トリック


僕が目を覚ましたとき、もうフランソワーズは隣にいなかった。
明るい朝の光の中、暖かいベッド。だけど彼女がいない。

あれは…夢だったんだろうか。

だけど、この手に残る彼女のぬくもりは夢じゃないはず。
昨晩の甘いささやきも。

まだぼんやりとした頭をかかえてベッドに横たわったまま、今いる部屋をぐるりと見渡した。
自分の部屋とはがらりと違う、女性らしい好みの家具とカーテンが目に入る。
まず目で確かめて、それから毛布にもぐりこんで彼女の残り香を確かめた。

夢じゃ、ない。
確かにここはフランソワーズの部屋だ。


きのうは一晩中、彼女のぬくもりに包まれて、久しぶりにぐっすり朝まで眠った。
隣でフランソワーズは僕の手を握って、抱きしめてくれて。
優しくささやいてくれた。


大丈夫、私はここにいるから。
嫌なことは忘れてお眠りなさい。


そのささやきと、暖かい柔らかい肌に癒されて、僕はようやく穏やかな眠りに落ちた。


他のメンバーも痛みを抱えて眠れぬ夜を過ごすことがあるだろう。
だけど…ごめん。これは、このぬくもりは今の僕の特権だから。

昨晩迷惑をかけただろう仲間たちの顔を思い浮かべ、心の中で謝った。

もうすこしだけわがままを許してもらって、この穏やかな空気に身をゆだねようと寝返りをうったとき。
すっとドアが開いた。
僕がまだ寝ていると思っていたのだろう、静かに部屋の主が入ってくる。
あわてて寝たふりをしようとして間に合わなかった。その青い眼と目があってしまった。

(しまった…!)

今更取り繕ってももう遅い。


「あら、目を覚ましてたの?イワン」
「…ウン」
「起きる?もう少し寝てる?」
「オナカヘッタ…起キル」

イワンは毛布から抜け出るとふわりと宙に浮かんで、フランソワーズの目線と同じ高さに移動した。
ちょっと照れくさそうに、視線を合わせないで言う。

「昨日ハゴメン。モウ大丈夫」
そんな殊勝なイワンを、フランソワーズは意外に思いながらもにっこりと笑いかける。
「あら、何も気にすることないじゃないの」
「ダッテ。じょーノ留守ノ間ニ、君ノべっどデ一緒に寝タナンテバレタラサ。じょーニ首シメラレカネナイ」
「変なこと言わないの」
ぺち、と軽くおしりを叩かれ、イワンは肩をすくめる。
「冗談ダヨ」



たまに仕事を貰っている出版社からの依頼で、ジョーがとある作家の海外取材に同行することになった。
何でもかなりの変わった人物だとかで、彼の気まぐれに振りまわされても精神的にも体力的にも大丈夫そうなスタッフ、ということでジョーに白羽の矢が立ったらしい。

かなりの僻地を移動しながらの取材になりそうなので、現地からの連絡手段はほぼ無いと思っていい。
だけど多分一ヶ月位で終わるから、心配しないで。

そう言い残して旅立ってからすでに一ヶ月以上。
一体どんなところでどんな取材をしているのやら。
メンテナンスのために来日してからその話を聞いたピュンマですら、
「ジョーも仕事を選べばいいのに」
思わずそうもらしたほど。
そんな状況で、未だジョーの帰国の目処は立たない。

そして今日、彼は誕生日をむかえる。



「冗談も笑えないのがあるのよ」
「ワカッタヨ、ゴメン」

ふとイワンの視線が動き、フランソワーズもつられて同じ方向に眼をやる。
その先には部屋の隅に置かれた大きなスーツケース。
3日後のための荷造りがすでに終わっている。

「…ナンカ、アルダケノ荷物ヲ全部マトメタ。ッテカンジダヨネ?」
「そんなに荷物大きいかしら?前に使っていたものとくらべても、そんなに大きくはないはずだけど」

フランソワーズは少し首を傾げ、そんな風に見えるのかな、とぽつりつぶやいた。
その表情を見て、イワンはあえて誰も口にできなかったことに切りこんでみる。

「マサカト思ウケド。ジョーガ帰ッテコナイカラッテ、愛想ツカシタ?」
「まさか。今回は仕事なんだし、仕方ないじゃない。それに私の出発日はかなり前から決まっていたことでしょう?」

