「それにしても酷くやられましたねぇ」
セバスチャンは呆れたような声色で、気だるげに腰掛けるシエルを見下ろした。

 
 

その執事、治療。



 
長時間のバンドによる拘束。
その状態で転がされ、殴られ蹴られたシエルの小さい躯はかなり傷んでいた。
セバスチャンは傍らに膝をつき、華奢な主人の躯に優しく触れる。
頭、頬、肩、腕、体、足。
一箇所一箇所確かめるように手袋に包まれた手を滑らせる。
声はあげないもののシエルが息を飲んだり躯が反射的に震えたりすることで、何処が痛んでいるのかをセバスチャンは確かめていく。
「私を呼ばないからこんなことになるのですよ」
骨に異常はないようだ。折れてもいないしヒビも入っていない。その代わりに打撲が酷い。
性格はどうであれ、シエルは見目麗しい容姿をしている。
初めからアズーロ・ヴェネルは彼を薬漬けにしてスキモノに高値で売りつけるつもりでいたのだろう。治療に長期間を要するような酷い傷はつけないように、それなりに気をつけていたらしい。
「仕事に手抜きをするな」
貌を微かに歪め、痛みに耐えるような表情を浮かべながらシエルは答えた。
それが悪魔の名を呼ばなかった理由らしい。
シエルがつけた「セバスチャン」という名を唱えるだけで、すぐに黒い執事はシエルの元に現れる。それがわかっていながらあえて呼ばずに、セバスチャンに『捜す』という手間隙をかけさせたのだ。
暴行を受けこんなに傷だらけになっても、悪魔に仕事をさせたかったのだとしたら随分と酔狂なことだ。
セバスチャンは小さく溜息をつきながらシエルをそっと抱き上げた。
「この男はどうしますか?」
右腕を幾重にも捻じ曲げられた男はその激痛によるものなのか、人外に与えられた恐怖によるものなのか、気を失っていた。
「放っておけ」
冷たい瞳でチラリと床に沈んだ男を見てシエルは云った。
どうせこの男がヤードで何を云っても誰も信じないだろう。いいとこ精神病棟送りだ。
「そうですか。お優しいことですね」
セバスチャンは慇懃にそう呟くと、シエルを抱えたまま男に近づき片足を振った。
靴先がその顎に喰いこみ、骨を砕く音を響かせながら男は壁に叩きつけられる。
呻く間もなく白目を剥いて床に崩れ落ちた男は死んではいないものの、瀕死であることには違いない。
「セバスチャン」
驚いてシエルが自分を抱く執事を見ると、セバスチャンはニコリと笑って「足が引っかかりました」と云った。
自ら近づいておいて引っかかったも何もないだろうが、自分の獲物を好きなようにされた悪魔は少なからず気を悪くしていたらしい。
執事として主人の命に背くほど。
こんな状態のセバスチャンには何を云っても無駄である。シエルは業とらしく大きな溜息をついた
「さて、お屋敷に戻りましょう」
悪魔は優しくそう云うと、主人を抱いてイタリアンマフィアの館を後にした。



