夕方の街は夕食の献立を考えて材料を探す主婦や、学校帰りの生徒でにわかに活気づいていた。
行き交う人々は時に言葉を交わし、時にその表情を柔らかくしている。もしも『日常』という題材で絵を描けと言われれば、この風景をそのまま額縁に入れれば完成するような風景が広がっている。
それにも関わらず、商店街の人の流れに逆らわないように歩いている一組の男女は風景からすれば少し奇妙だった。恋人同士だろうか。一瞬だけ見たその男女二人一組の姿を見て商店街を歩く多くの人間は思った。女が先頭をやや早足で歩き、その後ろを男――というには、かなり童顔――が追いかけているように歩く。恋人同士にしては二人の位置はおかしい。それによくよく見れば、女の方の顔はどこか不機嫌で、男の方は困ったような、もしくは『しょうがないなぁ』といった諦めの表情をしていた。
女の名前は千堂瞳、男の名前は相川真一郎と言う。
「瞳ちゃん、やっぱり怒ってるでしょ」
「別に」
早足で商店街を通り過ぎながら真一郎は牽制のジャブを放つ。それを瞳は見事なスウェーバックで避ける。ジャブはかすりもせず、空を切った。すかさず第二手、再び牽制のジャブ。
「じゃあ何で、そんな早歩きしてるのさ?」
「最近体動かしてなかったから」
サイドステップで位置を変えて、瞳、これを回避。けれどそれは嘘だ。
「毎日、サークル活動してるよね? 今日だってそうだったし」
「――そうね」
瞳は大学のサークル活動として護身道部に所属している。真一郎が初めて会った時には既に始めていた競技だ、人並み以上に愛着もあるだろうし、瞳自身が護身道を通じて体を動かすことが好きだと言うこともあるだろう。それは今までも、おそらくこれからも変わらないと真一郎は思っている。
同じ家――真一郎の実家で半同棲生活をしている二人は一緒に大学から帰る事が多い。しかし真一郎は特定のサークルに所属していないので、瞳のサークル活動が終わるのを待ってから帰宅する事が殆どだ。
それは今日も同じだった。
***
最後の講義が終わった後、真一郎は正門近くの中庭で瞳を待っていた。二人、お決まりの正門から数えて二番目の外灯下にある青色のベンチ。そこに座って自動販売機で買ったホットコーヒーを飲みながら。
暦の上では春と言えども二月の上旬はまだまだ寒い。握った缶コーヒーの熱さに悴んだ指が小さく不満の声を上げて、ベンチに置いて視線を泳がした。
真一郎の座る位置からは正門を抜けて帰路に付く生徒の姿が見える。中には先程まで同じ教室で講義を受けていた顔も見える。皆、吹く風の冷たさに上着を直し寒さに堪えるようにして正門を抜けていく。男同士、女同士。あるいは数十分後の自分たちと同じように男女で帰っている人もいた。
横に置いた缶コーヒーを持ち上げて一口喉に流し込む。冬の大気に晒された缶は幾らか温くなっていて、最初に比べて飲みやすくなっていた。
さして喉は乾いていなかったが、それを一口、二口と続けて飲んでいく。缶の中身はあっと言う間に減っていき、後数口まで減った所で彼を呼ぶ声が聞こえた。
「あー。相川くんだ」
声のする方を見ると同じ学年だが違う学部の女生徒が立っていた。
今時の若者らしく髪を薄い茶色で染め上げて、見る人間に快活そうな印象を与える。しかし格好は真一郎から見れば随分寒そうに見えた。コートらしき物は羽織っておらず、ただ枚数を重ねているだけのよう。それで寒くないのかな、と思いつつ真一郎は軽く手を挙げて声の主に答えた。
「どうしたの、こんなとこで。まだ講義あるの?」
「いや、無いよ。人、待ってるの」
ああ、と女生徒が頷く。
