『彼』は、身体中にある鈍痛と体の芯に感じる刺すような痛みに吐き気を感じつつ、ゆっくりと上半身を起こした。
 頭上には、くすんだオレンジ色に変色した蛍光燈が低い耳障りな音を立てながら、
時折思い出したかのように白い輝きを取り戻しては消え、しばらくしてまた輝いては消えということを繰り返している。

(ここは、どこだ?)

 四方を壁に囲まれた場所に腰を下ろして座っていた。
 体を曲げようとして、身体中に走った痛みに身をすくめる。

(そうだ。俺は女を待ち伏せして……)

 頭痛が激しくて、その他は何も思い出せない。
 ゆっくりと立ち上がろうとして『彼』は、膝に触れた手の異様な感覚に、思わず声を上げた。
「何だ、ご……がふっ!」
 しわがれた声が口から漏れた次の瞬間、喉が膨れ上がったような感じがして咳き込んでしまう。
しばらくの間、体を折り曲げて苦悶する。咳をすればさらに痛みが走るのだが、止めることもできない。
ついに胃までもがねじれたようになり、胃液を吐き、その酸味がさらに喉を刺激して苦しさは留まることを知らない。
 どれくらい苦しんでいたのだろう。
 やがて咳は止まったが、声を出すと再び苦しさが蘇りそうで怖かった。
 恐る恐る上半身を上げてみようとして、『彼』は自分の体が変であることに気がついた。
 腿に当たっていた柔らかいものは、紛れもなく自分の胸だった。
 白い素足の脛あたりまで下ろされているのは、紺のチェックのスカートと淡いピンクの可愛らしいショーツだった。
「えっ!?」
 思わず声を上げ、『彼』は自分の唇に手を当てた。だが、今度は苦しくない。
「あー、あー……そ、そんな馬鹿な!」
 澄んだ良く通る声は、自分のものではなかった。それだけではない。その声は女性の声だったのだ。
 立ち上がろうとして、ようやく『彼』は、ここがトイレの中であることに気がついた。
どうも、どこかの公衆トイレのようだ。アンモニア臭と汚物のすえた匂いが吐き気を誘う。
 こんな所に長居するわけにはいかない。
 覚悟を決めて立ち上がろうとして、股間の冷ややかな感触に気がついた。
胸を押し潰すようにして股間を覗き見ると、やはりそこには男のシンボルではなく、うっすらと陰った女性の証がそこにあった。

 やはり自分は、『今は』男ではない。

 ようやく現状を認識し、覚悟を決めた。まずはこの汚いトイレから出よう。考えるのはそれからでも遅くはない。
 トイレットペーパーを探したが、どこにも見当たらない。
舌打ちをしてスカートのポケットも探ってみたが、何も入っていない。カバンも持っていなかった。
 仕方なく、そのままショーツを持ち上げて履いてみた。
微かな違和感があったが、どうやら外に染み出すほどではなかったようだ。
次にスカートをはく。だが、ベルトは無いし、ホックも前に無い。
 しばらく迷ってから、ようやく横にあるホックに気付き、舌打ちをした。

(脱がせるだけなら得意なんだがな……)

 何十人となくレイプをし、一度も捕まったことがないどころか警察に尻尾すらつかませていない自信がそう思わせるのか、
唇を歪ませて、顔に似合わない不敵な笑みを浮かべる。
 立ち上がってスカートの裾を直して振り返り、レバーを捻って水を流す。
 個室から出て目に映った光景に、奇妙な違和感を感じた。
「なっ……!」
 思わず鳥肌が立った。
 そこは、男子用のトイレだった。
 今、自分は間違いなく女の体をしている。
性転換手術をしたという記憶も無い自分が男の便所に入っているのは、明らかに変だ。
だが、男であるはずの自分が女になっていることに比べれば、それも些細なことだ。
 外は既に真っ暗のようだが、時計も持っていないこの体では今何時なのかもわからない。
持っているのは身に着けている服だけだ。
 外から誰かが入ってくるかもしれないという恐怖をおぼえて、急いでトイレから外に出る。
 様々な悪臭のるつぼから逃れ出て、一息つく。
 さて、これからどうすればいいだろう。
 困ったことに、自分がどこに住んでいるかも憶えていない。
 男だったということだけは確かなのだが、それ以上は途端に記憶が怪しくなってくる。
確か会社に勤めていたはずだが、どこでどんな仕事をしていたのかもわからない。これではどうしようもない。
 周囲をぐるりと見渡して見るが、まったく見覚えの無い公園だ。
その一角に、今出てきた公衆トイレがある。
周囲は芝生に囲まれ、木立や背の高さほどもある植込みが視界をさえぎっている。
秋の虫の音が草むらから響き、ひんやりとした夜気が薄いブラウス一枚の体に染みてくる。
 公園の出口は一か所だけだった。出口に面した道路は街灯も少なく、普通の背丈の人よりも高い塀が続いていた。

「犯罪多発地帯。ひったくりに注意!」

 という看板がなかば朽ち果てて、傾いた状態で電柱にくくりつけられている。
 敷地を隔てた道路には煌々と明かりが灯り、人通りもあるというのに、この裏通りはその正反対だ。
 この道は、今時珍しい、格好の犯罪ポイントだった。

(そうだ、ここは……俺が昨日、下見をしたポイントだ!)

 徐々に記憶が蘇ってくる。
だが、まだ寝足りない状態でむりやり起こされたか、
頭痛の無い重度の二日酔いのような状態で、どうにも記憶がはっきりとしてくれない。
自分の名前も思い出せないというのは異常だった。
 街灯はついているものの、三分の一ほどは明かりが切れていて、その役目を果たしていない。
 女が一人で歩くには、あまりにも危険だ。しかし、出口はそこしかない。
公園の周囲は塀に囲まれ、その向こうには閉鎖されたらしい工場の建物が街の灯りを背景にして、
うっすらと浮かび上がって見えている。
 覚悟を決めて歩きだそうとした『彼』の目に、強烈な光が浴びせられた。
「なっ!」
 目が眩む。
 膝が崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえたが、何が起こったかを理解する間もなく、
『彼』は首筋を鈍器で殴られたような衝撃を受け、意識を失った……。


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