人目がないのを良いことにセバスチャンは地面を蹴っては大きく飛躍し、風のような速さで屋敷に向かった。
なぜそんなに急ぐ必要があるのか。
そう問いかけようとしたが、口を開くと舌を噛みそうなのでシエルは無言で悪魔に運ばれることにした。
屋敷が見える所まで来て、ようやく悪魔は執事らしく振舞うことを思い出したらしい。
トンと軽く地面に降りたち、シエルを抱いたまま歩き出した。
「ふう」
振り落とされないように首にしっかりと巻いていた腕からシエルは力を抜いた。
躯と精神の緊張が解けたせいか、全身の至る所が痛み始める。
そんな様子に気がついたのだろう、セバスチャンが貌を覗き込んできた。
「痛みますか?」
「痛くないように見えるのか」
「いいえ」
フンと鼻を鳴らして答えたシエルにセバスチャンはにっこりと笑いかける。
『芋虫のようでとても無様で素敵ですよ』などとほざく悪魔だ。
獲物が痛がっている姿も悪魔にとっては愉快なことなのだろうとシエルは皮肉気に口を歪めた。
その動きに伴ってズキンと切れた唇が傷み、一瞬貌を顰める。
おや、というような表情を浮かべたセバスチャンは片手でシエルを抱いたまま、もう片方の手でその頤を摘んだ。
「坊ちゃん、アーン」
「・・・・・・は?」
突然の行動に目を丸くするシエルにセバスチャンはもう一度「ホラ、アーンと口を大きくあけてください」と云った。
勢いに圧されつい開けてしまったが、執事は真剣に口内を覗き込んでいる。
「はんだ」
意外と強い力で顎を引かれて口を閉めることが出来ず、シエルはむぐむぐと問いかける。勿論、その瞳は不機嫌丸出しである。
「口内も酷いことになっていますね歯は折れていませんが・・・あちこち切れてしまっている」
ずっと血の味がしていたからそんなことは知っている。
躯中が痛いのだ。口内だけを特別にどうこう云うつもりはない。
つもりだったのだが。
「これでは紅茶も染みるでしょうねぇ。当分スイーツも召しあがらない方が宜しいでしょう」
思いがけない言葉にシエルは大きな瞳を更に大きくした。
食事が取れないのは構わないが、紅茶やスイーツが食べられないのは冗談ではない。あれだけが唯一の楽しみなのだから。
執事の手を両手で押さえ、ブルンと頭を大きく振り、ようやく唇は自由を取り戻す。
「冗談じゃない!すぐに治せ、今すぐ治せ!!命令だ!!」
子供のように・・・いや、子供なのだが、日頃大人びている分、スイーツごときで「悪魔が教えた悪魔へのおねだり」を実行するとは。
助けに来いと命令しないくせに、こんなことでつまらないことで命令を発する。
セバスチャンは小さく苦笑を浮かべたあと「イエス、マイロード」と応えた。
「では、口をあけてください、坊ちゃん」
此処にきてようやく執事は歩くのをやめ、シエルを抱えなおして云った。
その瞳がいつもより赤みを帯びていることにシエルは気がついたが、悪魔の瞳にはまだ程遠い。
とにかく口内の傷を治すことが先決とばかりに、素直に口を大きく開けた。
後頭部が大きな手で掴まれ頭が固定された後、執事の整った貌が迫って来る。
疑問が浮かぶよりも早く。
唇に唇が重なり、遠慮ない動きで舌が差し込まれた。
「ん?ぅうん!?」
己の身に何が起こっているのか。
驚きに思考が止まったシエルの口内を長い舌が自由自在に蠢き始めた。
ゆっくりと歯列が舐められ、口蓋や柔らかい頬肉を舌先が緩やかに滑る。
くちゅりくちゅりと唾液が絡まる音が直接脳内に響いてくる。
キスされている。それもかなりディープなキスだ。
生々しい舌の動きに貌を赤らめ抵抗しようと身じろぎしたシエルだが、途端に喉の奥まで舌が差し込まれて呻いた。
「ぅ!」
まるで蛇のような動き。そして人間ではありえない長さ。
喉をチロチロとそしてねぶるように舐められ、たまらず嘔吐くと舌はスイと引かれた。
そのまま抜け出るのかとホッとしたシエルの躯から、緊張と硬直が解けようとしたのだが。
予想に反してセバスチャンの舌は縮こまっていた小さい舌を捕らえた。
驚いて逃げようと暴れても後頭部を捕らえられ、長い腕で抱きかかえられている状態では無駄な抵抗でしかない。
流れ込む唾液が飲み込めない己の唾液と交じり合い、小さい唇から流れ出す。
絡んだ舌からぞくぞくとした感覚が湧き上がる。
舌を引き込まれ悪魔の歯で甘噛みされた瞬間、何かが足先まで電流のように駆け抜けた。
(このままでは・・・)
甘く溶けていく思考の中で、残った理性が危険信号を送ってくる。
すでに全身が痺れ始めている。背筋がゾクゾクとして、体の奥底から何かが頭を擡げて来そうだ。
キケン。
このままではこの悪魔に。
何がどう危険なのか理解できないまま、シエルは力の入らぬ手をセバスチャンの後頭部に回した。
震える細い指が黒髪の中に差し込まれたのを感じて、合わさった悪魔の唇がふっと笑いの形を取る。
その途端。
シエルは持ちえる力を込め、掴んだセバスチャンの髪を思いっきり引っ張った。
陥落間近な小さな獲物を前に油断していたのか、あっけない程簡単に舌が引き抜かれ、セバスチャンの貌が数センチ離れた。
それでもギリギリと引き続ける力にプツプツと髪が数本抜ける。
開放されハアハアと大きな呼吸を繰り返す唇から流れる唾液を、伸ばした舌でベロリと舐めとったセバスチャンは「酷いことをされる。髪が抜けましたよ」と愉しげに囁いた。
「酷いのはどっちだ!!」
唇を甲でグイグイと拭きながらシエルは叫ぶ。
こうでもしないと体内に溜まった熱と得体の知れない何かを散らすことが出来ないような気がした。
「酷いって・・・ご命令通り、傷を治して差し上げたのですよ」
「なに?」
云われてようやく気がついた。
大きく口を開いて怒鳴っても、口内も唇もまったく痛まない。さっきまでは言葉を発する度にズキズキ痛んでいたというのに。
「ご命令に従っただけだというのに」
口の端をあげて笑うセバスチャンの瞳は異様に赤みを増している。
「ご希望なら他の場所も癒して差し上げましょうか?」
離したはずの秀麗な貌が再び近づいてくる。形の良い唇からチラリと覗く舌がなんともエロティックだ。
その舌が白磁の頬に届く前に。
小さな両手が寸で悪魔の貌をガシリとブロックした。
「よ、よけいな真似をするな!!」
真っ赤な顔で怒鳴るシエルを細い指の間から眺めながら、セバスチャンは愉快そうに目を細めた。
貌が赤いのは怒りによるものか、それとも羞恥によるものか。悪魔の口付けに知らず幼い躯に官能の火が灯りそうになった名残なのか。
どちらにせよ、悪魔を愉しませていることには間違いない。
そんなセバスチャンをシエルは忌々しげに睨んだ。
「さっさと屋敷に戻れ。僕はまだディープパイを食べていない」
小さい主人を翻弄するのが楽しくって忘れてしまっていたが、スイーツどころか夕食の準備が間に合わないかもしれないということをセバスチャンは思い出した。
あの自称料理長がどこまで下準備を行っているかにかかっているのだが、あまり期待は出来そうにない。
「イエス、マイロード」
セバスチャンは恭しく頭をさげてシエルを抱えなおすと、遠くに見えるマナーハウス目指して足早に歩き始めた。

 
 

The butler treat

 








■あとがき

『その執事、最強』ネタ。
あんなに殴られたら口の中はズタズタだと思います。
だからセクハラ治療するといいなーと(^-^)♪





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