耳元ですごい勢いで風が鳴っている。とても目を開けていられない。身体中の骨がきしきしと音を立て、耳鳴りがひどい。半ば無意識に急いでレベルを調整する。



フランソワーズはぎゅっと目を閉じ、必死でジェットの首に掴まっていた。

と、急に風の音が静かになる。

「おい、しがみついてないで、目を開けてみな」

おそるおそる目を開いてジェットを見上げると、陽気な光をたたえた薄い水色の瞳がフランソワーズをのぞきこんでいる。

「そう、いい子だ。そのままゆっくり下を見てみろよ」

「えっ・・! いっ、いやよ!!」

「大丈夫。オレを信じろって。ちゃんと抱えててやるから」

「・・・・・・・・」



ジェットは空のある一点にとどまっている。

風が強いので多少のぐらつきはあるが、それでも自分を抱いたジェットの体勢には安定感がある。

ゆっくり、本当にゆっくりと、フランソワーズは首をひねって下を見下ろした。





「―――――――!!」













それは――まるでおとぎ話の世界。はるかに広がる海は一面オレンジ色に染まり、今日最後のきらめきを放っている。遠くの地平線に今しも陽が沈もうとしていた。



「きれい・・・!」

吐息のような呟きを漏らし、フランソワーズは目を瞠ってその美しい世界に見入った。

眼下に広がる街並みはまるで箱庭のよう。細いオレンジ色のリボンが何本もうねっている。あんなにたくさん川があったのね・・・・。

今までドルフィンジュニアの中からはこれと似た景色を何度か見たことがあったが、実際に空気を感じ、風の音を聞いて見るこの風景はそれとはまったく違う。



日の入りとともに橙から薔薇色へと変わっていく地上の風景を、彼女は飽くことなく眺めている。









しばらくしてジェットが口を開いた。

「寒くないか?」

「・・・寒いけど・・・そんなの気にならないわ・・・」



フランソワーズが、おとぎの世界に目を奪われたまま夢見るように答える。

そんな彼女を冷気から守るように、ジェットは抱いている腕に少し力を込めた。



「―――研究所が見えるかい?」

「・・・えっ? あ、あったわ! うふふ、ジョーが心配そうに上を見上げてるわ! 見えっこないのに・・・全然違うところ見てる」

くすくす笑う。





やっと笑ったな・・・。



ジェットは他の誰にも見せたことのない、優しいまなざしで彼女を見つめる。

フランソワーズはそんな彼に気づかず小さな微笑を口元に残したまま、ジェットには見えない、彼女の大切な場所をじっと見下ろしている。

「他のみんなはもう家の中に入ったみたいね。ジョーだけ、ひとりぼっち・・・」



「・・・アイツも連れてきたことがあるんだぜ」

「えっ?」

「やっぱり何かで落ち込んでいた時だな。―――アイツもオマエも、いろんなこと考え過ぎるんだよ。感じやすいところも似てるしな・・・・・・」

「ジェット・・・」



「オレは・・・こうして飛んでるのが結構好きなんだ。気持ちいいだろう? 世界を見下ろすのもさ。昔は・・・そんな風に思う自分が許せなかった。サイボーグにされたことを認めちまったようで・・・。けど、何度も空を飛んでるうちに・・・やっぱ気持ちいいじゃねえか! オレは、好きなんだ。風を切って飛んで、高いところからちっぽけな人間たちを見下ろすのが―――。自分に与えられた身体だ。オレが自由に楽しんでどこが悪い。誰に迷惑かけるわけじゃなし・・・・」



彼の胸に顔を伏せ、フランソワーズはじっとジェットの言葉を聞いている。



「で、難しく考えるのは止めた。こういう景色を見てたら、そんなことどうでも良くなっちまったしな。だからオマエもさ、・・・・え〜っと・・・・なんつーか・・・・・ほら・・・・・・」





口ごもるジェットを、フランソワーズがくすりと笑った。

「・・・・・・・ジェットがジェットなわけ、何となくわかったわ」

「なんだよ、そりゃあ・・・・」

「ふふっ。・・・・・・・あの・・・・ごめんなさい」

ジェットの腕の中の彼女が長い睫毛を伏せた。

「あん?」

「辛いのは・・・・私だけじゃないのに。自分だけが辛い思いしてるようなこと言って、私・・・・・・」

ジェットはああ、というように軽く肩をすくめるそぶりをする。

「気にするなよ。実際・・・・オマエのはやっぱりキツイと思うぜ」

「でも・・・・・・」

「それにみんなはどうか知らねえが、オレはこの力、別に嫌じゃねえしな、ホントのところ」

「ジェットったらそんなこと・・・・!」

「嘘じゃねえよ。ああ、そうだグレートのヤツだって見ろ? ちゃっかりあの能力使って舞台で笑い取ったりしてるじゃねえか。そうさ、あんなヤツには一度ガツンと言ってやった方がいいんだって」

