「サト、あんた間宮先生になんかヤバいことでもしたの?」
はじまりは、るみ子の一言だった。面白みのない風景が遠近感なく続いてゆく
田舎町の、そうでなくても高校という施設のなかで教師にどう思われているかが
どれほどの重要性を占めているのかるみ子にはすこし敏感になりすぎているところがあったから
昼休みの猥雑な教室の隅で聡子は半分笑ってどうしたのと返すだけだった。
「授業中、先生あんたのコトものすごい勢いでにらんでたんだよ!気付かなかったの?」
お世辞にもポニーテールとはいえない、というのもるみ子のかろうじて高く結われた猫毛は
たんぽぽの綿毛のように弾力感なくゆるやかにうねる、子豚のしっぽだった。
ぶーぶー。こっそり擬音をつけてみる。るみ子の動きに合わせてゆれるそれを
聡子は頬杖をついたままぼんやり眺めていた。
「間宮先生が?まさか。」
紙パックから突き出たストローを唇から離すことなく聡子はわざと間の抜けた声で返答した。
「まさか、って気付いてないの?最近間宮先生すごくサトのコト見てるよ。
こっちが怖くなるくらい。思い当たるふしないの?」
見に覚えのないことを詰問されても答えることは仕様のないことだったが、ホントウニナイノ?
るみ子の言葉を心のなかで反芻して、聡子はあるとすればあるような理由の一つをたぐりよせてみた。
だがそれは考えてみればほんとうに馬鹿げたことで、あの論理的な間宮がそれくらいのことで
一人の、片田舎の小娘を目の敵にするとは考えられる限りもっとも無益なことだった。
「私の勘違いかもしれないけどさ、目付けられたら厄介だから気をつけなね。」
「るみ子も、内職はほどほどにね。」
るみ子が授業中にたびたび付き合っている男の子へ手紙を書いているのを
サトはある意味でほほえましく思った。
タブローに塗りこめられた、無関心にも似た寛容を孕んだ冷徹な微笑み。
自分にそのような人がいないことを、どうとらえて好いのかわからない苛立ちが
圧力となってそのタブローを歪曲していく。
窓の外からはつい一月前まで新緑だった雑木林が繁茂していた。
グラウンドの向こうは広い雑木林になっていて、一部が高校の敷地内にも入り込んでいた。
その緑が、やがてグランドを覆ってサトの目に突き刺さるまでのびてくるような気がして
かすかな痛みが目の奥でよろめいた。
るみ子が所属する弓道部の練習場と部室もその雑木林の入り口にあたるところにあって、
建物の裏にエメラルド・グリーンのフェンスで学校と私有地の区別を頼りなく境界していた。
人気のない弓道場の陰は授業をさぼって獣のように戯れるカップルたちの巣穴になっていると
生徒たちとの間で噂になっていた。だがその噂を流している人間が稚拙な獣たち自身であり、
何か絶えがたい誘惑にかきたてられて小さな罪をわめきちらしているのではないかと聡子は考える。
木々に囲まれたあの空間には、人間をどうにかしてしまう咳き込むほどの
濃い瘴気が満ちていても不思議ではないように思われた。
木の根が空からの長い侵食をうけて剥き出しになり、走るといつもつまずくので
(雑木林の中の、遊歩道と名づけられた粗末な獣道は持久走のコースの一部に組み込まれていた)
聡子は敢えて自分から近づいてその瘴気にさらされる気にはならなかった。
知りすぎようとしないことにかけては、彼女は聡明だった。
「あー早くセッちゃん戻ってこないかなー。」
「無理よ、だいたいまだ子供生まれてないじゃない。生まれたら生まれたで何かと大変で
当分かかりきりだし生徒より自分の子供の方が可愛いでしょう。」
「だよねー。あの旦那さんとの子供だもんね。そりゃ可愛いさ。だけど間宮先生もさ、
もうちょっとこう冷血じゃなかったらな。せっかくかっこいい顔してるのに。」
間宮耕一は、産休をとった国語教師のかわりに臨時教員として四月からやってきた。
どこか、近県の都市からきたらしい。間宮はそれを話したかもしれなかったが、
体育館のざわめきのなかで挨拶はわめきたてる生徒たちのなかに埋もれてしまった。
何かわけがあるのかもしれなかったが、教員採用試験にパスすることが難関となった今では
場所を選んでいられないのかもしれないというのが生徒たちが最も考えそうなところで、
間宮に私的なことを問うことができる人間はいなかったし、
間宮自身がそれを許さないようなところがなくもなかった。
聡子自身が間宮の視線に気付いたのはそれから一週間たった頃で、
はじめは自分が夢見る乙女ちゃんにでもなってしまったのかと酔狂にも笑っていたが
だんだんにそれは確信の色を帯び、ついに彼女に判断をせまるほど鋭い切っ先を
彼女の咽元につきつけた。
−やっぱりあれがいけなかったのかしら。だとしたら先生はよほど追いつめられて余裕がないみたい。
これから血の呪印でも施す魔女の目で、聡子は親指の腹をかじりながら
二週間前に間宮が出した課題のことを思い出していた。
陶磁器のように青みを帯びた白皙の間宮は、確かあの日絶えず咳き込みながらプリントに
それぞれの想いを埋めていく生徒たちを監視していた。
黒斑眼鏡の奥の水晶が何を写してどんな色彩をまぎれこませていたのかは分からない。
現代文の授業で扱った鴎外の「舞姫」。その感想を、思ったことを何でも好いから
書くようにという間宮に、聡子は一番かわいそうなのは豊太郎であり、狂女となったエリスには
もはや日本男との恋の記憶など何一つ残らず違う世界へ云ってしまったから悩むこともない、
むしろ異国の愛人と貧しい生活を送るよりもずっと幸せではないのかというようなことを書いた。
それは彼女の本心だった。間宮は、冷血と恐れられるようにきっと規律を愛している人間だから
小娘の生意気な言い草が癪に障ったのだろう。
−それとも先生にもエリスがいたのかしら。
自分の出世のために女のひとりやふたり捨てていくことは当然のことであり、
その結果こんな辺鄙なところへ公僕として下ってきたのにいまさら恋も知らないような学生に
かわいそうなどという生ぬるい同情の手で、皺一つないスーツが象徴する彼の聖域、
サンクチュアリにあちこち触って汚されるのは間宮にとってはそれは許しがたい冒涜であり
即刻処罰しなければならない対象となり得る。
そんな想像力の糸を絡ませて方程式を組み立ててみると、間宮に見られていることは
むしろこちらが彼を分析にかけるという点で有利なようにも思え、
またはやく処刑にかけて欲しいとも願った。
退屈な毎日に手向けるのは、ほんの一束の悪の華で、それを間宮からむしりとるのも
面白いだろうと聡子は羊皮紙に血の墨でうやうやしく署名をするのだった。
−間宮先生に(探り)を入れてやろう。そして支配しているつもりのあの人を
私がひっくり返してやるんだわ。
その時先生はどんな顔をするかしら。あの高貴に切り込まれた眼は、どうやって私をうつすのかしら。
優等生にありがちな、何かと理由をつけて教師を蔑視しようとやっきになっている無益な
しかしそうせずにはいられない途方もない労力の足元で、雑木林の瘴気がくすぶっていた。
-250404