白薔薇を一輪摘んでその花弁を食むと仄かな甘さが口内に広がった。
花弁は小さな舌の上で、まるで砂糖菓子のようにするりと溶けていく。
シエルは嬉しげに目を細め、花弁を一枚一枚ゆっくりと口に含んでいった。
悪魔が美味と感じるものは人間の魂だけらしい。
それ以外のものは美味しいどころかまったく味気ないと、ある悪魔は云っていた。
悪魔と化したシエルも例外ではなく、あんなに好きだったスイーツも紅茶もまるで砂を噛んでいるようにしか感じられなくなっていた。
シエルの子供らしさの象徴のような甘味好きは未だに残っているというのに、好物が好物でなくなってしまったことに内心かなり落ち込んだ。
そんな中、戯れに口にした白薔薇はなぜか甘みをシエルに与えてくれた。
魂が美味しいのかどうかどうかまだわからない。
食事である魂を喰わねば空腹になるのは当然だが、白薔薇の精気はその花弁と同じくシエルの空腹を紛らわせてくれる。
一輪分の花弁を楽しんだあと、シエルは薔薇の園の真ん中に立ち、目を閉じ仰ぐようにして両手を広げた。
さわさわと風にそよいでいた薔薇が動きを止める。
薔薇の園全体から花粉のような鱗粉のような綺羅綺羅した光の粒が立ち昇り、シエルへと流れ集まっていく。
白い光の粒を全身で浴びるシエルの足元から、白薔薇が萎れ、花弁を散らせ、枯れていった。
ザアァ
大きな風が吹いたあと、シエルは両手を下ろしゆっくりと目を開いた。
隻眼の赤い瞳に映るのは蒼い薔薇の園。その所々に生き残った白薔薇が数少ないながらも自己を主張していた。
『薔薇を喰う悪魔など初めてみたぞ』
聞きなれぬ声の響いた方向に顔を向けると、烏が蒼薔薇にとまっていた。
見知っている鴉ではない。一回り小さめの初めて見る烏だ。
重さを感じさせず、可憐な薔薇の上で羽を休める烏の目はルビーのように真っ赤だ。
「悪魔か」
『この悪魔の聖地でそれを聞くか?』
声がクスクスと楽しげに笑う。
烏のくせにカーと鳴かないとは、とシエルは少し可笑しく思ったがそれを言葉にするつもりはない。
「僕になんの用だ?」
今まで三人の悪魔に会ったことはある。この烏で四人目だ。
人間だったシエルには悪魔の思考はあまり良く理解できないが、わざわざ声をかけてくるからには何かあるのだろうか。それとも悪魔特有のただの気まぐれか。
『特に用はないが・・・元人間の白薔薇を食む小悪魔が珍しかったのでな』
ただの気まぐれらしい。
シエルは無視してその場を去ることにする。悪魔の気まぐれになど付き合うつもりも義理もない。
それに気がついたのか烏は言葉を続けた。
『なぜ全部喰わない?』
何がと聞くまでもない。残った白薔薇のことを云っているのだろう。
悪魔は魂を残さず欠片まで喰らう。例外はほとんどない。苦労したものの結局一口も食べられなかった間抜けな悪魔もいるにはいるが。
「全部食べればそれまでだ。残せばまた新しく花を咲かせる」
シエルは薔薇を食む。それも白薔薇だけ。
蒼薔薇はシエルに何も与えてはくれない。空腹を満たしてもくれない。
だだ白薔薇だけが。白薔薇だけそれが出来るのだ。
だが、その白薔薇も白薔薇であればなんでも良いというわけではない。
あの悪魔が咲かせた、という補足がつくのだ。忌々しいことに。
だから此処にある白薔薇でしかシエルは空腹を紛わせることが出来ない。
だからすべて喰ってしまえば、もう二度と空腹を紛わせることが出来なくなる。
『この薔薇を咲かせている悪魔がお前を探している』
続いていない会話。だが、関連はある。
しかし、なぜそれをこの見知らぬ悪魔が突然云い出したのか。
かけられた言葉の内容と同じくらいシエルは驚き、烏を赤く光る隻眼で見つめた。
相手は悪魔だ。それも烏の姿をしている。どんなに探ってみてもその答えは見つけられない。
「そんなはずはない」
『なぜ』
「契約は破棄した。あの悪魔はもう僕に用はないはずだ」
『そうかな。セバスチャン・ミカエリス。そう名乗る悪魔はまだ存在するぞ』
契約は破棄した。
魂を食らわせることも出来ないのに契約に縛り付けるほどシエルも厚顔無恥ではない。
だから契約は破棄した。契約書を自ら悪魔に返したのだ。
契約も命令もない今、あの悪魔がその名を名乗る必要も意味もない。
それなのに。
「・・・なぜ」
『なんだ』
「なぜ、見知らぬお前がそんなことを僕に教える?」
あの悪魔がどういうつもりでいるのかシエルは知らない。知る必要もない。
だが元人間とはいえ、人間らしい知的好奇心はまだ残っているから、教えられればなぜか知りたくなるのは当然といえば当然だ。
知らなくても良いことをわざわざ教えるこの悪魔の真意が見えない。
『お前が私を知らずとも、私はお前を知っている。お前達を見ていた』
「だから?」
『つまりただの好奇心だ』
シエルは不愉快そうに表情を歪めた。
悪魔の気まぐれになど付き合うつもりも義理もなかったのにどうして会話を続けてしまったのだろう、と少し後悔する。
あの悪魔が自分を探す意味も理由もわからない。
今までの意趣返しに縊り殺そうとでもいうのか、一方的な契約解除に嫌味のひとつ云わないと気がすまないのか。
それはわからないが、それを知る必要はない。
この薔薇の園がいまだに散らず咲き乱れるその意味すら知る必要もないのだから。
「付き合っていられない」
シエルはそう云い捨てると小さな小鳥に変身した。
一見小鳥は真っ黒に見えるが、光の反射を受ける羽は深い深い蒼色であることがわかる。
小鳥は来たときと同じく、その小さな羽根を羽ばたかせてあっという間に空の彼方に消えて行った。蒼い薔薇にとまる見知らぬ悪魔を一度も振り返ることなく。
『永く果てしない刻の中で悪魔は退屈を持て余してるのだ』
烏はそう呟くと大きな羽を広げ、森の中へと戻って行った。
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