「ジェット・・・・・」

「ま、またしんどくなったら気分転換にいつでも連れてきてやるよ。夜もすげえ綺麗なんだぜ」

「・・・・・・・・うん」



フランソワーズの頬にようやくまた笑みが戻ってきた。

「・・・ねえ」

しっかりと自分を抱きかかえてくれているジェットを見上げる。

「ジョーもやっぱり連れてきてもらって喜んだ?」

「まあな。けどアイツん時はいきなり成層圏まで引っ張ってったから、4割がた怒ってたかな」

一瞬蒼い瞳を見開いて、それから愉快そうに笑い出したフランソワーズにジェットはかすかな胸の痛みを覚える。が、すぐに彼はニヤリとして言った。



「・・・・・・おい。アイツまだいるのか?」

「え・・・?ジョー?」

笑いながら地上に目を戻したフランソワーズが、ええ、まだこっちを見上げてる、と答えると、すかさずいつもの陽気な声でからかう。

「バッカだなぁ、アイツは・・・・・・。フランソワーズ、あんなバカ、さっさと見切りつけちまえ!」

「ひどい・・・! ジョーはバカじゃないわ・・・! それに、私は別に・・・・!!」

冷気に染まった頬をますます赤くして小さく抗議するフランソワーズをアッハッハと笑い飛ばし、ジェットはゆっくりと旋回を始めた。

「さて、帰るとするか。凍えちまっただろ。オレは腹が減った」

「そうね、みんなにも心配かけたし・・・・やつ当たりしちゃったグレートにも謝らなきゃね」



フランソワーズは少々残念そうに言うと、もういちど目に焼きつけるように、今は透明な紫色に変わりつつある世界を振り返った。








ゆっくりと旋回しながら降りてくる二人を、ジョーはハラハラして見ていた。

二人が空の彼方に飛んでいってしまってから随分長い時間がたったように感じる。実際はほんの15分ほどのことだったのだが。



―――ジェットのヤツ、一体何考えてるんだ・・・・! 防護服も着ないであんなところまで・・・・フランソワーズは僕や君とは違うんだぞ!



唇を噛み締めイライラと彼を睨みつける。

フランソワーズのことが心配でずっと待っていたというのに、なんだか二人とも楽しそうだ。





「ほい、着陸〜〜」

フランソワーズを横抱きにしたジェットが、いつもよりかなり丁寧に着地する。

「フランソワーズ・・・!」

駆け寄ろうとしたジョーは思わず足を止めた。

フランソワーズがジェットの腕から離れる間際、彼の肩に手をかけ自分に引き寄せたかと思うと、ふわりとその頬にキスしたのだ。

「―――ありがとう、ジェット」



目を丸くし、ご自慢の鼻の先まで見事に赤く染めたジェットはそれでも、固まったままのジョーに「フフン」と鼻で笑って見せることは忘れなかった。

「ほらよ! お姫様のご機嫌は直ったぜ! あとはよろしくな」









得意げなジェットと憮然とした面持ちのジョーを、家の中からアルベルトが眺めていた。

やれやれ、と一人肩をすくめる。



―――しっかりしろよ、ジョー。うかうかしてるとホントに取られちまうぞ。





だが、少し前とはうってかわった笑顔でジョーに駆け寄るフランソワーズをみて、彼もまたホッと安堵のため息をもらす。



―――まあ、とにかく彼女が元気になって良かった・・・。今回はオレもジョーもジェットに1本取られちまったってわけか・・・・・と?



ジョーが、そばにやって来たフランソワーズの腕をぐいと引き寄せている。

そのまま自分の胸にしっかりと抱き締め、彼女に何か囁いているようだ。フランソワーズは身じろぎもせずじっと彼の胸に顔を伏せている。



・・・・・遅いんだよ、お前は。最初っからそうしてやればいいのに。

お前だけなんだぞ、何も言わなくても、それだけで彼女を救ってやれるのは・・・・・・・・。





心の中でひとりごち、彼は淡い夕闇に浮かび上がる恋人たちのシルエットに遠慮するかのように、静かにブラインドを閉じた。








その夜、ジョーと二人で浜辺を散歩していたフランソワーズが彼に問いかけた。

「ジョーは・・・・ふだん加速装置があって得したな、って思うことある?」

「得? そうだな・・・・・」

いきなりの質問にとまどいながらも、ジョーは真面目に考え込んだ。



「う〜ん・・・この前みたいに急に何かを買ってきてくれ、って大人に頼まれたたときは便利かな。あとは・・・・ああ、ピクニックに行ったとき飲み物を忘れたよね、あのときもすぐに取って返してみんなに怒られなくて済んだし・・・他には」