真一郎に恋人がいることは彼の同学年の生徒ならば大多数が知っている事だった。講義が終わった後、同じベンチで座っている姿やその後誰かと帰ってくる姿を目撃している人間が多いためだ。加えて、一緒に帰る人物が上級生の中でも美人と評判の相手だから噂になる、真一郎に聞く、真一郎答える、以下省略、である。
「でもその様子だと、待ち人今だ来らずって感じだねぇ?」
「まぁ、向こうはサークルやってるからね。今日はすぐ終わるって言ってたから直ぐ来ると思うけど」
『そっか』と短く答えて女生徒が二の句を告げようとした時、真一郎の視線が彼女の後ろに移動した。同時に、『あ』と間抜けな声を出してしまった。
中庭に降りる階段を寒そうに歩いてくるのは瞳だった。真一郎には遠目でも、その姿が瞳であると断言できる。真一郎の視線に気付いたのか、瞳が真一郎のいる方向を見て手を上げようとして──中途半端なままで静止する。
だが、それも一瞬の出来事。上げかけた手を下ろし真一郎の方に歩いてくる。それで真一郎は悟った。
―― 一悶着有るな、と。
「ごめんなさい、“相川君”。待った?」
聞こえる声は何時もと何ら変わりない。しかし真一郎には分かる。絶対、確実に、間違えようも無く。彼女の機嫌が悪くなっていると。
「まあ、少しだけ」
「そう。……それで、この人は? 良ければ紹介してくれるかしら」
瞳の声に女生徒が軽く自己紹介をする。瞳の態度にいささか緊張しているようだが、その本意に気付いていないのは幸いだろう。気付く人間もいるにはいるが、その人たちは本意に気付いてからはこの時間帯の真一郎に男子を除いて近付かない。
「じゃあ行きましょうか、相川君」
「……そうしよっか」
さすがに女生徒の方も瞳の態度に変化を感じ取ったのか、じゃあねと逃げるようにして正門へと歩いて行った。残ったのはやけに笑顔――では既に無い、不機嫌を隠そうともしない瞳の顔と気まずい空気だけだった。
「……あの、瞳ちゃん。分かってると思うけど」
「ええ、相川君の友達でしょ? 大丈夫よ、それぐらいで怒ったりなんかしないから」
言い放ち、瞳は先を歩きだす。――さて、どうしようかな。瞳の後を追い掛けながら、真一郎は頭の中で事態改善の為の会議を始めた。 ***
結局帰宅途中で瞳を説得……もとい、納得させる事が出来ずに二人は家に到着してしまった。時刻は午後六時三十分を回っている。夕食の準備を始めるには少し遅いが、用意しない訳にはいかない。
袖をまくり、冷蔵庫の中身を確認する。人参、じゃがいも、玉葱。野菜の基本三セットと鶏肉があった。そういえば、と思い出しキッチンの下の棚を探すとシチュー用のルーがあった。手を抜くわけでは無いが、時間を考えるとあまり時間を掛けたくない。決断をすれば後は早い。冷蔵庫から材料を取り出して調理を開始する。
材料の全てを一口大にカットし、まず鶏肉、次に野菜の順番で炒める。じゅぅ、と気持ちの良い音と良い匂いがキッチンに漂う。
「今日はシチュー?」
匂いに興味を抱いたのか、後ろから瞳が声をかけてくる。
「ちょっと時間が遅かったし、あまり時間も掛けられないから。材料も揃ってるし……嫌?」
「もう作ってるのに嫌も何もないわよ。それに真一郎が作るものを私が嫌がったことあった?」
「無いよ。ちょっと聞いてみただけ」
炒めた野菜はそのままに鍋の中へ水を入れて火にかける。とりあえず沸騰するまでは、灰汁を取るだけで良い。その間に米を炊かないといけない。
「ご飯?」
「あ、うん。お願いできる?」
「ええ」
瞳の声に先程までの刺々しいものは無い。珍しいな、と真一郎は思ったが口に出すとまた話が拗れそうなので止めておく。――夕飯を調理する二人の後ろで、瞳が付けていたテレビでは日々のニュースの映像を流していた。
その中で"とある動物"の"とある習性"について、ニュースキャスターが抑揚のある声で原稿を読み上げていた。
