Another story [4]



 
隣室は薄暗く何も見えないが人の気配は確かにある。
だがそれはひどくひっそりとしたもので、もし猫が出てきたとしても驚かないほど密やかだ。
「さあ、いらっしゃい。私の可愛い坊や」
扉がゆっくりと開かれていく。
最初に見えたのは小さな靴先。そして白い靴下。肌色の小さい膝小僧、半ズボン。
隣室へ差し込む明かりを受けて足元から徐々に浮かび上がってきたのは小さい影。
第三者の登場にシエリの目が大きく見開かれていく。
そこに浮かぶのは驚愕、ただひとつ。
女王の手招きのままに、その傍らまでゆっくりとした足取りで歩む少年は、黒い髪、黒い瞳、薄いオークルの肌、どこから見ても東洋人だ。
「いい子ね。ここに」
シエリに向かい合うように安楽椅子の横に立った少年の面影は、ひどく見覚えのあるものだ。
だがその瞳に光はなく。暗い空洞のような目をして佇む姿は大きな操り人形のようにも見える。
「・・・キヨ・・・」
口内が乾く。シエリはどうにか唇は動かしたが、声が掠れて出てこない。
昔は毎日のように呼んでいた名前。
笑いながら、怒りながら、ケンカをしながら、呆れながら。
何度も何度も当たり前のように呼んで、当たり前のように返事があった、その名前。
この数年は小さく呟くことはあっても呼びかけることなど一度もなかった、その、弟の名前。
「キヨ、ハル」
どうにか名前を声に出来たが、当の少年は無表情のまま。シエリを認識している様子はまったくない。
死んだはずだった。
なにもかもを失ったあの日。
業火に舐め尽された赤い部屋で、父や母や祖母達と共に燃え尽きたはずの弟。
眩暈がする。
足元が揺れている。
体の震えがとまらない。
たしかに弟の遺体は見つからなかった。軟かく脆い子供の骨は業火に耐え切れずにすべて燃え尽されたのだと言われた。
家族の集まる部屋に走っていった弟は皆と一緒に惨たらしく殺戮されたのだと信じていたが、違ったというのか。
死んでいなかった?生きていた?生かされていた?
生かされて、女王の元に。
「この子が本当の、ファントムハイヴの最期の子供になるのですよ、シエリ」
シエリの視線が弟から女王にゆるりと移る。
悪魔を使役するファントムハイヴ。
シエリにそれを証明させ、キヨハルに女王の望みを叶えさせる。
それが女王の目的、計画だったのだ。
悪魔への対価はファントムハイヴの血統、その脈絡の終焉。
キヨハルの様子を見る限り、薬物を使われているのか洗脳されているのか、姉であるシエリを認識することもできない、ただの女王の傀儡だ。
シエリが契約終了を告げられて魂を失った瞬間に、キヨハルが悪魔と契約を結ぶ。
今のキヨハルなら自らの魂と引き換えに女王の望みを叶えることに疑問も不満も持たないだろう。
なんて酷い。自分のためなら人を人と思わない、人の命などどうでもいい、幾人死のうが関係ない、そんな悪魔のような女。
「悪魔はこんな醜悪ではありませんよ、旦那様」
通りの良い声が響き、部屋に満ちた張り詰めた空気を霧散させた。
シエリの後ろに控えていたはずの悪魔の執事はいつのまにか、対峙するシエリと女王を横から眺めている。
「・・・セバスチャン」
言葉にしていないシエリの思考に答えた悪魔は呆れた表情を浮かべている。
もしかしたら溜息をついていたかもしれない、まさにそんな表情。
「ニャーー」
可愛らしい鳴き声と共に足元に温かい塊が擦り寄ってきた。
シエリの足に巻きつく黒く長い尻尾。
悪魔と契約したあの夜の子猫は、セバスチャンと共にファントムハイヴ家に棲み付いた。
不思議なことに何年経っても成長することなく未だ子猫のままだ。
セバスチャンは悪魔らしからぬことに重度の猫好きらしく、甲斐甲斐しく子猫の世話をしていたが、子猫はいつもつれなかった。
