水の匂いがする。薄明るくなってきた寝室で、藍丸はそう思いながら目を覚ました。窓の外は雨らしい。傍らでは弧白がまだ寝息を立てている。
(なんでえ、珍しい)
藍丸は朝が弱い。本来は夜行性で昼は眠いはずの妖たちにさえまだ負けるくらい、弱い。逆に弧白ときたら、獣の妖として感覚が藍丸よりも断然鋭い分か、藍丸の一挙手一投足にも過剰なくらい敏感だ。目を覚ます気配など、とっくに察知して眼を覚ましているのが常なのに、今日ばかりはこの有様だ。
(疲れてんのか?)
夕べも、夜半を過ぎても――というよりは、むしろ明け方近くまで――身を繋ぎ互いをむさぼりあっていた。藍丸が快楽に耐え切れず意識を飛ばしてしまったあとも、後始末と藍丸の身づくろいを終えるまで眠らなかったのだろう。それは今に始まったことでもなかったが。
(雨のせいか…?)
肉食獣は雨が降ると狩りに行けない、ということで動きたくなくなるらしい。昔そんな話を聞いた気がする。獣の性がどのくらい妖となった身に影響するのかは、よく知らないが。
なんとなく起こしてしまうのも忍びなくて、藍丸は布団の中でそっと腹ばいに姿勢を変えると、枕もとの盆を引き寄せた。
(それにしても、綺麗なツラだよなあ…)
肘を突いて軽く上体を起こした姿勢で水差しの水を飲みながら、薄明かりに浮かぶ弧白の顔を見やる。
こんな風にかれの顔を眺めたことはもしかしたら初めてかもしれない。たいていは弧白のほうが先に目を覚まして藍丸の寝顔を眺めている。そうでなくても、視線をやるとすぐに気付いて、「なんだい?」と言うが早いかちょっかいを出してくるのだ。とてもじゃないが顔を眺めるなんて余裕はない。ここぞとばかりにしげしげと眺めながら、藍丸は小さく息を吐いた。
(睫毛なんかばっさばさでよ。目元の紅といい、つやつやの唇といい、妙な色気があんのな、こいつ)
妖狐といえば人を惑わし誑かすのが相場の存在。だからだろうか、梅餡をくるんだ羽二重餅のような肌に熟れた桃のような唇、細く通った鼻梁に切れの長い目元は腕っこきの職人の手になる細工物を思わせる。底の知れない光を宿す飴色の瞳も今は砂糖衣のようなまぶたに隠れていて、随分と印象が柔らかい。惚れた欲目を抜きにしても溜息が出るような造作だと思う。
と、うっすらと弧白の唇が笑みの形にしなった。いつもの皮肉げな片笑みではない、ほわりと花がほころぶような笑みだ。一瞬、眼を覚ましたのかと身をこわばらせるが、一呼吸分待ってもその気配はない。安らかな寝息を変わらずに立てている。
(驚かすなよ…)
別に疚しいことがあるわけでもないが、なんとなく、見つかるのはばつが悪い、気がする。
目をそらして、もう一口水を飲む。
藍丸が羽織になって――弧白の求めた緋王になって弧白が正式に藍丸の従属になっても、かれの態度は変わらない。「今まで通り」を望んだのは確かに藍丸だが、そうなると今度は以前にはなかった恋情のおさまりが悪い。いささかもてあまし気味なせいか、好いた惚れたを素直に表すのはまだ少し気恥ずかしいのだ。
若干高まった鼓動が落ち着くのを待って、もう一度弧白を見やる。同じように、穏やかな顔で眠っている。
(なんかいい夢でも見てやがんのかね)
美味いものでも食っているのか、故郷のことでも思い出しているのか。
こんな風に気の緩んだような表情はめったに見せない弧白だ。今すぐ鼻の一つもつまんで起こして、何の夢を見てたんだと聞いてみたい。この男にこんな笑みを浮かべさせるものが何なのか、知りたい。
同時に、このままの寝顔をもう少し眺めていたいとも思う。人慣れない獣が無防備に腹を見せて眠っているのを見ているようで、なんだか――。
(…いや、こいつにこういう言い草はこれっぽっちもそぐわねえのは判ってる。根性悪で喧嘩っ早くて人間嫌いでいちいち物騒でわがままで、――…でもやっぱなんていうかその……)
誰が聞いているわけでもないのに、照れくささに耳の先まで血が上る。
(か…可愛い、よな)
胸のうちで言葉にするだけでもこそばゆい。背筋のあたりがむずむずする。
(ま、まあ、こうやって太平楽に寝てるときだけだけどな…!)
