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ひと月前のうだるような暑さはすっかりなりを潜め、冬を思わせる冷たくも渇いた風が海鳴の町にも吹くようになった。今年の冬も例年か、あるいはそれ以上に寒い物になるのだろうかと、月村家の自分の寝室の窓から外を眺めていた恭也は思った。
月村家に忍達と暮らすようになってから既に七年程が経過していた。件の事件以後――安次郎が仕向けたイレインとの戦いに伴うノエルの機能停止、そしてその回復――は、少し穏やか過ぎる程の日々が続いている。
穏やか『過ぎる』と言うのは、所謂平和過ぎて怖いというような意味でも有り……その体に凡そ平和とは似つかわしくない術を振るわんとする血が流れている恭也にとって、考えずにはいられない悩みでもある。
こんなゆっくりとした時間の流れの中、御神の剣士としての勘が、技術が、精神が鈍ってはいないだろうか。不安とは言えないまでも、軽視する事は出来ない問題ではあった。日々の鍛錬は欠かしていない。今日も早朝の鍛錬で美由希と一戦交えてきたばかりだ。だからなのかもしれない。未だに少し身体が落ち着かないように思えるのは。
恭也は静かに目を瞑り、意識を集中する。視界が闇のカーテンに覆われる代わりに他の感覚器官、聴覚に感覚を集中させる。自身の呼吸。心臓の鼓動。吹き付ける風で僅かに軋む窓の音。窓の外の鳥の声。自動車、単車の排気音。様々な“音”が耳に届く。
視覚を奪われた場合、頼りになるのは聴覚、嗅覚、触覚、剣士としての経験に培われた直感の四種。視覚を奪われても己の命が断たれぬ限り、戦いに終わりは無い。故に御神の剣士として恭也、美由希は普段からこうした鍛錬を怠っていない。
もし仮に。これから先視覚を奪われる――煙幕、毒物、あるいは直接被害を受けた場合だ――ような戦いを強いられた時、相手は少なからず衝撃を受けよう。多くの愚かな相手は敵の眼を殺せばそれが優位となると誤解しているだろうから。その時には思い知らせてやれば良い。御神の剣は、見ずとも敵を討てる術であると言うことを。
「――ふぅ」
薄く眼を開き、息を吐く。幸いな事に勘は鈍っていないようだ。逆に言えば、御神の剣士としての血は全く薄れる事無く自分の体内に流れている。刃を振るい敵を討ち、返り血を浴び、それでも眼前の敵を斬る。他人が聞けば畏怖するであろう、剣士としての“血”が。
しかし考えない。この“血”には今しばらく大人しくして貰う。今は、そう。この穏やかな時間を楽しもう。人知れずそんな事を決意して恭也は窓際を離れようとする。
――ぎしり。
音を、聞いた。誰かが階段を昇りこの部屋にやって来るのだろう。
ぎしり、ぎしりと、通常では殆ど聞こえない階段の軋み、かちゃり、かちゃりという硬質な物同士がぶつかるような音。足音はもう間もなくこの部屋に到着する事を知らせていた。足音が止まる。次いで、控えめなノックの音が部屋に響いた。
『恭也様、起きていらっしゃいますか』
ノックと同じく控えめな声で、女性の声が聞こえた。
「ノエル、か?」
『はい。お茶をお持ちしました。入っても、宜しいでしょうか?』
ああ、と短い返答の後ノエルが部屋に入ってきた。手には盆の上にティーカップが一つだけ。その事に関しては『先程忍お嬢様にもお注ぎしましたので』という答えが返ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ティーカップの中は何時もの銘柄で、ノンシュガー、ノンミルクの珈琲が注がれていた。ここ最近は朝方でも冷え込む事が多く、こうした温かい飲物の差し入れはありがたかった。
「今朝もお出かけになられたようですね」
「鍛錬を欠かすわけにはいかないからな。もしかして起こしてしまったか?」
「いえ、私は――恭也様よりも早く起床していますので」
「そうか……そうだったな」
珈琲に口を付け、喉に流し込む。何時もの事ながら熱過ぎず、冷た過ぎずに加減されていた。
「忍お嬢様が言っておられました」
「……何だって?」
「恭也様は随分と早起きなので、目覚めの口付けも出来ないと」
「……っ!」
唐突に知らされた言葉と、慌てた所為か、珈琲をカップもろとも取りこぼしそうになる。すんでの所でカップを掴み、安定させる。
「……本当に言ってたのか。そんな事」
「はい。私なりに要約はしましたが」
要約、と言う事は本来は――忍の性格も考慮して――より長く、より具体的な内容であったのだろう。少し頭が痛かった。昨晩とて、あれ程――いやいや、これは考えまい。慌てて脳内に浮かんだイメージを吹き消す。
「そう、か……とりあえずありがとう、ノエル」
「はい」
口直しに珈琲を飲む。部屋の温度に釣られたのか、先程よりも少し温かった。
「……七年ですか」
ノエルがふと呟いた。
七年。それは恭也と忍とノエルが共に暮らし始めた時間。恭也にしてみればあっという間である。だからそれほど感慨といったものは無い。するとノエルが恭也の思考を読んだかのように言葉を続けた。
「私には時間の概念は存在しませんが……恭也様はやはり何か思う所がおありですか?」
「……正直な気持ちとしては、あまり無いな。この七年の間に起こった出来事の一つ、一つは印象に残っているが……その事が時間の流れと関係があるかと言われれば、さして無い」
恭也の答えにノエルは薄っすらと笑みを浮かべ、言った。
「忍お嬢様にも同じ事をお聞きしたら、恭也様と同じ様な事を仰っていました」
「……似た者同士だから、だろう」
恭也は少しだけ皮肉の意味を込めて、そう答える。
ノエルの表情は変わらない、とても“そう”は思えない程に――優しい笑顔のまま。
「――それでも私は。恭也様と、忍お嬢様の二人と同じ時を生きられる事が嬉しく思います」
それはきっと偽らざる本音だったのだろうと、恭也は直感的に理解した。珈琲のカップに視線を落とす。
たゆたう水面には薄く自分の姿が映っていた。その顔が、自分でも驚く位に穏やかな表情で――つくづく何時もの表情が仏頂面である事に苦笑いしながら、恭也は言った。
「……俺もそう思う」
この時間が何時まで続くかどうかは分からない。それでも出来れば、と願うのは今日も、明日も、明後日も――来月も、来年も、十年先も。三人で共にある未来がありますようにと。
そんな、些細な願い事一つだけ。
【Fin】
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|後書き|
某氏の誕生日記念に送ったSS。オチも何もあったものではなく、その時頭の中に浮かんだ景色を一心不乱に書いただけです。
気に入ってもらえたかどうかは神のみぞ知る(感想教えてくれないし)。
【第一版:2003/10/09】
【第二版:2003/10/15】
【第三版:2005/03/25】
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