日本の雨季はひたすら蒸す。 故郷のフランスとは大違いだ。 もう1週間も、しとしとと鬱陶しく降り続いている雨。 窓の外をながめながら、フランソワーズは思わず小さくため息をついた。 すると、後ろから 「どうかしたの?」 と声がした。 それで我にかえった。 ―――やっちゃった。 まさか、彼が反応するとは思わなかった。 どうも、朝からジョーの機嫌が悪い。 朝顔を合わせて以降、声をかけても生返事ばかり。 昼食後に博士に呼ばれると黙ったまま席を立っていった。 リビングに戻ってきたと思えば、どっかり腰をおろしてぼんやり雑誌を眺めている。 こっそり様子をうかがっていると、さっきからページはめくられていない。 今回割と長く日本にいた他のメンバーたちは、昨日までに帰国してしまっていた。 ここのところ大勢でにぎやかにやっていたから、急に寂しくなってしまったのは事実。 フランソワーズ自身も、博士からもそれは感じている。 そのせいかしら?だったら仕方がないのかも。 そうは思っても、今のこの季節、ほとんど口をきかない不機嫌男もとても鬱陶しい。 ずっとあそこに座ったままでよく退屈しないわね。 フランソワーズはあきれ半分、感心半分でじっと座ったままのジョーの姿を見やった。 …彼がああいう状態になったら、しばらくは放っておくしかないかも。 余り構うと逆効果なのよね。 さて。お掃除も片付けも終わったし、このあとどうしよう? 雨は止みそうにないけれど、イワンを連れて散歩がてら買い物に行ってこようかな。 でも、この雨の中ベビーカーを押して外に行くのは、イワンには可哀想かしら。 そうすると…どうしよう。ひとりで行ってこようか。 だけど今日は。 ひとりで、は寂しいかな。 そんなことを薄暗い外を眺めながらぼんやり考えていたら、ついため息が出てしまったのだ。 背後のジョーがどんな表情でさっきの言葉を言ったのか、ちょっと推測できない。 とりあえず、微笑みながら振りかえった。 「いつまで雨が降ってるのかなって思ったら、ちょっとね」 雑誌から顔を上げて、ジョーは素っ気無く言う。 「ヨーロッパあたりだったら、こんなに雨が多くないんだろう?」 「そうね。日本は雨が多いって聞いていたけど、今年は特に多いの?」 去年はこんなに降った記憶はないんだけれど。どうだったかしら? そう問いかけたフランソワーズに、ジョーは少し考えるそぶりをして、わからないや、とぼそりと言ってまた雑誌に目を落とした。 再び窓の外を見ている振りをして、そっとジョーの様子をうかがった。 外が暗いので、鏡のように背後の風景が窓に映りこんでいる。 さっきから、ジョーは雑誌を見ている振りをして、フランソワーズの方をちらりちらりと見ている。 気づかれていないと思っているみたいだけれど…すごくわかりやすく、気にしているみたいだ。 もしかして気づいたんだろうか? 今着ている新しいキャミソールドレスのこと。 日用雑貨の買い出しの行き帰り、いつも前を通る店がある。 そこのショウウィンドウに先月から飾られていたのがこのドレスだった。 見るたびに可愛いな、とは思うものの、なかなか店に入って試着する勇気が出なくて。 でも気になって、誰かと一緒のときでも店の前を通る度に視線を向けてしまっていた。 ジョーはあのときの服だって気づいたのかしら? この前、ジョーと二人で買い物に出た帰り。 その店の前にきたところで、いつも見かける店員がショウウィンドウのマネキンから服を脱がせていた。 あ。あの服、売れちゃうのかな。 思わず立ち止まって、その様子を見つめてしまった。 ジョーは2・3歩進んだところで、後ろで立ち止まっているフランソワーズに気づいて振り返った。 「どうしたの?」 「え、ううん。なんでもない」 何気ないふりをしてジョーに追いつき、後ろは見ないようにした。 売れてしまったなら自分には縁がなかったのね。 そう思うことにして。 だけどその何日か後に一人で店の前を通ったとき、あの服と同じ物が飾られているのに気づいた。 どうしよう。やっぱり気になる。 また売れてしまう前に、今度こそ店に入ってみよう。 そう意を決して、店のドアをそっと押した。 「あの、あそこに飾ってある服、見せていただけますか?」 金髪の、明らかに外国人と見て取れる女性が流暢な日本語を話したことに、店員はちょっと驚いた風だった。 だけど手慣れた様子でマネキンの服を脱がせ、試着室へと案内してくれた。 そして、憧れの服を試着して、鏡の前に立ってみた。 ―――やっぱり着てみて良かった。 「すごくお似合いですよ」 お世辞ではなく店員も誉めてくれ、値段も十分手が届くし、と思いきって買ってしまった。 それが先週の、最後に晴れた日のこと。 それからずっと雨が降り続いている。 次に晴れたらこれを着て外に出よう、そう思っていた。 だけどこの1週間、雨は振り続き。 何となく、鬱陶しい気分が晴れるかと新しい服に袖を通してみた。 そうしたら、入れ違うかのように彼は不機嫌になっている。 