猫が悪魔に使役しているのではなく、まるで悪魔が猫に使役しているようで、セバスチャンへの鬱積を募らせているときなど、その様子を見ては気分をスッキリさせたものだ。
子猫の柔らかさとぬくもり、そして蘇ったそれら記憶にシエリは足先から徐々に強張りが融けていくのを感じた。
感謝を込めて視線を下ろすと、子猫はスルリと足の間を摺り抜けてセバスチャンの方へ歩いていく。
その後ろ姿を見送っていたシエリは驚きに息を飲んだ。
一歩進む度に子猫の姿は歪み、大きさを増し、セバスチャンの脇を抜けて壁際のソファーに辿りつく頃には人間の形をしていたのだ。
「なんと面白みのない結末。坊ちゃん、貴方はこんなことに興味を持たれたのですか」
肩を竦めたセバスチャンが少年の背中に問いかける。
嫌味ったらしい口調はシエリにとって聞きなれたものだが、いつも以上に辛辣な気がする。
「つまらん」
くるりと体を回転させ、ボスンと音を立ててソファーに座ったのは美しい少年だった。
白磁のまろやかな頬。真っ直ぐでサラリとした暗い色の髪。強い意志を持つ大きな蒼い瞳。右眼が長く伸ばされた前髪で隠されてしまっているのが勿体無い。
上質な衣服に包まれた華奢な身体からスラリと細い手足が伸びている。半ズボンから覗くつるつるの膝頭。ソックスに覆われていてもわかるほどキュッと締まった足首。
上から下まで完璧としか云いようがない。
「いつの時代の女王も老えば醜悪ということだな」
声変わり前の透き通るような声で紡がれるのは辛辣な言葉。
外見上は十二〜三歳にしか見えないのに、醸し出す雰囲気も瞳に宿る力も大人顔負けの迫力だ。
「おまえは・・・だれ」
悪魔の存在を信じその力を利用しようとしていても、目の前で猫が人間に変身する様を直視すれば驚きは隠せない。
挙句に曾孫ほどにしかみえない子供に醜悪扱いされているのだ。
衝撃のあとにジリジリ怒りが湧いてきているのか、女王の声は少し震えている。
誰。
この少年は誰なのか。
ファントムハイヴ家の廊下に飾られる代々の当主の肖像画。その中で一枚分だけあけられた空間。直系最後の当主の肖像画はどこにもない。
だけど、奥の書棚の端に隠すように置かれていた本の中。汚れ擦れてしまって鮮明ではないものの、少年伯爵の肖像が描かれているのをシエリは知っていた。
「誰?」
問い返すように呟いてセバスチャンはクスクスと笑った。
場の雰囲気にそぐわない笑いを気にする様子もなく、少年は鷹揚に女王を見返した。
永きに渡って王位の座につきこの国の誰よりも威厳と自信に満ちた老王女に迫力負けするでもなく萎縮するのでもなく、それどころか有無を言わせぬ絶対上位者の雰囲気を醸し出している。
その少年の、サファイヤのように輝く蒼い瞳が一瞬でルビーのような美しい紅に染まった。
瞳孔が猫のように細い紅いその瞳はセバスチャンと同じ、悪魔と同じ紅い瞳。
シエリの背筋をゾクリとした寒気が駆け上がる。
この少年は。
間違いなくあの本に描かれていた少年だ。
あの本に描かれていた、130年前の直系最後のファントムハイヴ家の当主。
少年が鬱陶しげに頭を振ると前髪に隠れていた右眼が現れた。
そこに刻まれているのはシエリも見覚えがある、悪魔の左手の甲に浮かぶ紋章。
「この方はシエル・ファントムハイヴ。私のご主人様です」
悪魔の執事は慇懃に一礼して、ソファーに座る少年を部屋の面々に紹介した。
 



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別の物語

 








■なかがき

ようやく坊ちゃん登場。
シエル坊ちゃんがいるから、セバスチャンは詩絵里を「坊ちゃん」ではなく「旦那様」と呼んでいたという裏設定。
あと1回で終わらせます!
じゃないと、実写映画が公開されちゃう(笑)





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