声を出さずに笑うと、フランソワーズはふわふわ浮かんでいたイワンを抱き寄せた。

「心配しなくても大丈夫よ。フランスにしばらく戻るけど、またすぐ帰ってくるわ。だってここが私の家だもの」
「…ウン。ソウダネ」

イワンは頭をフランソワーズの胸にゆだねる。
フランソワーズもイワンを抱きしめる。

彼女のゆったりとした鼓動が伝わる。
暖かい。遥か記憶のかなたの、かすかに覚えているぬくもりを思い出す。

「ふふ、甘えんぼさん」
「じょーホドジャナイヨ」
「…あなたどんどん口が悪くなるわねぇ。誰の影響なの?」

君と出会った頃からこんな感じだよ。
そう言っても多分彼女は納得しないような気がして、イワンは黙っていた。

イワンが答えないので、フランソワーズもあえて問い詰めることはせず、別の質問に切り替えた。

「どうするイワン。ミルクここで飲む?下に降りる?」
「降リル。先ニ行ッテル」

ぱっ、と音がしそうな勢いでイワンはフランソワーズの腕の中から姿を消した。
あっけにとられたフランソワーズは思わず笑ってしまう。

「ちょっと甘えてみたくらいで、何もそんなに照れなくてもいいのに」

くすくす笑いながら、階段を降りる。

襟もとに光る、サファイアのペンダントが歩くたびに揺れる。
彼女の瞳と同じ深い青が日の光にきらめく。

それを自分の誕生日にくれた男は、今遠くにいる。
彼の誕生日には、そのお返しのプレゼントをあげようと、何をあげたら喜んでもらえるのかを、ずっと考えていたのに。
とうとう、当日に本人に手渡しすることは叶わないことが確定してしまった。

自分の部屋に置いてある包みを思い浮かべ、それをどうしようかと思いながらフランソワーズはゆっくりと階段を降りた。
眠くて、少し頭がぼんやりする。
イワンのミルクを作るためにキッチンへ向かおうとしたところで、同じ方向へ向かおうとしていたピュンマとばったり顔をあわせた。

「あ、おはよう、フランソワーズ。相変わらず早起きだねえ」
「おはよう。でももうお昼よ」
「え?もうそんな時間?」

そんな風に本気で慌てているピュンマはめったに見られない。フランソワーズは思わず笑ってしまい、ピュンマも苦笑いで返す。

「昨日はおつかれさま。あのあと寝られた?」
「うん。昨夜のイワン、相当ご機嫌ななめだったみたいだなぁ」
「確かに最近はぐずりがちだったけど。でもあんなに夜泣きするのなんて、何年ぶりってくらいだったの。
あなた大丈夫?」
「僕はついさっきまで寝てたんだから大丈夫。一番大変だったのは君じゃないか」
「うん、実はけっこう眠いかな」

フランソワーズはちょっと腫れ気味のまぶたをこする。
多少寝ないでいるのはまったく平気だけれど、昨日のイワンの夜泣きは相当のものだったのだ。

「あ、そうだ。そこで博士に頼まれたから今からコーヒー淹れるんだけど、君も飲む?」
「ありがとう、飲みたい!」
「OK」

ピュンマは手際良くコーヒーを淹れ、
「じゃ先に博士のところに持っていくから、ちょっと待ってて」
そうフランソワーズに声をかける。
「イワンにミルクあげるから、リビングにいるわ」
「じゃ、あとでそっちに持っていけば良いね」

フランソワーズも慣れた手つきでミルクを作って温度を確かめる。
「お待たせイワン、ミルクできたわ」
「ウン」
フランソワーズに抱き上げられて、哺乳瓶が口に当たるやいなやイワンはすぐにミルクを飲みはじめた。
その勢いに驚いて、フランソワーズは思わずたしなめるように言ってしまう。
「ちょっと、少し落着いて飲んだら?」
(ダッテオナカ減ッテルンダモノ)

ほどなくして、博士のところからピュンマが戻ってきた。
コーヒーカップを二つ、テーブルに置く。
「お待たせ。君はミルクと砂糖使うんだっけ?」
「わあいい匂い、ありがとう。普段はミルクは入れるけど、今日はそのままで飲むわ」
「了解」
ピュンマは、マグカップにたっぷりと入ったブラックコーヒーをフランソワ―ズの前に置いた。
自分の分のコーヒーを手に、向かい側の椅子に腰掛ける。

すごい勢いでミルクを飲んでいるイワンを見て、ピュンマはカップ片手に驚いている。
「よっぽどおなかが減ってたみたいだね」
「普段より多めにしたけど…もしかして足りないかな?」
「やっぱり一晩泣きつづけるのって、すごいエネルギー使うんだろうね」
ピュンマはしみじみとそんなことを言う。
「もしかして、イワンは君がフランスに帰っちゃうんで寂しいんじゃないか?」
「あら、そんなこと今さら。大丈夫よね?」

