聞き慣れた電子音の後に国際電話へ接続する旨を伝えるメッセージが流れ、再度電子音が流される。一回、二回。三回目で相手が出た。
『──もしもし?──』
「もしもし、俺。耕介ですけど」
『──おお、耕介くんかー。うちうち。ゆうひやで──』
最初の『もしもし』という辺りで感じた不信感が感じられた声が一転、楽しそうな、それ以上に嬉しそうな彼女──ゆうひの声が聞こえてきた。時間は午前二時に差し掛かろうと言うところ、逆算して、向こうは夕方の五時ごろになる筈だと耕介は思い、確認の意味を込めてこう問うた。
「今そっち何時だっけ」
『──えーっとな……五時過ぎたとこ。あ、夕方のな──』
「そっか」
『──そっちは?──』
「こっちは夜の二時」
耕介の答えを聞いて『夜更かししたらあかんでー』とゆうひが笑いながら言う。
「お前みたいにお肌の事気にしないから大丈夫だよ」
『──うう、痛いとこ突くなぁ──』
日本とイギリスとの時差は本来、約九時間と言われているが──耕介自身も後から知ったことだ──四月から十月の半年の間は本来の九時間から一時間早まる『サマータイム』と呼ばれる物があり、本来の時差から一時間早まって八時間となる。
仮に日本の時刻が午前九時ならイギリスでは八時間巻き戻って午前一時になると、言う訳である。
『──けど、ごめんな。うちに合わせてくれとるんやろ?──』
「……気にすんな。たまにしか電話出来ないんだからさ」
ゆうひが渡英してからもう一年近くになる。その間の二人のコミュニケーション手段としてはエアメールか、今のように国際電話をかけるしか無い。しかし国際電話は話題にも上がったように時間を合わせるのが難しく、何より電話料金が馬鹿にならない。
良くて月に一回、悪くて数ヶ月に一回──二人がお互いの声を聞くペースは同じ屋根の下で暮らしていた時と比較するとずっと少なくなってしまった。
「それに勉強も大変なんだろ。俺なら時間合わせられるからさ、そんな気にするなって」
『──おおきに──』
聞こえてきた声に笑みが混じっていたようだったが、おそらく苦笑いだと耕介は直感した。寧ろお礼を言いたいのはこっちの方だから──言いかけて耕介は口を閉ざす。
──それは言ってはいけない事だろう?
「……んで。そっちはどんな感じ? 大変なのは相変わらずだと思うけどさ」
『──んー……ようやっと慣れてきたかなーと思う、けど──』
互いの近況、体調は崩していないか、そう言えばこんな事があった等々。あり触れたと言ってしまえばそれまでの、当たり前の話を二人で交わす。ゆうひと話していると話題は尽きない物だと耕介は思う。何故こんな当たり前の事を話しているだけで時間を忘れるのだろう、とも。
──だが時間は無限ではない。今の二人にとっては特に。それを感じるのは話していた話題がぷつりと途切れた時で、ふと視線をリビングの時計にやる。普通の電話ならあまり気にする事は無い程度の時間が流れていた。
「──と。そろそろ時間だ」
『──え?──』
「……いや、時間。これ国際電話だから」
『──ああっ、ホンマや。ごめん、うちも気付けば良かったのに──』
「まあ、時間忘れるぐらいに楽しかったって事だよ。お互い」
そこから数度、言葉をやり取りして切り際、耳元に聞こえた音がこそばゆく感じながら耕介は受話器を置いた。
「──ふぅ」
話していると時間だけじゃなく、喉の渇きも忘れるらしく、すっかり渇ききった喉を潤そうと耕介は冷蔵庫を開けてパックのオレンジジュースをコップに注ぐ。半分程を飲み干してもう一度ため息を──今度は先程よりもなお深く──吐いた。
かちり、かちりと。時計の音がまるで先程の電話の内容を思い出せと問い詰めてくるようだった。深夜という時間帯のリビングは見慣れた活気など一切感じられず、無機質な蛍光灯の明かりが今の耕介は一人だという事をはっきりと自覚させる。
天井を見上げて思う。気付かれなかったかな、と。
……二人が離れ、電話や手紙で言葉を交わすようになってから耕介はある事を心がけている。それは“ゆうひに優しくしない”、と言う事。
決して彼女の事をないがしろにするという訳ではない。そうでなければ電話などしない。声を聞きたい。あの優しい声を。確かに自分の事を求めてくれると分かる、あの声を聞きたくないと思う日など、それこそ一日だってない。
それでもと耕介は思う。事の真偽は別にして──今の自分たちは所謂『遠距離恋愛』という位置付けになる二人の筈だ。その遠距離恋愛という奴を体験した恋人同士は関係が長続きしないという。
それは単純に距離が離れて相手の事を不安に思う──自分の事が嫌いになったのではないか、浮気をしているのではないかと言った類の──だけが原因ではなく、むしろ距離が離れても変わらぬ優しさを向けられる事が辛い事も原因の一つと言われている。
優しい言葉を与えられた方は勿論嬉しい。しかし冷静に振り返ってみた時──自分に与えられた気持ちと同じぐらいに、あるいはそれ以上の気持ちを、相手に返せているのだろうかと考えてみた時、人は立ち止まってしまう。立ち止まる間にも相手は知ってか知らずか自分の気持ちを相手にぶつけてくる。
──ズット 傍ニ イルヨ──
──離レテテモ 好キダヨ──
──君以上ニ 好キナ人ナンテ イナイヨ──
それは優しい言葉ではないだろうか? 暖くて──残酷な言葉だとは思えないだろうか?
