海鳴駅前のロータリーは午後七時を過ぎても賑やかなもので、次々とバスやタクシーが停車していく。停車した公共交通機関からは電車を利用して帰宅するであろう人々が降車し、それが終わると寒空の下で今か今かと目的のバスが来るのを待っていた人々が乗り込んでいく。待ちわびた車内へと急ぎ足で駆け込む人々の勢いは、早朝や定時過ぎの駅ほどには荒々しくないが、入り口が狭い分感覚的には電車以上に息苦しく、暑苦しい。
「大丈夫かー、ゆうひ」
某長寿アニメーションのエンディング。ログハウスらしき家に一家総出で吸い込まれていくあの光景を耕介は恋人の手を引きながら思い出した。
「だ、大丈夫やー。そやけど……えらい混んでるなぁ。時間ずらして来た筈やのに」
「当てが外れたな」
苦笑いを浮かべる耕介の背後で、ぱしゅう、と圧縮空気の抜ける音が聞こえてきた。自分達が降りたバスのドアが乗客を乗せて閉じたのだ。視線を車内に向ければ設置されている席には既に空きが無く、十人ほどの乗客が上空からつり下がる吊り革に腕を引っかけて立っていた。
完全にドアが閉まり、運転手がクラッチを切りギアを切り換える。殆ど震動を生み出さず、バスは静かに発車していった。その後ろには既に新たなバスが待っており、徐行したまま停車場に近付いてくる。
「さて、んじゃ行くとしますか」
「うん」
ぼんやりしていてさっきと同じようなラッシュに巻き込まれても仕方がないので、一言促し、その手は繋いだまま耕介はゆうひと海鳴の街中へと歩を進めた。時はヴァレンタインデー──であれば良かったのだが、いつかのクリスマスのように彼女の仕事の関係で数日ずれこんでのヴァレンタイン・デートとなっていた。
イベントという奴は時期が過ぎてしまえば呆気ないもので、当日までは窓にスノーパウダーで丸みを帯びた文字が記されたり、『Happy
Valentine Day!』などと書かれたメッセージフラッグが街灯に吊るされたりするものだが、周囲に目をやってみても数日前までは恋人達の姿が賑やかであったであろう街の空気は何処にも感じられない。
人の数も何時も通りで、それほど多くは無く、年齢層も仕事帰りのサラリーマンの姿が目立っていた。きっと当日は今日の自分達と同じように手や腕を交わした恋人達の人口が彼らを上回っていたに違いない。隣に立つ人がいない人にはさぞ目に毒だっただろうな──と思う耕介だったが、逆に日がずれたことによるメリットも有った。
「──あんま人おらんで良かったなぁ」
「バレると色々大変だしな」
──だったら少しは顔隠すとか何とかしろよ、オイ。
今年の抱負が“締め切りを破る”だった<さざなみ寮>住人兼漫画家の、僅かに皮肉めいた揶揄する声が聞こえた気がした。
確かにゆうひの仕事と知名度を考えれば多少なりとも変装なり何なりするべきなのだが、向かう店が駅前から近い、つまり人目に姿を晒す時間は短いから──との理由で、椎名ゆうひこと“SEENA”はその美貌を惜しげも無く晒している。腰まで届く栗色の髪は後頭部の辺りで一つにまとめられ、耕介の高い視点からは白いうなじが覗ける。服装はと言えば寮を出る前に、
“ヴァレンタインデーらしく、チョコレートっぽくしてみたんやけど”
と、ゆうひ本人が語った様に、今日の服装は濃淡の違いこそ有れど、ブラウン系統の色で揃えられている。黒と見紛う程に濃いジャケットに合わせているのは対称的に明るい色のロングタイトスカート。ジャケットの下にはレースをあしらったブラウスを着込み、首にはブッシュ・ド・ノエルの上に振りかけられる粉砂糖を連想させる、白いカシミヤマフラーが巻き付けられている。
一昔前の彼女からすれば信じられないぐらいに地味な配色だった。しかし彼女も二十代半ばになったことによるのか、不思議と“地味”と言う言葉は“シック”に置き換わり、メイクの効果も相まって落ち着きの有る女性の魅力を醸し出している。