イワンは答えない。
一心にミルクを飲みつづけている。

ふとカレンダーが目に入り、フランソワーズはぼんやりと思う。

今日がジョーの誕生日。3日後には、自分はフランスへ戻る。
それは彼の出発前から決まっていたスケジュール。
あの人もちゃんと覚えていてくれたはずなのに。

仕方ない状況、なのかもしれないけれど。

ジョー、今ごろどうしているのかな。
元気でいるといいけれど。

―――この遠くまで見られる眼で、見られるものなら。
だけど本当に見たいものは見せてはくれない。

会いたい。せめて、自分がフランスに帰る前に帰ってきてほしい。


「フランソワーズ?」

腕の中のイワンがもがき、心配そうなピュンマの声が耳に入って我にかえった。
「大丈夫かい?眠かったら昼寝しなよ」
「え、ううん。ちょっとぼんやりしちゃっただけ」
ごめんなさい、なんでもない。そう笑ってごまかす。
「ふらんそわーず、ゴチソウサマ。みるく無クナッタ」
「あ、おかわりする?」
「モウオナカ一杯」
ミルクを飲みきってげっぷをしてしまうと、イワンは落ちついたようだった。
「ユリカゴニ戻ルネ」
自分でまたふわりと浮かび、ゆりかごに戻った。

また少しぼんやりしているフランソワーズを見て、ピュンマはいったん何か言いかけて止めた。
かわりにカップを指して言う。
「フランソワーズ、コーヒー冷めちゃうよ」
「あ、そうね。いただきます」

ゆっくりマグカップを口に運ぶ。
少し冷めているけれど、おいしい。
おいしいコーヒーを味わって、沈みかけたフランソワーズの気持ちもすっきりする。

「ピュンマ、ごちそうさま。おいしかった」
「どういたしまして」
「じゃ、少し片付けしようかな」

男所帯になると、とたんにここは無法地帯になるんだもの。
そう言ってキッチンに入っていったかと思うと、フランソワーズはひょっこり顔をのぞかせた。
「ねえピュンマ。ここに置いてあった箱知らない?」
「え、そんなものあったっけ?ごめん気づかなかった」
「古タオルを入れてあったの。掃除するのに雑巾が全然なくて」
「別の場所に置いたってことは?」
「ううん、昨日はちゃんとあったし…誰かが間違って持っていっちゃうなんてことないと思うんだけど」

落ちつかない様子であちこちを探しているフランソワーズの姿を、ピュンマは前にどこかで見たような気がした。

いつだっけ?
記憶をたどっていく。

フランソワーズは箱を探して思い当たる場所を見て回っている。
棚の下のほうを探してみたり、あちこちの隙間をのぞいてみたり。

「あ!」

思い出した。
あのときはフランソワーズじゃなかったけれど。

「まさか…イワン、君か?」

ピュンマはくるっと振りかえって、背後にいたイワンを見る。
それが心外だったのかイワンは頬をぷうと膨らませて反論した。

「僕ジャナイヨ」

意外な犯人指摘にフランソワーズは驚いてピュンマを見る。

「え?イワンがどうして?」
「…いや、前にイワンが時々ものを隠すいたずらをしてたからさ。今度ももしかしたらって」
「モウ余計ナコトハシナイヨ、ッテ じょート約束シタカラサ」

