「10万で俺の言うことを聞け」
開口一番、キリコはBJにそう言った。
前回会ったときは痴話喧嘩をして別れた。
幸運にも仕事が喧嘩の理由ではなかったが、喧嘩別れしたことには変わりない。
その件に関して謝るか、蒸し返すか。
そう予想していただけに、久々に会ったキリコが切り出した話が仕事絡みだったことにBJは少し驚いた。
キリコのしていることは到底認められることではないが、彼がただ人を殺しまくる人間ではないということをBJは既に知っている。
助けられる相手なら決してその死の鎌を振るわない。
それが分かっているからこそ、今では深くまで付き合うことが出来ているのだ。
「たった10万で俺に何をさせようっていうんだ?」
患者を救えとは言わず、金を出すから言うことをきけという所が、彼らしくって笑える。
BJが深い笑みを浮かべながら「たった」を強調して返すと、キリコの顔が少し歪んだ。
少し小気味がいい。BJは喧嘩を少し引きずっていて思い出してはムカムカしたり後悔したりしていたのに、キリコは謝るでもなく謝らせるでもなく、仕事をBJに依頼したがっているのだ。
嫌味のひとつくらい許されるだろう、とBJは思う。
だが、助かる患者なら助けたいのはBJも同じだ。キリコに仕事をさせたくはない。
「ま、いいさ。10万ドルぽっちでもお前の顔を立てて受けてやるよ」
肩を竦めてそう言った途端、キリコの顔に驚愕の色が走った。
「10万・・・ドル!?」
悲鳴のような叫び声だった。
「なんで、『ドル』なんだ!?」
怒鳴りながらズズィと迫ってくるキリコの勢いに、BJは1歩後ずさった。
そして。キリコの驚きの原因にようやく思い至ったBJも驚いて問いかえす。
「まさか、『円』じゃないだろうな!?」
この天才ブラック・ジャックにたかだか10万円で依頼する人間がいるなんて誰が思いつくのだ。
BJがそんなはした金で動かないことなど子供だって知っているはずだ。
「『円』に決まってるだろうが、ここは日本だ!金の単価は『円』だろう!?」
「何を言っている!お前は日本人じゃないだろう!?お前の外見からいけば単価は『ドル』、または『ユーロ』だ!」
「『ユーロ』!?ふざけるな!日本円に換算すれば『ドル』より高いじゃないか!!」
日本に滞在し流暢な日本語を話すキリコ。
言われれば確かに金の単価は『円』かもしれないが、まさかそんなはした金で依頼してくるなんて思いもしないじゃないか。
そう考えながら、BJはキリコと言い争い続ける。
高額の治療費を請求しているBJ。
だからといってこの金銭感覚はなんなんだ。10万と聞いて『円』じゃなく『ドル』が出てくるなんてどうにかしている。
そう考えながら、キリコはBJと言い争い続ける。
だが。
お互いの非常識を責め合っているうちに会話がかみ合わないことに、ふたりは気がつき始めた。
「ちょっと待て」
キリコが両手を翳して言い争いを止める。BJも抵抗することなくすんなりと口を閉ざした。
お互い探りあうように視線を絡める。
相手が自分と同じく、根本的な意思疎通が出来ていないことに気がついたのが伝わってくる。
「ブラック・ジャック、お前さんは俺がなにをさせようとしていると思ったんだ?」
『俺の言うことを聞け』の一言から始まった会話だ。
その言葉に主体がなかったからこそ、なにかがおかしくなったのだ。
「俺に依頼するからにはオペだろう」
は?キリコの目が驚きで見開かれた。
そうか、だからか。それなら単位は『ドル』か『ユーロ』だろう。BJにオペを依頼して10万円を提示するなんて、常識的にありえない。ま、この常識がまかり通っていることも間違っているのだが。
そう納得しながらキリコは小さく溜息をつきながら脱力した。
「違うのか」
BJから発せられたのは質問ではなかった。納得した、という声色を乗せた確認に近いものだ。
ならば単位が『円』でもあり得ない話ではない。
キリコの様子をみる限り、オペだの診察だのといった医療関係ではなさそうだからだ。
一応は納得したBJだが、新たな疑問が湧き上がってくる。
では、キリコはBJに何をさせようとしたのだろうか?10万円を払ってまで?
その疑問が伝わったのだろう、キリコが気まずそうな表情を浮かべた。
「で?」
「いや、もういい」
散々言い争ったあとだ。今更こんな馬鹿なことを言い出せる雰囲気じゃない。
そう考えての返答だったが、BJがそれで納得するはずもなく。
「今更、もういいですむか!さっさと吐け!俺になにをさせようとしたんだ!?」
逃げを許さない強い瞳と口調を持って、BJはキリコに詰め寄った。
「もういいって」
「いいはずないだろう!!」
BJの剣幕をみてキリコは心の中で溜息をついた。
どうも誤魔化すことは無理なようだ。言わなければBJは到底納得しないだろう。
かといって言ったら言ったで、今までの経緯がある。怒り出すことに間違いはない。
だが襟首を掴みあげて攻め立ててくるBJの様子に、キリコは観念した。
そして同時に開き直り、ふてぶてしい笑みを浮かべて答えた。
「お前にピー(伏字)やピー(伏字)をさせようと思ったんだよ!!」
はぁ?
BJの瞳が、一瞬何を言われたかわからないというように大きく見開かれて、すぐに怒気で真っ赤に染まった。
「な、なんだ、それは!?」
「どんなに頼んでも嫌がるだろうが!だから俺も譲歩しようと思ったんだ!」
「それのどこが譲歩だ!!」
間違いなく、キリコの要求は前回の痴話喧嘩の続きだった。
つまり、BJだけでなくキリコも喧嘩をいまだ引き摺っていたのだ。それも「金を払う」という結論をつけて。
そして再び。ふたりの言い争いがはじまる。
今度は犬も喰わない痴話喧嘩ではあるが、ばかばかしい喧嘩であることには変わりなかった。
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