耕介の格好も彼女に合わせるように、タートルネックのセーターの上にジャケットを羽織り、裾まで綺麗に皺の通ったパンツを履いたフォーマルな出で立ちであったが、外に出た時彼女と釣り合いが取れるだろうかと少し不安になった──が、それは杞憂。彼らに向けられる街を歩く人々の視線を探れば自ずと察しが付く。
共にモデル並の身長が有る二人が、着飾った姿で街を歩く姿は容姿も加えて多くの視線を集めていた。耕介やゆうひとて全くの鈍感という訳ではないから、自分達の事を見ている視線の存在に気付かぬ訳がない。両者、ふとお互いの顔と顔を向き合わせると小さく苦笑いを浮かべて<FOLX>の扉を潜った。
耳に残響するピアノの音色と、直接会うのは──ゆうひにとっては──久し振りとなる国見の挨拶の声が、店内に入った二人を出迎える。
「お久し振りです、椎名さん」
「はいー。前に来たん、半年ぐらい前やからー……ほんまにお久し振りですー」
「そんなになるっけ?」
「ええ。──椎名さんがここで歌ってくれてたのも、随分前の事のように思いますよ」
雑談の合間にさり気なく『何にします?』と聞いてくる国見に耕介はジントニックと口直しの軽食を注文する。ゆうひも耕介と同じ軽食を頼んでから、
「あと、は……“何時ものやつ”、お願いします」
「かしこまりました」
人懐こい笑みを浮かべてオーダーを受けた国見は、店員に二、三指示をしてから注文されたカクテルを作り始める。
「……ゆうひが唯一飲みきれるお酒だもんな。それ」
ゆうひが注文したのは以前来店した際に三人であーでもない、こーでもないと相談しながら作成したゆうひ専用のカクテルの事だ。イギリス留学中、たびたび学友に付き合わされ、結果として帰国してからは多少の耐性が出来たのだが──とかくアルコールと名の付く飲み物には弱い彼女の事、グラス半分のビールを煽るだけで文字通り引っくり返ってしまう。
そんな事を耕介、国見と三人で話していた際に『じゃあ椎名さんでも飲めるお酒、作りましょうか』と言ったのを切っ掛けに、ゆうひでも飲めるカクテル──。
「“Sunset”です、どうぞ」
“Sunset”──“夕陽”という名のカクテルが出来たのである。
命名、槙原耕介。名前はどうすると聞かれたゆうひが『あんまり凝った名前は……』と言ったのを聞いてシンプルに夕陽──“Sunset”って言うのはどうだ、と提案したのだ。
『Sunset』。静かに、やや“関西訛り”の英語で発音した彼女の顔には満面の笑み。採用だった。
──アルコール度数は低く、味は極めて甘め。殆どジュースと変わりない、『こんなものは酒じゃない』と酒を飲み慣れた人は言うかもしれない。しかし国見に言わせれば度数なんて関係ないのだそうだ。
お酒を飲む事、突き詰めればお酒を楽しむ事に必ずしも度数が必要な訳ではない。酒は飲んでも飲まれるなという、過去から現代まで続く不変の真理も有る。要は楽しむ事だ。純粋に自身が好むお酒を誰かと一緒に飲むという事を。
酒に酔うのではなく、酒を楽しめる雰囲気に酔う。それが正しい酒の楽しみ方だと国見は言いたいのかもしれない。飲食店の店長──少し前に正式な店長となったらしい──の仕事をしている関係上、きっと楽しめない、見ている人間が『もう止めろ』と言いたくなる様な飲み方をする人間の姿をよく知っているだろうから。
そして国見の主張の真偽は、
「……美味し♪」
この表情が物語っているのだろう。
だが──
「乾杯するまで待っててくれよ……」
「あ」
酒場でのルールは今一つの御様子。
<FOLX>で一時の歓楽を得た二人は本格的に酔いが回る前に店を後にした。
