「黒ちゃん!」
嬉しげな弾んだ男の声。
「黒ちゃんだろ?」
聞こえてきた言葉が日本語だと気づき視線を向けた。
さっきまで俺が座っていた席と反対側の席に見知らぬ男が座っている。
ここが日本なら別に気にしなかったか、あいにく此処は外国の穴場のバー。
観光客が来るような店じゃないから日本人は奴ひとり。
いや今は声の持ち主もいれてふたりか。
人が便所に立った隙にあいつの隣の席を奪うとは油断も隙もない男だ。
いきなり馴染みの言語で声をかけられたブラック・ジャックは驚いた顔をしていたが、相手の男の顔をまじまじと見つめたあと「あっ」と小さく声をあげて、表情を和らげた。
つまり笑ったのだ、俺の知らない男に笑いかけたのだ。
「よくわかったな」
「君は有名だからね」
ブラック・ジャックが苦笑を浮かべた。
どうも知り合いらしい。
それも今までの言動をみた限りでは久しぶりに会った昔馴染みというところか。
席には戻らず、カウンターの端の席に座り、遠くからふたりの男を眺める。
久しぶりに会ったのなら少しは会話を楽しみたいだろう、という心使いだ。
内容はよく聞こえないが、楽しそうに歓談している。
男が話しかけてはブラック・ジャックが答える、といった形式だがそれなりに話は弾んでいるようだ。
なんだかブラック・ジャックの横に戻るタイミングを逃してしまったような気がする。
まあ、あんなあいつをみることは滅多にないから遠くから鑑賞するだけでも俺は楽しい。
ブラック・ジャックから視線を外して、身振り手振りをしながら何かを話している男の横顔をみる。
奴を見る男の目の色が違うようにみえるのは気のせいだろうか。
ブラック・ジャックは男だ。そして普通男にとって男はそういった対象にはならない。
だからこれは・・・取られた嫉妬から来るものなのだろう。
「なあ、出ないか」
なんだこいつ。俺からブラック・ジャックをかっさらおうというのか。
じろっと男の顔を睨みつけてやる。
・・・俺も大人げないな。
「連れがいる」
「そうか残念だなぁ。じゃ、番号教えてくれる?日本に帰ることがあったら訪ねるよ。君も機会があれば遊びに来てくれ」
名刺の交換をして、男は名残惜しそうな態度で席を立った。
ようやくいなくなるのか。ちょっと長居しすぎだぞ、おまえ。
手をあげてブラック・ジャックから離れていく男が、こちらに顔を向けた。
そして俺にちらりと視線を寄越して意味あり気に笑った。
その顔。
見覚えある顔だ。というか、さっき見かけたぞ。
男の顔なんか普通覚えちゃいないが、道ですれ違ったときにブラック・ジャックに熱い視線を送ってきた男だ。
危機管理のなってない奴だから、その分俺はいち早く邪まな視線に気がつくようになった。
だから間違いない。あの男はさっきの男だ。
知り合いだったのか。
ということは・・・このバーまでついて来たということか?それとも本当に偶然だったのか?
少なくとも俺が連れだということは知っていたはずだ。
隙あらばかっさらおうとするなんていい根性してるじゃないか。
会計を済ませて出て行く男の背中をジロリと睨んで見送ったあと、ようやく本来の席に戻った。
「黒ちゃんてなんだよ」
「・・・長い便所だったな」
「気をきかせてやったんじゃないの」
ふーん、と言ってブラック・ジャックは少し笑った。
なんだその笑いは。
「誰?」
「幼馴染み」
「で、黒っちゃんてなに」
ギシリと音を立てて椅子に座った俺はもう一度聞いた。
そして整った横顔をみつめる。
「なんでもない」
ブラック・ジャックは答えない。
なんだよ、なんで答えないんだよ。俺にはナイショってことか?
カウンターに肘をつき、横からブラック・ジャックの顔を覗き込む。
「そういえばおまえブラック・ジャックって名乗ってるけどよく考えると…日本人の名前じゃないな」
「・・・今更なにを言ってるんだ」
そうか、あまりよく考えなかったが。
『ブラック・ジャック』はどう逆立ちしても日本人の名前じゃあない。
いつも真っ黒な格好して、腕はいいが金に汚い黒い医者だからな。
あまりにもこいつにピッタリの名前すぎて全然気がつかなかった。
「本名はなによ」
「いいだろそんなこと」
「黒ちゃんなの?」
「うるさいな」
なんだよ、別に教えてくれたっていいじゃないか。
なんでそんなに頑ななの。ま、そんなとこも可愛いんだけどね。
「俺も黒ちゃんて呼ぼうかな」
「馬鹿か」
「いいじゃん、仲よさそうでよ」
「気持悪い、ヤメロ」
「なんだ傷つくじゃねえか」
仲は良くない。だって全く違うスタンスを貫いている俺たちだ。
なのに、こうして一緒にいるのはなぜなんだか。
噛み付きながらも会えば一緒に酒を呑み、体温を分け合う。
馴れ合いじゃぁないがなんと表現したらいいのかわからない。
感覚的には理解しているが思考としては纏められない。
ま、そんな関係。
仲は良くないが、きっと不可解な愛はある・・・はず。
わざと傷ついたような声で言ったらブラック・ジャックがジロッと俺をみた。
ようやく視線が絡み合う。
「お前の知らない頃の俺の名前を呼んでなんの意味があるんだ」
ぶすっとした顔で不機嫌そうにそう言う。
だがその言葉は俺の胸を簡単に貫いた。
「・・・そうか。オレが会ったのは黒ちゃんじゃなくブラック・ジャックだってことか」
「そうだ」
それでも俺の知らないお前を知りたいと、その頃の名前を知りたいと思うのは俺の我がままなのかね。
現在と未来だけじゃない。
出来れば過去も手に入れたいと思う俺はきっと欲張りなんだろう。
「ま、いいさ。ブラック・ジャック。オレはこの名前好きだしね」
好きという言葉に微かに反応する。
なんだ、ちょっと照れてるのか。
それを表面に出さないようにしてるんだろうが、わかるんだよ。俺は。
ホント、こんなところが可愛いいんだよな、こいつは。
カラン、とグラスの中の氷が音を立てる。
時間を置きすぎて薄くなった酒で喉を潤す。
こうやって一緒に酒を呑み、そして体温を分け合う。
それで十分だ。十分だけど・・・やっぱり。
「で。」
「なんだ?」
「本名なんていうの?」
「ッ!!アホか!!」
話を蒸し返した俺をブラック・ジャックが顔を真っ赤にして怒鳴った。
ま、いいさ。
今聞き出せなくっても。
こいつが意識朦朧としているところに問いかけてやればいいんだ。
喉の奥でクククと笑う俺に怒りを削がれたのかブラック・ジャックが訝しげな顔をする。
「今は諦めるさ」
「今は、じゃない。今後ずっとだ。しつこい奴だな」
呆れたようにブラック・ジャックが言う。
こいつの本当の名前はなんというのだろう。
これから聞き出す名前はこっそりと胸に仕舞っておいて、たまに思い出して楽しもう。
俺の問いかけも、それに答えたことも、覚えていられないくらいに溺れさせようかね、今夜は。
素直に応えないお前が悪いんだぜ。
覚悟しろよ、ブラック・ジャック。
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