それを聞いてフランソワーズが振りかえった。

「イワン、ジョーに何かしたの?」

その声の調子にほんの少しの怒りを感じて、うっ、とつまったイワンのかわりにピュンマが言う。

「あの話、僕がフランソワーズに話していいかい?」
「…ウン」

「イワンが何をしたの?」

もう一度訊ねるフランソワーズに、ピュンマは思いだし笑いをこらえつつ、話をはじめた。

「君は知らないことなんだけどさ。イワンがね…」



この前の1月24日、フランソワーズの誕生日。もうすっかり外が暗くなったころのこと。

青い顔をしたジョーが、あちこちをきょろきょろと見まわしながら家の中を歩き回っている。
それに気づいたピュンマが声をかけた。

「どうしたんだい?探し物?」
「う、うん。あのさ、これくらいの紙袋、見かけなかった?」
ジョーは両手で大きさを示してみせる。

「そのくらいの?けっこう小さいんだね。…いや、見なかったなあ。色は?」
「白っぽくて割とつやつやしてる、中に細長い箱が入ってて…」

「フランソワーズへのプレゼントだろ?」

ずばりと言ったピュンマに、ジョーの動きが止まる。

「そうなんだ」
「それが、見当たらないのかい?」
「……そうなんだ」
「大変じゃないか」
「今から買いなおしに行く時間もないし」

人に話して落ちつくどころか、さらに焦りを感じ出したらしい。

「おかしいんだ、確かに部屋の机の上に置いておいたはずなのに、さっき見たらどこにもなくて…」

困った、ないはずはないのに。
そう言ってうろたえるジョーと、ピュンマが目が合った瞬間、二人同時に思い当たることがあった。

この前もこんな風にものが無くなって、探しまわったとき…

「あ!」

即刻2階に駆け上がる。

先を走るジョーは目指すドアを乱暴に開け、叫んだ。


「イワン!!!」


「ン?」

ふわふわとゆりかごごと空中に浮かんでいたイワンは二人の目の前まで降りてきた。

「ナニ?」

その顔に浮かんだ表情を見て、ジョーは確信した。
「何じゃないっ!僕のプレゼントはどこへやったんだっ!!!」
顔色ひとつ変えずに、イワンは言い放った。

「ふらんそわーずノ部屋ノ、枕ノ下」



たっぷり10秒たって、ジョーが声を発した。

「え?」

しれっとしてイワンが言う。
「演出ダヨ。ダッテ大切ナぷれぜんとナンダロウ、じょー?」

あっけにとられて何も言えない二人を前に、イワンは続けた。
「オトナノヤリカタデハ、ソウイウ渡シカタヲスルッテ聞イタカラサ。気ヲキカセテ先ニせってぃんぐシテオイタ」

「…あ〜の〜なぁ、イワン!!!一体どこでそういうことを聞きかじってきたんだ!?」

ぶるぶると怒りのあまり震えながらジョーが叫ぶ。
その姿を見て、思わず笑い出しながら
「何、ジョー。今年は婚約指輪でも買ったのかい?」
ピュンマがからかう。

「ち・が・うって!」
一言づつ区切ってジョーが言う。

「イワン、ここへ戻せ!早く!!!」
「ワカッタヨ」
ちぇ、とでも言いそうな表情であっさりイワンはジョーの手の中にプレゼントを戻した。
確かに自分の用意したものだと確認して、ジョーはイワンに詰め寄った。
「こういう余計なことは二度とするな!いいなイワン!!!」
「…ワカッタ」
答えを聞くやいなや、バタン!とものすごい音を立ててドアを閉め、ジョーが出ていった。

ああ、ジョーは本気で怒っている。
しかも赤ん坊相手に。
さらにその原因がからかわれたからって。

あっけにとられたピュンマは、床まで降りてきていたイワンを見る。いたずらを叱られた子供そのものの姿がそこにあった。
「イワン、君もジョーをああまで怒らせるなんて。けっこうすごいことやったね」
「…気ヲキカセタツモリ、ダッタンダケドナ」
「でも、ああいうのは余計なお世話って言うんだよ。覚えといたほうがいい」
「ワカッタ」



「それ、ジョーからの今年の誕生日プレゼントだろう?」

彼女の襟元に光る、瞳の色と同じサファイアのペンダント。

「それにはそんなエピソードが隠されていたんだよ。必死で取り返した彼の気持ちも汲んでやってくれ」
それを聞いて、少しだけフランソワーズが笑みを浮かべる。
「あのあと、ジョーもイワン相手に切れるなんて大人気なかったってへこんじゃうし。落ち込んでるジョーを見てグレートが景気付けだとか言って酒飲まそうとするし、それ見付けて大人が怒るしでちょっと大変だったんだよ」

ピュンマは思い出し笑いをしながら言う。

「だけどそのプレゼント、ちゃんとジョーが手渡したんだろ?いろいろ考えてたみたいだったのを、イワンがぶち壊しそうになったからって切れちゃったみたいでさ」
「これ?普通に渡されたわよ?」
「枕の下から取り出したりはしなかったわけだ」
「そういう冗談はやめて。だいたいそういうのは指輪じゃないの?」

そんな話はないわ、私達には。
フランソワーズは聞き取れないくらいの声でつぶやく。

(君たちはそろそろ、そういうことを考えてもいい時期だと思うんだけどね)

内心そう思っても、ピュンマは口には出さない。
それは彼ら自身で決めることで、まわりがとやかく言う事じゃないと思うから。

だけど、もしも二人がうまくいくなら。それは皆にとっても喜ばしいこと。

(だからジョーには、もうちょっとはっきりしてほしいんだけどね)
心の中だけで、帰ってこない風来坊を小突き、ピュンマは椅子から立ちあがった。

「さて、イワンのいたずらじゃないってことがわかったら、雑巾探しを再開しますか」
「このあたりにないとすると、やっぱり誰かが片付けちゃったのかしら?」
「うーん、とりあえずはこの辺をもう一回見てまわるか」

リビングに無いってことは、いったん部屋の外に出てみるか。
そう思ってピュンマがドアを開けたとたん、がつっと何かに当たった。

さっきまでは何も無かったはずの廊下に転がる箱。

「あったあ!」

背後のイワンは気づいているのかいないのか、知らん顔をしている。

「…やっぱり、イワンが寝ぼけてテレキネシスで動かしたとしか思えないよね」
「でもこれくらいのいたずらなら実害は少ないから」

二人で顔を見合わせて思わず苦笑する。

「これは不問にしましょう」


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