発した本人は相手の事を気遣って発したに違いない言葉も、相手にしてみれば暖かさは灼熱となり、優しさは棘となり、胸に突き刺さり、焼き、抉り、中身をぐちゃぐちゃに変えてしまう。その言葉が嬉しければ嬉しいほどに熱く鋭くなって苦しくなる。
ゆうひから伝えられる想いの数々は先程の電話の中でも数多くあった。それに対して耕介は少なくとも口上では『ありがとう』と返していたが──正直に言えば、辛かった。
好きだ、と言われ、楽しそうに笑う声を聞く度。俺はお前に何もしてやれないのにという思いが頭の中をよぎった。
耕介くんは、と問い返されると適当な言葉で誤魔化して、その心中では、何でそんな風な事を聞いてくるんだよ、と勝手な事を思った。
お前が俺の事を好きだと言ってくれても俺はお前の事を抱きしめてやれないし、キスだってしてやれない。髪を撫でてやる事も笑いかけたりお前の悪戯にお返しをしたり同じベッドで眠る事も一緒に出かける事も料理を作ってやる事も何一つ出来ないのに。
──何で、お前は、
「──やめろよ、耕介」
思わず耕介は声に出して自分の女々しい、子供のような、勝手で我が儘な考えを否定した。これ以上は駄目だ、と思う。これ以上考えると自分の中のあいつが『本当に』嫌な存在になってしまう。本当はそうじゃないのに、自分の勝手な思い違いであいつを悪く思ったりする訳にはいかないから。
──そもそもだ。あいつは自分なんかよりもずっと辛い筈。言葉も通じない海外であいつは一人で頑張ってる。ゆうひの事だから友人の一人や二人はいる筈だろうけど──自惚れでないなら、あいつにとっての“大切な人間”は自分一人の筈だ。
だから自分が我慢すれば良いだけの事。俺が喜ぶ言葉をあいつが言ってきても、俺はそれに答えてはいけない。
あいつが俺と同じ様な事を考えるかどうかは分からないけれど、万が一気付かせてしまったら──俺と同じ苦しみを知ってしまう事になる。
だから耕介はゆうひとの会話の中で彼女の気持ちに答えたりしない。答える事も有りはするが、それも程々に、だ。決して良策だとは思っていないが、今はこうするより他は無いとも思う。その考えが自身の独善だとは気付かないまま。
「いい加減寝たらどうだ?」
「あ──」
耕介の思考が一つの結論を迎えかけた頃、ふと声がしてリビングの入り口に顔を向けると真雪が立っていた。もしかすると電話をしていた事にも気付いていたのかもしれない。耕介は思った。
彼女の普段の姿だけを見ていたのならそんな事を考える余地も無かったかもしれないが、仁村真雪という人物の本質を知っている人間ならば、彼女が只のだらしのない人物であるなどという評価を下す事はしない。彼女の妹は勿論の事、この寮の人間で暮らす人や出入りする人ならば間違いなく。本当の彼女は常に周囲の事を気にかける事の出来る人物であるということを。
「真雪さんこそ、随分と夜更かしじゃないですか」
「あたしは仕事してたんだから良いんだよ。あんたはそうじゃないみたいだけど」
「……バレました?」
「バレるも何も」
悪いことするんならもっと上手くやれ、と言うような事を話しつつキッチンの中に入って何かを探し出すと、それを持参したままテーブルにどっかと置いた。
もはや見慣れた一升瓶とおつまみのスナック菓子。
「仕事してたんじゃないですか」
「今日はもう終わり。あんたも付き合えよ。最近一緒に飲んでないだろ?」
今夜も含めてゆうひと電話をするようになってからアルコールすら飲んでいなかった事を真雪の言葉で思い出す。
「そうですね……何か作りましょうか?」
「ん、任せる」
今すぐにでも飲み始めそうな真雪を見て、何か手早く作れるような物は何かと考えながら耕介は調理に取りかかる。伊達に料理の腕を買われて寮の管理人を任されたわけではない。時間にして数分の後、簡素ではあるが食べる人間の食欲を十分にそそりそうな料理が仕上がった。
既に耕介の分のコップには酒が注がれており、真雪の方も準備は出来ているようだった。