寮の面々には遅くなると伝えているが、二人の場合、別の店で飲み直すという選択肢は無い。かと言ってこのまま帰るというのも少し寂しくて、どうしようかと問う言葉よりも早く交差した視線がぶつかり──自然と逸れた。
──気恥ずかしい。二人がほぼ同時にそう思ったのにももちろん理由が有る。少し下司な言い方をすれば互い忙しく、この所“ご無沙汰”なのである。今日という日も久し振りに出来た休日で、ましてや二人っきりで出掛けるなど、それこそ何ヶ月振りの大イベントだ。
互いを帰したくない、まだ帰りたくないと思うのは、恋人同士の二人が抱く気持ちとしては至極もっともなもので。
──『行く?』という耕介の問いに。
──こくんと頷く、ゆうひの答えが返され、二人はホテルへの道を白い息を吐きながらゆっくりと歩いて行った。
***
冷えた身体をシャワーで温める間も惜しんで、二人は口付けを交わした。久し振りに感じる唇の柔らかさ、彼女が飲んだ“Sunset”の味が残る舌端の甘ったるさ、蜜の様に濃い髪の匂いに耕介の頭はくらくらと揺れる。絶対的に酸素が足りない。鼻孔からの供給だけでは到底間に合わない、にも関わらず耕介は深くゆうひと口付ける事を止めない。いや、離れない。お互い離そうとしない。
ずっと待っていた瞬間だった。言葉を交わし、日常茶飯事的に行う軽いスキンシップ──頭を撫でるとか、頬を突つくとか──だけでは埋められない恋情の雪を、口付けで、抱擁で、愛撫で溶かしていく。ゆうひを抱える様にして耕介、ベッドに押し倒す。衣服は、まだ着用したまま。皺になる、と言いながら首の後ろに手を回すゆうひの言葉を受けて、一旦唇から自分の唇を離す。あ、惚けたようなゆうひの声。口の端から零れた雫が艶やかで、乱れた桃色の口紅がいやに悩ましい。耕介の心臓がどくん……と一際強く跳ねた。
翠玉を感じさせる黒瞳を見つめると、ゆうひが起き上がり、ジャケットのボタンに手を掛けた。
『チョコレート』。出掛ける前の彼女が自分の格好を指して言っていたが、自分の目の前に有るのはチョコレート以上に甘いお菓子。全て食べるのは勿体ないと思いながらも一度食せば全て食べずにはいられない。虫歯では済まない。おそらくは自分の身一つなら、軽く冒してしまうに違いない。
──音もなくジャケットが肩から滑り落ち、豊満な乳房のシルエットがはっきりと窺える。ゆうひはそれ以上脱ごうとはせずに、胸元を両手で隠したまま横になった。後は任せる、と言う事だろう。
軽く、口付け。確認の意味を込めた口付けだった。ブラウスのボタンを一つずつ外すと、スリップとブラジャーが姿を見せた。共に黒。その色も耕介の視線を奪ったが、それ以上に白い肌色が耕介の目を独占し──何故か可笑しさが込み上げてきた。
何を考えているのやら……それは自嘲にも似ている。それほどに、彼女の肌を見て頭に浮かんだフレーズは馬鹿げていて、冗談のようだった。それを口にした耕介の言葉にゆうひは、
「何が……?」
目には僅かにほてりを残したまま、当然の疑問を口にした。
「出掛ける前に自分の服がチョコレートみたいだ、って言ったろ」
「言うたけど──それがどうかしたん?」
「……笑うなよ?」
くつくつと笑いを堪えきれず、ゆうひの額に自分のを合わせてから耕介は言った。
「服はビターチョコレートだけど、それは単なるラッピングで──本命はホワイトチョコレートだったんだなぁ、なんて思ったんだよ」
言われたゆうひは暫しの間意味が分からず疑問符を頭上に浮かべていたが、耳元で耕介が答えを言うと頬を紅に染めながらも、目を細め、耕介の瞳を見つめ返した。耕介も小さく笑みを浮かべると再び口付け、二人の身体はベッドの上で一つに重なった。
【終ハリ】
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