| 昨夜降り積もった雪は、翌日の夕刻になってもかなり残っていた。 すっかり暗くなった頃に帰宅してドアを開けると、耳慣れないピアノの音が聞こえてきた。 「ただいま…？」 人の気配があるリビングをのぞいてみると、初めてみる古そうなピアノとその前に座る上機嫌なアルベルトがいた。 そして彼を囲むようにして、グレート、張大人、フランソワーズが立っている。 リビングに入ってきた僕に気づくと、フランソワーズはにっこりと微笑んだ。 「おかえりなさい」 「このピアノ、一体どうしたんだい」 滅多なことでは「無駄な買い物」はしない主義のアルベルトが、店先で一目で気に入った中古のピアノだという。 それでもここしばらく迷いに迷って、ようやく買ったのだそうだ。 グレートの説明によると、なかなかの掘り出し物だったらしい。 「さっき届いたばかりアルよ」 「それで今は年末特別コンサート開催中というわけだ」 「アルベルトが思い出しながらいろいろ弾いてくれているの」 「へえ、すごいな」 今まで知らなかった仲間の隠れた才能に驚きを隠せなかった。 やや興奮気味の仲間達に苦笑しつつ、アルベルトがピアノに向き直った。 「次がフランソワーズのリクエストだな」 「季節はずれな曲でごめんなさいね」 アルベルトはゆったりと弾き始めた。 （あ） とても懐かしい曲。 ほんの子供の頃、ピアノを奏でる優しい人の背中を見ながら習った歌。 ああ、そうだ。もうこの世にいない、二度と会えない人達と歌った 「O Holy Night」。 それを思い出したとたん、自分でも驚いたことに涙がにじんできた。 「ごめん、ちょっと荷物を部屋においてくる」 皆に気づかる前に言い訳をしてリビングを抜け出した。 まさか、施設にいた子どもの当時を思い出して泣いてしまうとは。 あまりに意外な自分の反応に苦笑しつつ、気分が落ち着いてもまだ皆のところへ戻る気にはなかなかなれなかった。 だからこっそりと外へ逃げ出して、もうしばらく一人でいることにした。 にぎやかなドアの外にそっと出てしまえば、目の前に広がるのはただ静かで白い、夜の世界。 見上げれば星空がひろがっている。 冷たい風が気持ち良い。 ふと、口をついて出るのはさっき、アルベルトが弾いてくれた懐かしい歌。 「きよらにほしすむこよい…」 「ジョーもこの歌好きなの？」 背後から声が聞こえ、驚いて振り返った。 「フランソワーズ！」 「ごめんなさい、驚かせちゃったみたいね」 後ろから来た彼女の気配に気づかなかったなんて、そんなにぼおっとしていたんだろうか。 「君は好きなの？」 「ええ。「ジゼル」って、私の大好きなバレエ作品なんだけれど、それと同じ作曲者なの」 だから余計に特別な曲なのかしらね。 微笑んで、そして一瞬ためらったあと 「あの、ジョー、大丈夫？哀しいことを思い出させてしまったのかしら」 「いや、大丈夫だよ。ちょっと昔のことを思い出しただけ」 「そう」 やはり彼女の目はごまかせなかったらしい。 なんとなく気まずい空気が流れ、お互い黙りこんだ。 先に口をひらいたのは、彼女のほうだった。 「きれいね」 「え？」 「雪が真っ白に積もっていて、でも夜空が晴れていて、星がきれいに見えているでしょう？」 「あ、ああそうだね」 「歌のとおりに星澄む夜ね」 どう返して良いかわからず、あいまいにうなずいた。 それをどうとったのか。 「あのね」 彼女が切り出した。 「辛い思い出は忘れてしまう、ってこともできるのよ。 だけどどんなに辛くても忘れたくない思い出もあるの。 だから、覚えていましょう。もう取り戻せない昔の自分のことを。 私達が知っていた、もういない人のことも」 穏やかな、でもきっぱりとした口調で彼女は言いきった。 きっと彼女にもこの曲にまつわる「昔」があったのだろう。 そうだね。 僕たちが人間であった頃のさまざまな記憶。 その、とるにたらない存在だった、でもとても大切な"人"の思い出を。 覚えておこう。僕たちが人として生きている間は。 そのとき僕はどんな表情をして彼女を見つめていたのだろう。 フランソワ―ズはちょっと赤くなって 「ごめんなさい、えらそうに余計なこと言っちゃったわね。 ねえジョー、暖かいお茶を飲まない？あなたすっかり冷えきってしまっているわ」 そっと手をとり、今まで望んでも得られなかった「家族」のもとへと導いてくれるあたたかいぬくもり。 今の自分に至るまでに失ったものは大きいけれど、その代わりに得たものもそれ以上に大きい。 二度とは失いたくない、大切な仲間達。 そして、ここで手に入れたこのささやかな平穏が、今だけのひとときでないことを願うよ。 このきよらかな星の輝く夜に。 |