「んじゃま。乾杯、と」
「乾杯」
静かにコップを重ねてから同じ位静かにコップの中の酒を喉に流し込む。焼酎やウィスキーに比べると喉に感じる刺激は少ないものだが、その分アルコール独特の酔いを強く感じられる。
一杯飲んだだけで顔の辺りが温かくなり、気分が軽くなる。
「で、こんな時間まで起きてた理由は何だ?」
「気付いてたんじゃないんですか?」
「あたしが思ったのは少なくとも“仕事をしてて”起きてたんじゃないな、って事位だよ。そこまで勘が良い訳じゃない」
それにしたって良い勘してますよ──口にはせずに耕介は今日起きていた理由を真雪に話した。
「なるほどなー。時差考えたら今みたいな時間か、あんたが起きる時間位になっちまうからな」
「八時間は長いですよ」
一杯目を飲み干すと真雪が自然な動作で一升瓶を傾けてくる。それを受ける。
「……ふーん」
「何です」
「電話したにしては元気ねーなと思ってね」
「そうですか?」
「『そうですか?』だって? ……バレバレだっつーの。ここにいた時、嫌って言うぐらいに見せつけられた者としては直ぐに疑うよ──喧嘩でもしたのか?」
耕介にとって、その質問は答えられない内容の一つだ。何せ自分の中でも答えの見えない問題なのだから。
「そう言う訳じゃ……ないですけど」
自分が一方的に悩んで、問題にしているだけの事。
「……ふぅん」
耕介の答えを肯定と受け取ったのか、逆に否定と受け取ったのか。真雪の頷きの真意を耕介は図りきれない。
「ま、良いけどね」
「良いんですか」
「“良くない”って答えても何か聞ける訳じゃなさそうだし」
コップの中身を飲み干して、真雪が言う。
「喧嘩したんならしたで謝りゃ良いし、そうじゃないけど悩んでるならガキみたいに駄々こねたり、"うちの"みたいにあれこれ考えるのも良いさ」
左耳に着けられたピアスが蛍光灯の明かりに反射して小さく輝いた。彼女の妹とお揃いのピアスは彼女たち姉妹の仲の良さを物語っているようだった。
「結局、人間ってのは単純にしか生きていけないんだから」
「単純……?」
真雪の何気ない一言に耕介は少し引っ掛かり──疑問を感じた。
「あん?」
「いや、今『単純にしか生きられない』って言ったから、それは何でかなと」
「何でも何も……」
当然の事を話すかのように真雪は続けた。
「──昔に戻ってやり直したい事もあるのに出来ない。仕事を休みたくても許されない。美味い酒が飲みたくてもそうそう飲めない。そんな不満をぶちまけたくなっても出来ない。それじゃあどうする?──やり直したい事があるなら、そう思わないよう、同じ失敗をしないようにするしかない。休みたいなら休んでも良い理由を作るしかない。美味い酒が飲みたいなら働いて金を溜めるか、自分で作るしかない。不満があるなら不満を聞いてくれる知り合いを作るしかない。そんな風に一つ一つ、地道に物事潰していく生き方しか出来ねーじゃん。一度に幾つも違う事が出来ないように出来てるんなら、そういう風に生きていくしかないだろ?」
「でも、それだと……辛くないですか?」
真雪の言葉は正しいと耕介は思う。正しいからこそ、逆に、同時に出来ない物事をどうしてもしなければならなくなった時、苦しくはならないのだろうか。少なくとも今の耕介は真雪の言葉を全面的に受け止める事は出来ない。
「これだけならね。休もうと思うなら作業する手を止めなきゃならない。──耕介は魚を捌きながら肉仕込めるか?」
「……いえ。どっちか一つだけですね」
「だろ。あたしもそうさ。下書きしながらトーン張るなんて一人じゃ出来ないし。そんな事出来る奴は天才だろうし、天才じゃない人間なら凡人か、馬鹿のどっちかだろ?大抵の人間は天才じゃないし、馬鹿でも無い……まー、あたしゃ馬鹿だろうけど、それでも何とかやってきてるし、これからもやっていくんだろ。漫画書いて、あいつの面倒見て、時々はあんたや愛と美味い酒を呑んで。単純に、平凡に生きていくんだろうさ」