フランソワーズは吹き出した。

「やだ、ジョーったら! それって得って言うのかしら」

ころころと響く笑い声に、ジョーは憤慨した顔をしてみせる。

「笑うなよ! 君が変なこと聞くから・・・・・」

「だって・・・・・・」

「普段はね、そんなもんなんだよ。―――ああ、でも以前君がボンヤリして車に轢かれそうになったときは心底加速装置に感謝したね。君もだろ?」

皮肉っぽいジョーの言葉に、フランソワーズは肩をすくめる。

「そうでした・・・・ゴメンなさい」

おどけてちょっぴり舌を出してみせる。



そんな彼女を見つめるジョーの瞳から悪戯な光が消え、かわりに浮かんできた深く包み込むようなまなざしが彼女に注がれる。細い月が海の向こうに沈もうとしていた。





「―――辛い・・・ね」

「・・・・・・・・・・・」

フランソワーズは瞳を伏せ、ひっそりと微笑んだ。

「ジョー・・・・」

「うん・・・?」

「私の能力・・・・・役に立ってるわよね」



ジョーはじっと彼女を見つめ、深く頷いた。

「―――うん。とても」

「・・・今日ね、ジェットと一緒に空のずうっと高いところまで行って・・・・いつも彼が見ている景色を見せてもらって・・・・」

「・・・・・・うん」

「夢みたいに綺麗だったんだけど、そこで・・・・あなたの姿を探したの」

「・・・・・・・・」

「すぐに見えたわ。心配そうに空を見上げてるあなたが」

「二人して笑ってたんだろ」

ふふ、と笑ってフランソワーズは沈んでゆく月に目を向けた。

「見えて、安心したわ。嬉しかった」

「・・・・・・・・・」

「ジェット・・・すげえだろ、なんていばってたけど・・・私、彼よりももっと遠く、もっと綺麗なものまで見てきちゃった」

「うん」

「いやな・・・ことばかりじゃないのよね」

「・・・・・・・・・」



フランソワーズは足元でさらさらと崩れる砂に目を落とした。低い・・・だがしっかりした声で言う。

「私・・・・もっと強くなる。ならなきゃね」



ジョーが彼女の肩をそっと抱いた。

「・・・・・ごめん」

「ジョー?」

フランソワーズは首を傾げて彼を見上げた。

「これからも、僕らは君の眼と耳に頼らなきゃいけない。どんなにそれで君が傷ついても―――」

「ジョー」

小さく首を振って何か言いかけた彼女をジョーが胸に引き寄せる。

驚いて身をすくませたフランソワーズの髪に頬を寄せ、囁いた。

「今のままで十分だよ。君はいつも一生懸命だ。そうだろ?」

フランソワーズの身体からふっと力が抜け、柔らかな重みがジョーにかかった。

「だから・・・無理はしないで。辛いときにはちゃんと僕に言って。壊れるまで我慢してちゃ駄目だよ」

「・・・・・・うん」

フランソワーズは彼の胸に顔を寄せたまま、静かに瞳を閉じた。

ジョーの優しさが、心にまっすぐ流れ込んでくる。

そんな彼女の甘い香りのする髪に唇を寄せながら、ジョーは言った。

「僕は・・・・君の辛さをわかってあげられなかったし、空にも連れてってやれないけど」

「ジョー」

フランソワーズが思わず彼を見上げる。



彼は、そんな彼女に静かな微笑を向けた。

「だけど・・・ちゃんと受け止める。君が、何を見ても、何を聞いても」

「・・・・・・・・」

「だから・・・僕には隠さないで。君の見たもの、聞こえたもの、感じたもの。全部そのまま伝えていい。君のその―――」

ジョーがそっと身体を離し、彼女の顔を覗きこんだ。

「水晶の瞳に映ったものすべて、君と一緒に僕も見つめる」

 



月が海に姿を消した。

それを合図にしたように、音もなくフランソワーズの頬に水晶のかけらが零れ落ちる。

わずかに色を濃くした闇の中、光るはずもないのにきらめくその雫を、ジョーがそっと受け止めた。

指で、唇で、全身で受け止めようと、彼は彼女を抱き締める。









彼にすべてを預け、ゆるやかに心が溶かされていくのを感じながら、しかしフランソワーズは思っていた。



強くなろうと。

何を見ても何を聴いても、けして怯むことなく。

もっと強くなって、この優しい人の、優しい彼らの盾になろうと。







彼女はゆっくりと彼の背に腕をまわした。











END


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