『いや、しかし素人目にはこの違いを見極めるって言うのは……』
『難しいものですよね』
『そうですね。ペットを飼う人は知っておいた方が良いかもしれません。では続いて明日の天気をお知らせします……』
――翌日、この番組の内容が真一郎にある影響を与えるなど本人は知るよしも無いまま夕飯の準備は進んでいった。
***
冬の夜、暖房も付けない部屋は外とさして温度が変わらなくなる。それでも真一郎は暖房を付けない。自分の隣に自分以上の暖かさを持つ人が眠っているというのに、どうして暖房を付ける事が出来るだろうか。
「今日も寒いわね……」
「もっとくっついても良いよ?」
「……じゃあ、そうする」
シーツの擦れる音がして瞳が真一郎の体に密着する。左手は腰に、右手は肩に添えるようにして瞳。左手を瞳の枕に、右手は背中に回すようにして真一郎が、それぞれ引っつく。
「……暖かいね」
「うん……」
ほのかな暖かさは少しずつ覚醒していた意識を眠りへと誘ってくる。絡ませた足も動かさず、互いの熱を逃がさないようにして。
「おやすみ、真一郎」
「おやすみ、瞳ちゃん」
一時だけの別れと再会を約束して二人は目を閉じる──が、それから十分ほどして、瞳だけが目を開けた。
目の前にある真一郎の瞳は閉じられたまま。完全に眠りにつくには今しばらくの時間がかかるだろう。それまでは眠った振りをしていよう、と思いながら瞳は静かに高鳴る胸の鼓動を感じていた。これから起こす出来事の前に、緊張感からくる高鳴りを。
***
――そうして夜が明け、朝が来る。
同じベッドで眠っていた二人のうち、どちらか早く起きた方が相手を起こす。今日は瞳の方が早く起きて、真一郎を起こした。起きれば顔を洗って朝食の準備。それが終われば朝食を食べて、大学へ行く。
「今日も待ち合わせする?」
「ええ、今日はサークルも休みだから。一緒に帰りましょ」
玄関でこれも何時も通りとなった約束をする。真一郎は真一郎で昨日の失敗はしないように気を付けようと、心に思い直す。それを見ながら瞳は嬉しそうな、子供が悪戯をした結果を楽しみにするような笑みを浮かべて見つめていた。
彼女の視線の先は真一郎の首。さあ、真一郎は何時気付くかな――考え出すと楽しくて仕方のない瞳だった。
――――犬や猫は一つの習性を持っている。マーキングと呼ばれる"それ"は自分の尿を電柱やそれ以外の場所に引っかけて『ここは自分の領域だ』と言う事を他の相手に伝える手段である。
昨日のニュースで報道していたのはマーキングと通常の排尿の違いについて、そして同じ話題に関してペットの飼い主の理解度の不足――その二要素の違いは何処なのかと言う事に関して――について報道していたのだった。それを見た瞳の機嫌が何故直ったのか? その答えこそ今朝の真一郎に首元に付いている"虫刺され"の様な赤い跡である。
人間が行うマーキング、特に好き合う男女間で行われるそれはキスマークと呼ばれ、その跡を見た人間は瞬時に事を理解する。
古人曰く『昨夜はお楽しみでしたね』。
真一郎が事実に気付くのは大学に到着してからの友人の態度から。気付いた所で、その跡を消す事は難しい。何せかなり強い力で吸いつかなければ出来ない代物である。直接首元を隠す位しか対処法が無い。
“マーキング”を確認する為に洗面所の鏡と睨み合いをしていた真一郎は思い出す。
昨日の不自然とさえ思った早すぎる機嫌の回復と、その後一切の追求をしてこなかった瞳の態度がおかしかった事と、最後に。
「瞳ちゃんの機嫌は無料では戻らないんだった……」
無論、それは瞳だけに限らない、女性全てに通じる話である。
[END]
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