コップの中身をもう一度飲み干して、『あー疲れた』と真雪は言った。
「要するにさ。なーんにも考えずに生きていくのが一番楽、ってこと」
「つまり──真雪さんはグータラだと」
「そうそう。そう言うこと」
「って、一升瓶握りながら言わないでくださいよ! 冗談ですから!」
「……ちっ、本気だったら殴る理由が出来たのに」
そんな恐ろしいこと出来る訳が無い。──けれど、それ以上に恐ろしい事を自分はしようとしていたのかもしれない。だから自然と──良い意味で──口が滑った。
「真雪さん」
「あ?」
「俺、あいつに優しくなかったかもしれない」
「……それで?」
真雪は分かっているのだろうか。いや、おそらく、分かって問うているのだ。『それで』の後に、『あたしに何か言って欲しいのか』と叱責の言葉が続いているように耕介は感じたが、
「ん。それだけです」
もう十分助けられた。答えのヒントも与えられた。これ以上は自分が何とかするべき問題だ。この時、耕介には分からなかったが、真雪から見て耕介の表情は話をする前よりは和らいでいるように見えた。
「……ま、もう一杯飲んでけ」
「ああ、どうも」
真雪からのお誘いに応じて、コップに再度酒が注がれる。夜は酒と共に更けていくが、耕介の心の霧はうっすらと晴れてきていた。
***
──後日、再び深夜。電子音の後──。
『──もしもし──』
「ゆうひかー? 俺、耕介だけど」
電話口の向こうから、何時ものように嬉しそうなゆうひの声が聞こえてきた。そう、何時も通り。ここにいた時から、ずっと聞いてきた彼女の跳ねるような綺麗な声が今日も何一つ変わることなく聞こえてきた。
『──今日はどしたん? 前の電話からちょっと間空いて心配しとったんやけど──』
「いや、別に何が有ったって訳じゃないけど……ちょっと言わなきゃならない事、あってさ」
言葉の後で、ゆうひの怪訝そうな声が返ってくる。きっと表情を見ることができれば、その顔にはハテナマークが浮かんでいるに違いなかった。
……少し緊張する。何せ、突然言われると尚更不思議に思われる事を言おうとしているのだ。
「──ゆうひには訳が分からないだろうけど、ごめんな」
『──? どしたん……耕介くん、うちに謝る様な事したん?──』
これからするかもしれなかったから。
「まあ、うん……俺の中で謝っておきたい事有ったから、謝っただけ。本当、それだけだから」
『──ん……何や、そないに言われるとうちも謝らなあかんような気がするな──』
「……何か有るの? 体重増えたとか」
『──そうそう、つい間食が増えて二桁増えたんよ……耕介くん、短い付き合いやったな──』
「待て待て! 軽く受け流せ!」
一言、一言話すたび、心が軽くなっていく。なんて事のない話でも、自分の心次第でこんなにも楽しくなるものなのか、と耕介はこれまで当たり前に感じていた気持ちを、初めて理解できた。
──なあ、ゆうひ。お前も、俺と話をしてて、こんな風に感じてくれてるのかな。
もしそうならば、とても嬉しい事で。
もしそうならば、とても酷いことをしていて。
もしそうならば。二度と同じ間違いはしないように生きていこう。
あの人が教えてくれたように。自分に出来ることをやって、頑張っていこう。耕介は胸の内で、あの時言えなかった感謝の言葉を真雪に送ってゆうひとの会話を楽しむことにした。──楽しい時間は短いから。ほんの少しでも長く、少しでも多く、優しい声を聞いていたいから。
[EN...]
「妹よ、お前は姉のライフワークを邪魔するのかっ?(小声)」
「弟の電話を盗み聞きするのは姉のする事じゃないよっ!(小声)」
そんな事は露知らない真雪の行動と、その行動を止めようとする知佳の兄を思いやる気持ちに耕介が気付くのは電話が終わった直後ぐらいの事。
[Fin♪]
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