もしかしてこういうのは気に入らないのかな? そうだとしたら…ちょっと残念。 ここにいても気分が沈むだけね。 時計を見て、そろそろ買い物に行ってこようかな、そうフランソワーズが思ったときだった。 ジョーがすっと立ちあがり、フランソワーズに近づいてきた。 何だか思いつめたような表情をして、黙ったまま、ジョーはフランソワーズの前に立った。 一体どうしたっていうんだろう。 フランソワーズもつられて緊張しながら、ジョーの顔を見上げた。 「あのさ…」 意を決したように、ジョーが口を開く。 「その服、いつも見かける店にあったのだよね?」 やっぱり。気づいていた。 「そうよ、前からすごく気になってて」 思いきって買っちゃった、そう続けようとして、ジョーがものすごい表情をしていることに気づいて慌てて口を閉ざした。 やっぱり気に入らないのかしら。 機嫌が悪いのはこの服のせいだったの? また黙ってしまったジョーの反応をしばらく待っていると、悲壮感漂う表情を浮かべながら、彼はようやく口を開いた。 「あの、さ………それ、誰が買ってくれたの?」 その質問の意味がわからず、フランソワーズはきょとんとしてしまう。 「え?誰がって…自分で買ったのよ」 何のこと?ひょっとして何か誤解されるようなことをしていた? 戸惑うフランソワーズと対称的に、その言葉を聞いて一気にジョーから緊張感が消えた。 「そう、なんだ。良かったっ」 いきなり笑い出した。 さっきまでの表情とはうってかわって、満面の笑みで言う。 わけがわからず、笑っているジョーに問いかけた。 「誰かに買ってもらったなんて、どうしてそんなことを思ったの?」 「だって、この前から他の連中も「あれはフランソワーズが気にしてる服だ」って言ってたんだ。 暗に買ってやれって言われてるのはわかってたんだけど、何だか女の人の服買うのが気恥ずかしくってさ。 やっとこの前一大決心して店に行ってみたら、もう売りきれてて。 そしたら今日君が着てるだろ?だから誰かに先越されたのかって思うと悔しかったんだ」 さっきまでの無口さからは想像できない勢いで一気にそれだけ言うと、ジョーはまた笑う。 「自分で買っちゃったのか、ごめん」 …そんなことだったの? 「やっぱり君に似合うよ、その服」 「ありがとう」 真正面からじっと見つめられて、フランソワーズは少し顔を赤らめた。 その姿を見ていたジョーは、 「フランソワーズって、うなじきれいなんだからさ。せっかくだから髪上げてみたら?」 実に自然にすっ、と首筋に彼の指先が触れ、髪がかきあげられた。 「ほら。こうしたらもっと可愛くなるよ?」 ね、とジョーはフランソワーズに、窓に映る彼女の姿を見るよう促す。 え。 えええええええええええ? 一体どうしたって言うの? 先刻までの無愛想ぶりとはうって変わって、にこにこしながらフランソワーズの髪を触っている。 窓に映るジョーの表情は、ひたすら無邪気に遊んでいる子供のよう。 「ほら、やっぱりこのほうが可愛いよ」 「そ、そう?」 「そうだ。この前していた髪飾り。あれ、この服に合いそうだよね。持ってきなよ」 自分が取ってくると言い出しかねない勢いのジョーを制して、自分で部屋に戻ってバレッタを取ってきた。 鏡を用意して待ち構えていたジョーは、さっそく髪の結い方を訊ねてくる。 こうやるの? これでいい? さっきまでの機嫌の悪さはどこへ行ってしまったんだろうか。 今はフランソワーズの髪をいじってにこにこ笑いながら、きっちり上げるんじゃなくって、髪がぱらぱら落ちてるのがいいな、とまで言っている。 だけど、ジョーの慣れてない手つきではやっぱりうまくまとまらなくて、結局フランソワーズが自分でやった。 髪を下ろしてる君も良いけど、たまにはこういうのも良いね。 いつもは絶対に言いもしないそんなことを、満足げに言うジョーを鏡ごしに見ながら、フランソワーズは心の中でため息をついた。 要するに、嫉妬していたの? この服ごしにいる、誰だかわからない、いもしないライバルに。 それなら最初に着ているのを見たときに確認すればいいことなのに。 …わかりにくい人。わかってるけど。 鏡を片付けるとジョーは立ちあがって言った。 「ねえフランソワーズ。買い物に行くなら一緒に行こうよ」 窓の外を見ると、だいぶ小雨になってきている。 「今から出たら、帰るころにはやむかな?」 「そうだとうれしい。買わないといけないものがけっこうあるの」 じゃあ荷物持ちはまかせてよ。 今にも駆け出しそうな勢いで、フランソワーズをせかす。 「ちょっと待って。博士に声をかけてこないと」 そう言うフランソワーズに、じゃあ玄関で待ってるから、と行ってしまった。 ……本当に、わかりにくい人。 でもやっぱり、笑ってくれるのが一番うれしいから。 そっと、まとめた髪に触って、フランソワーズは博士の書斎をノックした。 きゃーりん様からいただいた梅雨見舞いイラストから、こんな話を作ってみました。 素敵イラストはこちらです。 |