誰にともなく言い訳のように付け足して、ばさりと布団に顔を伏せる。熱の移っていない布で頬の熱を冷ましながら、なんとなく目の前にこぼれている白銀の髪に触れた。寝返りをうったときの弾みか何かで口元に張り付いたらしい幾筋かをそっと払ってやる。その指が、無意識に唇の端をなぞっていた。柔らかな呼吸と、柔らかな唇の感触が指先に甘い。そっと下唇を撫でても弧白の意識は相変わらず深い眠りの中にいるようだ。
(…しても、起きねえ、かな)
二度寝を決め込むつもりで胸元にもぐりこみしな、ふと思いつく。
(いっつも、お前の好きにされるばっかだしよ。……たまには、俺が――)
静かな吐息を唇で掬い取るように顔を近づける。すれすれの際まで寄って、しばしためらう。水にもぐる前のように息を吸い。
――と。
「…ん……ッ、…んぅ……」
吸いきらぬうちに唇がふさがれた。予期せぬことに動転して逃れようとするが、いつの間にやら、後ろ首に手が回されてそれもかなわない。容赦なく、舌が歯列を割って入り込んでくる。舌は縦横に動きまわって、藍丸の意識をとろかしにかかる。息苦しさと、さざなみだつような快感が、また、頬に血を上らせる。
起き抜けに交わすには濃厚すぎる口づけに、何度か首を振って逃れようとすると、意外にもあっさりと解放された。
「……らんまる?」
吐息交じりで尋ねる声は、なぜだか少し驚いたような色がある。
口の端にこぼれた唾液をぬぐって、にらみ上げる。
「こ、…この、――き、狐の癖に狸寝入りなんかしやがって!」
「そんなことしちゃあいないよ。…夢うつつにうつらうつらしていただけさ。お前の夢を見ていたから、これも夢の続きだと思ってつい…」
いいながら、ひとつ小さくあくびをして、藍丸の胸元に甘えるように鼻面をすりよせる。
「つい、じゃねえよ。…ったく」
子ども扱いになだめられるとむかっ腹も立つが、こんな風に甘えられるのには、弱い。自分の夢を見ていた、という言葉に少しばかりいい気分になっていたのかもしれない。
藍丸の胴に軽く腕を回して、体を寄せてくる。静かな呼吸の気配が、藍丸にも眠気を運んでくるようだった。
「…まだ、寝てるか?」
「藍丸がおきるのなら、おきるよ…」
仰のいた胸の上に半ば乗りかかってきた白銀の頭を軽く撫でてやりながら尋ねると、まだ少しけだるそうな声が返ってくる。
「いいよ、寝てろよ。――夢の続きでも見てろ」
「どうせ続きなら、さっきの続きのほうがいいねえ…、ねえ、藍丸…?」
弧白が伏せていた顔を上げた。言う声も見上げてくる眸も、眠気とはまた別のとろみを帯びていて、不覚にも、どきりとする。
「おい、続きって…待て、……おい」
「待たない…」
含み笑いが後を引き取って、言葉ならぬ声が、室内を浸してゆく。
とある、雨の朝の話である。
後書き:
「お前にはまだこの楽しさがわからないんだねえ」と、本編では白さんに言われてしまった藍丸ですが、色恋に目覚めてからはどうなのかなあ、と思った次第。
FD版の「朝が不規則」もこんな感じでのらくらいちゃいちゃしてるんだろうなーと思ったり。それで階下ではきっと桃箒たちが「朝餉どうしよう」的にやきもきしているに違いないw