりもアタシだけの個体識別用の…うんん、名前『逆木 色深』をくれた。












 アタシは自分の意思でで生きていく。
 檻から出た瞬間そう決めたから。

 アタシの足で歩いていく。
 安息の檻から自分の意思で出たんだから。




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